おそいよ
高校三年生の夏休み前。隣の席の神谷咲は突然声をかけてきた。文化祭の準備で忙しくしている俺に「これ、読む?」と小道具作りでとっ散らかった狭い机に、『AKIRA(全5巻)』を積み置いた。どこから持ってきたのか? これはどうしたのか? 神谷の私物なのか? 私物だとしてなんで今学校にあるのか? 神谷のカバンはいつもペラペラなのに、そんな電話帳より分厚いハードカバー『AKIRA(全5巻)』をどうやって持ってきたのか? という疑問が走る。
が、読みたかったから借りた。
ウチは貧乏だし、奨学金をもらうほど頭もよくないし、大学には行けそうもない。消去法で就職の道を選ぶ。印刷会社で印刷機を扱う印刷工だ。ということしかわからない。プリプレス部配属と聞いているが、なんのことやらさっぱりだ。
働いたら買おうと思っていた『AKIRA(全5巻)』だったが渡りに船だ。それに俺は受験勉強など必要がない。卒業さえできればいいのだから、漫画を読む時間は十二分にある。
「ありがとう」
の次が出てこなかった。神谷と話すのは小学校五年生以来で、中学は別々。中の中レベルの地元高校で再会するも、高三までは同じクラスになったことがなかった。
「読んだら返して、でも学校はイヤだから、ウチわかるでしょ。持ってきてよ」
神谷と六年ぶりの会話がここで終わった。
幼馴染というほどではないが、大通りを越えた向こうの商店街のあたりが神谷の家だ。小学生のころ、社会の授業で神谷の家に行ったことがある。彼女の実家は豆腐屋だった。豆腐の作り方を教わり、豆乳を飲ませてもらい、帰りにおからをもらって帰った。以来、同じクラスの母親たちはスーパーではなく、神谷豆腐店で豆腐やお揚げを買うようになった。オヤジさんはある意味商売人である。中学時代は校区が離れたが、神谷のオバさんが店頭でから揚げを売り始め、買い食いのメッカとして栄えた。
と考えると、根っからの商売人の両親を持つ神谷のことだ。この『AKIRA(全5巻)』は無料リースではないだろう。何かの意図があるのだ。と邪推した。
あれよあれよという間に、高校三年生も終わり、卒業し、俺は印刷工になった。神谷は大学生になったようだが、どこの大学にいったのかすら知らない。クラスメイトの進学先なんていちいち知らないし、同じ進学組でもない俺はなおさら知ることもない。
ケータイの連絡先を卒業式で交換したのは覚えている。卒業式に「貸した漫画読んだ?」と神谷に聞かれて、俺はベッド下で眠っている『AKIRA(全5巻)』の存在を思い出した。
読むは読んだのだが、もともと漫画を読むこともあまりなかった俺が、ほぼ漫画読みデビューに『AKIRA(全5巻)』はハードルが高かった。ある程度漫画を読んでから辿り着く神のような漫画だと、誰かのコメントを見かけて読むのをやめていた。
漫画の読解力を高めてから、挑みたいと思っていたからだ。
だから、神谷の「貸した漫画読んだ?」には「まだ途中なんだ」とあいまいな返事をしてきた。「家知ってるから、読み終わったら持っていくから。神谷いなかったらオジさんかオバさんに預けとくからさ」
と言った。
なぜかいつも神谷が「そう……」と寂しそうにしていたのをよく覚えている。卒業式の日も同じやり取りをした記憶がある。神谷の目が赤く腫れていたのをよく覚えている。泣いていたのだろうか。
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プリプレスというのは、製版という仕事で、俺はデータチェックが主な仕事だ。古いテレビみたいに印刷機を叩いて格闘しながら、手がインクまみれになる、みたいな世界ではなかった。どちらかというと、印刷工程は別部隊で、俺はデータが入稿されてから印刷までの工程を担う部署に配属された。
神谷から時折LINEに連絡が来る。大学生活のこととバイトのこと。実家の豆腐屋の商売が相変わらず順調なこと。(オバさんがから揚げ専門店を隣町にオープンさせたらしい)それと聞いてくるのは俺の仕事のこと、と貸した漫画のこと。
借りた漫画? とすっかり忘れていると
《『AKIRA(全5巻)』だよ、もう四年も貸してるんだからそろそろ返してよ》と催促された。
《読んだんだけどね、もう少し考察したくてさ。しっかり読ませてよ》
といつものらりくらりと、こんな返事を送る。読んでないとは言えず、読んだ前提でいつも返事をしていた。
だが仕事が忙しくて、読んではいない。それに俺には漫画読解力がない。だからこそ、俺はこの四年間、漫画の読解力を高めるために、あらゆる漫画を読み漁った。コロコロを皮切りに、ジャンプにマガジン、サンデー、スピリッツ。単行本も読み漁ったし、名作と言われる手塚治虫も読みに読んだ。
からの、大友克洋だ。『AKIRA(全5巻)』にいざ挑む! となった。1巻から読む、夢中で読む。画力とストーリーに圧倒される。この構図ってとおどろきつつ、表紙のカラー印刷の出来にほれぼれした。奥付の印刷会社をチェックするのは職業病だ。
俺の会社でも漫画を印刷することはある。データチェックしているうちについ目に入り、面付している時につい読むこともある。
読んだ『AKIRA(全5巻)』を返却に、神谷豆腐店を伺った。手土産に先日の社員旅行の饅頭を持って。オジさんが忙しそうにから揚げを揚げていた。豆腐は朝作ったきりなので、ヒマな夕方の時間つぶしにはもってこいだと神谷がLINEで言っていたのを覚えていた。
「あの、ごめんください。僕、咲さんと高校時代の同級生の緒方渉と言います。咲さんいらっしゃいますか?」
