第7話 百鬼夜行と七転八倒 (学校祭へ行こう【後編】)
其の日、祐子は朝6時30分頃に起床した。いつも、早寝早起きである祐子にしては、随分と遅い起床である。いつもであれば、5時頃起床して、愛犬であるラブラドールレトリバーのペスを連れて、朝の散歩に行くのであったが、其の日は、起きられなかった。朝、何度かペスが鼻を擦り付けて起こそうとしたにも拘らず、である。実は、前日、学校祭初日の余韻で、祐子、正太郎共に、帰宅してからも、夜遅くまでメールのやり取りをしていたのだった。祐子にしてみれば、いや、正太郎にしてもなのだが、嘸や、胸の高鳴るひと時であったであろう。勿論、お互いに告白する様な展開迄には、至らなかったものの、正太郎の方から、明日7時30分に渋川橋東交差点で待ち合わせする事と、明日も一緒に、展示を見て回る事を提案されたのだ。当然、祐子に、否やは無かった。斯くして、祐子は眠れない夜を迎えたのであった。眠れない夜、と謂う点に於いては、正太郎も同様であった。いや、寧ろ、正太郎の方が甚だしかったのかもしれない。正太郎は清水高校入学以来、祐子との距離感は急速に縮まっていたが、正太郎にとっての祐子は、信頼の出来る異性の友達という位置付けであった。然し、先日の桜ヶ丘公園への散歩、竜爪山登山、そして、昨日の学校祭と、明らかに友達以上の感情を持ち始めていた。必要以上に祐子を意識する状況が頓に増えてきていた。つまり、恋愛感情に至り始めていたのだ。此処で、心配性の読者の為に明確にしておこう。正太郎は、昨年の十二月の段階で、千春と別れている。と謂うより、一方的に振られてしまっていた。今にして思えば、千春も何の為に告白したのか、分からない位である。恐らくは、佳境に入って来た、高校受験のプレッシャーの産物であろうか。はたまた、子供っぽい恋愛感情の延長であったのであろうか。まあ、抑々、千春の告白自体が、とある出来事の連鎖反応的副産物であり、此れには、千春にも大いに同情の余地があるのだが、何れに、二人の関係は終焉を迎えていた。一度のデートも無く、手を繋ぐ事も無く、唯、クラスと部活で顔を合わせるだけに過ぎず、3ヵ月後に振られる。それでも、付き合っていたという既成事実だけは残る。元来、異性に対しては極めて臆病な正太郎である。此の経験が、彼のATフィールドを。必要以上に強固な物にしていた。そして、祐子に対しては、恐らく、以下の二つの理由によって、踏み込め無かったのであろう。一つは、最近迄、彼女が居たにも関わらず、すぐに別の人を好きになってはいけないと謂う、童貞君特有の固定観念。そして、二つ目は、祐子に振られたら如何しようと謂う、極々、ありふれた、自然な感情である。正太郎は幼稚園にあがる前から、祐子を良く知っている。祐子は、基本、誰に対しても優しく丁寧である。正太郎には、祐子の自分に対する優しさが、特別な物には感じられ無かった。祐子は昔から、正太郎にはこんな感じであった。随分と、陳腐な例えではあるが、丁度、空気の有難味を意識出来無い様な物である。だから、正太郎が性急に告白して、万一、祐子に距離を置かれたらと思うと、恐ろしくて行動出来無かったのだ。また、其れ程迄に、今の関係は居心地が良かった。最近の祐子との関係は、極めて自然体であったし、それが、彼には、或る種の安らぎを与えていたのは、間違い無い。此の儘、今の関係を維持出来れば、正太郎には何の不満も無かった。尤も、多少の居心地の悪さは実感している。例えば、手を繋ぎたくても謂えない、時折、祐子の事が狂おしい迄に愛おしくなる。
(世間一般では、其の感情は恋と呼ばれている)
或るいは、祐子が他の異性と話していると、例え、それが高志であっても、何だか面白く無い。
(世間一般では、其の感情はやきもちと呼ばれている)
或るいは、時々、祐子の異性を、主に胸だが、妙に意識してしまう。
(世間一般では、其の感情は性衝動と呼ばれている)
と謂った、以前には無かった不思議な衝動やら、感情に悩まされる事がある。恋を知らない正太郎にとっては、不思議としか謂い様の無い感情ではあるが、それを除けば、順風満帆な高校生ライフを楽しんでいたと謂えよう。とまれ、今日は学校祭二日目である。正太郎は麦の秋風そよ吹く、陽光の溢れる中へ、胸を躍らせて待ち合わせの渋川橋東交差点に向かって、軽快なステップを刻み乍ら、家を飛び出して行ったのだった。
寝不足だったのは、いずなと敬介も同じである。いずなは、一見、自由奔放で無邪気に見える行動とは裏腹に、ボストンティーパーティーのメンバーとも、微妙に距離を置いていた。小中学校時代に、想像を絶する孤独を味わったいずなにとって、ボストンティーパーティーのメンバーは非常に居心地の良い仲間達ではあったが、其れでも、いつかは目の前を通り過ぎて行く旅人なのでは、と謂う疑念が、常にあった。従って、メンバーの中でもメールを送った事があるのは、祐子と正太郎だけに留まる。尤も、其れも、最初の入学式の時と、竜爪山遭難の時であり、其の時は、祐子のメールによる一報を受け、仰天したいずなは、折り返し、祐子と正太郎にバッテリーの残量を確認した後、いずなは他のメンバーにラインで呼びかけ、二人に声援を送り続けたのだった。みんなからの声援は、どれだけ、遭難中の二人を勇気づけ、無聊を慰めたか分からない。
閑話休題。敬介がいずなにメールを送ったのは、昨日が初めてである。いずなからは一度も無い。然し、いずなは帰宅後すぐ、敬介にメールを送った。いずなは、今日の感激と感謝を、記録に残しておきたかったのだ。いずなは、今日一緒に回ってくれた事のお礼を述べ、そして、一緒に回って、とても楽しかった事、クイズ大会で敬介にとても助けられた事、残念会を催してくれて、とても嬉しかった事を細々と認め、最後に、此れからも良い友達でいて欲しいと結んでいた。其れに対して、敬介の返事は直ぐに来た。いずなが驚く程の早さと量である。敬介は、今日いずなと、二人で回れて、とても嬉しかった事、クイズ大会でのいずなは、とても格好良かった事、負けて残念だった事、落ち込むいずなを元気付けて上げたかった事、手を繋いで歩いたのがとてもドキドキした事、そして、明日も楽しみである事、最後に、いずなからメールが初めて来て、とても嬉しかった事と、今後もこうしてメールを送ってもいいかな? と、遠慮勝ちに締め括られていた。いずなは、涙乍らに、思わず携帯を抱きしめていた。初夏の夜風が、いずなの寝室に爽やかに流れ込んで来た。
(ありがとう。とびっきりに優しい、私の初めての、本当の異性のお友達)
いずなは、喜んですぐに応諾した。そして、其れから、夜更けまで10通以上のメールが、清水の街の夜空を飛び交ったのだ。何もメールに認める様な物では無く、他愛も無い内容ばかりではあったが、敬介は天にも昇る様な心持だったに相違無い。そして、明日の再会を約束し、其の夜を締めたのだった。
7時20分過ぎ、祐子は約束どおり、渋川橋東の交差点で待っていた。誰が植えたのか、道端の紫陽花が、遠慮がちな色彩で咲き乱れている。26分頃、小躍りする様な正太郎が、家から飛び出して来て、ポテッとした体型の祐子を見つけると、手を振り乍ら声を掛けた。
「祐子ちゃーん。おはよう」
「あっ正ちゃん、おはよう。よく、眠れた?」
「ううん。ちょっと寝不足。昨日、なかなか、寝付けなくて」
「えっ、正ちゃんも? 実は私も。…昨日遅くまで、メールしちゃったもんね」
「うん、祐子ちゃんの事考えていたら、寝付けなくて…」
「あー、ひどい、私のせいにして…」
「ごめんね。さあ、行こうか。今日も楽しみだね」
祐子は、とびっきりに輝く様な笑顔で頷いた。
「うん」
二人は、紫陽花の薄い色合いの花が美しい、いつもの通学路を、学校に向かって歩き出した。
其の頃、部室では、高志、明彦、ひろみ、凛子が、他のメンバーの到着を待っていた。真っ先に飛び込んで来たのは、昨日の帰り際とは打って変わって、ご機嫌ないずなだった。
「ムッキーッ、おっはよー」
「えっ、いずな。…おはよう」
ひろみは、余りにも普段どおりのいずなに驚いた。凛子も心配そうに謂った。
「ちょっと、あんた、大丈夫なの?」
「…?」
ひろみも、心配そうに口を挟む。
「だって、昨日、帰り際、元気無かったし…。昨日、凛子と二人でメールを出そうとしたのよ。…高志に止められたけど」
「当たり前だろ。敬介がついてんだ。俺達が出る幕なんぞ無いだろ」
