第8話 驟雨の七夕まつり
清水高校の月曜日1限目は、毎週、小試験がある。そして、それは、英、数、国と順繰りに、実施されていた。恐らく、本来であれば、HR等に割り当てられるべき時間なのであろうが、何故か、HRでは無く、学年一斉試験に、割り当てられていたのである。全く以って、とんでも無い学校である。従って、中間、期末以外に、主要3教科については、学期中に、3つか4つ、試験がある勘定になる。もとより、清水高校は、地元でも有数の進学校である。生徒も、各中学校のトップレベルが集まっている訳であるから、試験も生易しい内容では無かった。普通、高校の試験は、試験範囲を勉強していれば、8割方は取れる仕組みになっているそうである。角を矯めて牛を殺すとの理もある。生徒のやる気を削いでも意味が無い。然し、其れでは、各中学校のトップクラスを集めた集団では、差別化など出来無い。みんなが、満点を取る試験では、全く意味が無いのだ。従って、差別化が図れる様な試験問題と成って来る。要するに、難易度が極端に跳ね上がって来るのである。試験範囲についても、有って無い様な物だった。まず、範囲が極端に広い。例えば、英語なら、副読本の海外原書の1章。数学なら数Ⅰ問題集全部。あるいは、古文なら徒然草全部。と謂った様に、抑々、範囲自体が、やり切れる量などではない。要するに各教科の地力が試されるのだ。其の上、所謂、点取り問題が皆無なのである。50点満点の試験で、平均点が一桁などと謂うのは、粗なのだ。まあ、そう謂った意味では、教師陣が目指す差別化を図るという目的は、物の見事に達成されていた訳ではあるが、生徒達にして見れば、堪った物では無い。従って、試験勉強、其れ自体も、遣り様が無い量ではあったのだが、其れでも、遣らざるを得ない。兎に角、何も遣らないと、大変な事になる。其れはそうだ。普通に0点が有り得るのだ。元来は、勉強が出来るとされていた子供達である。0点などとは無縁な生活を送って来たに相違無い。彼らは斉しく、超難易度の試験の洗礼を受けるのである。そして、今週は英語の週だった。平均点は12・3。正太郎は7点、高志は18点、祐子は24点、敬介は3点、ひろみは11点、明彦は16点、いずなは26点、凛子が27点だった。全員、項垂れ乍ら、萎靡沈滞して、部室で黄昏ていた。ひろみががっくりして、呟く。
「ショックだわー。こんな点数見た事無いよ。もう、プライド、寸々だよ」
「本当だよ。いずな、45点未満の点数取った事が無いのに。ムキーッ。悔しい」
「いずなちゃんは、まだ良いよ。俺なんか3点だぞ。一番小さい素数だぞ。此の儘だと…。赤点だよ」
「いや、ケースケ。一番小さい素数は2だから…。未だ、大丈夫だ」
高志が、透かさず、敬介の誤謬を混ぜ返す。敬介は高志の悪い冗談に熱り立つ。
「何が、大丈夫だよ。ふざけえやがって!」
「俺だって、特進科の平均が18・1だったんだ。やべえよ」
明彦がぼやいた。高志も呟いた。
「そうだな。プライドを壊すのが目的かもな。俺だって初めてだよ。こんな点数は」
正太郎は、中学時代から、英語は、若干、苦手であった。
「でも、村木さんの話だと、一回でも平均点を越えれば、其の学期の赤点は、無いそうだよ。俺は其れに賭けるよ」
「まあ、すんだ事は、仕方が無いよ」
祐子が慰めた。それを機に自然と話題が逸れて行った。男子組がひそひそ話し始めた。高志が、興味深げに謂った。
「なあ、祐子ちゃんのブラのカップどれくらいだろ? 正太、教えろよ。俺の見立てだと、EかFだと思うんだが…」
「あのなあ、俺が知る訳、無いだろ」
高志がイタズラっ子の様な顔付きで、正太郎を更に問い詰める。
「だって、お前ら幼馴染だろ?」
「だったら、お前、幼馴染全員のブラのカップサイズを、把握してるのかよ?」
「ああ。大抵は」
高志がケロリとして答えた。
「お前、其のうち、絶対、逮捕されるぞ」
「大体、見て分かるだろ。まず、ひろみはB。いずなは大負けに負けてA。凛子はCかDだな。だが、祐子ちゃんレベルになると、最早、勘が利かねえ…。EかF位か…」
明彦が口を挟んだ。
「まあ、待て。俺の情報網に拠るとだな、Hらしい」
「情報網って何だよ。英語の点、悪りい癖に、そう謂う情報だけは、凄いのな」
「喧しい!」
明彦が赤くなり乍ら、吼える。
「だけど、Hって、上から何番目だよ。咄嗟に分かんねーぞ」
敬介が指を折って数え始めた。
「A、B、C、…H。8本折れたぞ。メンタンピン三色一盃口ドラドラと同じだ。親なら240だぞ」
「分かりにくいぞ」
わいわい謂っている処へ、凛子が話し掛けて来た。
「どうせ、あんた達、碌でも無い話をしてたんでしょう。だったら、ちょっと、知恵を貸しなさい」
「何だよ」
「A、B、Cの3人の男がいます。トランプの赤の札2枚と黒の札3枚があり、3人の背中に色が見える様に貼り付け、残った2枚は隠してしまいます。
其処で、A、B、Cの3人に質問。
『他の人の、背中のカードを見て、あなたの背中のカードの色は分かりますか?』
A:『分かりません』
B:『分かりません』
C:『A、Bが分からないのなら、僕の色は分かります』
扨、何故分かったのでしょう? そして何色だったのでしょう?」
「何だそりゃ?」
高志が謂った。ひろみが、口を挟む。
「凛子のクラスで流行っているそうよ」
