愛情か嫉妬に、唾を
おそらく、右斜め前の席にいるのはトモコだ。衝立からむりやり身体をひねらないとお互いには見えないだろう。チェーン店のハナモリカフェで原稿を書いていると、叔父さんの葬儀に出席しているはずのトモコがモーニングをほくほくと食べているのに遭遇した。Cセット、クラブハウスサンドにゆで卵、さらにコーンスープとお好きなドリンクが付いて1,100円。
チェーン店のモーニングとしては高すぎるし、あのケチなトモコが朝から豪遊するとは信じがたい。それにいつも話に出ていた叔父さんの葬儀に欠席するなんてあり得ない……、ん? 待てよ。
となると、あの席で新聞二紙も独り占めして、豪快にスープを啜っているあの女は、トモコのそっくりさんってことか? そうだと辻褄があうが、ものの二分で俺の都合のいいシナリオはボツとなった。
人が歩くたびに挽いた豆から適度に絞り出したコーヒー香が漂う。味は鼻で楽しむものだと、いうのもよくわかる。カウンター席にボックス席、右に左にと店員が席番号を覚えるのに四苦八苦しそうなレイアウトを縫って、すらっと背の高い男がトモコの対面に座った。強いコーヒー香が俺の鼻に飛び込んできた。
会話は良くは聞こえないが、なにやら親密そうだ。俺に内緒というか、ウソまでついて男と会うなんて、その執念めいた色欲には頭が下がる。
一時の火遊び相手、長期の泥沼相手、どっちでもいいが浮気をするなら覚悟が必要だ。「バレたら、別れる」ぐらいの意思を持っているなら、世話になっている叔父さんを殺してまで、俺との約束をキャンセルすることもなかろうに。
隣の老人夫婦が最近覚えたての麻雀の得点勘定について、メンゼンだとどうとか、鳴いてるとどうとか、四十符とかなんだとかうるさい。執拗に咳払いをして、「黙れ!」のメッセージを老夫婦に送り、チラッと俺の方を見ると二人して言葉を忘れたぐらいに黙り込んだ。
静かになったもののトモコの声が聞こえる距離ではないが、俺は耳をそばだてた。男の声が大きいのが救いだ。
「でさぁ、今日は買い物行こう。欲しいジーンズあるんだよ。そのあと、シェークズのピザ食べてさぁ、あの食べ放題にしようよ」
「いいねぇ、それ」と言わんばかりに、トモコは頷いた。
「そのあと、今日はウチくるだろ?」
男の声の大きさは、先ほどの麻雀老人夫婦の比ではない。衝立の凹凸加工されたガラスは、法廷で被害者の顔を隠すように、相手の容姿をすっぽり遮っている。
トモコの声は聞こえないが、コクリと頷いて見えた。
ハイ、浮気確定。状況証拠だけで立件できるパターンだな。俺は冷めたコーヒーを口の中に放り込み、レシートを手にして席を立った。
もこもことした歩きにくいフロアタイルを踏みしめ、男の後ろの席で止まった。横顔のまま、トモコに視線を送る。男は俺の気配で、振り向いた。
「なに? 知り合い?」
男はトモコの微妙な表情を確認しながら、半身を捻って、俺の方にも視線を送って来た。
「ううん、知らない人」
その知らない気だるい声が耳から鼓膜を通る。頭の後ろ奥で小さく弾けた瞬間、順調に流れていた血液がすっと冷めるのがわかった。
――違う。トモコじゃない。
鼻の形も、髪の分け目も、服の趣味すら全然違う。声も違う、もっとハスキーだ。どうしてこの女をトモコだと思い込めたのか、十分前の自分の正体がわからない。
俺は逃げるようにレジへと向かった。
靴底が踏みしめるフロアタイルの無機質な感触がやけに軽かった。
「現金ですか?」とまるで電子決済でないといけないかのような口ぶりの店員に、「はい」とだけシンプルに答え、会計を済ませた。
まっすぐな国道沿い、前からも後ろからも、どこからも風のない寂しい歩道をゆっくりと歩く。
《今日、ゴメンね。お昼に火葬が終わって、そのまま初七日しちゃうみたい。夜には会えるから、部屋で待ってて》トモコからLINEが届いていた。
どうにも俺の中には愛情と嫉妬が、隣り合わせのカップルシートみたいに当たり前に座っている。どうか、トモコから捨てられませんようにと、口のなかにたまった苦い唾を、ゴクリと飲み込んだ。




