何もしない人
「何もしないから、ねっ、ねっ、ねっ」とありきたりの懇願をされ
「ホントに、神に誓って」とどこかの神様まで気軽に持ち出され
「人目があるから、さぁ早く」とあるはずもない世間体を気にして
ラブホテルへと連れ込まれた。
高城真織は、強靭な女だ。欲しいものを手に入れるためなら、欲しくないものはもちろん、二番目に欲しいモノだって執着なく、尻をかきながら手放す。これを執着心に一本筋が通っているというのだろう。
そんな女に見初められるというのは、光栄ではあるが、恐怖が先走る。そのあと、ほんの少し、爪の先ほどのほんのちょびっとだけ、好奇心が立ち上がってる。
ありきたりのボブだが手入れが行き届いている髪質。少し顔を動かすと、髪があとからついてくるなめらかさ。残像のような動きに、顔に髪が服従しているかのような関係性をみる。「執着した誰か」を従えてきた歴史が見えてくる。
顔の表面積が小さく、密集したように見える目鼻口は、ちょうどいいバランスを保っている。アーモンド型の目は睫毛に吊り上げられるように、くっきりと開いている。少し窮屈そうだが。横から見た鼻筋はスッと滑らかにまっすぐ、自信に満ちた唇は少し腫れぼったい。配置のバランスの良さと比べて、パーツのアンバランスさが説明しにくい美しさを印象付ける。見ようによっては「ブス」を「好み」と再定義した賢者たちには頭が下がる。
そう言う意味では、真織は美人というよりも、相手の好みで成り立っている「うつくしさのようなもの」を従えている。
真織は会社の同僚で、二つ下の後輩だがさほど業務で絡むことはない。彼女ら新人へのOJTの関係で、俺の所属する商品企画部主催の研修を担当したぐらいだ。といっても二人っきりでもないし、なんなら同期の男どもとイチャイチャしているのを、ウチの課長・田倉静香に手厳しく叱られたくらいだ。女性同士だとパワハラのハードルが下がるのか、言い方なのか、コテンパンに真織をのしているように見えもした。だが、真織はさほどこたえていないように見えた。
真織と呼び捨てにするのは、高城真織のほかに、高木好美という俺の同期がいるせいだ。別に他意はないが、同期の高木好美の方を「タカギ」と呼び捨てにするせいで、高城真織を「真織」と呼ぶ。
「私、下の名前で呼ばれたの初めて」とウルウルとした小動物さながらに声を掛けてきたのが研修最終日。田倉課長と同期の高木にも、「あの子には気を付けて。男はあぁいう子がいいと思うんだよね。薄っぺらい中に、根のない自信みたいなものを持ち合わせた女」と吐き捨てるように言った。二人の培ってきた悪意ある自意識が、女性としてというより人としての選択肢をくい散らしていることにいつ気づくのだろうか。
新入社員に随分な言い方をする。女が二人そこにいるだけで、そこにいない女の話で共同戦線を張れるのは、女という生物の生存戦略だ。そして、田倉課長と高木はいつもけん制し合っている、会話の成立しない女と女を象徴した存在だ。
ラブホテルに入っても、何もしなければいい。この件に限った話ではない。客観的事実の積み上げだけで、有罪にはできない。状況証拠もその状況が信に足るかが重要なのだ。偶然から生まれたものか、必然から生み出したものかで、結果軽々と変わる。
企画部の飲み会の帰り、裏道に入り馴染みの焼き鳥屋で、一人飲み直そうとしたところに真織がやってきた。どうしてこの場所がと思ったが、迂闊にもインスタに一人飲みの様子をアップしてしまっていたのを思い出した。
研修では自分のインスタアカウントを例に出して説明をしたせいだ。俺のIDをメモして、俺のアカウントに辿り着いている。非公開にから公開にしていたわずかな間に、フォローされていたが気づかなかった。それくらい無頓着にSNSと関わっているのに、研修でSNSの怖さについて説明するなんてと自分でも呆れる。同僚だし、独身だし、彼女もいないから、誰に咎められるということもないが。
俺に気づき、俺の隣に座り、俺のおごりで飲み食いした真織。ここまではいいとしよう。何度も言うがお互い独身だから、飲んでる分までは問題ない。もし、田倉課長や高木の耳に入ったとしても、たまたま店で一緒になったと説明すればいい。本当の話だから。そして偶然だから。
だが、ラブホテルに入ったこの事実については、説明しがたい。
何もしないからと懇願され、仕方なく入りましたが通じるだろうか。神様にも宣誓されたし、ラブホテルの前でオロオロしていると逆に変な噂がたつかもしれないとも言われて、なんて話は
通じるわけがない。