「ふーん。まあ、全ての場合を、書き出してみようぜ」
『 A B C
①黒 黒 黒
②黒 赤 赤
③赤 黒 赤
④赤 赤 黒
⑤赤 黒 黒
⑥黒 赤 黒
⑦黒 黒 赤』
「で、此の内の赤が2枚使われるケース、即ち、②、③、④は、其の瞬間に分かるから、除外される。そうするとCが赤のケースが無くなるとか。ありゃ? 未だ、⑦が残ってるな」
高志がぶつぶつ謂っていると、突然、祐子が、ニッコリし乍ら、叫んだ。
「あっ。判った」
正太郎が、驚いて尋ねた。
「えっ。マジ?」
「うん」
正太郎が、思わず感心した。
「祐子ちゃん、本当に、斯う謂うの好きだなあ」
「うん。大好き」
祐子がニコニコし乍ら、答えた。正太郎が頭を捻り乍ら、呻吟する。
「問題は⑦なんだが…」
高志がニヤニヤし乍ら、続いた。
「どうでも良いわな、問題は⑦のケースだけなんだろ。此れさえ、クリアできれば、Cは無条件で黒と答えられる訳だ。実際⑦のケースを、やってみれば良いんじゃねーか? 丁度、A,B、C。三人揃っているし」
「?」
「えーと。Aがいずな。Bがひろみ。Cが凛子」
凛子が胡散臭げに、
「ちょっと、あんた、此の人選。他意は無いんでしょうね?」
「そんなん、決まってんだろ。おまえらのカップのサイズに…。ぎええ」
ひろみは高志の腕を、後ろ手に捻り上げながら、憤怒に燃える瞳で謂った。
「何てえ事、謂うのよ。此のおじゅたれ(おもらし)小僧」
「ムッキー。ひろみっち、此の無礼な小便小僧に、もう一発」
高志が、憤然と食って掛かる。
「あーっ、おめーら、謂っちゃあなんねえ事を、次々と」
「黙んなさいよ。此の女性の敵」
ひろみが、孫の手を振り回し乍ら謂った。凛子が、ぷりぷりし乍ら、
「人選変更! A高志、B正太、C敬介で、⑦のケースをシミュレート」
凛子が高志に尋ねた。
「他の人の色を見て、あなたの色は分かりますか?」
「分かんねーよ」
今度は、正太郎に同じ質問をした。
「分からないな」
最後に敬介に同じ質問をした。
「分かるぜ。赤だ」
敬介は、たちどころに回答した。
「?」
「すごい。ケースケ。何で分かったの?」
いずなが、感心して聞いた。
「だって、俺、赤、貼られるとこ、見てたもん」
「ムッキーッ。意味無いでしょ。ケースケ、交代! 此のおばかっち!」
「そんな。ひどいよ。いずなちゃん」
「人選変更。A眼鏡、Bゆうちん、Cひろみっちで、リスタート!」
今度はいずなが同じ質問を始めた。変化はBの祐子の処で起きた。
「他の人の色を見て、あなたの色は分かりますか?」
「えへへ。分かるよ。私の色は黒でーす」
「えっ」
みんなの驚きをよそに、祐子は背中のカードを剥がし乍ら、謂った。
「ほらね」
「何で?」
正太郎は胡乱げな表情で呟く。其の横で、敬介も感嘆する。
「なんで、祐子ちゃんが分かるの?」
「えへへ。内緒だよーだ」
「わかった」
突然、敬介が叫んだ。何事か閃いたらしい。祐子がニコニコし乍ら、正太郎に謂った。
「ほら、正ちゃん。敬介君も判ったみたいだよ」
其処で、敬介が得意気に自説を披露する。
「多分。祐子ちゃん。自分の下着の色、答えたんだ。他に考えられ無いだろ」
祐子は赤くなり乍ら、敬介説を却下する。
「全然、判って無い。私、黒の下着なんて持って無いもん」
いずなが真っ赤になって吼える。
「ムキーッ。ケースケ。真面目に考えろ!」
「だって、祐子ちゃんが判るのが、変じゃんか」
敬介がぼやいた。高志が横合いから口を出す。
「まあ、待て、敬介。此処は、論理的に考えよう。論理的に考えて、パンツの色でなければ可能性は、唯一つ、ブラの…ぷぎゃんっ」
「そんな、ブラも持ってない…。赤も黒も」
ひろみが孫の手で高志の頭を叩いた。
「あんたこそ、まじめに考えなさいよ。私も判ったわよ。確かに、⑦の場合、Bには自分の色が判るもの」
「うるせーな。答えなら、俺も、判ったよ」
「成程な。俺も…」
「ウッキーッ。そう謂う事か。いずなも判ったよ」
みんな次々と判っていく様だ。だが、正太郎には判らない。此の問題の肝は⑦の場合だけだ。此の場合、若し、判るとすれば、赤が2枚使われている時だけの筈なのだが、此の場合は、明らかに違う。祐子(B)から見た光景は、明彦(A)の黒と、敬介(C)の赤だけだ。自分の色の特定なぞ、出来る訳が無いのだ。だから、明彦(A)も判ら無いと謂ったではないか。
「あっ。そうか」
正太郎が、思わず、叫んだ。何か閃いた様である。祐子がニコニコし乍ら、問い掛けて来る。
「正ちゃん。判った?」
「漸く、判ったよ。見た情報だけでなく、明彦の情報も必要なんだ。明彦が判らないと謂ったから、判ったんだ」
祐子がうれしそうに叫んだ。
「正ちゃん。正解」
ひろみが、尋ねる。
「此れで、全員?」
敬介がぼやく。
「待ってよー。俺、未だ、判んないよー」
凛子がやれやれといった調子で謂った。
「しょうがないわね。いずな。後から教えて上げなさいよ。扨、今日は此の後、如何する? 赤灯台?」
「そうだな。折角、試験も終わった事だし。まあ、また来週もあるけどな」
「いずな。おなかすいたから、キャトル行きたい。キャトルでチーズケーキ食べたい」
「わかった。わかった。みんなもそれで良いか?」
誰も、異存は無かった。
「それじゃあ。30分後16時30分にキャトル集合な」
