嘘つきの結婚
結果よりも過程、学校教育の悪いところが脇の汗染みのように、ジワリと滲み出ている状態。手に入れたものよりも、頑張ったかどうか、いや、「どう」頑張ったかを重視しすぎている。麻里のことだ。
歪み切ったプロセス至上主義は、当然恋愛にも実装される。誰と付き合えたかよりも、「どのような過程を経て付き合うことになったのか」。そんなバカバカしいことを大切にしているなんて、少女漫画の読み過ぎだとバッサリ断じると、「今時の少女漫画は、もっとサバサバしてるわよ」と噛み合わない議論が立ち上がりそうになった。
結婚して二年目、子どもナシ。僕の方が五つ上で、麻里は今年三十歳だ。先週まで子どもはいつ作る? 何人欲しい? なんて話をしていたのに、今は離婚というデスキーワードが頻繁に登場している。
浮気もしていないし、仕事だって順調、麻里も働いているが生活費は僕が全部出しているし、なんならお小遣い制だ。この結果に彼女は満足しているわけじゃない。僕みたいな好き勝手に生きてきたはずの年上の男を、自分の意のままに従わせてきた「プロセス」に満足を覚えている。
というのも、麻里は僕を「略奪愛」によって手にいれたと思っている。思っているという表現にしたのは、そこに誤認があるからだ。誤認させたのは僕だ。
既婚者である僕を、妻から奪い取り、結婚に至った。
これが麻里の満足するプロセスであり、それがあるゆえにこの結婚という結果を味わい深く、いつまでも噛みしだいているのであった。過去形だ。
誤認とは
――僕は、既婚者ではなかったということだ。
一度だって結婚はしていないし、なんなら初めての女性は麻里だ。三十三歳まで童貞だった。証明できる確たる証左はないが、証言台に立てと言うのなら自信を持って宣言する。
「原島晴夫、三十五歳、東京都杉並区上井草在住。三十三歳まで童貞で、モテたいために既婚者と偽り、原島(旧姓:下田麻里)の略奪心を燃えさせるために、結婚もしていないのに妻と離婚協議中と偽り、交際しました。その後、麻里のさらなる達成感を与えるために、架空の妻ともめている感を適宜演出しました。そして、彼女の恋愛心を弄び、架空の妻と離婚したと伝え、バツイチと偽り、結婚いたしました」
ここにどんな罪があるというのだ! と言うと心象も悪くなるだろうが、結婚していたのに結婚していない、と言っていたわけでもない。
「プロセスが大切なのよ、晴夫さんのやり方じゃ、私と付き合うとか結婚するとかそういう結果だけを追い求めてるでしょ」
「そりゃそうだよ、麻里のことが好きなんだから」
「でも、ウソついたじゃない。私を試すみたいな」
誰が傷つき、誰が報われなかったのか。
ここにどんな被害者と加害者がいるのか、法廷なら明らかにしてくれるのか。ウソはついた、でも、それは麻里と一緒にいたかったからだ。いや、麻里がプロセスを重んじるがために、「ウソをつかされた」。僕こそ被害者じゃないか。もちろん、加害者は麻里だ。
「別れましょ」
三連休の初日にさっさとケリをつけたかったのだろう。広いとはいえない2LDKのマンションで、お互いを避けて生活するのは困難だ。
ダイニングテーブルの小引き出しから、取り出された離婚届は、何日も前から準備していたようだ。仕方なくサインをし、判子を押した。
何が間違っていたのか、一人になったリビングで考え込む。昼過ぎに作ったアイスコーヒーは、氷が溶け、水とコーヒーに分離している。混ざっていたはずだと思っていた。その実、アイスコーヒーは無理やり混ざっていた、僕たちみたいに。グラスに指を突っ込み、かき混ぜる。
もう一度、ぬるいコーヒーの形に戻った。戻ったのか? もともとはどっちの形だったのだろう。水とコーヒーが正解? わからない。
