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第9話 立葵の天辺の蕾が花開く頃

 祐子の家は()ぐに分かった。渋川橋(しぶかわばし)(たもと)の白い大きな家だった。ひろみが()(りん)を押すと、母親が()ぐに出て来た。続いて、祐子の愛犬ペスも飛び出して来た。ペスはとても賢い犬である。ご主人様の(ただ)ならぬ有様(ありさま)を見て、尻尾(しっぽ)を振り(なが)らも、心配して、悲しげな表情を浮かべている。祐子は母親の姿を認めると、母親に獅噛附(しがみつ)(なが)ら、大声を()げて号泣(ごうきゅう)した。

「ママ、ごめんなさい。ごめんなさい。折角(せっかく)浴衣(ゆかた)着付(きつ)けてくれたのに、ごめんなさい。ごめんなさい。私…負けちゃった。また、負けちゃった。今度は絶対に、負けちゃいけなかったのに…。うわーん」

 誰だって心のバランスを(くず)す事がある。子供の様に、激しく()(じゃく)る祐子。()の祐子を、ひろみと凛子といずなの三人掛かりでお風呂(ふろ)へ、ペスも心配して、うろうろと付いて来る。そんな、ペスを母親が(なだ)めて、祐子たちは風呂(ふろ)へ。(しか)し、祐子は風呂(ふろ)の中でも泣き通しだった。まるで、(おさ)まる気配(けはい)は無かった。四人で入った後、お母さんに祐子をお願いし、ひろみと凛子といずなは、お風呂(ふろ)を借りて、(あたた)まった。そして、バスタオルを借りて、バスローブに(くる)まり、応接間に通されて(あたた)かい紅茶をいれてもらった。()れた衣類は乾燥機を掛けて(もら)っていた。祐子は、母親が介抱(かいほう)していた。ペスも心配そうな何とも()えぬ表情を浮かべ、ご主人様の(かたわ)らに(うずくま)った。祐子の父親は不在だった。

「祐子、大丈夫(だいじょうぶ)かなあ」

「うん」

 (やが)て、祐子の母親が入ってきた。ひろみが、

「あっ。お母さん。祐子さんの具合(ぐあい)は?」

大丈夫(だいじょうぶ)よ。先刻(さっき)(まで)()(じゃく)っていたけど…、今、寝付(ねつ)いた(ところ)

 母親は、(みんな)を安心させる様に微笑(ほほえ)みつつ、今更(いまさら)(なが)らの挨拶(あいさつ)をした。

「えーっと。いつも、祐子がお世話になっています」

「あっ。私は稲森ひろみです。此方(こちら)は、如月(きさらぎ)凛子。そして、小泉菜月。私達、同じ吹奏楽(ブラスバンド)部で…」

「ああ、稲森さんと如月(きさらぎ)さんと小泉さんね。いつも、祐子からお話を(うかが)っています。ところで、今日は何があったのか教えてもらえるかしら?」

「…そっ。()れは」

 凛子は、流石(さすが)に少し躊躇(ためら)った。とても、親御(おやご)さんに聞かせられる様な話では、無かった。(しか)しそんな中、(まなじり)(けっ)したひろみが、(おもむろ)に語りだした。

「実は、今日、七夕(たなばた)祭りで、祐子の、その、…好きな子が、他の女の子と一緒(いっしょ)にいる(ところ)に出くわして、()の女の子から、…何かとても(ひど)い事を()われて。それで、その、()(まで)我慢(がまん)していたものが、つい、爆発(ばくはつ)してしまって…」

「そうだったの。正ちゃんね。あの子、何時(いつ)だって、正ちゃんの話ばかりだったから…」

 一同、顔を見合わせ(なが)らも、無言(むごん)(まま)、同意の意を(しめ)す。唯一(ゆいいつ)、ひろみだけが、(しぼ)り出す様な声で、応じたのみだった。

「…はい」

「清水高校に行って。正ちゃんと同じクラスで、同じクラブに入れたって、()れはもう大燥(おおはしゃ)ぎで。()れに、素敵(すてき)な友達も一杯(いっぱい)出来(でき)たって、最近は、すごく明るくなっていたのに…」

 母親は居住(いず)まいを正すと、改めてひろみたちに、挨拶(あいさつ)した。

「いつも、祐子に良くしてくれて本当にありがとうございます。()れに、今日は本当にありがとう。三人のおうちは、どちらの方向かしら? 本来は私がお送りするところだけど、祐子を一人にするのが不安だから、タクシーを頼むわね」

 (やが)て、タクシーが到着し、三人が乗り込んだ。

「すみません、富士見町(ふじみちょう)村松原(むらまつはら)経由(けいゆ)草薙(くさなぎ)(まで)。富士見町はS銀行の本店のところで一人降ります。()(あと)梅陰寺(ばいいんじ)経由(けいゆ)で…」

「あっ、村松原(むらまつはら)です」

()(あと)草薙(くさなぎ)杉道。ローソンの(あた)(まで)、お願いします」


 雨は何時(いつ)しか、綺麗(きれい)に上がり、星空が顔を(のぞ)かせていた。そして、窓から外を見(なが)ら、凛子が重い口を開いた。

「あの子。駄目(だめ)かもしれないわね」

 いずなが反駁(はんばく)する。

「ムキー、そんな事」

 ひろみも、力無く続く。

「ちょっと。そんな事…」

「無いって()い切れるの? 二人とも」

()れは…」

「いずれに、あの子か正太。どちらかが部活を()めた方が()いのよ」

「…()い過ぎだよ。凛子っち」

「凛子!」

 いずなとひろみが、同時に()った。

「ならば、あなた達なら()えられるの? 同じ部活でも。()れで無くても、同じクラスなのよ!」

「…」

 其処(そこ)にあるのは沈黙(ちんもく)だけだった。


 翌日、祐子は学校を休んだ。ひろみも体調不良という事で、早退した。テスト前という事で、部活も無かった。(しか)し、高志と凛子と敬介といずなと明彦が暗い面持(おもも)ちで部室に座っていた。全員、何か、光明(こうみょう)模索(もさく)して、部室に蝟集(いしゅう)したのであろう。()り切れ無い思いで、明彦がボソリと(つぶや)いた。

「祐子ちゃん…。もう、来ないかも知れねえな。…まあ、()の方が()いのかも知れねえけどよ…」

「ムッキー、…()い過ぎだよ。」

「…でも、やっぱり、()の方が()いんじゃないの? 二人にとっても」

 凛子も明彦に同意する。

「…」

 全員無言(むごん)(まま)に、(あた)りは刺々(とげとげ)しい沈黙(ちんもく)支配(しはい)されて行く。何か、そう、(あらが)えない様な、名状(めいじょう)(がた)い悪意と対峙(たいじ)したかの様に…。其処(そこ)へ、正太郎が無言(むごん)(まま)入って来た。まず、怒りの形相(ぎょうそう)の高志が口火(くちび)を切った。

「よう。(なん)挨拶(あいさつ)も無しか?」

 正太郎が(けわ)しい目つきで高志を(にら)みつける。高志は、(はな)から、喧嘩腰(けんかごし)だった。いずなが二人を(いさ)める様に声を上げる。

「ちょっとー。やめなよ」

「無視か? まあ()いけどよ。何をしようとお前の勝手だがな。でも、もうちっと、回りに気を使って遊べや。あと、友人として、一つだけ忠告しておいてやらあ。抑々(そもそも)、女の趣味(しゅみ)が悪すぎらあ。…覚えて置いた方が()いぞ」