キャトルに先着したのは、正太郎、祐子、いずな、敬介、ひろみだった。ひろみが栗色の髪を掻きあげ乍ら、メニューを手に取る。
「先に頼んでましょ。私、ナポリタンとメロンのタルトにジャワティー」
「いずな。チーズケーキとアメリカン」
祐子が、正太郎の向かいの席に腰掛け謂った。
「私、モンブランといちごショートにメロンのタルトにアイスミルクティー。正ちゃんは?」
「俺、ブレンド」
敬介が、最後に、いずなの向かい側の席に腰掛けて、早速切り出した。
「俺、アイスコーヒーにいちごショート。さあ、約束だよ。いずな先生、先刻の問題、教えてよ」
そう謂うと、敬介はキラキラとした好奇心に満ちた瞳で、いずなを見つめた。いずなは、黒色のウェーブがかった髪を弄り乍ら、敬介に優し気な面持ちで解説する。
「もう。ケースケったら。あのね、⑦の場合、最後に正ちんが謂ったとおり、Bの人が判っちゃうんだよ。まず、Bから見て、見えているのは、A黒、C赤だけど、其の前にAが『判らない』って謂っているでしょ。であれば、Aから見て、B赤、C赤では無いって事でしょ?」
「あーっ」
「此の様に、⑦の場合もBの段階で判明してしまう。だから、Cまで分からない場合は、論理的に、Cの色は黒でしか有り得無い。尤も、A、B、C、三人には、此のクイズを解くだけの知的水準が、要求される訳だけど…」
敬介が、感心して、いずなを褒め称える。
「すごいや、いずなちゃん。先生と呼ばせてください」
「もう、いずなだけじゃないよ。みんなも分かってたもん。あっ。でも、ケースケ、地理は強いもんね。いずなも此の間、ケースケに助けられたもん。学校祭のクイズ大会」
いずなは、其の特徴的な八重歯で、ニコッと微笑むと、然り気無く、敬介のフォローを入れた。相変わらず、マイペースな様で、敬介への気配りを滲ませる。
「ところで、彼奴らは?」
いずなが、尋ねた。敬介が答えた。
「なんだか、蜂の巣が、如何の斯うの謂ってた」
其処へ、高志、明彦、凛子が遅れて入って来た。
「お、頼んだのか? 俺、ミルクセーキにチーズケーキ」
「私、アメリカンにブルーベリーのミルフィーユ。眼鏡は?」
「俺、レモンティー」
聞けば、明彦が、百葉箱の蜂の巣の駆除を頼まれて、他は手伝っていたらしい。
「刺されたりしなかった」
ひろみが、凛子に聞いた。
「大丈夫よ」
「然し、現実に蜂に刺されたって話って、聞いた事が無いわね。刺された事ある人って、いるのかしら?」
みんな首を振った。が、一人。高志が、
「俺、有るぜ。小1の時と中1の時」
ひろみが驚いた。
「2回も? 2回刺されると、やばいんじゃ無かったけか?」
「いや、小1の時はミツバチ。中1の時はアシナガバチ」
「何をやったの? また、どうせ、悪さをしてたんでしょ?」
「そんな訳あるか。小1の時は『蜂ごっこ』をやってたんだよ」
「蜂ごっこ?」
「何よ? 其の白地に怪しげなごっこ遊びは?」
凛子が訝しみ乍ら、胡散臭そうな目をしている。
「ああ、小学校に入学して1週間位した時の事なんだが、中庭で上級生が、女の子にハンカチを投げて遊んでいるんだ。女の子達が『きゃーきゃー』謂ってな。何かと思ったら、ハンカチで蜂をくるんで投げていたんだ。中庭にパンジーの花壇があったんだが、ミツバチが蜜を吸いに結構集まって来るんだ。其れを、ハンカチでそっと包み、女の子に投げるんだ」
「…」
「其れで、『此れは、面白い』ってんで、俺も参加したんだが、生憎と、ハンカチがねえ。で、仕方が無いから、素手でやったんだが…」
ひろみが呆れ乍ら、
「で、刺された訳? バカじゃないの。悪さ処の騒ぎじゃないじゃないの」
「でもよ、5回位成功したんだぜ。女の子達が、『きゃーきゃー』謂ってな。だけど、最後の1回は、投げようとした瞬間に、手の平に激痛が走って…」
凛子も呆れ乍ら謂った。
「呆れた。自業自得の見本みたいな話だわ。イソップ童話かなんかに、ありそうな話よね」
「いずな、知ってるよ。ミツバチさん、刺すと死んじゃうんだよ。高志。ミツバチさんに謝んなさいよ」
「ばかやろ。此方も死ぬ程、痛かったんだぞ。で、大泣きしている俺を、上級生が保健室へ連れてった。手の平にでっけえ針がくすがって(刺さって)いてな。でも、翌日、此の件が大問題になってな。全校集会が開かれ、校長先生が、『昨日、可愛い新1年生が蜂に刺されて、大怪我をしました。蜂ごっこは禁止にします』ってな」
ひろみもうんざりし乍ら謂った。
「かわいい1年生が、聞いて呆れるわね。100%加害者じゃないの。で、中1の時は何なのよ? 今度は、アシナガバチで蜂ごっこをしたの?」
「んな事するか。あの時は、野球部の部室の入口横にアシナガバチが、巣を作ってたんだ。で、危ないから駆除しようって事になったんだ」
「あら、今回は割りとまともね」
「でも、ただ駆除するだけじゃ、面白く無いってんで、参加者全員でじゃんけんして、一番負けた奴が一本づつ、計10本、巣に爆竹を差し込むって事になったんだ」
「…」
「で、爆竹が10本分、無事差し込まれたんだが、最後の点火者を決めるじゃんけんで、俺が一番負けて…」
ひろみが呆れ乍ら、
「で、刺された訳? バカじゃないの。駆除でもなんでも無いじゃないの」
「でもよ、点火には、無事成功して、蜂の巣は木っ端微塵になったんだぜ。だけど、怒った蜂に、左耳と右腕を、ブスーッと…」