「でも、いずな、何か心配事があったら相談してよね。仲間でしょ」
と、ひろみが謂えば、凛子も続く。
「本当よ。昨日のあんたの様子は、只事じゃ無かったわよ。力には成れないかもしれないけど、謂ってくれないと、友達面してられないわよ。ねえ、明彦」
「ああ、元気が無い、いずなは、いずなじゃないぜ。いずなは、ボストンティーパーティーのムードメーカーだからな」
いずなは、みんなの顔を見回した。みんな優しく、そして、温かく頼もしい仲間達である。目頭に熱い物が込み上げて来た。いずなは、懸命に、涙を堪えると謂った。
「本当に、ありがとう。でも、朝からみんなで泣かせるのは、反則だよ」
いずなは涙を拭うと、みんなに謂った。
「もう、大丈夫だよ。本当に、ありがとうね。みんな」
それを聞いたみんなは安堵し、にこやかな表情を浮かべた。いずなは、周囲から拒絶されていた、辛く悲しい小中学時代が思い出された。全く、何と謂う違いだろう。
(ケースケだけじゃない。私、みんなと距離を置く事なんて、絶対に出来無い)
いずなは、生まれて初めて、家庭以外で居場所を見つけた様な気がした。頓て、欠伸をし乍ら、敬介が入って来た。いずなのべそをかいたような顔を見咎めて、心配そうに声を掛けた。
「おーっす、あれ、いずなちゃん。如何かしたの?」
「如何もしてないよ。もう、ケースケが遅いから、心配してたんだよ。あれ、そう謂えば、ゆうちんと正ちんも、未だ来て無い」
敬介が答える。
「ああ、正太達なら、先刻、下駄箱の処で会ったよ。もうすぐ来ると思う。何か、二人とも、凄く良い雰囲気だったぞ」
凛子が思い出した様に、
「そう謂えば、昨日、あの子達、清水駅前を歩いていたわよ。仲良く手を繋いでマックに入って行くのを見たわよ」
ひろみが流眄でニヤニヤし乍ら、凛子の話を聞き入っている。
「へー、祐子たちがね。あの晩熟コンビが、なかなかやるじゃない」
すぐさま、正太郎と祐子が入って来た。
「うーっす」
「あっ、みんな、おはよう」
高志がニヤニヤし乍ら、早速、茶々を入れる。
「おっ、来たな。聞いたぜ、正の字。昨日駅前を、手を繋いで、二人で歩いていたんだってな」
「えっ、いやっ、何かの見間違いじゃ…」
「照れるな、照れるな。駅前のホテルに入って行くのを見た奴がいるんだよ」
正太郎は顔を真っ赤にして答えた。
「えっ、いっ、行ってねーよ。そんな所」
凛子がすかさず聞き咎めて、窘める。
「こら、私はそんな事、謂って無いでしょ。マックに入るのを、見たって謂っただけで…」
「まったく、もう、高志君は」
祐子も、真っ赤になりつつも、高志を咎める。然し、祐子は咎め乍らも思った。やっぱり、正ちゃんとの事を囃されると、ちょっと嬉しい。だが、素知らぬ顔で提案した。
「ねえ、今日は何処まわる? とりあえず、みんなでまわらない?」
「えっ、私はいいけど」
ひろみが驚いて謂った。横から、いずなも続く。
「そうだよね。最初はみんなでまわっても。ねえ、ケースケ、いいでしょ?」
「勿論だよ」
「凛子たちは?」
「私達も、そうねえ、明彦かまわないでしょ?」
「ああ」
「ムッキイ、じゃあ、決定ね。何処から行こうか?」
凛子がプログラムを見乍ら、
「そうね。9時から茶道部がお茶会をやるって」
「ムッキー、じゃあそれで決定。わあい、お抹茶だあ」
一向はぞろぞろと茶道部の教室へ向かったのであった。
突然、敬介が素っ頓狂な声を上げた。
「あれ、お化け屋敷が閉鎖になってる」
「あ、本当だ。如何したんだろ?」
祐子が訝しむ。いずなはキーキー声を上げる。
「ウキー、当然だよ。あんなセクハラ屋敷。でも、一体、如何したんだろ?」
高志がニヤニヤし乍ら、
「あれじゃねーか。おっぱいを触ったり、揉んだりしてたのがばれて、当局の手入れを食ったんじゃねーか? 余りにも、悪辣で、えげつないってんで」
ひろみが膠も無く吐き捨てた。
「抑々、おっぱい触ったのも、揉んだのも、あんただったけどね」
高志が慌てて、沈静化に走る。
「あのう、ひろみさーん。もうしませんから」
「当たり前でしょ。今度やったら、本気で顎、砕きに行くからね」
そのやり取りを、後ろで聞いていた正太郎は祐子に囁いた。
「ねえ、祐子ちゃん。高志とひろみ、すごく雰囲気良いよね」
祐子もニコニコし乍ら頷く。
「うん。本当だね。すごく良いよね」
高志が怒りの形相で、後ろを振り返り乍ら、叫んだ。
「何処がだよ。今度、おっぱい触ったら、顎を粉砕するって、予告してやがるんだぞ。俺は如何すればいいんだよ」
「触らなきゃいいんじゃないのか?」
「そうはいくか。お前だって、祐子ちゃんの胸を触ってみたいって、思ったことが、一度も無いって事は無いだろ?」
「そりゃ、まあ…」
そう謂うと、正太郎はちらりと隣にいる祐子の大き過ぎる胸元を見つめた。すぐさま、祐子は両腕で胸元を隠すと、
「もう、正ちゃんのエッチ。何処見ているのよ?」
「…あっ、ごめん。…こら、高志、お前が詰まんねー事、謂うから、祐子に怒られちまったじゃねーか」
「でもよ、これこそ、男のロマンだろ。あいててて…」
ひろみが高志の耳たぶを引っ張りあげ乍ら、
「なーに、バカな事ほざいてんの。人様に迷惑掛けてんじゃ無いわよ。さっさと行くわよ」
「あいたたた…」
高志はひろみに耳を引っ張られて、スタスタと行ってしまったが、正太郎は、自らの視線の置き所に困る様になってしまった。元来、女性に対して極めて内向的である正太郎は、例え、祐子であっても、まともに眼を見て、話をしたりは出来無かった。視線を少し外して、首だったり、胸だったりを見乍ら話をしていたのだが、それも、妙に意識してしまうようになってしまった。隣を見れば祐子がいるのに、見るに見れなくなってしまったのだ。思えば、祐子とは幼稚園に上がる前からの付き合いである。当然、一緒に手を繋いで歩いた事もある。小学校低学年位までは、そうして、学校に行っていたし、祐子の家で、何度か一緒にお風呂に入った事もあった。勿論、胸などは今みたく膨らんではいなかったが、異性として意識した事など、まるで無かった。或る意味、昨日のクイズ大会ですら、異性としての意識ではなく、幼馴染としての意識であったかもしれなかった。然し、今、はっきりと分かった。祐子の事が愛おしいと。正太郎は、祐子を女性として、初めて意識したのだった。
「正ちゃん、如何かしたの?」
「えっ、いや、何でも無いよ」
正太郎は、顔を赤らめ乍ら、多少、吃音つつ、答える。
「そう、…変なの」
ポッチャリとした祐子は首を傾げ乍ら、ニコニコして応じた。まるで、正太郎の狼狽えの原因を、見透かしているかの様であった。
茶道部の展示は校舎3階の教室であった。六畳の畳を敷き詰め、即席の茶室が設えてあり、中には二人程の先客がいた。いずなが部屋に入るなり声を上げた。
「あっ、でこぼこコンビだ」
六助と一平である。六助が憮然として、反発する。
「誰がでこぼこだ」
高志が尋ねた。
「お前らは、何やってんだよ」
「いや、お化け屋敷に行ったんだが、閉鎖されていてな…」
六助が答える。高志が六助に聞いた。
「おお、それだ。何で閉鎖されたんだよ。一体全体、何があった」
「ああ、何でも、怪我人が続出したらしい。何でも、怒った姉ちゃんに、噛み付かれて、引っ掻かれた奴や…」
敬介が素っ頓狂な声を上げる。
「あっ、それ、いずなちゃんだ」
「ムキーッ、何、失礼な事、謂ってんの、ケースケ。胸とお尻触られたんだよ」
いずなが、真っ赤になって反論するが、すかさず、六助が突っ込む。
「胸なんて、ねーじゃねーか」
「ムッカーッ、六助、失礼。それに、引っ掻いたんじゃないよ。あれは、南斗水鳥拳だよ」
「なーにが、南斗水鳥拳だ。他にも往復ビンタ食らった奴や…」
明彦が声を上げる。
「あっ、凛子さんだ」
「何、謂ってんのよ。此方は、胸、触られたのよ。それにあれは、北斗残悔拳よ」
「あと、体当たりされた奴とか…」
正太郎が困惑した様な顔で、祐子に話し掛ける。
「祐子ちゃん、確か、体当たりして逃げてったよね」
祐子が澄まして答える。
「違うよ、あれは蒙古覇極道だよ」
「あと、極めつけ。『何てえ事すんのよ。』とか、謂い乍ら、正拳突きを入れて、逃げてった奴…。やられた先輩は完全失神KOで、後ろに倒れて後頭部を強打したって話だぞ」
ひろみが気色ばむ。
「何、謂ってんのよ。此方は、胸、揉まれたのよ」
「でも、触ったのも、揉んだのも、高志なんだろ」
正太郎が突っ込む。
