誕生日に、潔白を
否定の証明は不可能だ。それがナオにはわかってもらえない。その場にその人といなかったことぐらいなら、証明できる。アリバイを出せばいいのだから。
昨日八月八日の午後七時、どこにいたか。俺は京都駅の南側、ヨドビッカメラの八階の新己書店にいた。プレゼント用の本を買っていたのだ。だいたい彼女の誕生日前日に、浮気をするほどの気力と体力と計画性がない。
大型連休でもどこに行くか予定をいつまでも立てられずに、計画性のなさを責められているほどなのに、用意周到に浮気できるわけがない。
予約したレストランは、事前に一人で味を確かめた。フレンチのコースなんて初めてだから、ユミコ先輩に教えてもらった。おすすめのレストランをいくつかピックアップしてもらって、三店舗ほど下見したのだ。
うまいラーメン屋なら、うまい定食屋ならよく知っているが、うまいレストランとなれば見当もつかない。喫煙所でグルメログを検索しては、ため息をついていた俺に、ユミコ先輩が助け舟を出してくれたのだ。困っていると思ってくれたのだろう。
という一連の流れを説明した。今夜のレストランの予約は、会社の先輩に教えてもらったという経緯で決めたし、普段から別の女(ナオが言うところの浮気相手)と行ってなんてない。住宅街の一角にある小さなフレンチレストランだが、この店が一番美味しかったし、夫婦二人で経営している点も今日という日にピッタリだった。
「四年も付き合ってきて、誕生日にレストランだなんて、変よ。そんなキャラじゃないじゃん」
ナオの言うこともよくわかる。ただ恋愛は裁判じゃない。前例だけで、判決を下さないで欲しい。
アミューズの蕎麦粉のチュイルと鴨のリエット、山椒が効いていて舌先がほんのり痺れる。燻製した鴨の野性味あるコクが口の中を支配する。
「おいしい」
ナオの表情が和らいだ。
「今日は誕生日だろ。俺なりに計画してきたんだから」
手の内を明かすのは、あまりにも残念だが、浮気と思われて別れるのは不本意だ。海外出張で安宿に泊まったせいで、押し込み強盗に遭ったことがある。財布から現金を奪われた際に、「他にもないか?」と聞かれた。
たどたどしい英語だったが、俺はベッド脇のサイドボードから、スーツケースの二重底のポーチから、靴下の底から、あるだけの金をくれてやった。強盗は俺の素直な対応に感謝し、小銭を残し、「これで何か食ってくれ」とまたたどたどしい英語で言い残して、部屋を出た。
俺は無傷だったが、先週同じ手口で海外出張してきた日本人が抵抗して、大けがしたそうだ。そんな重要な情報を教えてくれない宿の主人に不信感を抱いた。予感的中で、帰国後、宿の主人が逮捕されたと外務省から連絡を受けた。主犯は宿の主人で、海外出張者の客を襲うようにと、計画していたそうだ。
とまぁ、話は長くなったが、ここで言いたいことは二つ。
・命よりも惜しいものはない。命の次にはナオが惜しいということだ。だから、駆け引きなんてせずに洗いざらいナオには話しているつもりだ。誕生日にレストランを予約し、欲しがっていた海外の飛び出す絵本を用意した。その中には、婚約指輪も忍ばせている。浮気と誤解されて別れを決意されてしまうぐらいなら、プロポーズの計画を明らかにする覚悟だ。そんなものは惜しくないということを言いたかった。失いたくないものが決まっている。だからそれ以外は相手に差し出すのだ。
ふたつめは
・宿の主人のように、杜撰な計画にならないようにすればするほど、明らかではなくなるということだ。杜撰な計画なら、「いかにもあの人が犯人だ」と誰にもわかってしまう。俺の計画は杜撰ではなかった。計画が苦手であるからこそ、完璧を目指した。それゆえに、前日の行動がベールに包まれた。ナオはそれを怪しんでいるのだ。それが浮気に繋がるところが、なんとも短絡的だと思うが、そもそも君の彼氏はモテないと、よくよく理解をして欲しい。
前菜の帆立と新玉ねぎのマリネ柚子の泡は、軽くあぶった帆立の香ばしさに新玉ねぎの甘味が負けていない。柚子のさっぱりとした爽やかさのあとに、帆立の滋味深い旨みがやってくる。
ナオは小ぶりな前菜を歯と舌でゆっくりと押しつぶして、名残惜しそうにその味を楽しんでいた。
「じゃぁ、浮気してないって、証明できるの?」
執拗な追求が魚料理とともに追撃する。
甘鯛の鱗焼き/蛤のソース添えがメイン料理だ。肉が苦手なナオのために、メインは魚料理にした。蛤の出汁に白ワインと少量の生クリームを合わせたソースに、ナオが無言で舌鼓を打つのが見てとれた。
