取って付けた、複数形
「私は誰のモノでもないから」
強い口調で、早口で言い切るもんだから、「おぉお」と間の抜けた言葉? 言葉でもないか、音しか出せなかった。
そもそもだ、「モノ」ってなんだ。そりゃ、誰だって誰かのモノにはなりたくないし、なれない。いつだって自分は自分を所有できるが、自分以外を所有することなんてできっこないんだ。
という当たり前のことを、ナツキはわかってて言ったのか。
靴だらけの玄関から自分のスニーカーを手早く見つけ、勢いよくドアを閉めてナツキは出て行った。
追いかけてこい!
というサインなのか、それとも、
追いかけて来るな!
なのか。
これだけの情報じゃぁ、判断ができない。
いつでも判断に迷う。人生のほとんどは「はい/いいえ」「やる/やらない」の二択しかない。保留はいいえであり、やらない とほぼ同義だ。
やらない後悔よりも、やる後悔をって、どっちも後悔ならラクな方がいい。つまり、やらない後悔だ。
いまここで、ナツキを追いかけても、追いかけなくても、きっと答えは変わらない。その答えは、ナツキが握っているからだ。
たとえ、俺が追いかけたところでそんなコト(きっと左右互い違いの靴を履いて、あわててマンションから出て、ナツキを探す)で、答えが変わるとは思えないのだ。それに、そんな茶番のようなパフォーマンスで、恋人関係が維持できたり、補修できたりするなら、みんなやってる。
別れたいと思ったとき、もう別れたようなものなのだ
ナツキが別れたいと思っているならば、もうこれで終わりだ。
ナツキが別れたいと思っていなくても、もうこれで終わりだ。
どうしてって?
俺がもう、ナツキと別れたいと思ったからだ。
大切にされたいと唱えるわりに、大切にはしてくれない。
こんな、パスタ作りかけで、追いかけられっこない。作っていたのはナツキだ。俺じゃない。どんなパスタ作る気だったんだってくらい、狭いキッチンが賑やかだ。
デカい人参とジャガイモ、流石にパスタに入れないだろう。火が通らない。
グラグラと鍋が音を立てる。折られたパスタが茹で上がったようだ、キッチンタイマーがけたたましく鳴る。途方に暮れるのも許してはくれない。
一旦、パスタを湯切りする。ボウルに移して、オリーブオイルを垂らして菜箸でかき混ぜる。その間に、ニンニクを冷蔵庫からひとかけ取り出し、刻む。オリーブオイルとニンニクを炒め、茹で上がったパスタを入れる。
パスタを茹でる湯には、ちゃんと塩も入れていたらしい。茹で汁をフライパンに注ぎ、油と合わせて手早く混ぜる。水分と油分が乳化して、ソースがとろりとパスタに絡んでいく。シンプルなパスタほど、この乳化が味を左右するのだ。鷹の爪がないので、一味をこれでもかと振りかける。ふわりと立ち上る辛みの香りに、腹が鳴った。
狭いキッチンに、食欲をそそるニンニクの香りが充満する。ナツキがつけ忘れていた換気扇を回す。
彼女が出て行った寂しさと不条理さとやるせなさは、思いのほか手強い。
やっと別れられてせいせいするという気持ちの、防御力は思いのほか低い。パスタはどう見ても二人分ある。食べきるしかなさそうだ。幸いにも、美味しそうにできたことが救いだ。
ドアが開く。鍵を閉め忘れていた。パスタでそれでころじゃなかった。
「ねぇ、追いかけてこないの?」
「パスタが茹で上がりそうだったから」
「何作ってんの」
ナツキが玄関に取っ散らかっている俺の靴たちを踏みながら、スニーカーを脱いだ。そういうところだ、と言いそうになるが飲み込む。
「ペペロンチーニ」あえて、唐辛子の複数形で答えた。
「ペペロンチーノ、じゃないの?」
ナツキが俺の背中にくっ付いて、甘えた声で聴く。
「ペペロンチーノは単数形、チーニは複数形」
「テレビじゃぁ、ペペロンチーノだったよ」
ナツキがベルトみたいに、腕を巻きつける。
「二人だから、複数形の方がしっくりくるでしょ」
「なんか、おしゃれに言おうとしてるけど、イマイチだね」
ナツキはそう言うと、手をあっさり離し、買い物袋から鷹の爪を取り出した。
「スーパーで買ってきた、足りなかったから」
「火つけたまま出て行くなよ」
ナツキもペペロンチーニを作るつもりだったのか。
いまさらなので、鷹の爪は今度使うことにした。
ナツキに、あの大ぶりカットの人参とジャガイモはどうするつもりだったのか尋ねた。
「夜、カレーにしようと思って。今から煮込もうと思ってたの」とフォーク一杯に巻き付けたパスタを右手に構えながら、悪びれずに言った。
それにしても、「私は誰のモノでもないから」というのはどういう流れで、ナツキが言い放ったのか、気になるところだが、今日のところはそっとしておく。買い物袋には、俺の好きなメーカーのカレールゥが入っていた。