「うるさいわね。それに、あれは、唯の北斗残悔積歩拳よ」
「って、結局、全部おめーらの仕業かあ」
ひろみが憤然として、六助に食って掛かる。
「何よ、此方は、胸揉まれたのよ。それも、かなり、執拗に。挙句の果てに乳首まで摘まれたんだから」
「だから、高志だろ、それ」
ニヤニヤし乍ら突っ込みを入れる正太郎に対し、慌てて事態の収拾を図る高志。
「まあまあ、正太、其の件はだな、内密に。と謂うか、余り、蒸し返さ無い様に…」
「それじゃあな。あんまり、3年生をいじめるなよ」
そう謂うと、六助と一平は去って行った。
「ムッキー、でこぼこブラザーズ、謂いたい事だけ謂って、行っちゃった」
ボストンティーパーティーの面々は、茶道部の茶室を出た。ひろみが伸びをし乍ら謂った。
「扨と、次は何処に行こうか?」
矢庭に、祐子が、ニコニコしながら、フラフラと隣の教室に入って行った。凛子が訝り乍ら、謂った。
「書道部?」
「書初め大会だって」
いずなもニコニコし乍ら謂った。ひろみも、楽しそうに続く。
「面白そうね、参加してみようか?」
書初め大会は参加費5百円で、書初め用半紙に漢字4文字熟語を書くといったものだった。但し、漢数字の入った熟語でなければならない、というルールである。凛子がみんなに聞いた。
「誰か、字が上手い人いたっけか?」
「うーん。ゆうちんが上手だよ」
「うん、祐子ちゃん、すごく達筆だよ」
正太郎も請け合う。然し、祐子は首を縦に振らない。
「私、斯う謂うの、恥ずかしいし…。凛子ちゃん、上手でしょ」
「ちょっと、祐子。適当な事、謂わないの。いずなは?」
「ムキー、何、謂うの凛子っち。いずなはお習字は苦手で…」
「ちっ、仕方ねえな。俺がやろう」
高志が、財布から五百円を取り出し乍ら、宣言する。凛子が、甚だ疑わしげな眼差しで、祐子に小声で、尋ねる。
「ねえ、高志って字が上手いの?」
「私の口からは何とも…」
咄嗟に祐子が口篭る。横合いから正太郎が、ニヤニヤして謂い添える。
「蚯蚓が酔っ払って、のたくった様な字だよ」
明彦も不安気な表情で、横から続く。
「おい、何だか、地雷臭しか、しないんだが…」
「喧しい! あれ、何だ。まーた、お前らか」
見ると、目の前の設えた畳の上に、でこぼこコンビの一平が殊勝らしく正座している。傍らにいる六助が代わりに答えた。
「ノッポ君が書初め大会に出場するんだよ。お前こそ如何したんだ?」
「俺が出るんだよ」
高志が鼻息荒く答える。
「お前が? あの字でか? …其れは、随分と度胸があるなあ」
「喧しい。お前らこそ、一体、何なんだよ」
「だーから、一平が出るんだってば。昨日も、謂ったろ。あいつ、書道五段なんだよ。…一応」
「そういや、昨日、そんな譫ほざいていたな。ありゃあ、冗談じゃ無かったのか?」
祐子が横から口を出した。
「本当だよ。一平君のお母さん、書道の先生なの。私や、正ちゃんや六助君や康代ちゃん、小さい頃、一平君の処の書道そろばん教室通っていたもの。一平君、すごく字が上手なんだよ」
「へー、人は見かけに依らん物だな」
黙って目を瞑っていた一平が、突然、くわっと目を開いたかと思うと、書初め用半紙に、さらさらさらっと一気に書き上げた。
「確かに上手よね。でも、何これ?」
凛子が呟く。
『犬も歩けば棒に当る』
六助が真っ赤になって吼える。
「だーっ、テメエ、何やってんだ。いろはカルタじゃねーんだぞ。数字も入ってねーし」
「あっ、そうか」
「そうかじゃねえだろ。真面目にやれ」
高志が、横から、腹を抱え乍ら、
「だったら『泣きっ面に蜂』なら、いいんじゃねーの。8が入っているし…」
「おう、それだ」
そう謂うと、一平はさらさらさらっと書き上げた。
『泣きっ面に八』
「わーっ、また、てめーは。抑々、ルール分かってんのか?」
「だから、数字を入れた」
「数字を入れればいいってもんじゃねーぞ。大体、四文字熟語じゃねえだろ。いー加減、いろはカルタから離れろよ。二枚も無駄にしやがって…」
「あっ、そうか…。でも、俺、平仮名の方が好きなんだよなあ…」
高志が腹を抱えて、のたうっている。ひろみが声を掛けた。
「さあ、あんたも、いつまでも笑ってないで、そろそろ書きなさいよ」
「おう、そうだな」
高志が半紙に向かい、さらさらさらっと書き上げた。
『一期一会』
凛子が呆れ乍ら謂った。
「お題は兎も角、汚い字ね。本当に、蚯蚓が頭打って、のたくった様な字ね。抑々、此れで、良く出ようと思ったわね。…度胸が有るというか、何も考えて無いと謂うか…」
「ムッキー、本当に、物の見事に金釘流だねー。書体に、人間性が滲み出ているよね」
「やかましい。滅茶苦茶、謂いやがって。くそー」
ひろみが、高志を庇う様に謂った。
「もう…。ちょっと、練習しなさいよ」
一方、一平は気持ちを切り替え書き上げたのが、
『五十歩百歩』
正太郎がニヤニヤし乍ら、
「惜しい。五文字だ」
「あーっ」
続いて、
『一日一膳』
「おー、漸く、完成だな」
六助がほっとして歓声をあげたが、祐子が顔を赤らめ乍ら、遠慮がちに指摘する。
「でも、六助君。字が違っているよ。善の字は、にくづきがいらないよ」
六助がすかさず、吼える。
「あーっ。何やってんだ。てめーは。断食ダイエットじゃねーんだぞ。あと、一枚しか無いぞ」
一方、高志の方は、二枚練習したものの、一向にうまく書けず、業を煮やしたひろみが、
「もう。全然、上手にならないじゃないの。ちょっと、どきなさい。あたしが書くから」
ひろみが、さらさらさらっと書き上げた。
「どうよ」
『切磋琢磨』
高志がしげしげと見乍ら、
「如何って、確かにうまいけど、数字は?」
「あっ」
高志がニヤニヤし乍ら、
「何だ。ひろみも一平と同レベルって事だな」
「何よ。ちゃんと七が入っているでしょ。切という字に。…駄目かな」
「ばかやろう。駄目に決まってるだろう。大喜利やってんじゃねーんだぞ」
「うるさいわね、もう。まだ、一枚あるわよ」
「お題は如何するんだよ?」
「『百戦練磨』。これしかないでしょ」
「また、難しいお題を…」
然し、此の直後、悲劇は起こったのだ。勢い良く書き始めたひろみの後ろで、いずなと祐子が『どろろ』の話で盛り上がっていたのだが、つられたひろみが『百鬼』とかいてしまった。高志が狼狽える。
「あーっ、何やってんだよ」
「百鬼丸様の事を考えていたら、つい…。如何しよう」
「なーにが、百鬼丸様だ。よーし、こうなったら…」
高志はそう謂うと、そっとひろみに耳打ちした。ひろみは頷くと、さらさらっと続きを書いた。
『百鬼夜行』
凛子が眉間に皺を寄せて、
「確かに、豪快で、其れでいて、上手だし、四文字熟語だし、数字も入っているけど…」
明彦が、呆れ乍ら謂った。
「新年早々、こんな書初めのお題は無えだろ。早速、地雷を踏み抜きやがったな…」
「う、うるさいわね」
然し、いずながニヤニヤし乍ら、
「ムッキーッ、でも、隣も何かすごい事になってるよ」
『七転八倒』
正太郎が腹を抱えて笑っている。高志が驚いて叫ぶ。
「一体、何が起きたんだ」
祐子が困った様な顔で謂った。
「一平君。本当は『七転八起』って書こうとしたの、でも、起の字が分からなくなって、そうしたら、六助君がにんべんに到着の到だって…」
「どはははは、やっぱり、良いコンビだぜ。お前ら」
「やかましい。ちょっと、勘違いしただけじゃねーか。それに、確か一平、今年の正月に餅を食い過ぎて、ダウンしていたし…。まあ、仕方がねえ。これを機会に、一平を七転八倒斎と命名しよう。なんか、逆刃刀を持った人斬りみたいだろ。アニメ化の話もあるかもしんねえ…」
「…うるさい。如何すんだよ。六」
「仕方ねえだろ。条件には、あっている。これで出すしかねえだろ。おい、一平、そろそろ、野球部の試合見に行こうぜ。じゃあな、お前ら」
ひろみが慌てて聞いた。
「ちょっと、あんたたち、結果は見ていかないの?」
「結果発表は13時って書いてあるぜ。そんじゃあな」
六助と一平が去って行った後、明彦と凛子が済まなそうに謂った。
「俺と凛子はそろそろ行くよ。物理部を見てみたいんだ」
「ごめんね、みんな」
凛子が済まなそうに謂うと、祐子がニコニコし乍ら提案した。
「それなら、お昼に、また、集まらない? 昨日みたく、キャトルで。12時に」
「おう、了解だ」
「それじゃあ、一旦解散な」
みんなが三々五々、散会して行った。祐子は正太郎に謂った。
「扨、正ちゃん。次はどうしよう」
「祐子ちゃんは?」
「うーん。写真部を見てみたいな」