「何だと。()野郎(やろう)

面白(おもしれ)え。やるのか?」

 凛子が、たまりかねた様に(さけ)ぶ。

「ちょっと、あんたら。()加減(かげん)にしなさいよ。喧嘩(けんか)なら、外でやりなさいよ。鬱陶(うっとう)しい」

 (しか)し、高志は、全然(ぜんぜん)(おさ)まら無かった。

「お前な。昨日(きのう)、祐子ちゃんが、どんな想いで、誰の(ため)に、あの浴衣(ゆかた)を着て来たのか、考え無かったのか? 使わねえ脳みそなら、捨てちまった方が()いぜ」

「知らねーな。抑々(そもそも)(おれ)が頼んだ(わけ)じゃねえ」

「何だ。()()い草は? てめえ、やんのか?」

 高志がついに切れた。今にも、正太郎に飛びかかろうとした。(まさ)()の時の事である。明彦と敬介が割って入る。

「バカ! やめろ。()加減(かげん)にしねえか!いつも仲良しの二人が…」

「高志、落ち着け」

 明彦が二人の間に割って入り、敬介が後ろから高志を(かか)え込んだ。そして、()の時だった。いずなが涙(なが)らに、両腕でテーブルをドスンと(たた)きつけ、金切(かなき)り声を()げた。

「もう、()加減(かげん)にしてよ。みんなおかしいよ。ぎすぎすとげとげしてさ。高志は祐子の(ため)を思ってなのかもしれないけど、喧嘩(けんか)したって祐子、絶対、(よろこ)ばないよ」

「いや、(オレ)(ただ)、祐子ちゃんの事、考えると、一言(ひとこと)()のバカに…」

「正ちゃんだって、そんな挑発(ちょうはつ)する様な態度を取る事、無いじゃない。いずなは、昨日のアレは正ちゃんワザとじゃ無いと思っているよ。祐子、正ちゃんの事、いつも優しい人だって()ってたよ。先刻(さっき)の正ちゃん見たら絶対に悲しむよ」

「…」

「明彦君や凛子ちゃん達だって、二人の事を思って()っていると思うけど、祐子や正ちゃんの何方(どちら)かがやめた方が()いって、そんなの、祐子や正ちゃんが決める事でしょ。随分(ずいぶん)(ひど)い事、()っている様に聞こえるよ」

()れは…」

 明彦と凛子が項垂(うなだ)れて下を向く。

「いずなが知っているみんなは、もっと優しい人達だよ。どんな困難だって、機知(エスプリ)諧謔(ユーモア)で切り抜ける素敵(すてき)な人達だよ」

 だが、明彦は、ウンザリした様に()き捨てた。

(さて)と、(おれ)は帰るよ。テスト勉強しないとな。()れに、他人事で糾弾(きゅうだん)される(いわ)れも無いしな」

 凛子も、不貞腐(ふてくさ)れた様な態度で、()れに続いた。

(さて)と…、帰ってテス勉しないと。私も、明彦の意見に一票だわ。()(ねずみ)になった挙句(あげく)に、誹謗(ひぼう)される様な覚えは、何も無いもの。あんた達も好きなだけ喧嘩(けんか)でも、議論でもやったら。此処(ここ)で。いずなも批判したければ、此処(ここ)でやっていったら? 私は(まった)く関心無いから、帰らせてもらうわ」

 バタンと、荒々しく戸を閉めて、二人は部室を出て行った。いずなは下唇(したくちびる)()()めて、目には涙が(にじ)んでいた。ボストンティーパーティーは寸々(ずたずた)だった。完全に瓦解(がかい)したかの様に見えた。


 完全に瓦解(がかい)したかの様に見えたのは、祐子の心もであった。祐子の母親は、元来(がんらい)、学校の欠席を安易(あんい)に認める様な母親では無かった。でも、()の時ばかりは、祐子を学校に行かせ無かった。()れはそうであろう。祐子は泣き()んでこそいたが、常態(じょうたい)には、程遠(ほどとお)い事は、明白(あきらか)であった。こんな状態で学校になどやったら、()れこそ、どんな事件が出来(しゅったい)するか、(わか)った物では無い。母親は朝起きて、(うつ)ろな(ひとみ)で学校に行こうとする祐子を、(やさ)しく、押し(とど)め、ベッドへと寝かしつけた。(かたわ)らには、ペスが忠実に(うずくま)っている。ペスは、ベージュの毛並みを持つ、2歳になるラブラドールレトリバーの牝犬(おんなのこ)である。()(しゅ)の犬は、元々(もともと)は猟犬であり、飼い主に非常に忠実で、家族への帰属意識(ロイヤリティ)が大変強い。(しか)も、いつも、大変可愛(かわい)がってくれている祐子に良く(なつ)いており、祐子に何かあったら、(ただ)ちに知らせてくれるであろう。()のペスも、心配そうに、祐子を見上げている。実年齢2歳と()う事は、人間年齢に換算すれば十代後半であり、性別も同じ女の子である。祐子の()()無い気持ちが理解出来(でき)たのかもしれない。祐子はペスを見つめると(つぶや)く様に()った。

「…あのね、…ペス。私、正ちゃんに…、振られちゃった…」

「く…うん」

 ペスは悲しげに鼻を鳴らす。祐子は昨日(きのう)の悲しい思いが去来(きょらい)したのだろう。涙が込み上げて来た。ペスも普段(ふだん)であれば、祐子のベッドに乗ったりはしない。(しか)し、()の時ばかりは違っていた。ペスはベッドに前足を掛けると、祐子の顔に鼻を(こす)り付けて来た。()れだけ、祐子の事が心配であったのだろう。祐子は、そんなペスの体を(やさ)しく()(なが)ら、懸命(けんめい)に涙を(こら)えた。大切な家族の一員であるペスにも、余計(よけい)な心配は掛けたく無かったのであろう。


 明彦、凛子が立ち去った後、正太郎、高志、敬介、いずなは、(しばら)く、立ち(すく)んだ(まま)であった。とても、()る瀬無い瞬間(しゅんかん)であった。(しか)し、()の時、(にわ)かに、風向きが変わった。丁度(ちょうど)、高志が何か()おうとした時に、正太郎が()()ずと(しゃべ)りだした。

「あの、…ごめんなさい。()の部屋にいる人達だけにも先に()わせてもらうよ。昨日は本当に済みませんでした。それに、いずな。先刻(さっき)は俺と祐子の気持ちを代弁してくれてありがとう。()れと、高志。部屋に入った時から、喧嘩腰(けんかごし)だった。本当に、ごめん。済まなかった」

 そう()うと、深々と頭を下げた。顔には、深い悔恨(かいこん)の表情が(うかが)える。祐子の事を、そして、高志との喧嘩(けんか)を、心から後悔(こうかい)している顔だった。いつもの、友人思いの優しい正太郎が(かえ)って来た。高志も頭を()(なが)らも、頭を下げた。