「いずな、知ってるよ。アシナガバチってスズメバチの仲間なんだよ。巣を攻撃されると、凄く怒るんだよ。アシナガバチさんに謝んなさいよ」
「ふざけんな。ミツバチの時以上に、死ぬ程、痛かったんだぞ。お陰で、近所の病院に担ぎ込まれたし、其の後、全校集会が開かれて、駆除の際に、爆竹を使うのは禁止になったんだぞ」
敬介がニヤニヤし乍ら謂った。
「あくまでも、駆除と謂い張るのな」
凛子も同意した。
「呆れた。真面目に聞いて損した。両方とも、ただ、蜂にイタズラして、刺されただけじゃないの」
みんなでわいわい謂っている処へ、オーダーが届き始めた。高志が頼んだミルクセーキを見て、祐子が思い出した様に、謂った。
「そう謂えば、正ちゃん。お幼稚の時の『勇者ごっこ』、覚えてる?」
正太郎がニコニコし乍ら、無邪気に聞き返す。
「何かあったっけか?」
「何か、また、白地に、怪しげなごっこね」
凛子が呟くと、祐子が、徐に語り始めた。
「私と正ちゃん、同じ幼稚園のバス通園だったの。ほら、高校の裏手にある…」
「あー。知ってる。A幼稚園」
「それで、バス通園の園児は、バスの時間まで、お庭で遊んだり、教室で、積み木をしたり、ご本を読んだりして待ってたんだけど、或る日、教室の隅から異臭がしたの。そのうち、正ちゃんが、ミルクセーキの空き瓶を見つけて、でも、底に少しだけ残っていて、腐ってたのね、酷く強烈な臭いがするの。教室には7~8人残っていたんだけど、正ちゃんが、『みんなでじゃんけんをして、一番負けた人が勇者になって、臭いを嗅ごう』って、謂い出したの。其れで、みんな面白がって…」
「おー、思い出した。あれは、強烈な臭いだったもんなあ…」
「…」
「全部で10回位じゃんけんしたかな。私は2回負けたの。本当に酷い臭いで、何とか1回目は我慢出来たんだけど、2回目の時に、給食の直後だったもんで、一気に戻しちゃって、然も、其の拍子に壜を落として割っちゃたら、お部屋中に臭いが充満して、他のお友達も、4人位、一気に戻しちゃったの…。みんな、大泣きで、汚物まみれ。それで、勇者ごっこは禁止になったの。おかげで、私、未だにミルクセーキだけは飲めない…」
ひろみが、呆れた様に謂った。
「正太がバカなのは仕方無いとしても、祐子も大概よね」
正太郎が、憮然として反論する。
「えっ。俺? 俺は完全な被害者だろ。俺だってあれ以来、ミルクセーキは飲めなくなったんだぞ」
「抑々、あんたは元凶でしょ」
「いずな、知ってるよ。本当はミルクセーキ、とってもおいしいんだよ。今、高志が飲んでるけど…。正ちん。ゆーちんとミルクセーキさんに謝んなさいよ」
高志が真っ赤になって怒り心頭である。
「ふざけんなよ。いずな。俺に、何か恨みでもあるのか? まだ、半分以上、残っているんだぞ。何だか気持ち悪くなってきた…」
祐子が更に続けた。
「それに、正ちゃんのお母さんから聞いたよ。『電気分解救急搬送事件』の事」
「何、それ?」
と、ひろみ。凛子も呟いた。
「既に、タイトルからして、まともな事件では無さそうね」
「中2の春の或る土曜日。近所で消防車や救急車の音が聞こえたの、それで、見に行ったら、如何やら、正ちゃんの家らしいの。そうしたら、正ちゃんと江崎君がストレッチャーで救急車に乗せられて、其の儘、搬送されちゃったの」
高志が突っ込んだ。
「まーた、お前らか? 今度は何をした?」
「いや、水の電気分解を…」
「何で、水の電気分解で、救急搬送されなきゃならないんだよ?」
「江崎と水の電気分解をして、水素と酸素を作ってみようとしたんだよ」
「作って如何する?」
「混ぜて火をつけてみようって…」
「おまえなあ。それって、ガス爆発と同じだぞ。危ねえなあ。飛行船ヒンデンブルク号の事故知らねえのか? それで、消防車と救急車か?」
「いや、其処迄も至らなかった」
「?」
「最初、電気分解するのに家庭用の電源使ったんだ」
明彦が、訝り乍らも、突っ込んだ。
「おい、待て、待て、待て。あれって交流だぞ。電気分解なぞ、出来る筈が…」
「大型ビーカーに、水を準備して。テスター用のリード線を家庭用のコンセントに突っ込んで、もう一方のリード線を、反対側の穴に突っ込んだ。其の瞬間に感電した。※」
※良い子は絶対に真似しないで下さい。
高志が呆れ返った。
「当たり前だ!」
「コンセントから火花が噴くし、家のブレーカーも落ちるわで、お袋がかんかんに怒って飛び込んで来やがった。まあ、其の場はうまく誤魔化したけどな。それで、これじゃ危ないって事になって、俺の電気スタンドのコードをはさみで切って、先端を二つに裂いて、ビーカーに浸け、コンセントに差し込んだら、その瞬間にまた、感電した。※」
※良い子は絶対に真似しないで下さい。
「当たり前だ」
「また、ブレーカーが落ち、再び、お袋が飛び込んで来やがった。其の時も、うまく誤魔化したけどな」
「…」
「其処で、家庭用電源だとかなり危険である事に気がついた」
明彦が、呆れた様に謂った。
「抑々、交流電源で電気分解が出来無い事に気づけよ」
「…うるさい」
「其処で、江崎が、乾電池を使ったら如何かと謂い出した」
「おっ。漸く直流電源になったな」