「分かった。それ、行こうよ」
「正ちゃんは? 見てみたい展示は?」
「そうだな。天文部かな」
「じゃあ、写真部の後、天文部だね」
12時過ぎ、キャトルに全員集合した。各自、思い思いの展示を満喫し、大いにご満悦だった。祐子が正太郎に、
「天文部の『パソコンdeプラネタリウム』が、結構、面白かったよね。それに、とても、綺麗だった」
「うん。本当だよね。すごく良かった」
「へー、面白そう。私も後から行ってみようかな」
ひろみも、興味深げに頷くと、食事をし終わった頃、高志が、
「そういや、正太、此の間、風疹やったじゃねーか」
「ああ」
「俺、小六の最後にやったんだが…」
ひろみが、思い出した様に謂った。
「そう謂えば、そうね。私も其の頃やったわね」
「ムキーッ、流行ってたもんね。いずなも其の頃だよ」
「ああ、それについて、聞くも涙、語るも涙の話があるんだよ」
「一体、何なのよ」
そう謂って、ひろみが先を促した。それを受けて、高志が徐に語りだした。
「実は、其の日、卒業式の練習だったんだが、朝から体調が悪くてな。何だか、異様な悪寒がしたんだ。それで、保健室に行ったんだが、保健室の壁に、『保健ニュース』とかいう、写真入りのトピックスが貼ってあってな。其の写真と症状が同じなんだ。赤い発疹が出ていてな…」
「へーっ、丁度、風疹の記事が出てたんだ…?」
「いや、タイトルは、『気をつけよう。怖い梅毒』って、タイトルだったんだが…」
「…」
「熱も37度5分程あったから、家に帰されたんだ。其れで、家に帰ってから、お袋に、『母ちゃん。俺、梅毒かもしれねえ』って、謂っちまったんだ…」
明彦は、驚いて目を瞠る。
「謂ったのか? お袋さんに? 地雷処の騒ぎじゃねーぞ」
「ああ…」
ひろみといずなは、懸命に笑いを堪え乍らも、神妙な面持ちで尋ねた。
「で、如何したのよ」
「如何も、斯うもねーよ。熱でフラフラの俺を前に、お袋が、まず、『高志、此処に座りなさい』から、始まって、『それで、身に覚えはあるの?』と、来たもんだ。あの当時、クラス内で、風疹が猖獗を極めていたからな。其処で、『ある。クラス内で流行っている。多分、隣の席の美代ちゃんからうつされた』って、答えたんだ」
其の瞬間に、ひろみといずなが噴出した。凛子は既に、腹を抱えている。凛子が、
「ひー、お腹が捩れて苦しい。其の美代ちゃんも災難ね。だけど、保健体育で習ったよね。あんた、居眠りでもしてたの?」
「覚えてねーよ。まだ、雄蕊と雌蕊も良く分かっていない、前の日まで、動森やら、ポケモンパールをやってた良い子だぞ。ただ、子供心に、お袋との会話の中に、何か重大な齟齬が有るとは感じたんだが…」
正太郎も噴出し乍ら、
「齟齬処の騒ぎじゃないだろ。其れで、如何したんだ?」
「如何も、斯うもねーよ。お袋は、其の日から、泣き乍ら仏壇に向かって、拝んでやがるしよ。鐘なんぞチンチンならして…。俺は俺で、熱が高くて完璧にダウンしちまうしよ。まあ、近所の内科で風疹って診断が下ったんだが…。でも、其の時も、ワッセルマン反応検査とやらを…」
ついには、祐子までもぷーっと噴出した。
「あっ、ごめん、高志君。笑っちゃいけないのに…。それで、その…、誤解は解けたの?」
高志は頭を掻き乍ら続ける。
「あっ、ああ、熱が下がった頃に、親父が兄貴を連れて俺の部屋に来てな、『男同士の大切な話をしよう』とか、謂いやがってな」
其処で、女子勢がまた、プーっと噴出した。最早、神妙な面持ちを維持できなくなったひろみが、腹を抱え乍ら叫んだ。
「それで、如何したのよ。早く、続きを話しなさいよ」
「おう、其処で、親父に、保健室で保健ニュースを見た話をしたんだ。其の写真と症状が同じだったてな。そうしたら親父が、酷く小難しい顔をしてな。『高志。赤ちゃんって、如何したら産れるか知ってるか?』って、聞くんだ。だから、『父ちゃんと母ちゃんが仲良くしてると、ご褒美にコウノトリが連れてくるんだろ』って、答えたら、其処にいた、親父と兄貴が、二の句を継げない程、大爆笑しやがってよ…」
「ムッキー、高志。かーわーいーい」
「やかましい。そうしたら、親父の奴、ゲラゲラ笑い乍ら階下に行っちまってよう。くそ、何が『男同士の大切な話をしよう』、だ。其の後、泣き乍ら、一心不乱にお経を唱えていた筈のお袋が、俺の部屋にゲラゲラ笑い乍ら駆け上がって来てな、『あんまり、親に心配かけるんじゃないよ。此のバカ息子』とか、謂って、頭をひっぱたいて、また、ゲラゲラ笑い乍ら階下に下りて行っちまった…。兄貴は、兄貴で笑い過ぎて、息も出来無くて苦しんでるし…、結局、家族からは何の説明もない儘にな。くっそー、あれ程の疎外感を感じたのは、人生初だったぜ。おまけに、小学生にして、ワッセルマン反応検査を受けると謂う屈辱を…あれっ?」
高志が、気がつくと、全員笑いすぎて、息絶え絶えになっている。高志が真っ赤になって吼える。
「なんだ、おめーらまで。失礼な奴らだな」
辛うじて、呼吸を整えた明彦が謂った。
「何処が、『聞くも涙、語るも涙』の話だ。草しか生えてねえだろ」
「何を謂いやがる。大人への階段の途中に有り勝ちな、青春の蹉跌って奴だろ」
正太郎も喘ぎ乍ら、極め付けた。
「なーにが、青春の蹉跌だ。文学的な雰囲気醸し出してんじゃねえ。唯のバカ話じゃねーか。石川達三先生に謝れ!」
「くっそー、何が悔しいって、敬介辺りに笑われるのが一番悔しいぜ。やい、敬介。お前は、梅毒って知っていたのかよ」
「へっ、残念だな。高志。俺は知っているぜ。多分、高志が見た健康ニュースな。同じ奴だと思うんだが、俺の学校にも貼ってあってな、家に帰って、早速、お袋に聞いたんだ」
明彦が再び目を瞠る。
「まさか、お前も聞いたのか? お袋さんに? バカばっかりじゃねーか。お袋さんに同情するぜ」
いずながほほを赤らめ乍ら聞いた。
「それで、ママは教えてくれたの?」
「ああ、ちゃんと教えてくれたぜ。何でも、梅の木には、毒があって、当るとああ謂う発疹が出るんだって。『結局、美しい花には毒があるって事だ』とか、謂ってた。だから、其れ以来、俺は梅の木には近づかないようにしてるんだ…。あれっ」
再び、全員、大爆笑。敬介だけがきょとんとしている。凛子が腹を捩り乍ら謂った。
「ほーら、やっぱり、小学生が誤解してた。いずな。あんた、ちゃんと教えてあげなさいよ。然も無いと、此の子、またテストで書くわよ」
「えーっ」
いずなはぶうたれる。然し、顔を赤らめ乍らも、敬介に耳打ちした。
「ケースケ、あのね、……」
敬介の顔が見る見るうちに、耳の付け根迄、真っ赤に染まって行く。それを見ていた高志があざ笑う。
「どははははー。やっぱり、敬介だぜ。期待を裏切らねえ」
其れを見ていた、ひろみが窘める。
「何を謂ってんの。あんただって同じ穴の狢でしょ」
「何を謂いやがる。俺のは既に過去完了形だけど、敬介のは現在進行形だぞ」
「やかましい。くっそー、母ちゃんめ、良い加減な説明で、俺を謀りやがって…。赤っ恥かいたじゃねーか」
いずなが優しく窘めた。
「ムッキー、ケースケ。ママを責めちゃあ、駄目。ママの苦しい胸のうちを分かってあげないと。でも、そう謂う純粋な処がケースケの良い所なんだけど…」
敬介は瞳をキラキラさせ乍ら、謂った。
「えへへ、そう? いずなちゃん。ありがとね」
高志が半ば呆れ、ニヤニヤし乍ら謂った。
「おーい、敬介。額面通りに受け取るなよ。いずなは決して、褒めている訳じゃあねえぞ。馬鹿にされている事を、いい加減、悟れよー」
「ムッキーッ、何、失礼な事、謂ってんのよ。元はと謂えば、あんたのくっだらない与太話から、始まったんだからね」
「あー、笑った、笑った。さーて、午後の部に行こうか」
と凛子が謂えば、ひろみも、立ち上がり乍ら、溜息混じりに呟いた。
「本当。全く、とんだ閑人閑話だったわね」
一向はひとまず、書道部の発表を見に行った。会場にはでこぼこコンビが先着していた。六助がひろみの姿を認めると、開口一番に謂った。
「おー、稲森さんか。おめでとう、準優勝だってよ。…ところで、お前らに頼みがあるんだが…」
六助の話の腰を折り、ひろみが歓声を上げる。
「えっ、マジなの」
凛子が祝福した。
「すごいわね。おめでとう。ひろみ」
「いやー、なんか、照れちゃうなー」
六助がニヤニヤしつつも、ひろみを煽る。
「何か、副賞もあるみたいだぜ」
「えっ、マジなの?」
其の時、丁度、書道部のアナウンスがあった。