「いや、(おれ)も。言葉が過ぎた。ごめん。…その、大切な人の事も、(ひど)い事を()っちまった。申し訳ない」

 敬介が、(やさ)しく微笑(ほほえ)(なが)ら、いずなに()った。

「いずなちゃん。ちゃんと伝わったじゃん。大丈夫(だいじょうぶ)。あの二人にも、ちゃんと伝わるよ。(ただ)、伝え方は考えた方が()いよ。あれだけ、プライドの高い二人だ。正面から行けば、当然(とうぜん)、反発するさ」

「うん。ありがと。ケースケ」

 いずなは泣き笑顔(えがお)だったが、敬介に、ニッコリ笑った八重歯(やえば)が、愛らしかった。


 翌日、祐子は登校した。(しか)し、当然(とうぜん)普段(ふだん)通りと()う訳には行か無かった。祐子が、此処(ここ)最近、見せていた人懐(ひとなつ)っこさや愛嬌(あいきょう)は、思い切り影を(ひそ)めていたし、正太郎とは目を合わせようともしなかった。顔も、此処(ここ)、二日間泣きっぱなしでは、と思う(ほど)()れぼったかったし、何よりも、吹奏楽(ブラスバンド)部員との接触を絶っているとしか、思えなかった。そんな祐子にメールが来る。高志からだった。教室で高志の席である一列目の最後列を見る。(しか)し、高志は外方(そっぽ)を向いて座っている。一体(いったい)、何事だろう?

『本日、17時、赤灯台で待つ』

 ()の一行だけであった。


 赤灯台は久し振りの梅雨晴間(つゆばれま)である。比較的、分厚い雨雲に囲まれ(なが)らも、雲間(くもま)から薄日(うすび)()していた。時折(ときおり)、そよ吹く、白南風(しろはえ)が、強い(しお)の香りを運んで来る。高志は先着して突堤(とってい)腰掛(こしか)けていた。祐子の姿を見ると、突堤(とってい)から飛び降り、そして、()った。

「いよう、…態々(わざわざ)、済まなかったな」

 祐子は()()ずと話し掛けて来た。

「あの。まず、一昨日(おととい)はごめんなさい。ひどく混乱して。ママに聞いたの、いろんな人に迷惑掛けて…。みんなに謝ろうと思ったのに、勇気が出なくて。ところで、今日は如何(どう)したの?」

 高志がボソリと()った。

「あのさあ。…(おれ)と付き合ってくれないかな? ()の…、交際して欲しいんだけど…」

 長い沈黙(ちんもく)の末に、祐子がポツリと()った。

「…嘘」

「嘘じゃないよ」

「私、そんな事。()われたこと無いから…。それに、高志君、私の気持ちを知っているし…」

「知っているからこそ、かも、知れないぜ」

 (しばら)く、沈黙(ちんもく)が続いた。長い沈黙(ちんもく)だった。決心をする為の沈黙(ちんもく)だった。(やが)て、沈黙(ちんもく)を破って、祐子が(おもむろ)(しゃべ)り始めた。

「高志君。真面目(まじめ)()ったから、私も真面目(まじめ)にお答えするね。私、好きな人がいるの。小学校の頃からずっと…」

 其処(そこ)で、祐子は一息(ひといき)つくと、残りを一気(いっき)()った。

「だから、高志君の気持ちには、応えられません。…ごめんね」

 それを聞いた高志は、残念そうな顔つきで頭を()(なが)()った。

「そうか。…分かった。一つ、いや、二つだな。条件がある」

「条件?」

「ああ」

「何?」

「まず、部活はやめるな」

()れが条件?」

「ああ、そうだ。お前がやめると、恐らく、いずなもやめる。当然(とうぜん)、敬介もやめる。正太だって行動の割には、(けっ)して線が太くない。そんな状況の中で居残るとは思えない。ボストンティーパーティーはバラバラさ。主催者(しゅさいしゃ)として、()れは(あま)りにも(つら)い」

「…分かった。二つ目は?」

「…おっぱい触らせて」

「…」

 祐子は、高志が()った、一見(いっけん)的外(まとはず)れな条件も、不謹慎(ふきんしん)(きわ)まり無い条件にも、(うつむ)いた(まま)沈黙(ちんもく)している。が、(やが)て、顔を上げ、答えた。

「一つ目は…約束する」

「二つ目は?」

「…絶対、駄目(だめ)

 ()れを聞いた高志は、如何(いか)にも仕方無(しかたな)さそうに肩を(すく)めると、()()った。

「…分かった。仕方無(しかたな)いな。()れで、手を打とう」

 ()れでも、祐子は今出来(でき)精一杯(せいいっぱい)笑顔(えがお)()()った。

「でも、…今日は。ありがとね。私も勇気が出た」

(なん)の勇気だ?」

「えへへ。内緒(ないしょ)

 祐子はそう()って、高志に向かってお辞儀(じぎ)をすると、

()れじゃあね」

「何だよ、もう、帰るのか?」

「うん。だって、明日から期末テストだよ。実は、昨日(きのう)、ひろみちゃんが、学校さぼって、うちに来てくれたの。『みんな、待っているから、早く学校に来て』って…、でも、今日はありがとう。本当にありがとう」

 そう()うと、祐子は涙を(ぬぐ)った。そして、自転車に乗ると、()の場を去って行った。祐子の後姿(うしろすがた)が遠ざかって行く。()の延長線上には、江尻(えじり)船溜(ふなだ)まり。そして、(さら)に向こうには、(きり)(かす)んだ山原(やんばら)の中継塔が(かす)かに見えた。(さなが)水墨画(すいぼくが)技法(ぎほう)の様に色の濃淡(のうたん)だけで表現された、(くす)んだ灰色の山影(やまかげ)である。山の方は、()だ雨なのかもしれない。(やが)て、祐子の姿が倉庫の角を曲がって見え無くなった時に、顔のニキビを気にしていた高志はふうっと、深い溜息(ためいき)()らし、(やが)て、大声で(さけ)んだ。


「おーい。いるんだろ。出て来いよ」

 建物の影から、いつもの面々(めんめん)が出て来た。祐子を(のぞ)いた全員がいる。下を向いた正太郎もいる。ひろみが、(あき)れた様に()った。

「最低っ」

「えぇっ。ちょっと待てよ。今日、俺、大分(だいぶ)()い事()ったよ」

「おっぱい(さわ)らせて…」

「最低」

 と、いずなも続く。ひろみが、

「もし、祐子が()いよって答えたら、如何(どう)するつもりだったのよ?」

「ばかやろ。千載一遇(せんざいいちぐう)好機(チャンス)じゃねーか。そん時は…(さわ)るに決まって…。ぐええっ」

 ひろみが、踏み込んで肘打(ひじう)ちを食らわしていた。

「本当っ。最低。でも、ちょっとだけ、格好(かっこう)良かったわよ。ちょっとだけだけどね。これっ位だけどね」

 ひろみは、自身の左手の親指と人()し指で、ランドルト(かん)の様な形を作り、高志に見せ付けた。横で、明彦と凛子が()()ずといずなに歩み寄り、(やが)て、意を(けっ)した様に()った。

「あの、いずな。昨日は…その、()い過ぎた。すまん」

 凛子も申し訳なさそうにいずなに()った。

「私も、喧嘩腰(けんかごし)で、感情の(おもむ)(まま)に、(ひど)い事を()った。いずなに、謝ろうと思ってたけど、その、素直(すなお)になれなくて。ごめんなさい」