「で、単1一個でやってみたんだがピクリともしねえ。更に、5個追加しても反応無しだ。其処で、俺は気がついた。実験の時には確か、電解質。つまり、水酸化ナトリウムを入れた筈だ。だが、一般家庭に、水酸化ナトリウムなんて置いて無い。が、食塩ならある。其処で、食塩を飽和状態にして試したら、今度は成功した。すごい勢いで気泡が出て来てな。でも、何かおかしい。微かに黄緑色の気体が激しく出ているし、何か、漂白剤みたいな臭いがして、其の気体を吸い込んだ瞬間、激しくむせて、騒ぎを聞きつけたおふくろが飛び込んで来て、消防署に通報した。と、言う訳さ。※」
※良い子も悪い子も、絶対に真似しないで下さい。
高志が訝しんだ。
「一体、何が出て来たんだ。-極はNa+とH+だから、えーっと、『貸そうかな、まああてにすんな、ひどすぎる借金』だから、水素だろ。+極はOH-とCl-。『昇竜の水は演習用』だから、あっ」
明彦が呟いた。
「塩素ガスか…」
「いずな、知ってるよ。塩素ガスは第一次大戦で使われた毒ガスだよ。食塩さんに謝んなさいよ」
「ふざけんな。いずな。俺だって死にかかったんだぞ。お陰で、うちの中学では、自宅での、水の電気分解は、禁止になっちまったんだぞ」
高志が呆れて謂った。
「抑々、自宅でそんな事する様な奴はいねーよ」
敬介が思い出した様に、謂った。
「そう謂う話なら、俺もあるぞ。中2の冬に蝮に咬まれた」
ひろみが謂った。
「あんたは何をやったのよ?」
「何も…。唯、其の日は午前中、学外勤労活動で、庵原の山で植林作業を手伝ったんだ。そうしたら、作業の終わり頃に、いみりのいった(ひびの入った)岩の下で冬眠している蝮を見つけたんだ。まだ、小さい奴だったんだが。それで、友達の杉田って奴が、家に持って帰るって、学生服のポケットに入れてたんだ。だけど、昼休みに、杉田が、『バスケやるから、預かってくれ』って…」
ひろみが突っ込んだ。
「分かった。其処で、あんたが『蛇ごっこ』を始めたんでしょ?」
「するか。高志じゃあるまいし…。ちゃんと、制服のポケット中に入れてたさ。冬眠もしてたしな。で、俺も杉田も昼休みが終わっても、蛇の事を忘れててな。でも、部屋も暖かく、ポケットの中だから、冬眠から覚めたんだろうな。そして、俺は帰る時、やけにポケットが重いもんで、何だろうと手を突っ込んだら、いきなり、がぶりと…」
「…」
「バカの見本みてーな話だな」
高志がニヤニヤし乍ら突っ込んだ。
「いずな、知ってるよ。冬眠明けの蝮はとても、気が立っているんだよ。ケースケ。蝮さんに謝んなさいよ」
「ひどいよ。いずなちゃん。危うく死に掛ったんだぞ。救急車で日赤まで運ばれて、抗毒素やら、血清を打たれて…。然も、うちの中学では蝮をポケットに入れるのは、禁止になったんだぞ」
「だから、そんな奴いねーだろ。普通」
みんなが、一斉に明彦を見た。明彦が動揺し乍ら。
「な、何だよ」
凛子がニヤニヤし乍ら、
「これだけ、続くと、あんたも絶対に何かやってるでしょ? サソリやタランチュラに刺されていたとしても、驚かないわ」
「バカ謂うな。おれは、品行方正だぞ。…ただ、小5の時、小学校の前の水路で、溺れかかった事がある。実は、小学校はひろみと同じだったんだ…」
「そう謂えば、眼鏡いたわね」
「学校の前の水路、普通のどぶより、一回り大きくて、高学年でも、ハイハイで進めるんだ。しかも、普段は水もなく乾いていたんで、良く秘密基地にしてたんだ。ある日、クラスの男子10人位で、寝転がってどぶ板の隙間から、上を眺めてたんだが、いきなり、プールの水が放水されて…」
「…」
「思い出した。私も歩いてたら、下から泣き声が聞こえて、直ぐ先生を呼んで、鉄柵をどけたら、ずぶ濡れの男の子達が泣き乍ら出て来て…」
敬介が聞いた。
「一体、何をしてたんだよ?」
「…謂いたく無い」
高志がニヤニヤし乍ら、謂った。
「まっ、想像はつくけどよ。如何せ、スカートの中でも、覗いていたんだろ?」
凛子があきれ乍ら謂った。
「品行方正が聞いて呆れるわね。悪質性で謂ったら、突出してるじゃないの」
「いずな、知ってるよ。斯う謂う行為は、刑法176条の、強制猥褻の罪に抵触するんだよ。眼鏡。早く警察に行って、謝って来なさいよ」
「ばかやろ。いずな。俺だって死に掛けたんだぞ。それに、もう時効だろ」
「いずな、知ってるよ。強制猥褻の罪は刑事訴訟法250条の2の4号に該当するから、公訴時効の年数は7年。まだ、時効は成立してないよ」
「ちょっと、待て。確か、強制猥褻罪って親告罪だったよな」
「いずな、知ってるよ。、刑法176条の親告罪規定は、撤廃されたよ。被害者の訴えがなくても、公訴可能だよ。だから、眼鏡。公訴されたらブタ箱行きだよ」
「うわー。マジか?」
凛子が、穏やかな笑みを浮かべ乍ら、
「いずな。其の辺で勘弁してあげて。眼鏡もいちごパフェ奢るって謂ってるし…」
「わかった。凛子っちがそう謂うのなら、勘弁する。って事で、いちごパフェ追加ねー」
「あら、じゃあ、被害者である私も、告訴取り下げの示談金と謂う事で、いちごパフェ追加ねー」
と、ひろみも続いた。さらに、凛子が、
「じゃあ、私も仲裁報酬と謂う事で、いちごパフェ追加ねー。祐子は如何する? 正太にゲロさせられたから、慰謝料代わりに奢ってもらったら?」
祐子もニコニコし乍ら、
「じゃあ。私もいちごパフェ追加ねー」
「なんで、小学校時代の事で、いずなに勘弁されなきゃ何ねーんだよ」