青りんごとミントのグラニテで口直しをし、小さな皿にウォッシュタイプのチーズに蜂蜜と胡桃が添えて出てきた。ローストした胡桃がチーズとハチミツだけの親密な関係に、割って入る感じだ。この三角関係はバランスがいい。
デザートは苺と白ワインのヴァシュランだ。苺の甘酸っぱさに、白ワインの爽やかな酸味と香りが重なる。甘さはありながら、後味はすっきりとして軽い。
最後に、エスプレッソとともに、白い小皿に生チョコ、レモンのマカロン、カヌレがちょこんと並べられた。食後の余韻を楽しむなんて、贅沢だ。
ナオは無言だったが、それは不満というよりも満足に近いものに見えた。顔はクシャっと目元が柔らかく崩れ、ふっくらとした唇は優しく緩んでいた。
「これ、お誕生日プレゼント」
俺はナオが欲しがっていた「アリスの立体絵本」をプレゼントし、その仕掛けのなかに指輪を忍ばせていた。
「これって、ヨドビッカメラの本屋さんで見た、アリスじゃん」
そうだった、この飛び出す特殊絵本を取り扱っている店はそうそうなく、探しに探して、ヨドビッカメラの新己書店で見つけたものだった。レシートを見せて、クレジット払いの明細も見せた。昨日八月八日の午後七時十五分と記されていた。レシートという手があった、というのはわかっていたが、浮気を疑うなら、浮気相手とのうのうと彼女のプレゼントを買うなんてこともあるのではと思う。
ナオは妙に納得したようだった。立体絵本をいつまでも開こうとしてくれないので、僕が強引に指輪の二つ前のページまで開いた。テーブルの上にはエスプレッソがふたつ残っていただけだった。
「ごめん、私ね、好きな人いるんだ」
目が点になるという慣用句を、実際に体験することになるとは思わなかった。大きな窓に映る自分の顔が、見たこともないマヌケな男に見えた。
だが、それは憐れでもなく、愚かでもなかった。
誕生日にフレンチのコースをご馳走したのは、僕の意思だ。プレゼントに入手困難な本とそこに婚約指輪を忍ばせたのも、僕の意思だ。誰に言われたものでもないし、そこに後悔なんてないし、無駄なことをしたと言う気もない。料理は最高に美味しかったし、ナオも料理自体には満足してくれたようだから。
よくよく話を聴くと、自分の方が浮気をしていたことを告白してくれた。ナオが下戸なのでアルコールの類は頼まなかったが、今こそ飲むときじゃないかとすら思えた。エスプレッソのあとに、ワインなんてあり得ないけど。
ナオがお手洗いに行くこともなく、一人店を出て行った。猫脚の優雅な木製チェアから立ち上がったときに、「じゃぁ」とだけ言葉を置いて行った。その後に続く言葉が「ごめんね」ではなさそうだ。「サヨナラ」が正解だと思う。
大きな屋敷のページは、扉がいくつもついていて、開くとなぜか料理がボイーンと飛び出てくる仕掛けだ。右ページの上の方、屋根裏のところの扉の中に指輪を仕込んでいた。交互に扉を開いて、ナオがその屋根裏の扉を開けるように、手順を決めていた。
お世辞にも立派な婚約指輪ではない。小さなダイヤがいくつかリングに埋まっているような、よく言えばシンプルだが、はっきりいって華のない指輪だ。
オーナーのシェフの旦那さんと給仕をしてくれた奥さんが、テーブルにグラスを三つ並べた。
「一番いいワインを空けたから、飲みましょう。これは私のおごりね。」とシェフの大きな手が僕の肩を掴むように優しく叩いてくれた。
「他にお客さんいないから、もう店しめちゃうね」と奥さん。
奥さんが戻ってきたとき、手には皿があった。そこには、こんがり焼き目のついた仔羊のローストが載っていた。
「彼女さん、お肉が苦手だったって聞いてたけど、うちのシェフうっかり作っちゃって」
そう言って、僕の前に皿を置く。
「自分で言うのもなんだけど、ウチは肉料理が自慢でね」
仔羊のロースト/黒にんにくのジュという料理らしい。ジュとは肉を焼いたときに出る肉汁をベースにしたソースだと、奥さんが教えてくれた。
僕は仔羊をひと切れ口に運んだ。
表面を香ばしく焼いた仔羊に、黒にんにくを加えた濃い色のジュがかかっている。脇には焼いた筍と新じゃが。仔羊はクセがなく、噛むほどに肉の旨みが広がる。黒にんにくのほのかな甘みとコクのあるジュがそれを引き立て、最後に山椒の爽やかな香りが残った。
ワインをひと口飲む。
「おいしい」
と思わず、言葉がこぼれた。