「ううん。いずなの方こそ、デリカシーの無い()い方をして、ごめんなさい。ケースケに(さと)された。あんな()い方をしなくても、ちゃんと伝わるって。…ごめんね」

 いずなの目にはまた、涙が(にじ)んでいた。(うれ)しかったのだろう。明彦と凛子は顔を見合わせた。二人とも、和解出来(でき)てほっとしたのだろう。ひどく(おだ)やかな顔だった。

「帰ろうか?」

「そうだね」

 ひろみが、高志に呼びかけた。

「帰らないのー!」

「もう少し。海を見ていくよ。何てったって、(おれ)、今日、失恋したばかりなんだぜ」

 そう()うと、高志はまた、突堤(とってい)の上に登り、海を(なが)め始めた。遠くでカモメの鳴き声が聞こえる。ふんだんに湿気(しっけ)を含んだ潮風(しおかぜ)に、夏の香りを感じる。ひろみは、突堤(とってい)上の高志に向かって大声で(さけ)んだ。

「元気出しなさいよ。高志。本当は、今日のあんた。かなり、格好(かっこう)良かったわよ。祐子が(うらや)ましくなる位に」


 高志は()れには答えずに、左手を上げただけだった。みんな、帰って行った。だが、正太郎だけは一人残った。そして、突堤(とってい)を登り、高志の横に並んだ。目の前をのんびりと港内遊覧船が横切って行く。夏の()は長く、周囲はまだ明るかった。正太郎が素直(すなお)に口を開いた。

「…済まなかったな」

「ああ。…まあ、気にするな」

「…千春は、何がしたかったのかな」

「さーな」

 (しば)しの沈黙(ちんもく)の後、高志が口を開いた。

「忘れろ。今回の一件、忘れることが最高の解毒剤だ。お前にとっても、あの子にとっても、そして、祐子ちゃんにとってもな」

 また、(しば)しの沈黙(ちんもく)の後、今度は正太郎が口を開いた。

「本気だったのか?」

「何が?」

「祐子の事」

「ああ」

 高志は肯定(こうてい)した後、にやりと笑い、(ひど)くきっぱりと()った。

当然(とうぜん)だろ。大体(だいたい)()の状況で、『やっぱ、冗談(じょうだん)でした』なんて、()って見ろ。(こわ)れちまうぞ、祐子ちゃん」

「ああ、だがお前は、祐子が絶対受け無い事を、知っていた…」

「…。まあな。聞いたろ。小学校の頃から、好きな人がいるんだとさ」

「…」

 長い沈黙(ちんもく)の後、(うつむ)いた正太郎が、小さく、(つぶや)いた。

「…(おれ)は。…如何(どう)したら()い?」

 高志は手ごろな石を一つ、右手で拾って、海に向かって、思いっきり投げ込んだ。元野球部のエースである。()れは、驚く(ほど)遠くの水面に、小さな水柱を一つ、作った。

「さあな、知るか。おまえが決めろ。そんな事は」

「…そう…だな」

 もうすぐ、梅雨明(つゆあ)けも近いのだろう。珍しく、薫風(くんぷう)江尻(えじり)埠頭(ふとう)を渡って行った。


 翌日。水曜日から金曜日までが期末試験の期間だった。水曜日と木曜日には、誰も部室には来なかった。4組でも相変らず微妙(びみょう)な空気だった。特に、正太郎と祐子は、会話は交わすものの気まずかった。()れでも、最終日の金曜日、テストが終わった後に、正太郎が祐子に話し掛けた。かなり、逡巡(しゅんじゅん)した上で、勇気を振り(しぼ)った一言だった。

「祐子…ちゃん。一緒(いっしょ)に帰っても()い?」

「…うん」

 祐子は徒歩である。正太郎は自転車を引いて一緒(いっしょ)に歩いた。祐子と一緒(いっしょ)に歩くのは、随分(ずいぶん)と久し振りの様な気がする。長らく続いた梅雨空(つゆぞら)雲散霧消(うんさんむしょう)し、久し振りの抜ける様な青空だった。時折(ときおり)白南風(しろはえ)熱波(ねっぱ)()れだってやって来る。二人は、無言の(まま)(ただ)黙々(もくもく)と歩いていた。沿道(えんどう)の民家の生垣(いけがき)沿()いに、背の高い立葵(タチアオイ)の赤い花が顔を(のぞ)かせている。もうすぐ、夏本番である。夏の日差(ひざ)しを受け、青々(あおあお)とした葉っぱが(きら)めいていた。どの立葵(タチアオイ)も、一番上の(つぼみ)が開花しようとしている。不意に、正太郎が自転車を止め、立ち止まると、立葵(タチアオイ)を見上げ(なが)ら、ぼそりと(つぶや)いた。(なん)の意味の無い一言ではあった。恐らく、祐子に話し掛ける切欠(きっかけ)(ため)の、正太郎なりの精一杯(せいいっぱい)の言葉だったのだろう。

立葵(タチアオイ)天辺(てっぺん)に花が咲くと、梅雨(つゆ)が明けるんだよ。もうすぐ、梅雨(つゆ)が明けるね」

 (めず)しく、(さわ)やかな瑠璃色(るりいろ)の風が()()けて行く。そして、正太郎は、(おもむろ)立葵(タチアオイ)の赤い花を()むと祐子の髪に(やさ)しく()して、(うつむ)加減(かげん)()った。

「祐子ちゃん。ごめんね。(おれ)、祐子ちゃんをひどく傷つけた。()れに、根性無しで、卑怯者(ひきょうもの)だから、こんな事位しか、出来無(できな)い…」

「ううん。ありがと」

 そう、()(なが)ら、祐子は正太郎を見据(みす)えると、(やさ)しく微笑(ほほえ)んだ。久しぶりに、祐子の屈託(くったく)の無い笑顔(えがお)が見れた。そうだ、()の笑顔だ。()れが、どんなにか安らぎを与えてくれた事か。

「私の方こそ、みんなに迷惑掛けた。正ちゃんにも。あれは、正ちゃんが悪くないもの。()れに、正ちゃん卑怯者(ひきょうもの)なんかじゃないよ。私の…ヒーローだもの」

 祐子の笑顔(えがお)が、正太郎の背中を押してくれた。それに、()だ、一番肝心(かんじん)な事が()えて無い! 渋川橋東(しぶかわばしひがし)交差点まで来た時、正太郎が、