麻里と離婚して半年、隠していても会社では噂になった。情報の出どころがわからないが、探したところで意味もない。噂を否定すると、またウソになってしまうので、僕は聞かれたり聞きたそうにしている人には「離婚した」としっかり伝えるようにした。そうすると、噂はピタリと止んだ。隠すから興味を湧かせるのだ。人の知りたい欲は、麻里の略奪心にも似ている。
手に入らなさそうなものを、手に入れたい。それが宝石のような価値のあるものならわかりよい。だが、厄介なのは石ころみたいなものでも、手に入りそうにないと思うと、どうしても手に入れたいと願う人が一定数いるということだ。手に入れたら満たされる。
だから、満たされると飽きる。だからそのプロセスにも価値を見出しておいて、飽きることを必死で回避しようとするのだろう。麻里の一連の行為は、ある意味献身的で、涙ぐましい愛情表現だともいえる。と、そもそもの僕が既婚者とウソをついたことがいけないのだけど。僕は僕で、それだけ麻里を欲しかったということだ。
同期の早川紗智子が、久しぶりに食事にいかないかと誘ってきた。彼女が総務に異動になったのが僕が麻里と結婚したのと同時期で、めっきり食事に行かなくなっていた。
飲み足らず時間もまだ十時前だったので、二軒目のバルに行く。店内は木曜日だというのに、賑わい、声の通りも悪いのでお互い密着して会話せざるを得ない。会話の主導権は早川が終始握っていた。
「私、原島くんのこと好きなんだよね。ずっと。付き合ってって、サイン送ってたつもりだけど、結婚したじゃん。だから、待ってたんだよ」
突然だったが、予兆はあった。早川のこの告白は、ある意味男性からすると怖いと思う。一般論。だが僕にはこの告白を、一旦受け入れるだけの心のスペースがある。
付き合っているとき、麻里に妻の写真を見せてと言われたことがある。僕は咄嗟に、スマホから早川の写真をピックアップした。酔いに任せて、二人で自撮りした写真だ。
それ以降、早川のことを最初の妻だという設定にして、名前も偽装した。「二階堂みゆき」と旧姓まで用意し、麻里も元妻のことを会話に出す時は「みゆきさん」と言っていた。
「聞いてるの?」と早川が左ひじで、僕を今の世界に呼び戻す。過去を振り返っている時、フリーズしているのだと思う。
「聞いてるよ。早川はさぁ、僕のどういうところを好きになったの? お互いいい歳だから率直に聞くけど、どういう【条件】に惹かれた?」
「え? なにそれ」
「はぐらかさずに、答えて」
早川は今テーブルに置かれたばかりのジンライムに口をつけかけたがやめた。
「条件ねぇ……敢えて言うなら、顔だね」
「顔?」
「そう、顔」
「もう三十五のオッサンだよ」
グラスのジンライムは、目を離している間に半分に減っていた。十一時を過ぎて、店内の客がまばらになっていた。
「顔って、プロセス? 結果? どっちかな」
「わけのわかんないこと聞くね」
「大事なことなんだよ」
「うーん、顔なんてのは、ただの好みだよ」
会計を済ませて、終電前に店を出た。まだ木曜日だ。駅まで余裕を持って歩く。告白の答えにまだ返事をしていない。
「私たちって、結婚してたんでしょ?」
早川が放った矢のような言葉に声を失った。
離婚後、麻里は家の鍵を返すために、僕の会社に来たらしい。郵送を嫌がった僕が「直接返して欲しい」と言ったせいだ。確かに鍵は受け取った。麻里とは「元気にしてる」ぐらいの当たり障りのない会話を交わしたのを覚えている。特に変わったところは、何もなかったと思う。
だが、違った。
麻里が受付で僕を呼び出した時に対応したのは、早川だった。麻里が「みゆきさん」と言ったところから、綻びが裂け、僕のついたウソの全貌が早川にも伝わったということだ。ここまでの話をしたくて、早川は僕を誘ったと白状した。
「じゃぁ、あの告白は」
「さぁ、今度は、原島が騙される番なのは、間違いないよね」
そのまま改札で、お互い逆方向の電車に乗った。早川からネコがVサインをして「またね」と吹き出しのついたスタンプが送られていた。