昼間は商談で炎天下の中歩き回った。そのおかげで一次会のビールはうまかったし、一人飲みのハイボールだってまだうまかった。内側から水分が抜け落ちて、外側には老廃物が溜まっている。
あぁシャワーに入りたい。どうせここの金も俺が払うことになる。何もしない部屋で、何もしないのはいいが、せめて、汗ぐらい洗い流したい。
それがよくなかった。
ラブホテルの安いシャンプーと、熱い湯気と、男のくたびれた夏の汗が無駄に広いバスルームに混ざり合う。シャワーの噴流がプラスチックの壁を激しく叩く音に紛れて、扉が薄く開いた。
湯気の向こうに立ち現れたのは、一切の服を脱ぎ捨てた真織だった。
「うわっ」と声を上げ、惨めにも手で前を隠す俺から、真織はぬめりけのある手で容赦なくシャワーヘッドを奪い取る。お湯が彼女の胸元に遠慮なくダイブする。
水滴を弾く彼女の滑らかな肩筋、そして濡れて顔に張り付いたボブの毛先。真織は迷いなく顔を近づけ、逃げ場のない俺の唇を塞いだ。腫れぼったいと思っていた唇は、押し当てられると意外なほど薄く、冷たく、そして吐き気がするほど生々しい「何か」を孕んでいた。
もう後戻りはできないのだと、肌にまとわりつく湿度が絶望的に告げていた。
朝、目が覚めると真織はもう彼女気どりだった。でも、悪くなかった。この仕事に就いたのは、就活全落ちでウチしかなかったから。同期の男どもがやたらと飲みに誘ってくるが、断るのがダルイとか。パートと派遣の間に巨大な確執があり、それをまとめ上げれば一大勢力になるのではないかとか。
その一大勢力の力を手に入れてどうするのか? と尋ねると間髪入れずに
「田倉課長と高木好美先輩を陥れる」とあどけない表情で、物騒な不正解を投げ返す。
とても人間的で、野性的で、女性的で、男性的で、天然的で人工的な、そんな相反するものを左右の手で分けて、しっかりと握っている女だった。
コッソリ付き合うのかと思えば、勝手にオープン交際にされ。会社でも新卒に手を出すのは暗黙のご法度とされていたが、真織は
「自分から手を出しました!」と公言して回った。
あることないことの陰口にへこたれず、出張のお土産が自分だけもらえないプチイジワルにもめげず、溌剌と爽やかに生きている真織に心は支配された。情けない話、真織について行こうというのが俺の基本方針となったほどだ。
であるにも関わらずに、つまらない誘惑に負け、同期の高木好美と浮気をしてしまった。高木のあからさまな誘いは、断る手間すら面倒に感じた。受け入れる方が楽だ。扱いやすい女をひとつ、手持ちカードとして確保しておきたかった。
高木の肌からは、不思議と真織のようなぬくもりは感じなかった。キシキシと乾いた布巾が俺の肌をこすりつけていた。
高木は真織にこの事実を告げた。勝ち誇った顔が目に浮かぶ。何をやっても、くじけない真織への自分の身を投じた攻撃。高木はどうかしていると思うが、本当にどうかしているのは俺だ。
それでも、許してくれるものだと勝手に思い込んでいた。俺は真織に俺そのものを捧げてはいたからだ。浮気程度で、その信仰のようなものは崩れはしない。が、崇められる方としては、そんな不心得な信者は粛清対象となる。
電話はつながらない、LINEも同じく。家にもいないし、会社も辞めた。 電話は着信拒否となりLINEはブロック。大家に転居先をしつこく聞くと、警察を呼ばれる羽目になった。田倉課長まで出てきて、その場はなんとか収めてもらった。
捨てられたということだ。
俺は真織が辛い時に、彼女は飄々と受け流しているとばかり思っていた。が、心底傷ついていたのだろうと振り返って思う。浮気ばかりが原因ではない。あらゆる意味で真織に「何も捧げてこなかった」ことが捨てられた原因なのだ。
別れたのではない。別れるとは対等の二人が、自分たちを区切るために使う言葉だ。
捨てた、捨てられた、真織と俺にはその言葉しか残っていない。
同期の高木好美に「好美」と呼び捨てすると、「はぁ?」と返ってくる。「恋人気取ってんじゃねーよ」と追撃喰らう。彼女は目的を達したのだ。
真織を会社から追い出せればヨシだから。
仕方なくいつものように「タカギ」と呼ぶと、高城真織を思い出す。それは瞬間的にではなく、ジワジワと時間をかけて細胞一つ一つに呼びかけている。
そういった種類の呪いを、俺に刻んで、真織はどこかに消えた。
「強さって、鈍感さじゃないのよ」
浮気がバレたときに、真織が俺に言った唯一の言葉だ。その意味を噛みしめるほどに、喉の奥が締まる。
苦しいが俺はそれをやめない。いややめられない。
呼吸もできないほどに苦しむと、そこに真織を感じることができるのだ。そうやって俺は、「何もしない」人になってしまった。