「祐子ちゃん。ちょっと待っていて」

 正太郎の姿が、目の前の家の中に消え、(しばら)くして()ぐに出て来ると、走って(もど)って来た。

「家に自転車と荷物を置いてきた。送って行くよ」

 二人は歩き(なが)ら、テスト明けの開放的な状況での、長閑(のどか)な会話を楽しんでいた。だが、()ぐに祐子の家である。(しか)し、祐子も、

「えへへ。私も家に荷物を置いてきちゃった。()れに、お花も…。もう少し、一緒(いっしょ)にお話してもいい?」

「うん」

 二人は、巴川(ともえがわ)沿()いを、下流に向かって歩き出した。他愛(たわい)も無い話が妙に(はず)んだ。もうすぐ、旧国道1号の巴川(ともえがわ)橋である。道幅(みちはば)(にわ)かに広くなった。川向こうの自動車学校から教習車が、(しき)りに出入りしていた。民家の生垣(いけがき)にはまだ青々(あおあお)とした、風船葛(ふうせんかずら)がいくつもぶら下がっている。祐子は幸運にも、知っていた。世の中の大抵(たいてい)出来事(できごと)は、後になってみれば笑い話になる事を。(ただ)()の為には、一歩を踏み出さなければならない。()の一歩は、今の祐子にとって、万里(ばんり)の道なのだ。途轍(とてつ)も無い勇気と、(おびただ)しい出血と痛みが、代償(だいしょう)として必要なのだ。勿論(もちろん)漠然(ばくぜん)と時を消費する事で、自然と笑い話に成る事もあるかもしれない。(しか)し、祐子は青春真っ只中(まっただなか)に居るのである。漫然(まんぜん)と過ごして行く様な時間など、何処(どこ)にも無いのだ。(やが)て、祐子は意を(けっ)した様に、()の一歩を踏み出した。

「あのね、正ちゃん。本当は、千春ちゃんとは、もう、付き合っていないでしょう?」

 真実はそのとおりだった。二人は去年の暮れに別れていた。正太郎が振られた形だった。正太郎にしてみれば、突然(とつぜん)、告られ、3ヵ月後に、突然(とつぜん)振られた状況だった。あまりにも、身勝手な話だった。入学式の時に、高志に、彼女がいると(うそぶ)いたのも、それを認めたくない心理の、裏返しだったのかもしれない。認めたくは無かった。が、如何(どう)あれ、

『もう、会わないようにしましょう』

 と()われたのは事実だった。今となっては、何が起こったのか、皆目(かいもく)、分からなかった。自分が何かしたのならまだ()い。だが、正太郎にとって、突然(とつぜん)の告白、そして、突然(とつぜん)の失恋だった。事態に対して、頭が、心が、付いて行けなかった。


 さらに、正太郎をジレンマに陥れたのが、祐子の存在だった。正太郎の心中(しんちゅう)天秤(てんびん)は、清水高校入学以来、急速に祐子に(かたむ)いて行った。(しか)し、正太郎は()えてそれから、目を切った。正太郎の美意識と相容(あいい)れ無い感情だった。『たとえ、振られたのであっても、すぐ、別の人を好きになる事は許されない』、思春期特有の美意識か、(ある)いは、正太郎固有の物かは、分から無い。(しか)し、()の美意識から一つだけ()れてている物があった。祐子の感情である。それが正太郎の不覚(ふかく)だった。随分(ずいぶん)、間の抜けた話ではあるが、正太郎は祐子が自分に抱いていた感情を、予想だにしなかったのである。そして、()不覚(ふかく)が先日の事件の引き金となった。

如何(どう)して。…そう思うの?」

「そんなの、正ちゃんを見ていれば、分かるよ。幼稚園の頃から、ずっと見ていたんだから…」

 そう()うと、祐子は、やや間を空けて、再び、語りだした。

「私、本当は、正ちゃんのそばに居れれば()い、見ていられるだけで()い。そう、思っていた。でも違った。もっと、そばにいたい。もっと、もっと、一杯(いっぱい)お話したい。何時(いつ)だって、(となり)にいたい。そして、…他の子には、取られたく無い。…だから」

 祐子は正太郎の方に向き、居ずまいを正すと、ニッコリ笑って()()った。

「私、正ちゃんの事が好きです。小学校の頃から、ずっと…。私、美人では無いし、おデブだけど…。お願いです。()し、良ければ、私と付き合って下さい」

 それは、祐子が永年に渡り、(はぐく)んで来た少女らしい憧憬(どうけい)が、いつしか愛情へと昇華(しょうか)し、自らの殻を内側から突き破り、告白という名の飛翔(ひしょう)をした瞬間(しゅんかん)であった。正太郎は祐子の事をまじまじと見つめた。丸顔の愛嬌(あいきょう)のある顔。確かに、美人顔では無かった。でも、笑顔(えがお)を絶やさない()の顔は、世界中の誰よりも可愛(かわ)いかった。いつも(やさ)しい言葉を掛けてくれる、ぽっちゃりした()の顔は、世界中の誰よりも愛らしかった。そして、自分に好意を抱いてくれている、コロコロッとした()の子の事が、世界中の誰よりも(いと)おしかった。


「…ごめん」


 正太郎が不用意に放った()の一言で、祐子は口に両手を当てた(まま)、『ひいっ』と、小さな悲鳴を上げ掛けた。(しか)し、正太郎は(あわ)てて、早口(はやくち)訂正(ていせい)した。

「…あっ。いや。そう()う意味じゃなくて。こんな事、()わせちゃって、ごめん。…本当は、僕も祐子ちゃんの事、入学した日から意識してた。気がつくと、いつだって、祐子ちゃんの姿を探していた。本当は、学校祭の時に、二人で大冒険出来(でき)て、すごく(うれ)しかった。学校祭の時に、手を(つな)いで歩いて、とても、(しあわ)せだった。()の間の(くだり)の後で、こんな事を言うのは、烏滸(おこ)がましいけど、そして、自分としても嫌だけど、祐子ちゃんが勇気を出したから、僕も()うね。僕は祐子ちゃんの笑顔(えがお)が大好きです。そして、祐子ちゃんの事が大好きです。こんな僕でよかったら、付き合ってください。…祐子ちゃんに、悲しい思いをさせてごめんね。泣かせちゃってごめんね。告らせちゃってごめんね。本当は、僕が()うべき事だったのに…」

 祐子が産れて以来(このかた)、一番聞きたかった言葉だった。

「ううん、そんな事無いよ。レンゲ、白つめ草、虞美人草(ぐびじんそう)、ジャスミン、そして、今日は立葵(タチアオイ)。正ちゃん一生懸命(けんめい)伝えようとしてくれていたもん。私が、気がつかなかっただけで…。うれしい…。ありがとう。正ちゃん、大好きです」

 (うれ)しそうな笑顔(えがお)の祐子のほほを涙が二筋伝った。続いて、嗚咽(おえつ)。祐子はお辞儀(じぎ)をする様な格好(かっこう)で、正太郎の胸に顔を(うず)めた。祐子の肩が大きく震えていた。

(私、(うれ)しいのに…。(うれ)しい(はず)なのに、何で泣いちゃっているんだろ)

 祐子には解けない疑問だった。(しか)し、祐子にしか解けない疑問でもあった。それ程(まで)に、祐子は正太郎の事を()がれていたのである。正太郎は祐子の髪を(やさ)しく()でていた。不器用な彼には、他にするべき事が、思い浮かばなかったのだ。焼けた土瀝青(アスファルト)の照り返しがギラついている。正太郎は(まぶ)しそうに、少し目を(しばた)いた。白南風(しろはえ)土瀝青(アスファルト)から立ち上る陽炎(かげろう)を払って行く。


 正太郎達以外のいつものメンバーは部室で(くつろ)いでいた。ブラスの練習再開は来週の火曜日からだったが、テスト終了後の開放感が、彼らを部室に(いざな)った。期末テストも終わり、後は夏休みを待つだけだった。取敢(とりあ)えず、海の日である、来週月曜日の『清水巴川(ともえがわ)灯ろうまつり』にみんなで行こうと()う話に成っていた。