明彦が泣き声で謂った。正太郎も続く。
「俺だって、抑々、忘れていた様な話だぞ」
敬介が済まなそうに謂った。
「じゃあ、いずなちゃんの分は俺が出すよ。先刻、クイズの答え教えてもらったし…」
「わーい」
ひろみが、高志に、
「じゃあ、私の分。あんたが出しなさいよー」
「ふざけんなよ。俺は、全く関係ねーだろうに。何でだ」
「あんた、先刻、私の胸、触ったでしょ。学校祭で触っただけでは、飽き足らずに…」
「ばかやろ。あれは、親心だ。早く大きくなあれってな」
「何ですってえ。此のおたんこなす」
「分かった。分かった。奢るから」
凛子がウンザリとしたように、
「とにかく、あんた達は要注意人物って事は良く分かったわ。巻き添え食わない様にしよ」
酷くのどかな、夕暮れ時のあどけない話だった。
静岡市清水区では七夕祭りがある。新暦の7月上旬、街を挙げての七夕の飾り付けをして、七夕祭りが開催される。とは謂っても、7月上旬の事である。梅雨真っ只中の此の時期、当然と謂えば当然なのだが、毎年、此の祭りは、雨に祟られた。祭り期間中、晴天だった試しは無く、45年程前には、『七夕豪雨』という、此の地方一帯を、震撼させた大豪雨もあった位だ。それこそ、正太郎や祐子の家があった辺りは、昔、沼や池だった処の跡地であり、海抜0m地帯で、然も、堤防よりかなり低かった為、水害時には完全に水没してしまった地域でもあった。筆者も其の当時、其の地域に住んで居たが、水位が巴川の堤防を越えてから、家が水没する迄、30分と掛から無かったと記憶している。扨、正太郎たち一行も、七夕祭りに行くべく、部室に集合していた。高志が謂った。
「此れで、全員か? ありゃ、敬介と祐子ちゃんがいねーな?」
「あの二人なら、着替えてから来るって。清水駅前で待ち合わせ。17時に駅の前。西口の階段の処」
「了解」
「じゃあ、マックでも行って時間潰すか?」
「ああ」
マックの客席の一角に陣取って正太郎が心配そうに謂った。
「天気、大丈夫かな? 大分、雲行きが怪しくなって来たんだが…」
「あと、半日位なら、持つだろ」
高志が適当に返した。然し、正太郎が更に続けた。
「大体、何で、七夕を新暦でやるんだよ。抑々、『七夕』って謂ったら、秋の季語だぞ。其れを、毎年、此の時期に、其れも、梅雨の最中にやりやがって。此の辺りだって、山の方は旧暦でやってたよな」
「そうだったな」
高志が如何でも良い話柄に、如何でも良い風に答えた。凛子がひろみに囁いた。
「ねえ、ひろみ。正太なんだけど、何、熱くなっているの?」
「さあ、何でも、七夕祭りを新暦でやる事が気に入らないらしいの。ほら、あいつ、似非風流人、似非俳人だから」
「でも、いずなも、そう思うよ。いずな、小さい頃から見てたけど、晴れた試しが無いもん。おりひめ様とひこぼし様が、かわいそうだよ」
正太郎が、我が意を得たりとばかりに、熱演は続く。
「良く謂った、いずな。全く以って其のとおりなんだ。静岡市長も、こんな小さな少女の切なる願いを、もっと、汲むべきなんだ」
「ムッキー。いずな、小さいけど、正ちんと同学年だからね。ヴー」
「さあ、そろそろ、約束の時間よ。行きましょう」
約束の場所に、祐子と敬介が立っていた。敬介は青墨のしじら織りの甚平姿である。祐子は浴衣姿だった。瓶覗の地に白抜きの川柄、蝦色の縮緬帯に、藍錆色の桔梗をあしらった涼しげな図柄である。帯に団扇を差していた。いずなが謂った。
「うわー。きれい。ゆーちん。凄く素敵」
「ねえ。僕は?」
「うーん。ケースケは、田舎の小学生みたい」
「ひどいよ。いずなちゃん」
落胆する敬助を尻目に、ひろみが、目をきらきらさせて謂った。
「本当に良いなあ。私も着替えてから、来れば良かった」
凛子もすかさず同意する。
「本当よね。美しさが引き立つわね」
高志が上から覗き込む様に、謂った。
「なあ、祐子ちゃん。素朴な疑問なんだが、女性って、浴衣の時って、ブラつけないって、本当? ぐえぇっ」
ひろみが肘打ちを放ち乍ら叫ぶ。
「黙んなさいよ。此の助平!」
凛子が赤面し乍ら、謂った。
「迷信に決まっているでしょ。特に、私や祐子見たく、大きい子は、凹凸を無くす為に、かえって使うわよ…。って、何、謂わせんのよ、此のエロ眼鏡」
「お、俺?」
明彦が、唐突な矛先の変更に戸惑っている。其処で、高志が口を挟む。
「まあ、待て。概ね、状況は分かった。そうすると、凸凹の無い、いずなやひろみは着け無いと謂う事だな…。ぐえっ」
「着けるわよ。此のおたんこなす!」
「ムッカーッ、ひろみっち。其の無礼なおたんこナスに、もう一撃」
みんなで駅前銀座から飾り付けを見始めた。其の頃、正太郎が携帯を頻りに気にしていた。それを、見咎めた高志が声を潜めて謂った。
「よう、如何かしたか?」
「いや、先刻から、千春から、頻りにメールが来るんだ。相談したい事があるから、来てくれって」
「千春って、おまえの彼女の? 何だ? 約束でもしてたのか?」
「そんな事無いよ。メール自体、半年振り位だ」
高志は眉を顰めた。
「半年振りだって? メールがか? 約束はして無いんだろ? だったら、…断っちまえ」
「ああ、先刻から、『連れと一緒だから行け無い』って、メールしているんだが…」
然し、其の後も、千春からのメールが続いた。最後には、正太郎が根負けした。丁度、ひろみといずなが金魚すくいをしている。正太郎は高志にそっと、囁いた。
