ショートヘア
知らないベッドで目覚めた。知らない枕だし、知らない布団は窮屈そうに誰かとシェアしていた。知らない天井を見上げて、そっと隣の誰かの寝顔を覗き込む。
部屋中カモミールの香りが漂っている。これは知っている。僕の部屋もこの香りだからだ。
左腕がその隣の誰かの枕と化していた。そぉっと引っこ抜き、所有者のもとへと返していただく。
「んんっ、んーーー」
隣の誰かが目覚めた。僕は息を殺した。上半身下半身、何も着ていない。脱ぎ飛ばした下着がテレビのそばに、シャツとズボンはソファーの近く。メガネは掛けたままだった。ひとまず着替えて、身支度を整える。黙って帰るのも後味が悪い。洗面所を借り、浮腫んだ顔を洗う。ポケットに入ったままのくしゃくしゃのハンカチを取り出して、顔を拭く。玄関からつながる狭いキッチンの廊下に、通勤用のリュックを投げ置いていたようだった。出張用の携帯歯ブラシで、二日酔いの口を磨く。スマホをポケットから取り出して、地図アプリを開く。あぁ、ここは祝園だ。
歯磨き粉のミントの香りで、途端に覚醒し始めた。ようやく昨日のことを思い出してきた。
昨日は金曜日の晩で、月末。数少ない同期、藤本理子の送別会だった。まさかの、理子が隣?違う。理子はロングヘアだ。隣の誰かは、髪が短い。理子のことは気にはなっていたが、減りゆく同期に手を出すわけにはいかない。数少ない仲間という関係の方が大切だからだ、と自分に言い聞かせていた。だったら、この隣の人物は誰なんだ。
とにかく、クライアントのチェックが遅れに遅れた。そのせいで、外注のデザイナーにはこっぴどく叱られ、一次会に遅れたというわけだ。理子はできあがっていて、あまり飲めない僕にかけつけ三杯といって、無理やり飲ませた。
おかげで、早めにできあがってしまい、部長から執拗に飲めとは強要されずに済んだ。そのあと、ふらふらの身体でカラオケの大部屋に連れていかれ、終電前に解散となった。
部長が理子をしつこく口説いていたので、冴子さんが割って入ってたのをなんとなく覚えている。二年先輩の冴子さんは、グラフィックデザイナーだ。理子の直接の先輩で、僕は営業兼コピーライターだ。
飲み会も中盤に差し掛かる頃には、アルコールが抜けていた。ふらふらだったのは単に寝不足だったからだと思う。今週は理子の送別会参加のために、だいぶスケジュールを巻いたはずなのだが、最後の最後でクライアントチェックが遅れるという制御不可な問題に陥ってしまったのだ。
お開きになってから、僕は竹田駅に向かった。理子はなんとか部長を振り切って、僕についてきた。理子と改札を一緒に通った。飲み直そうと誘おうと思ったが、飲める体力もなかったのでまた誘えばいいかと思ったのだ。
そこからあまり覚えていない。奈良行の最終電車は空いていて、座席に座れた。理子と同期あるあるをたくさん話したのは覚えている。誤植で印刷所に駆け込み、一緒に謝ってその場で修正指示を出したこと、あれは始末書ものだったねと人少ない車内で笑いあった。
記憶がここで途切れている。そのあと、見知らぬ駅で降り、たしかバスがないからとその人にタクシーに乗せられた。そして、今に至るのだ。
いや、待て!
ショートヘアのことで思い当たる節がひとつ。笑いあった電車のなかで、理子がパチパチっと髪を触り、帽子みたいに脱いだのを思い出した。ウィッグだった。理子はショートヘアだった。耳のあたりで切りそろえられた髪が、首筋に沿って軽く跳ねていた。「マチアプだと、この方が喰いつきいいんだよね」と言っていたのを思い出した。ここで、これは告白する気概を喪失した。そして、そのまま記憶を閉じたのだ。
となると、この隣にいるのは、理子と考えるのが正しいが、その理子と僕は身体から始めたのだろうか。
「う、うーん」と一人になったベッドで、上半身裸の女性が目覚めた。
「佐々木君、大丈夫?」と聞き馴染みのある声。
理子は僕を佐々木君とは呼ばない。佐々木と呼び捨てだ。いや余所余所しく君づけにしたのか?
洗面所から半身をずらして、ワンルームのベッドに視線を送る。
朝日が逆光になって、シルエットが美しい。おもわず見とれてしまった。
「じっと見ないでよ」と言われたが、目を凝らした。そして、声をあげた。
「冴子先輩!」
「ちょっと声大きい」
冴子先輩は器用に足の指で下着やらシャツやらを拾い上げた。
「佐々木君さぁ、寝ちゃったでしょ。藤本さん困ってたから、引き取っちゃったのよ、あなたのこと」
冴子先輩によると、僕は理子の隣で意識を失うように寝入った。同じ終電に乗り合わせていた冴子先輩が、酔っ払いを避けて、僕たちがいる車両に移って来た。理子が冴子先輩を見つけて、助けを求めたというわけだ。
「ここは冴子先輩の部屋で、僕はその……」
「そうよ、佐々木君私のこと口説いたんだよ。覚えてないの?」
昨日は飲み会だったが、酔いは覚めていた。
「ところどころ抜けていますが、思い出してきました」
冴子先輩はシャツにジャージといった姿でキッチンに向かった。洗面所から出てきた僕に
「コーヒーでいいわよね」と通った声でたずねた。
「はい、おねがいします」と答えた。
「理子ちゃんのこと、好きだったんでしょ」
コーヒーを啜りながら、冴子先輩が問いただす。
「はい……」
「いいのよ、ほら、彼女隣の駅だから、すぐ近くだし」
小さく沈黙が流れる。
ここでの失敗フラグは(理子のところに向かうのはもってのほかだとして)
・僕、冴子先輩としたんですよね?
・僕、責任取ります
・僕、前から冴子先輩のことが好きでした
だ。姉貴の恋愛漫画を読んでいて、よかった。
あまり沈黙時間を長引かせてはいけない。
「この近くにベーカリーカフェがありましたよね。朝ごはん食べに行きませんか」
「どうしたの? この辺知ってるの?」
「さっき、調べたんで」
「たしか、ベーグルがおいしいって聞いた」
「行ったことないんですか?」
「通勤前にいつも通るけど、ほら私ギリギリで出社するでしょ。起きるの遅くて」
冷蔵庫の隣、置時計はまだ六時半だった。
「まだパンありますよね、朝早いですから」
「じゃぁ、支度するから待って」
冴子さんはコーヒーを飲み干し、歯を磨き、手際よく化粧をした。
マンションのエレベーターを下り、ベーカリーカフェへと向かう。
「今日、一旦帰ります。そのあと、夕飯でもどうですか?」
思い切って誘ってみた。パンの焼けたいい匂いが通りにまで立ち広がっていた。この誘惑を断って、毎朝会社に来るのは苦行だと思う。
少し間があく。
「そんなに、連続して会うと、飽きちゃうかもよ」
「それでも、いいじゃないですか」
そう言って、冴子先輩の手をふわりと握った。
「手、ゴツゴツしてるんだね」
冴子先輩がそう言うと、思わず目を合わせて笑いあった。




