第3話 女王、陥落
「……っ、あ……!」
『うえはーす』こと、上田蓮美は、実力拮抗のライバル、鉄鬼に苦戦を強いられていた。
蓮美のキャラクターが鉄鬼の放った鋭い下段蹴りに体勢を崩す。普段なら指が勝手に反応してガードを合わせられるはずの攻撃。
しかし今の蓮美には、レバーを正確に弾く余裕がほとんど残されていなかった。
(……集中、無理……!)
下腹部を襲うのは、もはや『尿意』という言葉では生ぬるい、焼けるような激痛だ。
鉄鬼の猛攻は、大学生たちのそれとは比較にならないほど重く、速い。
中下段の猛攻をガードするたびに、腹筋に反射的な力が入り、その衝撃が限界を超えた膀胱を容赦なく踏みにじり、じょっ…じょっ…とダムの隙間から水流が押し出されていく。
「おいおいどうした、うえはーす。いつものキレがないぞ~!」
対面から投げかけられる、鉄鬼の冷徹な声。
彼は気づいている。蓮美の動きが精彩を欠き、ガードが甘くなっていることに。
だが、その理由が『酒』ではなく、今まさに彼女の股間でダムが決壊寸前であることまでは、彼には知る由もなかった。
「……うる、さい……!」
蓮美は奥歯が砕けるほど噛み締め、声を絞り出した。だが、その一言で腹圧の堤防が緩んだ。
(あ……っ!)
――じわぁぁぁっ……
温かい、そして絶望的な感触。これまでの『小出し』とは明らかに違う量。
『 COUNTER !! 』
集中が完全に切れた一瞬。鉄鬼の放った攻撃が、蓮美のキャラクターを空中に打ち上げた。逃れられない空中コンボ。減り続ける体力ゲージ。
極限まで張り詰めていた緊張の糸も、プツンと、音を立てて切れていた。
それは、彼女の身体を縛っていた最後の呪縛さえも解き放ってしまった。
(…………。…………ぁ…………)
蛇口が完全に開いた。
座ったまま。
一度崩壊したダムは、もはや彼女の意志では完全には閉まらない。
彼女のプライドだった『うえはーす』の輝きが、不名誉な熱となって漏れ出していた。デニムのショートパンツがぐっしょりと重みを増し、太ももの隙間から零れ落ちていく熱い雫が、彼女の冷静さを根こそぎ奪い去っていく。
――K.O.!
画面を真っ赤に染める敗北の文字。地元最強の女王が、土をつけられた瞬間だった。
「よっしゃあぁぁぁ!!」
「鉄鬼が勝った! うえはーす様を破ったぞ!!」
反対側の筐体側では、鉄拳鬼と大学生たちが地鳴りのような大歓声に包まれている。
「マジかよ、今のコンボ!」
「鉄鬼さん最強だわ!」
喝采は全て勝利した王者へと向けられ、誰も敗者側など見ていない。
その熱狂の断絶の真ん中で、蓮美だけが、椅子に張り付いたまま動けず、項垂れていた。
ショートパンツの裾から、お尻側から。ビニールレザーの四角い座面が吸収しきれなかった大量の液体が。細い滝のように。無機質なタイルの床へと落ち続ける。
ピチャピチャピチャピチャ、と……
歓声の裏側で、自分にだけ聞こえる残酷な水音。
瞬く間に、蓮美の足元には、誰の目にも明らかな『女王のプライドの残骸』が、大きな水溜りとなって広がっていった。
「……ハスミ? 負けちゃったか。……よし、帰ろうぜ」
何も知らないシュウジが、背後からひょいと彼女の肩を叩いた。
その衝撃で、椅子に溜まっていた『それ』が、さらに床へ零れ落ちる。
「…………っ!」
「……ハスミ? どうしたんだよ、顔真っ青だぞ……え、……これ……?」
シュウジの視線が、蓮美の足元を捉えた。
黒いタイルを濡らし、スニーカーの底を浸している、広大な水溜りと、むわっとしたトイレの臭い…
そして、彼女のデニムのショートパンツが、椅子の座面が、濃く色を変えている惨状。
「…………え、……嘘だろ……?」
シュウジの声が、驚愕で凍りつく。
蓮美は、思わず顔を手で覆う。
「……漏らした」
「……え?」
「おしっこ……漏らした……」
震える、消え入りそうな声。
それは、配信で見せる凛とした声でも、ゲーセンでの強気な声でもなかった。ただの、怯えた幼い子供のような、掠れた、情けない響き。その声を出した瞬間、彼女の中で何かが完全に終わった。
瞳から溢れた涙が、足元の水溜りに落ちて波紋を作る。
「ごめん、シュウジ……店員さん、呼んできて……」
勝ち誇る宿敵側の歓声と、自分の足元に広がる隠しようのない水たまり。
完璧だった『うえはーす』の鎧は、今、彼女自身が生み出した熱い水たまりと共に、ゲーセンの汚れた床に溶け出して消えた。