「あれっ。祐子からメールだ。何だろう」

 ひろみが(つぶや)いた。メールは、ひろみ、いずな、凛子に同時に到着した様子だった。

『正ちゃんに告りました。そして、正ちゃんからも告られました。応援してくれて、本当にありがとう。いろいろ、心配掛けてごめんね』

 (たちま)ち、部室内は安堵(あんど)の空気に支配された。

「ゆーちん。本当に良かったね」

「祐子、良く勇気を出したね。良かったわね。これも、誰かが背中を押したお陰かな。振られた甲斐(かい)があったわね」

 ひろみがニヤニヤし(なが)()った。明彦もそれに続く。

「おう、そうだな。壮絶な爆死だったもんなあ…」

 高志が顔を赤らめ(なが)ら、反駁(はんばく)する。

「うるせー。あいつら、幼稚園の頃からの付き合いだぞ。(かな)う訳無いだろ」

 敬介が、しみじみと、

「なんか、そんな話あったよな。えーっと。美人局(つつもたせ)だっけか?」

筒井筒(つついづつ)よ。ばかね、『つつ』しか、合って無いじゃないの。全然(ぜんぜん)、違うでしょ」

 ひろみが(あき)れた様に、敬介を(たしな)める。それを聞き(とが)めた高志が(たず)ねる。

「何だ。それ?」

「伊勢物語よ。知らないの?」

 ひろみが()った。

「小さい頃、無邪気(むじゃき)に遊んでいた幼馴染(おさななじみ)間柄(あいだがら)の二人が、思春期(ししゅんき)になり、変にお互いを意識し始めて、会わなくなってしまった。でも、最終的に結ばれる。確か、そう()う話よ」

「まんま、あいつらじゃないか」

 明彦が嘆息(たんそく)した。ひろみが続けた。

()の時、男が送った歌が確か、『筒井つの 井筒(いづつ)にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに』井戸の井筒(いづつ)と背比べをした私の背は、もう井筒(いづつ)を越してしまったようだ。あなたに会わないでいるうちに。って意味で、変に意識して会わなくなってから、こんなにも経ってしまったのかって()う心情を歌ったものよ。それに対して女が送った歌が…、(なん)だっけ?」

 いずながそれを受けて、

「『くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき』、比べ合ってきた私の振り分け髪も、肩を過ぎました。あなた以外の誰の為に、()の髪を結い上げましょうか。一途(いちず)な心情が良く表れているよね。本当に、ゆーちんみたい。すごくロマンチックな話だよね」

「本当に祐子たちみたいね」

 凛子が改めて嘆息(たんそく)した。

 いずなが、夢見がちな顔付きで()った。

「ゆーちん、如何(どう)してるかなあ。メールしてみようか?」

 敬介が、

「おーい、野暮(やぼ)()めときなよ」

「いーから、いーから。えーと。『今、何しているの?』、えいっ」

 敬介が(あき)れて、

「あーっ。本当に送ちゃった。いずなちゃん、駄目(だめ)だよ」

 高志が、ニヤニヤし(なが)()った。

「ばかだなー。『今、正ちゃんとホテルにいるの。何をしてるかは、二人だけのひ・み・つ』なんて、メールが返ってきたら、どーすんだよ。ぐわあっ」

 ひろみが、肘打(ひじう)ちを食らわした。()の光景も最早(もはや)お約束になりつつある。

「バカはあんたでしょ。そんなメールが来る訳無いでしょ?」

「あっ。メール来た」

「えーっ。マジなの? やっぱ、本当にラブホにいるの?」

 いずなは笑い(なが)ら、

「違うよ、ひろみっち。えーとね。ほら。『いま、正ちゃんと『ポプテピピック』の話で盛り上がっているの。ピピ美ちゃんて横顔美人だよね』って」

「ポプテだあ?」

 と高志。

「そう()う漫画だっけか? あれ」

 とひろみ。

「いや。違うだろ」

「あっ。またメール来た。今度は、(ファイナル)(ファンタジー)の話で盛り上がってるみたい。ピスコディーモンって本当にうざいよね。あと、ビホルダーも。って」

()ってる事は間違っちゃいないが…。あいつら、愛を語らう気あるのか?」

「さあ」

「でも、()いんじゃないかな。とっても、ゆーちんらしいよ」

 いずなは遠い目をし(なが)ら、窓から外を見下ろした。道路の土瀝青(アスファルト)の照り返しが、少し、(まぶ)しかった。

「だな」

 部室の中にも、ゆったりとした長閑(のどか)な時間が流れている。


 7月16日、『清水巴川(ともえがわ)灯ろうまつり』は、幸いにも晴天に恵まれた。ひろみ達は流石(さすが)に、祐子に遠慮して誘わなかった。高志達にしても、同様である。正太郎と祐子は渋川橋(しぶかわばし)で19時に待ち合わせた。正太郎は開襟(かいきん)シャツにジーンズ。足下(あしもと)はサンダルだった。祐子は浴衣(ゆかた)姿だった。

「えへへ。また着てきちゃった。変かな?」

 正太郎はまじまじと祐子を見つめた。祐子の浴衣(ゆかた)は青系統を基調(きちょう)としたものである。瓶覗(かめのぞき)の地に白抜きと紺色の川柄(かわがら)蝦色(えびいろ)縮緬帯(ちりめんおび)に、藍錆色(あいさびいろ)桔梗(ききょう)(あしら)った(すず)しげな図柄(ずがら)である。

「ううん。とても良く似合っている。…それに、…すごく綺麗(きれい)だ」

 祐子のほほがぽっと赤くなった。含羞(はにか)む様な笑顔(えがお)がとても(しあわ)せそうだった。

「…もう。…()ずかしいよ」

 祐子は、町内会で配布された、(うぐいす)色、真珠(しんじゅ)色、桜色の、三色の段だら模様(もよう)灯篭(とうろう)持参(じさん)していた。『家内安全(かないあんぜん)』と書かれた横に、祐子の達筆な毛筆で、『正ちゃんと仲直り出来(でき)ます様に』と、書かれていた。

「ママが流して来てって。あっ。これ。…もう、願い(かな)っちゃったね」

 そう()ってほんのりと赤らめた祐子の顔は、とても(うれ)しそうだった。二人で灯篭(とうろう)(あかり)(とも)す。蝋燭(ろうそく)(ほの)かな炎は、ゆらゆらと()らめき、ぼんやりと周囲を浮かび上がらせた。正太郎と祐子は、二人で渋川橋(しぶかわばし)から灯篭(とうろう)を流した。渋川橋(しぶかわばし)灯篭(とうろう)流しの橋の中では、最上流にあたる。これより上流は能島橋(のうじまばし)(まで)、橋がない。灯篭(とうろう)の数も、()だ、(まば)らである。祐子の家の前を通り過ぎ、二人は巴川(ともえがわ)東岸を下流に向かって歩き始めた。川の方からそよ吹く、水気(みずけ)(ふく)んだ夜風が、(かす)かに鼻腔(びこう)(くすぐ)る。川面(かわも)にはポツリポツリと灯篭(とうろう)(あわ)い光を放っている。祐子は、正太郎が何か袋を手している事に気がついた。