「高志。悪い。ちょっと、様子を見て来るよ」
「おい、止めといた方が、良いぞ。俺の勘では、碌な事になんねーぞ。大体、祐子ちゃんは、如何するつもりだよ?」
「祐子? そうだな、一応、祐子にも事情を説明しておくよ。彼奴も、千春の事なら、割と仲良かったから、知っている筈だし…」
「おい、ちょい待て。…おまえ、まさか、本気で気が付いて無いのか? 祐子ちゃんの事を?」
「…? 一体、何の事だ?」
「兎に角、早く行って来い。祐子ちゃんには、俺から事情を説明するから…」
「…?」
正太郎は足早に駅の方に向かった。高志は其の後姿を、煮え切らない想いで、苦々しく見送っていた。此の些細な寸劇に気が付いた者はいなかった。…祐子を除いては。祐子は、甚だ、勘の早い娘だった。概ね、事情は飲み込めていた様子ではあったが、其れでも、高志に尋ねた。
「正ちゃん…。如何かしたの?」
「ああ。いや。なんだか、中学時代の友達から電話が入ってな。ちょっと、席を外すって。あの、江崎って奴じゃねーかな?」
「…そう」
祐子は目に見えて、落胆した。其れはそうであろう。恋する女の子が、自らを着飾るのは、愛する男の為である。当然、今日の浴衣だって、正太郎に、正太郎だけに、見て欲しかったに相違無い。其れを、一同、全員が、了解していた。のみならず、一同、全員が、祐子と正太郎は、恰も、カップルの如く、遇していた。然し、『傍目八目』と謂う言葉もある。当事者である正太郎だけが、其れを理解していなかった。当事者である正太郎だけが、全く見えていなかったのである。高志は思った。祐子の此の様子からして、自分がついた姑息な工作は、全く、通用しなかったのであろう。更に、高志は考えた。半年間メール一つ遣さず、会おうともしない彼女は、果たして、彼女と呼べるものなのかと。高志は、クラス内での、彼らを見て来た。祐子の場合は明白である。いつも、正太郎に対して、好意を前面に出していた。正太郎の場合は、と謂うと、高志の眼から見れば、祐子と大同小異である。現に、クラスの大半は、二人は付き合っているとの認識を持っていた。高志は思っている事が、つい、口を衝いた。
「ったく。恋愛に関して、鈍感って、褒め言葉じゃ無いな。…罪悪だな」
悄然と、俯き加減で、隣を歩いていた祐子が呟く。
「…ううん。正ちゃんが悪い訳じゃないよ。私がもっとはっきりしておけば…。其れに、高志君にも嘘つかせちゃって。ごめんね…」
高志は其れには答えなかった。口をへの字にして、酷く不機嫌そうに歩いている。何も知らない、いずなとひろみが、楽しそうにやってきた。
「見て、ゆーちん。こんなに金魚取ったよ。あれ、正ちんは?」
「本当だ。正太は? 高志、一緒じゃなかったの?」
「…」
高志は答えない。への字口のまま、外方を向いている。祐子も無言の儘で、今にも泣き出しそうな顔をしている。いずなとひろみは、何時に無い二人の表情から、何が起きたかは分からぬ迄も、ある程度、事態を了解した。雲行きが怪しく成って来た。今にも、降り出しそうである。正太郎の行動と、祐子と高志の表情が、みんなの心に、滓の様に、陰鬱な影を落とした。自然と会話が途切れがちになった。頓て、誰とも無く、謂い出した。
「帰るか…」
誰も反対する者はいなかった。一同は無言の儘、駅に向かって歩き出した。会話は、全く、弾ま無かった。一、二度、敬介といずながくだらない冗談を飛ばしたものの、冷ややかな視線で封殺された。ボストンティーパーティーが迎える最初の危機だった。文字通り、瓦解の危機だった。みんな、誰もが謂いたい事を抱えていたに違いない。が、全員、悪い事に、沈黙を選択した。そして、更に、追い討ちを掛ける様な事が続いた。
それは駅前銀座の一本裏道の、路上での事だった。雲行きが急激に怪しくなり、西の方角には、何時しか、真っ黒な叢雲が幾重にも沸き立ち、一雨来る事が、略、確実に予想された。家路を急ぐ人達が駅に向かい始めた頃、とあるホテルの入り口から、派手な化粧をし、キャットアイサングラス、Tブラウスとショートパンツ姿でオープントウミュールを履いた千春が、そして、千春に手を引かれた正太郎が出て来た。其れは、祐子にとって、悪夢の様な邂逅であった。
「えっ」
まず、祐子が気付いた。そしてすぐに、千春も、祐子に気が付いた。そして、やや遅れて、正太郎も気が付いた。祐子と千春の距離は5メートル程だった。正太郎は、一瞬、祐子の顔を見た後、或る種の後ろめたさから来る感情であろう。すぐに、目を背けた。千春は敵意剥き出しの顔で、サングラスを跳ね上げると、祐子の方へ向かって来た。其れは、猫族の顔付きだった。雨がポツリ、ポツリと。頓て、堰を切った様に振り出した。祐子以外の一同は、当然、千春の顔は知らない。然し、瞬時に状況を理解した。そして、千春は祐子に、猛然と襲い掛かる。強烈な、言葉の爪と牙で…。
「あら、祐子おひさ。元気だった。あんた、地味子だったけど、彼氏でも出来たの? 浴衣なんか着てるけど、ブスな上にデブだから、いろいろ大変よねえ。まあ、取り敢えず、断食でも始めたら? じゃあね。ほら、行こうよ。正ちゃん!」