『おめでとうございます。稲森様には、書初め用半紙1年分が贈られます』
ひろみには、書初め用半紙セット一袋(10枚入)が進呈された。書初めは、通常、年に一回なので、これで、一年分と謂う事らしい。
「何よー、詐欺じゃないの。此れ」
ひろみが憮然とした表情で文句を謂っている。そして、いよいよ、優勝者の発表である。優勝者は、果然、一平であった。一平は相変らずキリッとしたイケメン顔で、佇んでいたが、其の後の書道部のアナウンスを聞いて、俄かに顔色を変えた。
『おめでとうございます。優勝者は書初め用半紙2年分を進呈いたします。なお、優勝者、準優勝者の作品については、一年間、校長室横に展示する事とさせていただきます』
「おい、ちょっと、待ってくれ。『七転八倒』だぞ」
ひろみも狼狽える。
「ちょっと、待ってよ。私だって、『百鬼夜行』なのよ。校長先生に怒られちゃうじゃないの。高志、如何しよう…」
高志が腹を抱え、笑い転げている。
「いやあ、いいなあ、お前ら。入学早々、校長先生をディスったりしてさ。これで、高校生活も安泰だなあ」
「何、謂ってるの。抑々、元はと謂えば、あんたの字が余りにも見るに堪え無いからじゃないの。ねえ、正太。『百鬼夜行』にポジティブな意味無いかなあ。何か、こう、圧倒的な力で悪を正す、みたいな…」
「そう謂われてもなあ…」
いずながニヤニヤし乍ら止めを刺した。
「ムッキーッ、あったよ、ひろみっち。辞書に載ってる。『いろいろな化け物が夜中に列をなして出歩く事』だって…」
六助も正太郎に泣きつく。
「正太。頼む。ノッポ君を助けてやってくれ。こいつ、サッカーは兎も角、成績は突出して最下位だから、校長に睨まれて、退学にでもなったら大変だ。『七転八倒』に何かポジティブな意味ねえか? たとえば、何度、倒れても立ち上がる的な…」
「突出してじゃねー。お前がいるだろ」
一平が憮然としてやり返す。正太郎も当惑し乍ら答えた。
「だから、其れが、抑々、『七転八起』だろ」
六助が諦めずに懇願する。
「其処を、何とか…」
「そう謂われてもなあ…」
いずなが、又しても、ニヤニヤし乍ら、再び、止めを刺した。
「ムッキーッ、なになに、『転げ回ってもがき苦しむこと』だって…」
正太郎が、破顔一笑し乍ら、引導を渡した。
「と謂う訳だ。あきらめな。まあ、お題は兎も角、何はともあれ、字はうまいって評価された訳だから…」
祐子もフォローを入れる。
「そうだよ。一平君。こんなに達筆なんだもん。校長先生も褒めてくれると思うよ。お題は兎も角として…」
いずなが、呆れた様な表情で、突っ込みを入れる。
「ゆうちん。其れ、あんまりフォローになって無いよ。ところで、六助。頼み事って、何なの?」
「あーそうそう。人を二人程、借りたいんだ。男女1名づつ」
「?」
「ぶっちゃけ、此の後、開催される陸上部主催のスェーデン式リレーに出場したいんだ…。メンバーに最低女子1名は必須だから、男子1名、女子1名、お願いしたいんだが…」
六助の突然の申し出に、面食らう一同であった。然し、高志が気軽に応じた。
「俺はいいぜ」
高志に続いて、ひろみが応じた。
「私も、いいわよ」
六助がちょっと困った様な顔をして、口篭る。
「いや、若し良ければなんだが、如月さんにお願いしたいんだが…」
「私?」
凛子が当惑して、呟いた。ひろみがむくれる。
「もう、何よー。折角、書初めの憂さを晴らそうと思ったのに…」
「すまんな。稲森さん。稲森さんも、運動万能だと聞いたけど、此処は、如月さんに頼みたい。如月さん、如何だろうか?」
「…いいけど。あっ、待って。シューズと運動着がないわ」
明彦が、徐に手を上げた。
「俺のTシャツとハーフパンツがある。洗ったばっかの奴だ。体格的には俺が一番近いだろ。足は25・0だが…」
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ。…でも、明彦。あんた、返した後、臭い嗅いだりしないでしょうね?」
明彦は、茹蛸の様になり乍ら、叫んだ。
「するか! 『蒲団』じゃあるまいし…」
結局、高志と凛子が出る事で合意し、一同はグランドに向かった。途中、敬介が素っ頓狂な声を上げた。良く見ると、お化け屋敷が再開されていて、看板は『ドッキリハウス』と、変更されている。当然、ひろみも目を丸くしている。
「あれっ、お化け屋敷が復活してる」
「ムッキー、本当だ。ねえ、ケースケ、ちょっと入って見よ」
「いや、止めとけよ。いずなちゃん。多分、中身は同じだから…」
「ムキー、そんな事無いよ。屹度、学校当局の厳しい行政指導を受けて、改心したんだよ。行くよ、ケースケ」
「あーっ、待ってよ、いずなちゃん」
いずなは敬介の手を引いて、中に飛び込んでいった。残されたメンバーは唖然として、入り口付近で待っている。祐子が心配そうに正太郎に謂った。
「ねえ、正ちゃん。いずなちゃん、大丈夫かなあ? 正ちゃん、如何思う?」
「如何って…。こんなの、如何見ても、看板を変えただけだろ…」
高志も横合いから、口を挟む。
「ああ、正の字の謂うとおりだ。違法風俗店の手口、其の儘じゃねーか」
「ちょっと、あんた。そーゆーところ、行った事がある訳? そんなんだから、ワッセルマン反応検査をされるのよ」
「いや、無えけど…」
そのうち、中から、いずなのキーキー声と悲鳴が聞こえ、
「ムキー、何処触ってんのよ。この、エッチ、スケッチ、マイペット」
いずなの甲高い声が聞こえる。高志が呆れ乍ら、
「昭和の子供か…?」
と呟くのと同時に、真っ赤な顔のいずなが飛び出して来て、祐子に訴える。
「もー、ゆうちん、聞いてよ、中は1ミリも変わって無かったよ。また、おっぱい、触られた! 本当に、もう、信じられないよ…」
高志は、笑いを堪え乍ら、諭す。
「信じられねえのは、お前の方だ。よく、こんな手口に二度も引っかかるなあ…。大体、おっぱいなんか無えじゃねえか…」
「ムキー、高志、失礼。本当にもう」
いずなは、真っ赤な顔で怒っている。
一同はグランドへ移動する。移動する最中、いずながひろみに聞いた。
「ムキー、ひろみっち速いのにねえ。なんで、凛子っちなんだろ?」
「いくら、あたしの足が速くても、流石に凛子には敵わないわよ」
祐子が驚いて聞いた。
「えっ、そうなの?」
「うん。凛子、中学時代、2年途中までは、陸上部だよ。種目は200m。学校対抗陸上大会では、3年連続で有度中のエースだったわよ。確か、2年と3年の時は優勝した筈よ」
「えーっ、そうなの? すごいね凛子ちゃん」
裕子が驚いて、声を上げる。凛子は謙遜し乍ら、
「でも、大分、ブランクがあるからなあ…」
高志もしんみりとした口調で続く。
「それに、おっぱいも巨大化し過ぎたしなあ…。それだけ、大きければ重たかろう…。ぐええっ」
「喧しい!」
凛子とひろみから、左右同時に肘打ちが飛ぶ。ひろみと高志の、そろそろお約束となりつつあるドタバタ劇を尻目に、祐子は思い出した。4月の花見の際に、凛子と出会った時も、確かに、凛子はジョギングをしていた。出会ったのは、大沢川周辺であるが、あれは、自宅から走っていたと見るのが妥当であろう。だとしたら、其の段階で、かなりの距離を走っていた事になる。あの時の、速度も、祐子にしてみれば、全力疾走しても追いつけ無い様な速度であった。祐子は思った。此の4人の女子のうち、祐子を除く3人は運動神経が優れている。いずなは華奢な体躯であり乍ら、スポーツ万能であったし、ひろみは、空手、合気道を嗜んでいるせいもあり、小柄な体躯の割には身体能力がずば抜けていたし、持ち前の運動神経で球技全般も何でもこなしていた。そして、凛子も、比較的目立たぬ様にしてはいたが、矢張り、スポーツ女子であった。祐子は意外そうな面持ちで凛子を見つめた。少し、羨ましくもある。祐子は体育だけは苦手であった。凛子は、明彦のTシャツを借りて、柔軟体操、ストレッチと準備運動に余念が無い。高志もストレッチをしている。其処へ、六助がやって来てルールを説明し始めた。出場チームは全16チームであり、最初の2レースが予選となる。上位4チームが決勝進出、一走、二走がセパレートコースで、計千メートル走る訳だが、女子1名をメンバーに入れなければならない。予選走順は、一走―凛子、二走―高志、三走―六助、アンカー―一平となった。
「此のメンバーなら余裕だろ。予選は流してくれてかまわねえ。怪我をしない様にな」