忙しいピークが去っていたのか、オジさんは「あぁ、緒方君ね。咲から聞いてる。漫画持ってきたら、受け取って欲しいって」
どういうことだ? そんないつ来るかわからないヤツのための伝言を父親に刷り込ませるとは。神谷おそるべしだ。神谷は家を出て、大阪で働いているらしい。オジさんは手土産の饅頭に気を良くしたのか、それとも長年のタスクから解放されて高揚したのか、俺に出来立てのから揚げをパックに入れて「食べて」と差し出した。
食べながら、オジさんの話を聴くことになるのはわかっていたが、四年も待たせたお詫びがてら、出されたパイプ椅子に座った。
「咲はよぉ、大学卒業したら就職もせんで、漫画家になるって家を出てね。まぁ就活もしてなかったからな」
「え? そんなこと聞いてませんよ」
「そりゃそうだよ、誰にも言わんでって言われてたからな」
それくらい秘密のことを、ペラペラと話す実父に、神谷との軋轢があったと想像するのは容易だ。
「それで、咲さんは大阪で漫画家に?」
「そうよ、大学時代に賞とったみたいでね。アシスタントもやって、今やっとデビューしたんだと。聞いてない、よね。言うなって言われてたから。言わないでよ、咲に」
神谷のことだ。オジさんが俺に話すことは想定済みだろう。押すな押すなのアレと同じだ。オジさんに話すなと言えば、話すと。むしろ話して欲しくない時は、話してと言えばいいのだろう。それくらい、わかりやすい父親だ。
神谷にLINEを送っておいた。漫画の返却と簡単な感想を。四年もかけて送るレベルの感想ではないくらい、あっさりとしたものだった。
夜中に《わかった。もういい》
と神谷から返事がきた。誰かと間違っているのか。返信するにもどう聞けばいいのかわからずじまいで翌朝を迎えた。
通勤の支度をしていると、昨日漫画の返却に使った紙袋の存在に気づいた。あの紙袋の印刷が版ズレをしていて気になっていたのだ。あれはウチで印刷した紙袋だ。俺は、部屋の隅に置きっぱなしにしていた、版ズレ紙袋を手にした。逆さにして底面を確認する。
ガサッ と音がした。
封筒が落ちてきた。封筒の表側には緒方君へと書かれている。中には便箋が1枚。それは、ラブレターだった。神谷からのラブレターだった。おそらく全5巻のどこかに忍ばされていたのだろう。
俺は四年も神谷からのラブレターに気づかなかった。漫画を一度でも読み終えれば、そのラブレターの存在に気づくようになっていたのだろう。全巻読んだはずなのに気づかなかったということは、もしかしたらカバーの間に挟み込まれていたのかもしれない。返却時にぽろっと落ちて、紙袋に残ったのか。
ラブレターの最後には、こう書かれていた。
【私とお付き合いしてくれるのなら、卒業式までに返事を聞かせてください】
やたらと読み終わったか? と確認していたのはこのせいだったのか。卒業式でやけに寂しそうにしていたのは、この答えを俺が出さなかったからか。
通勤の合間に文面を考える。昼休みはきっかり12時から13時まで、その間に神谷にLINEを送った。この四年間、俺が借りた漫画をなかなか読まなかったのか、じゃなくて、手紙に本当に気づかなかったこと。昨日の夜に気づいた顛末を長々と書き、送信した。
そのあと、肝心なことを書き忘れたのを思い出し、追加で送信した。
《遅くなったけど、間に合うのなら、俺と付き合ってください》と。
既読になるものの、返事はなかった。待っても待っても返事はなく、督促するのもおかしいので、そのままにして、俺は返事を待った。
あれから一年という時間が経ったが、神谷からの返事はなかった。
いつものように、入稿データのチェックを行っていると、急遽漫画の単行本の製版業務が回って来た。いつもは別チームの仕事だが、人員不足で駆り出されたというわけだ。
データを確認する、問題ナシ。
検版をすませ、面付データを整える。
「おぉお」と低い声が出た。工員たちが動き回るフロアで、ひときわ注目を浴びるほどだった。
漫画の単行本、作者は神谷咲とあった。
製本済みのチェック本を、無理言って現場で読ませてもらった。
貸した漫画にしたためたラブレターが読まれないという内容の漫画。失恋もののラブコメだった。この日のために俺は漫画読解力を高めてきたのか。
そう思っていいほどに、コマとコマの行間を読み耽った。
神谷に電話をした。五コール目あたりでつながった。五年ぶりだった。漫画を印刷したのはウチの会社だと説明してから、感想を伝えた。興奮が先行しすぎて、久しぶりに声を聴くのに、定型の挨拶がまどろっこしくてすっとばしていた。
神谷からは、「勝手に漫画にしてゴメン。特定されないようにはしたつもりだから」と妙な謝罪をされた。
俺は、「今度食事でも」と誘ったが、時すでに遅し。神谷は先月結婚していたのだ。仕方ない。
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神谷の呪いがボディブローのように効く。既婚者ということもあり、あれから二年間ずっと、LINEでの連絡は控えてきた。神谷も同じく、俺には何も連絡してこなかった。漫画は三巻で完結したようだが、俺が手紙に気づいて連絡するところまで描かれていた。漫画の中の俺は、どこまでも無神経だった。読んでいる俺自身が一番腹を立てていたと思う。
三巻のカバーを外すと、本体の裏表紙に神谷を思わせるヒロインのイラストが描かれていた。吹き出しに小さく「おそいよ」と書かれていたのが、救いだったようでもあり。