「正ちゃん。それは?」

「ああ。高志の体育館シューズ。()の前の球技大会の時借りたのだけど、喧嘩(けんか)して返しそびれちゃっていて、どうせ、花火の時に合流するだろうから持ってきた」

「高志君にも、気を使わせちゃって、申し訳無かったな…」

「本当だね。(おれ)も、高志に借りが出来(でき)た。…ところで、祐ちゃん。お誕生日何時(いつ)なの? 確か、8月だったと思ったけど?」

 祐子がニコニコし(なが)ら、()った。

「8月31日。おとめ座。A型。正ちゃんは9月14日。おとめ座。B型。でしょ? 私の方がちょっとだけお姉さんだね」

 正太郎は、祐子が自分の誕生日を知っている事に真っ赤(まっか)になり(なが)ら、応える。

「良く知ってるね?」

「正ちゃんの事は大抵(たいてい)知ってるつもりだよ」

「…ありがと」

如何(どう)いたしまして」

 微妙(びみょう)()じらいを感じた祐子が、閑話休題(かんわきゅうだい)をしたかったのだろう。話題を変えた。

「ところで、おとめ座って、今日見れるのかなあ?」

 ハハハと、笑い(なが)ら、正太郎が、明るく説明する。

多分(たぶん)無理だと思うよ。十二星座は黄道(こうどう)十二宮(じゅうにきゅう)()って、黄道(こうどう)上(太陽の通り道)の星座を12に区分けしたものだよ。自分の生まれ月に太陽が其処(そこ)にいると()う事だから、自分の星座が見れるのは、誕生月と反対側の季節だよ。おとめ座が見頃(みごろ)なのは冬から春先に掛けてだよ」

「そうなんだ」

「おとめ座には、スピカ(スパイカ)って一等星があってね。『春の大三角』の一つだけど。ギリシャ語で麦の穂先(ほさき)って意味だよ。英語で()うところの『スパイク(突起(とっき))』だね。真っ白(まっしろ)綺麗(きれい)な星だよ。祐ちゃんみたいに真っ白(まっしろ)…」

「…ちょっと。()ずかしいよ」

 祐子が照れ(なが)ら続けた。

「でも、『春の大三角』って、初めて聞いたよ。スピカってすぐ見つかるの?」

「うん。すごく見つけやすいよ。冬から春って『北斗七星』が見えるだろ。柄杓星(ひしゃくぼし)()柄杓(ひしゃく)()の部分が湾曲(わんきょく)しているのけど、大体(だいたい)、同じ曲率で曲線を延長していくと、オレンジ色の星にぶつかる。『アークチュルス』って、うしかい座の一等星だけど、さらに同じ曲率でほぼ、等距離伸ばすと、真っ白(まっしろ)な星に行き当たる。それがスピカだよ。あとそれに、しし座のデネボラの3つが『春の大三角』になるんだけどね」

「すごいね、正ちゃん。星、(くわ)しいんだね。知らなかったな」

 正太郎は照れて、少し赤くなる。

「そして、北斗七星、柄杓(ひしゃく)()とスピカとアークチュルスの曲線の事を、『春の大曲線』って、言うんだよ。()の季節の()の時間なら、北斗七星やアークチュルスは見れると思うけど、スピカは如何(どう)かなあ?」

「春になったら、探すの手伝ってくれる?」

「うん」

「私、星の事、全然(ぜんぜん)、知らないもん。『夏の大三角形』も化物語のオープニングテーマ曲で知った位だよ」

「夏三角はこれからが見頃(みごろ)なんだけど、最近の夏って、もの(すご)く暑いだろ。だから、夜でも空がぼうっと靄掛(かすみが)かったようになって、(すご)見辛(みづら)いよ。9月になってからの方が見易(みやす)いかもね…」

「今度、『夏の大三角形』も教えてね」

「うん」

 (やが)て、正太郎達が歩いてきた川沿()いの細い道は国道1号とぶつかり、巴川(ともえがわ)橋を過ぎた(あた)りから、徐々(じょじょ)に、灯篭(とうろう)の数が増えて来た。薄暮(はくぼ)に包まれていた風景に、川面(かわも)灯篭(とうろう)()()える様になり、二人の通った小学校の脇を抜ける頃には、夜の(とばり)が完全に下りていた。


 どーん。


 大きな音とともに、花火が始まった。夜空に大輪(たいりん)の花が咲く。花火の残滓(ざんし)が、パラパラと夜空に散って行く。川面(かわも)()える無数の灯篭(とうろう)()(むこ)うには清水市街地のビル群の参差(しんし)なシルエット。そして、夜空を(いろど)る赤、青、黄、緑、紫の大輪(たいりん)の花。とても、幽玄(ゆうげん)な光景である。()幻想的(げんそうてき)な風景と、祭り独特の雰囲気(ふんいき)が正太郎の背中を押した。

「あのね、祐ちゃん。手を(つな)いでも()い?」

「うん」

 祐子の手は、とても柔らかで熱かった。正太郎は祐子の手の感覚に、少し戸惑(とまど)っていた。正太郎は、はにかみ(なが)()い出した。

「本当は、春の花見の時、まだ、みんなと合流する前。桜の下で、…その、祐ちゃんと手を(つな)ぎたかったんだ。でも、恥ずかしくて()い出せなかった。…ごめんね」

「えーっ、実は、私も。後、30センチ手を伸ばせばって、何度も思った。…でも、勇気が出なかった。子供の頃は、いつも、手を(つな)いで歩いていたのにね」

 祐子はにっこりと笑い(なが)ら、回想した。

「本当だね。来年、桜の季節に、また、大沢川へ見に行こうよ。そうしたら、今度は手を(つな)いでも()いかな?」

勿論(もちろん)だよ。じゃあ、約束ね」

 正太郎と祐子は子供達がするように、指きりを交わした。


 二人は清水銀座を抜け、赤灯台へ向かった。(くだん)の裏通りのホテルの前に()()かった時、何事か、正太郎が、一瞬(いっしゅん)、立ち止まった。後ろから、祐子の声が追い掛けて来た。

「寄ってく? 私、正ちゃんとなら…。()いよ」

 やや、後方にいる祐子の表情は、(うかが)え無い。

「えっ?」

 驚いた正太郎が振り返ると、祐子がニコニコし(なが)ら、イタズラっ子の様な顔つきで()()った。

「でも、正ちゃん。浴衣(ゆかた)の着付け出来(でき)るの?」

 いつもの、祐子に戻っている。正太郎はどぎまぎしていた。正太郎の、一瞬(いっしゅん)見せた残念そうな顔を、見透(みす)かした様に、祐子が()った。

浴衣(ゆかた)は、()の為の、防護服ですよーだ」

「…もう」

 真砂踏切(まさごふみきり)を渡り、小さな公園に()()かった頃、正太郎は祐子の歩みが遅くなっている事に気がついた。赤灯台には高志達がいる(はず)だが、()道程(みちのり)で1キロ以上ある。不吉(ふきつ)な胸騒ぎが正太郎を支配(しはい)した。正太郎は竜爪山(りゅうそうざん)の登山を思い出した。あなやとばかり、祐子の足下(あしもと)桐下駄(きりげた)を見た。慣れない鼻緒(はなお)()れたのだろう。両足とも鼻緒(はなお)の部分に血が(にじ)んでいた。