元来、祐子と千春は仲が悪い方では無かった。其れは、正太郎も知っている。でも、此の時ばかりは違った。其れは、悪意だった。紛れも無い、悪意だった。祐子は濡れた土瀝青に視線を落とし、小動物の様に、身を顰めて必死に悪意に耐えようとしていた。正太郎は咄嗟に、突如として嵐の様に巻き起こった此の出来事に、頭が付いて行か無かった。千春が見せた、祐子に対するむき出しの悪意に、隠伏しようとしない敵意に、掩蔽されない憎悪に、ただただ、慄然とし、ただただ、凝然として立ち尽くすのみであった。朴念仁である正太郎にも、千春の行動のトリガーも、何故、其れが祐子に向けられたのかも、朧気乍らも、理解は出来た。全ては俺の不覚だ。今にして思えば、心が命ずる儘に、祐子の許に駆けつけ、祐子を守るべきであった。何故、そうしなかったのだろう? 然し、出来無かった。瞬間的に頭の中は真っ白になり、そして、呆然と千春に手を引かれる儘に、足早に其処を立ち去ってしまった。振り返った時、一瞬だけ、瓶覗に藍錆色の桔梗をあしらった浴衣姿の祐子の、俯き乍ら佇む姿が目に入った。然し、正視に堪えず、思わず目を背けた。
正太郎は思う。あれから何年経とうとも、此の記憶だけは消え無い。恐らく、死ぬ迄、続く事であろう。記憶の中の祐子は、何時だって、酷く朧気で、儚げだった。蝦色の縮緬帯だけが妙に確りと、脳裏に焼付いているのが痛々しかった。そして、祐子の俤は歳とともに、セピア色の想い出の風景に溶け込んでいった。其れでも、祐子の其の時の表情だけは、何時迄も、鮮明に記憶に残っていた。そして、記憶の中の祐子は…。
いつも、俯いて泣いていた。
祐子は項垂れた儘に、必死に涙を堪えていた。然し、気がつけば、涙がほほを伝っているのをはっきりと感じた。
(駄目よ。駄目だよ。泣かないで祐子。泣けばみんなが心配する。堪えて。でも、正ちゃんは? 正ちゃんは何処にいるの? 何処に…?)
祐子は、懸命に、自分を励ました。然し、励ませば、励ます程、涙が溢れて来た。そして、涙は止まらない。頓て、嗚咽に変わって行った。時を同じくして、空も号泣し始めた。雨は、何時しか激しさを増し、梅雨明け切らぬ此の頃の癖で、雷鳴も轟き始めていた。
(大丈夫、私は、泣いていない。こらえて。堪えて。祐子。そうだ、雨だ。雨なら私の涙が流される。雨なら、私の涙はみんなから見えない。そう、だから、私は泣いてなんかいない!)
祐子にとって泣く事は、即ち、敗北だった。何故だか、そう思えた。負けたく無かった。例え、現実から目を逸らしてでも、事実を捻じ曲げてでも、負けたく無かった。祐子は天を仰いだ。雨は何時しか驟雨となっていた。神立に乗った激しい雨が、顔を打ちつけ続ける。
(そうだ、私は泣いてなんかいない! だけど、だけど…、正ちゃんは何処? 正ちゃん、私、泣いて無いよ。だから、褒めてよ。お願い! 優しい正ちゃんは、何処なの?)
祐子は狂える人の様に、懸命に、そして、フラフラと正太郎の姿を求め、彷徨い歩いた。此の様な沐雨櫛風の状況にあって、救いは正太郎其の人であった。然し、正太郎の姿は何処にも無い。祐子の体の何処かで、何かが壊れた。壊れる音が聞こえた様な気がした。ガラスが砕け散る様な音だった。何か良くない、非常に破滅的な物を予兆する様な音だった。内向的な、余りにも、内向的な少女が、何年も、何年も、何年も掛けて育んだ恋心が砕け散った瞬間だったのかもしれない。
「うわあーーーーああーー」
祐子は突然、絶叫した。それは、本能の赴く儘の慟哭だった。凡そ、理性ある人間の其れでは、無かった。
「いかん!」
明彦が血相を変えて叫び、いずなが金切り声をあげる。
「此方へ、アーケードの方へ!」
「ちょっと、祐子。行くよ。大丈夫だから」
凛子が左側から覆いかぶさるように肩を抱き、続いて、ひろみが、反対側から、声を嗄らして励ました。
「何やっているの! 祐子しっかりして。此方よ」
そして、いずなが背中から支えた。女子全員が、宛ら、母と訣別してわあわあと幼子の様に泣き叫ぶ祐子を、引きずる様に連れて行く。高志と敬介がタクシーを捕まえた。
「おい、此方だ!」
後部に凛子といずなと祐子が。そして、助手席にひろみが乗り込んだ。全員ずぶ濡れだった。凛子が、
「ひろみ、いずな、祐子の家、分かる?」
「多分」
「渋川橋へ」
祐子は未だ、激しく、泣き噦っていた。凛子が左隣から体を抱え、
「大丈夫だから。何の心配もいらないから」
と、懸命に励まし続けていた。いずなも、
「ムキーッ、ゆうちん、大丈夫だから。お願いだから、泣かないで」
「渋川橋東の交差点を左に、そして、渋川橋の袂を左折してください」
いずなは、泣き噦る祐子の手を確りと握り締め乍ら、車窓から、漆黒の暗闇が続く、荒れ狂った景色を眺めていた。本来であれば、1年に1度だけ、天の川に架かると謂われる、烏鵲による架け橋も、此の荒れ狂った天気の許では望むべくも無いであろう。相変わらず、雷鳴が引切り無しに轟いている。嵐が治まる気配は、まるで無い。祐子の仄かな思いが打ち砕かれ、そして、彼女の人生最悪の、清水七夕祭りの夜の出来事であった。
突如として瓦解の危機を迎えるボストンティーパーティー。誰もが諍いなど求めていないのに。清水の夏の風物詩、牧歌的な行事である、巴川灯篭流しを舞台に繰り広げられる青春群像劇。正太郎と祐子の恋の行方は? 破局か、はたまた、R18突入か? 次回、『第9話 立葵の天辺の蕾が花開く頃』。乞うご期待。