六助はそう謂ってくれていた。六助に因れば、此のチームが出場する予選一組は強敵と思われるチームは無く、流しても予選通過は大丈夫だろうとの事だった。一応、マークすべきは、男女庭球部混成チームと男バスケ部だそうだ。一方、予選二組は熾烈である。陸上部、野球部、サッカー部と優勝候補目白押しである。野球部、サッカー部ともに、女子部員はおらず、マネージャーが借り出されている点が、穴と謂えば穴ではあるが、それ以外には目立った穴も無い。凛子は思った。此のメンバーなら六助の謂う様に、流してでも予選通過出来るであろうが、凛子は流す気など毛頭無かった。非公式とは謂え、久しぶりの陸上競技なのである。凛子の胸は、忘れ掛けていた陸上競技への思いに、高鳴っていた。凛子は最後の屈伸を行うと、軽く腿をポンポンと叩き、みんなに笑顔で答えた。
「じゃあね、みんな。兎に角、精一杯やってくるよ」
「凛子ちゃーん、一平君、頑張ってね」
祐子は大きな声で、スタート箇所のホームストレッチに向かう凛子と一平に声援を送った。一周二百メートルトラックであるから、一走とアンカーがホームストレッチ側のスタートとなる。凛子と一平は、軽く片手を挙げて声援に応えた。一走と二走はセパレートコースであり、三走目からオープンコースとなる。高志と六助はバックストレッチ側に向かった。
スタートと共に、凛子はスパートを掛けた。とても流している様なスピードとは思えない。気合の入った走りで、他のランナーを、見る見る内に引き離すと、セパレートコースでもそれと分かる様な大きなリードの儘、高志にバトンを渡した。高志は、凛子の気迫の入った走りを、其の儘、引き継いだ。高志も中学校時代は野球部のエースである。身体能力も高く、決して足も遅くはない。高志は、半周以上の差をつけ、三走である六助にバトンを渡した。此の段階で、既に、六助の一人旅であり、当然、六助、一平は流すだけで、テープを切った。二人とも、後ろを振り返る余裕すらあったのだ。結果、ボストンティーパーティーとサッカー部の合同チームは、他チームに大差をつけ、予選一位通過である。二位以下が男女庭球部混成チーム、男バスケ部と、続き、4位に二年有志連合が続く形となった。予選二組は下馬評通り大混戦であったが、これまた、下馬評通りに、一位が陸上部、以下、野球部、サッカー部、ハンドボール部と続いた。陸上部はやはり、速い事と、バトンパスが適切である事、さらには、二走の女子。3年の谷澤の活躍が大きかった。彼女だけが、陸上部唯一のインターハイ経験者であったのだ。一方、予選を見ていたボストンティーパーティーの面々は、お祭り騒ぎである。六助が凛子と高志に謂った。
「いやあ、やっぱり、お前らに頼んで正解だったわ。決勝も頼むぜ」
「ムッキーッ、凛子っち、すごいよ。いずな感動しちゃった」
いずなに続いて祐子も、凛子の活躍を称えた。
「本当にすごいね、凛子ちゃん。私にも分けて欲しいな」
明彦も顔を赤らめ乍ら、凛子を激励する。
「いや、本当にかっこよかったよ。フォームが美しいもんなあ」
「…ちょっと、…やめてよ」
凛子は、そう謂い乍らも、満更でもない様子だ。ひろみは高志を称えた。
「あんたも格好良かったわよ。六助や一平と比べても、全く遜色が無かったわよ」
それを聞いた高志は、喜色満面の笑みを浮かべて、
「おう、ありがとな。俺も、全力疾走で激しくバストを揺らし乍ら、迫ってくる凛子を見たら、発奮してだな…ぎゃん」
ひろみが、青いバトンで高志を思い切り、引っ叩き乍ら謂った。
「もう、何で此の男は、すぐに、斯う謂う事を謂うんだろ。緊張感、無さ過ぎでしょ…」
横で、凛子も膝蹴りを入れている。そして、六助に向かって謂った。
「ねえ、六助君。お願いがあるの。決勝では私に二走、やらしてくれないかな…」
高志が異議を唱える。
「ちょっと待て。そんなに、俺に揺れるのをを見られたくないのか?」
凛子は、横の高志に鋭い一瞥をくれると、吐き捨てた。
「ええ、そうよ」
そして、また、六助に願い出た。
「駄目かな…」
六助は考え深げに、徐に口を開いた。
「…谷澤先輩か?」
「…うん。実は、私、予選の時、本当に流してたんだよ…」
「あれでか?」
「…ええ。だけど、谷澤さん。私以上に流していた。まあ、こんな学内のエキシビジョンだもん。仕方が無いけど。あの人の本気、あんなもんじゃないわよ。あの時、谷澤さんの声が聞こえた気がする…。『私と戦りたければ、本気を出しなさい』って」
暫く黙っていた六助が、ニッコリ頷くと、
「分かった。祭りは派手な方が面白いもんな。二走を頼むぜ、如月さん。3年前の勝負を、もう一度見れるとは思わなかったぜ…」
凛子も最高の笑顔で答えた。
「ありがとう、六助君」
「んじゃ、行くか?」
一方、ホームストレッチ側に移動しようとしていた高志と一平だが、
「高志!」
ひろみが後ろから、不意に、高志を呼び止めた。振り向いた高志と一平だったが、一平はひろみの表情を見定めると、
「俺、先に行くわ」
と謂い、行ってしまった。残った高志は多少不機嫌そうに尋ねた。
「何だよ…」
ひろみは、多少もじもじし乍ら、目を逸らせて謂った。
「あの…、高志、頑張ってね。応援してあげる。必ず、勝ってね…。それに、今度、あたしが走るとこ、見せたげるから…、凛子みたく、揺れないかも知れないけど…」
高志はまじまじとひろみを見つめた。ひろみは、少しふくれ乍ら、未だ斜め横を向いた儘である。高志と目を合わそうとしない。多少、顔を赤くして、それでも、必死の表情だった。此の栗色の髪を持つ、やや垂れ目の少女は、それだけを態々、謂いに来たのだ。
(ったく、此のバカ。俺の冗談を真に受けやがって…)
高志は呆れつつも、『かもじゃねえだろ』と謂う突っ込みの言葉を飲み込むと、優しげな顔つきで謂った。
「分かった。ありがとな。楽しみにしているよ。んじゃあな、行ってくらあ」
そう謂うと、足早に其の儘、其の場を去り、一平に追いついた。一平は無表情の儘呟いた。
「女神の激励か…」
高志は顔を朱に染め乍らも謂い返す。
「やかましい。おめーは天然の癖に、いろいろと、気い回し過ぎなんだよ」
号砲一閃。綺麗なスタートで戦いの幕は切って落とされた。一走の男子は、高志と、陸上部池田と、庭球部岸山の3人だけである。高志は池田に勝てない迄も、負けられないと思っていた。でなければ、凛子に谷澤との全力の勝負をさせてあげられない。高志自身、持てる力の最大限で臨むしか無かった。セパレートコースでは、趨勢は容易に判断出来無いが、一見して、高志と池田のマッチレースであった。然し、徐々に、池田が前に出る。池田は真っ先に谷澤にバトンを渡す。ほぼ同時であるが、やや遅れて、高志が凛子にバトンを渡す。凛子と谷澤の熾烈な戦いが始まった。長身特有の迫力ある大きなストライドの凛子と、陸上部らしい美しく上半身が揺れないフォームの谷澤の、マッチレースとなった。二走、即ち、二百メートルはトラック一周分であり、双方とも、最初から飛ばしている。バックストレッチに入った時は、内側のレーンをダイナミックに走る凛子が、追走する様に見えた。差は開かず、縮まらず、最終コーナーへ突入。然し、ホームストレッチに入って来た時は、凛子が僅かばかり、そう、体一つ分リードしていた。大歓声の中、凛子は六助にバトンを手渡す。ついに、凛子が谷澤に勝ちきった。
…筈だった。
其れは、スローモーションの様な瞬間だった。六助の手に一旦は収まったかの様に見えた青いバトンは、初夏の柔らかな陽射しを受け、キラキラと輝き乍ら、クルクルと回転しつつ、落ちていった。驚愕の表情で振り返る六助。『しまった』と、表情を歪める凛子。然し、事態を打開したのは六助であった。いや、六助ならではの方法と謂って良いだろう。六助は振り返りざま、咄嗟に反応し、懸命に伸ばした右足爪先で、軽く、地面に向かって落下していたバトンの鐺を蹴り上げたのだ。バトンは再びクルクルと上昇を始め、吸い付くように六助の右手に収まった。此の手のミスの割には、最小限のタイムロスであったと謂って良いだろう。然し、ロスはやはり、ロスなのだ。六助が、前を向いた時には、陸上部、サッカー部、野球部が前におり、彼は4位に落ちていた。