「祐ちゃん。足!」

大丈夫(だいじょうぶ)だよ。平気だよ」

「平気じゃないよ。血まみれじゃないか!」

 祐子を公園のベンチに腰掛(こしか)けさせ、正太郎は自分のサンダルを水道で洗う。正太郎は自身のサンダルを祐子に差し出した。

「俺のサンダルなら、ちょっと大きいけど、鼻緒(はなお)が無いから。まだ、楽でしょ。花火は此処(ここ)で見ようよ」

 二人は公園のベンチに腰掛(こしか)けた。だが、此処(ここ)からだと、ビルの陰になって、(あま)り花火は見えない。どーんどーんという、大きな音だけが聞こえる。

「いずなちゃん達にも合いたかったな。でも、正ちゃん。履物(はきもの)如何(どう)するの? 私の桐下駄(きりげた)入るかなあ?」

「いや、高志の体育館シューズを、使わして(もら)うよ。それより、足は大丈夫(だいじょうぶ)?」

 祐子の桐下駄(きりげた)を、高志の体育館シューズの袋に納め、祐子の(となり)に座った。祐子の瞳が潤んでいた。

「正ちゃん。本当に優しいね。ありがとう。足、平気だよ」

 夜空を()める(あざ)やかな色彩(しきさい)。広がっては消え、消えては広がる、幻想的(げんそうてき)な光の(はな)の中、握った手と手の(まま)に、どちらからともなく、二人の(くちびる)が合わさった。祐子の(くちびる)はとても柔らかかった。ふたりとも、初めてのキスだった。


 帰り道、(くだん)のホテルの前に()()かった時、それは起こった。祭りの高揚感がそうさせたのかもしれない。一夜限りの魔法の様な出来事(できごと)だった。再び、手を引かれた祐子の足取りが、ハタと止まり、後ろから、魔法の様な祐子の声が追い掛けて来た。

「私、正ちゃんとなら…。()いよ」

 耳の迷いでは無かった。…と、思う。今度は、正太郎は躊躇(ちゅうちょ)しなかった。祐子の手を(つか)むと足早(あしばや)に、レストランではなくホテルの方へ。二人はロビーを抜け、部屋を選択し入室した。正太郎の心臓は早鐘(はやがね)の様に、と()うよりも、(かつ)て無いような鼓動(こどう)(きざ)んでいた。それこそ、心臓が破裂するのでは、と思った程だった。部屋に飛び込んだ時には、全身の力が抜けてしまっていた。恐ろしい(まで)の脱力感で、まるで、自分の体では無いみたいだ。正太郎がベッドの(はし)腰掛(こしか)けた時には、腰に(にぶ)い痛みが走った。立ち上がる事が出来無(できな)い。極度(きょくど)緊張(きんちょう)興奮(こうふん)で、そう、所謂(いわゆる)、腰が抜けたという奴だ。それでも、晩熟(おくて)な少年と内向的な少女とが、一気(いっき)に大人の階段を駆け上がった瞬間(しゅんかん)だった。二人はベッドの(はし)腰掛(こしか)け、手を(つな)いだ(まま)(くちびる)を重ねた。祐子が、気持ち(うつむ)(なが)ら、()った。

「正ちゃん。私、…初めてだから、うまく、出来無くても…嫌いにならないでね」

「僕も、初めてだから、失敗したら、…ごめんね」

「それに、私。かなり、…おデブだよ」

 正太郎は顔を赤らめ(なが)()った。

「僕、おデブな祐ちゃんの方が好きだな。可愛(かわい)らしいもん」

 そして、二人は結ばれた。何か、あっけないものだった。

「祐ちゃん。大丈夫(だいじょうぶ)? 平気だった?」

「うん。ちょっとだけ痛かったけど。それより、正ちゃんと…一つになれた事の方が、うれしい。…あのね、もういっぺん、…キスして」

 二人は、長い間、接吻(せっぷん)を交わした。

「ありがとね」

 正太郎も、(ようや)く、少し余裕が出てきた。いつもの、飄々(ひょうひょう)とした正太郎に戻っていた。

「これが、()の前英語でやった、ノット・オンリー・A・バット・オルソー・C(AのみならずC(まで)も)、って奴だな」

「正ちゃんの…ばか。知らない」


 二人は手を(つな)いで家路(いえじ)辿(たど)った。梅雨(つゆ)末期の風物詩である遠雷(えんらい)が聞こえる。通り雨が来るのかもしれない。家迄(いえまで)、駅から約30分の道程(みちのり)である。正太郎は(きた)るべき雨を意識して、多少(たしょう)足早(あしばや)に歩く。(しか)し、西の空は星が(またた)き始め、雨が遠のいた事を告げていた。正太郎は思った。

(もう、梅雨(つゆ)も終わりだな…)

 遠ざかった雨雲が、今日と()う日を振り返る余裕を与えてくれた様である。正太郎は祐子の手を握り、歩き(なが)ら考えた。自分が、()の先どういった人生を歩むのか、想像も出来無(できな)い。(しか)し、願わくば、(となり)無邪気(むじゃき)笑顔(えがお)を浮かべている、()素敵(すてき)な子と共に歩んで行きたい。いや、歩まなければならないと。そう思わずにはいられなかったのである。

「祐ちゃん。寒くはない?」

正太郎は、突然(とつぜん)、祐子に(ささや)いた。夏とは()え、祐子の浴衣(ゆかた)はかなり()れている。正太郎はそんな祐子を気遣(きづか)っての一言であった。

「平気だよ」

祐子はニッコリとした笑顔を返す。祐子の家の近所、(くだん)生垣(いけがき)立葵(タチアオイ)。見ると天辺(てっぺん)(つぼみ)も見事に開花していた。祐子がそれを見て、()れ以上無い笑顔(えがお)()()った。

「正ちゃんが()ったとおりだね。立葵(タチアオイ)天辺(てっぺん)に花が咲いたら、梅雨(つゆ)が明けた。…小学校1年から9年間…。長かったけど」

「…ごめんね。…僕の梅雨も明けたよ。祐ちゃんありがとう。…大好きです」

 正太郎はそう()うと、また、立葵(タチアオイ)の花を()んで祐子の髪に(やさ)しく()して、祐子の(くちびる)(やさ)しく口づけをした。祐子は輝く様な笑顔(えがお)で目には一杯(いっぱい)涙を()めていた。送り火の夜の、幸福感に満ちた泣き笑いであった。


 祐子の机上(きじょう)花瓶(かびん)には、正太郎と祐子の小さな一歩の成果である、2輪の立葵(タチアオイ)が活けてあり、まだまだ、瑞々(みずみず)しさを保っている。()の日、静岡地方気象台から、梅雨明(つゆあ)けの発表がなされた。()れからが、夏本番である。(ちな)みに、立葵(タチアオイ)は静岡市の花に指定されている。そして、立葵(タチアオイ)の花言葉は、『熱烈な恋』でもある。


世の中、楽しい事ばかりでは無いのが常である。夏休み前の一波乱。一学期の成績表返却。面々の中でも、正太郎、敬介は、特に期末テスト結果が深刻で、両者、赤点の危機にある。果たして、彼らは赤点、追試、補習を回避出来るのか? 次回、『第10話 槍を持った火星人』。お楽しみに。

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