推し活と酢コショウ
推し活ぐらい知っている、推し活に理解だって示している、推し活が悪いだなんて言ってない。
ただ、ハルナは推し活に狂っている。狂っているのは見過ごせない気がする。だけど、その正気をどこか名も知らぬドブに捨てているハルナを止めるほど、僕の背骨は強靭じゃない。脆い脆い、カッスカスのウェハースでできているのだ。
収入の半分近くを推し活に使っている。折半している家賃は、遅滞なく手渡ししてもらっているが、食費や雑費、その他生活費はなし崩し的にもらっていない。
「結婚したら、タカシが養ってくれるんだから、財布だってもう一緒でしょ」と訳の分からない先進的だか、後進的だかナントカナイズされた結婚観をブチかましてくる。
それでもハルナを愛しているのは、彼女の欲望に誠実なところだ。といっても、その欲望が性欲だけと言う意味ではなく、何かを欲する望みが尋常あらざるといったところなのである。僕みたいに残ライフわずかな社畜野郎からすると、エネルギーの塊のような存在をなんとしても側に置いておきたいのである。
そのためにも、ハルナには好きに・勝手に・気ままに生きてもらいたいのだ。その覚悟が足らんと言われればぐうの音も出ないが、いま彼女は推し活という魔物に取り込まれている。
以前、彼女に問いただしたことがある。
「何を推しているの?」と聞くと「ジジョン」と言う。知らない、韓国のアイドル?
「ジジョンは何をしている人?」と尋ねると「コンジュニムをサランヘしてくれる人」とそっけなく答えた。
サランヘといってる。僕でもわかる、韓国語で愛しているだっけ。なら、コンジュニムも韓国語だ。ググる、お姫様か。捻りがない。
推されている側からしたらファンのことをもっと自分たちの所属名の補完物で呼んで一体感を示すのではないか。
タクシーというバンドがファンのことを、ドライバーと呼んでいたみたいな。うまいこと言いきれてないけど、なんか関連があるみたいな。
ジジョンと調べても出てこなかった。嫌な予感が背中をゆっくりと上下する感覚。気持ち悪い。そういう予感はたいてい大当たりするものだ。息を飲んで、肺に貯める。苦しくなって吐き出すタイミングで、核心に触れた。
「それってさ、ホストなんじゃないの?」
これが、昨日、土曜日の昼間に起こったできごと。そのまま、ハルナは家を出て行った。《推し活、朝には戻る》と、ご丁寧にLINEを送ってくれていた。
ハルナはイケメン好きだ。僕だって、大カテゴリで言えばそこには分類される自信はあるし、実績もある。最近、少し太り気味のせいで、顎のたるみが目立つ。社畜の食生活は乱れ、ハルナが健康のためと作ってくれた夕飯は食べないことが増えた。次第に、ハルナは夕飯を作るのをやめた。せめてもの朝食ぐらいは健康的にと、和食を中心に作ってくれていたようだが、朝はタバコとコーヒーで十分だと断った。
やんわり断ったつもりだが、帰宅後流しのシンクには投げ捨てられた、鮭やホウレンソウのあえもの、乾いたワカメの残骸と粉々になった豆腐が死んでいた。
その夜からハルナは、夜遊びが増え、朝帰りが常態化した。たかだか広告のコピーライター如きではあるが、入稿直前の修正続きで徹夜していると、その異常事態の常態化に、気づくことすらできない。
朝帰りしてきた日曜日、午前六時。寝ずに待とうと起きていたつもりが、意識を失うようにしてダイニングテーブルで突っ伏していた。夕飯を作って待っていた。唯一の自慢料理、焼き餃子だ。意識があるうちに、冷蔵庫にラップしておいた。洗い物も、シンクも掃除しておいた。
「しておいた」というと、自分のタスク外のようであるなと、我ながらその言葉の愚かさに反省した。これでも言葉を生業とする仕事なのに、とそれまでに投げかけられたハルナの言葉と、ぶっきらぼうに打ち返してきた僕の言葉はもはやコミュニケーションの形を保っていなかったと思う。
そんな、こんな、胸いっぱいの言葉をしたためて、彼女を待っていた。朝帰りの彼女は、どこか汗の香りがした。
「ハルナ、そのいままで本当にゴメン。優しい言葉には、誠実な言葉で返さないと信頼って生まれ……」
とありていな言葉を封して、ハルナは無言でシャワーを浴び、着替え、冷蔵庫から餃子を見つけ、温め、缶ビールを開け、グラスを二つ用意し、無言で注いだ。
朝七時前にレンジがゴゴゴ・ゴゴゴと音を立てる。
「タカシ、失くしたものを見つけようとしても無駄なんだよ。何が一番無駄かって、時間。その次は、信頼。その次は、愛ね」
――何かを言おうと、言わなければ、終わると思った
レンジから【チン!!】と戦闘開始のゴングが鳴った。
「だったら、作り直すしかない」
絞り出した言葉は軽く、綿埃のように朝の澱んだダイニングに舞う。カーテンから漏れる朝日を受けて、その姿があらわになる。光なくしては見えない存在、僕の言葉は誰の心にも刺さらない。
ハルナはビールをぐいっと飲み干し、おかわりを注ぐ。チンしてパリッと感が失われたダラケタ餃子を、酢コショウでハフハフ言いながらハルナは食べた。
「来週から韓国行ってくる」「推し活?」「そうだよ、言ってなかった?」
ハルナは箸から滑り落ちそうなぐったりした餃子を口に放り込んだ。
「聞いてないよ」 洗ってそのままにしていた自分の箸を水切り籠から引っ張り出した。流れが良さそうだと判断した。聞くなら今だと、決心した。
「朝帰りは、ホストクラブとかでは?」「ちがうよ、バイトだよ。深夜の」「どうして?」「韓国の旅費必要だからだよ。意外とお金かかるんだよ」
ひとつホッとしたら、ふたつハラハラさせられる。それがハルナだ。
僕は仕方ないなぁと理解のある彼氏を演じる。悪くはない。自分の小さな器が大きく見える。でも、それは虚勢を張っているだけで、実態は脆い器だ。
「餃子、まだあるよ」とハルナにおかわりを促す。「もういいや」と箸を置いて、ハルナは残ったビールを流し込んだ。「ところで、深夜のバイトってなに? コンビニとか?」
間を置かず、一拍呼吸をするかしないかぐらいの速さで
「デリヘルだよ」 とハルナは答えて、手をあわせて「ごちそうさま」と言い、リビングのソファーに沈み込むように身体を預けた。
「そう」とだけ、聞こえるか聞こえないかの声量で、立ち上がった。
食べ尽くされた皿と、飲み干されたグラスをシンクに運ぶ。テーブルの上に見捨てられた小皿には、酢コショウが薄ら汚く残っていた。