酒井六助は二の丸小、江尻中でサッカー三羽烏と騒がれた三人の、中心人物であった。そして、もう一羽はいつもつるんでいる、杉本一平である。六助は158センチと小柄な体躯乍ら、卓越したテクニックとサッカーセンスを持ち、シュート良し、パス良し、ドリブル良しのマルチプレイヤーであった。ボールコントロールも超一流で、其の足から放たれる、プレスキックは30メートル先の5円玉をも射抜くと噂されていた。彼はサッカーに於いて、弱点と呼べる様な物は無かったが、強いて上げるとすれば、身長と其の性格であった。彼には、闘争心と謂うか気魄、そう謂った物に、圧倒的に欠けていた。勝っても負けても、其の表情は常に変わらない。良いプレイをした時には、敵であれ、味方であれ、賞賛したし、味方の失策には、徹底的にカバーをした。でも、結果には拘らなかった。サッカーはプレイ自体が楽しいのだ。結果に拘っていては詰まらない。結果には拘らない男。本来であれば、これ程、キャプテンに不向きな男もいないであろう。技術的支柱には成り得ても、精神的支柱には成り得なかった。だが、彼は、小、中とキャプテンを務めた。彼の卓越した技量が、彼にキャプテンをさせざるを得なかったのである。然し、それでも、彼は勝敗には無頓着であった。だが、今は如何だ? 自分の失策でチームが危機に瀕しているのだ。高志が、凛子が、紡いだバトンを俺が無駄に出来るのか? 六助には全力で走る以外、無かった。最初の半周で野球部の坪井を捕らえたが、此の先が剣呑だった。サッカー部の三走は新主将の二年生白坂で、短距離走には絶対的な強みがある。残り一周、バックストレッチで勝負を賭けても、50メートルそこそこの直線では、主将を振り切る自信は無かった。六助は最初のコーナーで競り掛けた。白坂の横、外側を併走する。一方、白坂にも上級生の意地がある。コーナーでアウトから抜かれる訳にはいかない。
(くそ、一年坊主め、サッカーだけでなく、走りでも負けて、堪るかよ)
愈々、バックストレッチに入った。両者は、ますます加速する。凄まじいデッドヒートである。最終コーナー手前で、六助が体半分程リード、僅かに交わした処で、イン切りを敢行。これが奏功し、白坂の前を確保した。3メートル程前に陸上部南雲の背中が見えたが、六助には競り掛ける程の余力は無かった。が、六助はさらに加速した。高志が、そして、凛子が、力の限り繋いだバトンなのだ。自らが足を引っ張る訳にはいかない。其の思いだけだった。2メートル、1メートル、徐々に詰める、そして、南雲の背中に手が触れそうな処で、一平にバトンを渡した。其の時、六助は大声で叫んだ。
「一平! 頼む!」
一平には、六助の思いが痛い程伝わった。六助が此の様に、勝負への拘りを見せるのは、随分、久しぶりの事だった。一平は、当初、陸上部アンカー望月を追走し、ラスト100メートルで勝負を賭ける戦法であった。然し、元来、望月は400メートルが専門である。後半で垂れる事など、まず、期待出来無い。一平は最初のバックストレッチに入った時に、勝負を賭け、加速した。然し、望月も緩まない。望月がやや体勢有利な儘、コーナーへ突入した。然し、一平も一歩も引かない。望月の外側を並走している。其の儘の状態で、ホームストレッチに入って来る。其処で、望月は勝負を賭けて、更なる加速をする。一平も懸命について行く。コーナーに入っても、ペースを落さずバックストレッチに突入。すると、一平もスパートを掛けた。徐々に、一平が差を詰める。そして、バックストレッチの最後に完全に並んだ。望月にすれば、明らかなオーバーペースである。
(如何なってやがる? 此の一年坊主。もう、一周以上、大外で、もがきを入れさせられているんだぞ。何故、垂れねえ)
其の儘、並走状態で最後のコーナーを抜けて来た。あと、30m。一平にはゴールテープの向こうに、六助が、一平にしか出さない、極めて厳しい、縦パスが来る様な気がしていた。いつも、へろへろになり乍ら、『もう走れない』、そう思っていても、情け容赦無くやってくるアレだ。其の瞬間、一平は更に加速した。
(何ぃ。まだ、加速するのか?)
望月は驚愕した。ダッ、ダッ、ダッと大柄の一平が、大きなストライドで、弾む様な一歩を踏み出す毎に、少しづつ差が開いていくのだ。一平は、顎も上がり、苦悶の表情を浮かべ乍らも、加速する。其れは、一平がスピードで相手DFを置き去りにする時の、そして、六助の縦パスに反応する時の、高速WGとしての走りだった。頓て、次の瞬間、一平のぶ厚い胸板が勝利へのテープを切った。ボストンティーパーティー、サッカー部合同チームの優勝の瞬間だった。巻き起こる大歓声。場内興奮の坩堝である。純粋に一年生だけで優勝したチームなど、嘗て無かった。ゴールした一平にみんなが駆け寄る。パチーン。六助が何も言わずにハイタッチをした。此の二人には言葉が不要なのだろう。凛子が駆け寄り、一平、六助とハイタッチ。高志も両手でハイタッチし乍ら、
「結局、美味しいとこを全部持っていっちまったな」
「女神の激励を、無駄には出来無えだろ」
高志は真っ赤になり乍ら、
「だから、余計な気を回すんじゃねえ」
一方、凛子は六助に駆け寄ると、バトンパスの失敗を詫びていた。
「やめてくれよ。如月さん。あれは、俺のミスだ、折角の谷澤先輩との勝負に水を挿しちまってわりいが…」
それに対して、凛子は、
「ううん。あれは私のミスだよ。経験者の私がもっと気を使うべき場面なんだから…」
高志も凛子をねぎらった。
「良いじゃねえか、優勝したんだから。大体、借り物のシューズに、借り物のシャツ。良くやった方さ。然も、胸は激しく上下する上に、彼処の毛の処理もしてなかったんだろ。それで、優勝だぜ。上出来じゃねえか…ぐはあっ」
後ろから、ひろみがバトンで殴打している。
「…如何して、此の男は、此の場面で、斯う謂うバカ謂うんだろ…」
更に、凛子が高志の下腹部に膝蹴りを入れる。
「何てえ事、謂うのよ。それは昨日の話でしょ。今日はちゃんと処理してきたわよ。って、何、謂わせんのよ。此のエロ眼鏡」
「お、俺?」
突然の振りに、激しく狼狽する明彦。緊張感から解放されたメンバー全員が、爽やかな笑いに包まれた。
「さあ、表彰台に行こうぜ」
六助が音頭をとった。表彰台に並ぶ4人は、屈託の無い笑顔で歓声に答えていた。祐子は自慢の一眼デジカメで勝者達を撮る。その後、ボストンティーパーティーのメンバーも合流し、改めて全員で記念撮影を行った。全員のにこやかな笑顔が印象的だった。
グランドフィナーレは、正太郎たちのブラスバンド部の『翼を下さい』で、締めくくられた。閉会後、ボストンティーパーティーのメンバーは、珍しく其の場で散会した。そして、三々五々帰宅の途についたのである。まずは、正太郎達が下駄箱を抜けてきた。祐子が正太郎に笑顔で謂った。
「本当に楽しかったね。来年もペアクイズ大会やるのかなあ…」
「あはは、もう、来年の心配してる。終わったばかりなのに…。でも…」
「どうしたの?」
「来年もやるなら、是非、参加したいね…。そして、其の時は…」
「其の時は?」
祐子の淡い期待を込めた問いかけに、正太郎は、此の男にしては珍しく模範解答を答えた。
「…また、ペア組んでもらえる?」
「も、勿論だよ。じゃあ、…また、マック?」
そう謂うと、祐子の笑顔が弾けた。でも、目には、うっすらと涙を浮かべている。正太郎は頷き乍ら、懸命の勇気を振り絞って、躊躇いがちに左手を伸ばした。其の先にあった祐子の右手に触れた。祐子も躊躇い乍らも、確りと、正太郎の左手を握り締めた。二人は握り締めた手と手のまま、通用門を出て行った。通用門の前、前店のベンチでは、でこぼこコンビが座って、カップ麵を啜っていたが、素知らぬ振りをしている。正太郎と祐子は俯いた儘、通り過ぎてゆく。でも、とても幸せそうに見えた。頓て、二人の後姿を目で追っていた一平が、ニヤニヤし乍ら、徐に謂った。
「いいのか? 六。祐子ちゃん、取られちまうぞ?」
「…」
六助はスープを啜り乍ら、呟いた。
「取られるも何も、…元々、祐子ちゃん、正太しか見てねえよ。昔も今もな」
そう謂って、少し寂しげな笑顔を向けた。
「そう謂えば、…そうだっけな」
一平も溜息混じりに呟く。六助は西日の中を伸びてくる二人の影を見て、そして、二人の後姿を見つめた。少し眩しかったのか、ちょっと、目を瞬いた。暫く、眼を細めて六助を眺めていた一平だが、六助の方を向き直ると静かに謂った。
「もう一杯食うか? おごるぞ」
「如何謂う風の、吹き回しだよ」
次に歩いて来たのは、いずなと敬介だった。敬介がいずなに語りかけた。
「終わっちゃったね。学校祭」
「…うん。でも、すごく楽しかったよ。ケースケ。ありがとね」
「うん。僕の方こそ。楽しかった。…来年もいずなちゃんと回れれば、良いなって…」
「むき? ケースケ昨日約束したじゃない。学校祭の時はいつもいずなといるって、あれって、嘘だったの?」
「えっ?」
敬介は驚いた。昨日の約束については、当然、今年だけの事と思っていたのだ。『学校祭の間は、いつもいずなと一緒にいる事』。確かに、いずなの此の謂い回しでは、学校祭の時にはいつでも、と、解釈出来無くも無い。
「ケースケ君がオーケーしてくれて、嬉しかったのに…。残念だな、いずな、本気にしてたんだけどなあ…」
いずなが、ぺろりと舌を出す。敬介は狼狽え乍らも、
「う、う、嘘じゃないよ。…よーし、今から、早速、来年の計画を練ろう。何処に行こうか? キャトル?」
「キャトルもいいけど、近いじゃない。だから…、銀座の生ジュース屋さんは?」
「うんっ。…だったら」
敬介はそう謂うと、勇気を出していずなの手を握った。いずなも赤くなり乍ら、しっかりと握り返してきた。そして、微笑み合うと、二人はぎこちなくも、歩みだした。
次に通用門から出てきたのは、明彦と凛子だった。明彦がぶっきらぼうに謂った。
「態々、洗って返さなくても、いいぞ…」
「そんな、汗だくになったし…、ひょっとして、本気でにおい嗅ぐ気だったの?」
「嗅ぐか!」
「それとも、優勝のお祝いにプレゼントとか?」
明彦が真っ青になって叫ぶ。
「わー、そう謂う意味じゃ無え。何、謂ってんだ。アディダスだぞ。俺のお気に入りだぞ…」
「それに、…胸の所が延びちゃったし。…ほら、私、大きいから…」
隣で、明彦が今度は茹蛸の様になっている。
「じゃあ、プレゼントで決まりね」
「こ、こら、勝手に決めるな」
「なら、代わりにプーマのTシャツあげるから…」
凛子はそう謂うと、ごそごそと、デイパックからプーマのTシャツを取り出した。
「なら、しょうがない。交換してやろう…。って、…お前、Tシャツ持ってんじゃねーか」
「えへへ、明彦のTシャツが着てみたかったんだ…」
明彦がまた、真っ赤になっている。
「明彦、可愛いわね。じゃあ、交換決定ね。それ、匂い嗅いでもいいわよ。弟のだから…」
「さ、詐欺じゃねーか」
凛子が屹度、睨みつけると謂った。
「ほーら、やっぱり、嗅ぐ気満々だったじゃないの、此の変態眼鏡」
「いや、そ、その…」
「嘘よ。本当は私んの。…ほら、胸の所が、ちょっと、延びちゃっているでしょ」
明彦はまた真っ赤になっている。赤くなったり、青くなったりと、割と忙しい。然し乍ら、多少、意外そうな眼差しで凛子を見つめていた。凛子はもっと、理知的で怜悧な美少女で、容易に感情を表さない子だと思っていたのだ。だが、目の前の可憐な少女は良く笑い、まるで、女子高生其の物だったのである。其の笑顔が或る記憶を呼び覚ました。2年前、明彦はレスリングの中量級の県代表であった。当時、2年生であった明彦は、県大会の決勝で、下馬評では圧倒的有利であった1年上の選手を破って、全国に行ったのであった。其の時、県大会の決勝で当たった相手が確か如月と謂っていた…。そうだ。妹がいた。セーラー服に、赤いリボン。あれは有度中の制服だった。其の子は敗れた兄の傍らにいた。目の前で兄を破った男。悔しく無い筈は無いのだ。でも、其の子は気丈にも、『全国、頑張ってくださいね』と、笑顔で明彦を激励し、去って行った。とても、綺麗な顔立ちの子で、まだ、眼鏡は掛けていなかったが、髪には黄色いカチューシャをしていた。其の子は、明彦の前では、終始、笑顔であった。然し、明彦には、とても、悲しい笑顔の様に思えた。
「あの…」
言葉を掛けかけた明彦であったが、其の言葉を飲み込んだ。明彦は、今更乍らではあるが、掛けるべき言葉なぞ、ある筈が無い事に、漸く気が付いたのである。結局、明彦は、何も謂えずに、呆然と其の後姿を見送った。然し、思い直し、彼女を追いかけた明彦であったが、次に見たとき、其の子は、兄の傍らで、肩を震わせて泣いていた。胸に突き刺さる光景だった。言葉が無かった。明彦には、踵を返す以外、選択肢は無かった。今、将に、明彦の中で、あの時の少女と、目の前の可憐な女子高生が、完全に一致したのだった。そして、思わず呟いた。
「あっ、まさか…。あの時の…」
明彦は今、隣にいる女の子が、嘗ての好敵手の妹であった事に、漸く、気が付いたのだ。
麦秋の陽は長い。漸く傾き掛けた夕日の中で、其の子は立ち止まると、ニッコリと微笑んだ。とても、美しい笑顔であった。明彦は余りの美しさに唖然として、立ち止まり、思わず、息を呑んだ。彼女は、宛ら、天使の様であった。そして、天使もまた、明彦が、気が付いた事に、気が付いた。天使は笑い乍ら、
「もう、明彦。気が付くのが遅すぎ。私はブラバンに入部した初日に、気が付いていたわよ。どうせ、私の胸ばかり見てたんでしょ」
明彦がどきりとするような、可愛らしい笑顔だった。夕日の中、明彦はドギマギしつつも、謂い返す。
「そんな訳あるか…。でも、違い過ぎだろ。2年前は、もっとぺちゃんこだったし…」
「ほら、胸しか見てない…。こんなに、美人なのになあ…」
「いや、其の…」
「じゃあ、罰としてケーキでも奢りなさい」
天使の癖に、意外と俗っぽい事を謂う。
「えーっ、何だよ。人のお気に入りのTシャツを巻きあげた上に、ケーキまで集る気かよ…」
「何よー、お兄ちゃんを負かしておいて、全国ではベスト8止まりだった癖に。然も、負かした相手の妹の胸しか見てないって、如何謂う事なのよ?」
「…」
「はい、じゃあ、ケーキ決定ね」
「もう、…分かったよ。じゃあ、優勝祝いという事で…」
二人は、最早、痴話喧嘩にしか聞こえない会話を残し乍ら、駅の方に向かって歩いて行った。
最後に出て来たのは、高志とひろみだった。
「本当に、あんたはもう…。もっと、シャキッとしなさい。折角、格好良かったのに…」
「くっそー、凛子の奴。本気で膝蹴り食らわせやがって…、あいててて…」
高志は股間を押さえ乍ら、時折、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。二撃目の真空飛び膝蹴りが、一番命中して欲しくない処に、命中した模様である。
「全く…、ボケ噛ます時は、TPO位、考えなさいよ。あと、内容もね…。大体、あんたの冗談は、下品に過ぎるの…」
ひろみが、人差し指を立てて、お説教を始める。
「…はい」
「でも、本当に、高志が一番、格好良かったんだよ。だから…」
ひろみは真っ赤になって照れ乍らも、それでいて素っ気無い、多少、ふくれた様な顔付きで、高志の手をとった。
「ご褒美におてて繋いであげる」
斯うなると、高志も形無しである。
「お、おう」
辛うじて、そう呟くと。ひろみに引かれて駅の方にギクシャクと歩いていった。前店のベンチで、ぼんやりと後姿を見送っていた一平が、溜息混じりに六助に謂った。
「何の事は無え、みんなreservedじゃねーか」
「ああ、みんな、良い子達だからな」
「良いのか? 余裕、噛ましていて…」
「なーに、卒業まで、あと、2年10ヶ月もあらあ。そのうち、良い子が見つかるさ。チャンスは一瞬で良い。30秒あれば1点取れる。…だろ?」
「そりゃ、サッカーの話だろ。サッカー以外じゃ、まるっきり不器用だから、此方は心配してんだ。バトンも落すしよ」
「うるせー」
確かに、六助の謂ったとおり、高校生活は未だ始まったばかりなのである。だが、青春の時は思った程、長くは無いものである。ボストンティーパーティーのメンバーも、或る者は未来を夢見て、また、或る者は不安を抱き乍らも、希望に満ちた青春時代を、一歩づつ踏み出し始めた。此の学校祭は彼らの青春のエネルギーを、色鮮やかに燃やし始めた第一歩となったのである。
因みに、件の『七転八倒』と『百鬼夜行』についてであるが、其の後、一年もの間、校長室の入り口左右に掲示され、多くの来客達の目を引いたと謂う。一平、ひろみの面目躍如、と謂って良いのかは不明であるが、果然と謂うべきか、来賓達を、驚かせ、呆れさせたのは謂う迄も無い。生徒達の間では、何時しか、校長室の事を伏魔殿と呼ぶようになったとの事である。
のどかな学園生活を送る正太郎たち。そんな中、清水の夏の風物詩、清水七夕祭りが始まった。然し、急遽、立ち込める暗雲。祐子と正太郎の間に突如走る亀裂。二人は、所詮、結ばれぬ関係なのだろうか? 次回、『第8話 驟雨の七夕祭り』。お楽しみに。




