第9話 立葵の天辺の蕾が花開く頃
祐子の家は直ぐに分かった。渋川橋の袂の白い大きな家だった。ひろみが呼び鈴を押すと、母親が直ぐに出て来た。続いて、祐子の愛犬ペスも飛び出して来た。ペスはとても賢い犬である。ご主人様の徒ならぬ有様を見て、尻尾を振り乍らも、心配して、悲しげな表情を浮かべている。祐子は母親の姿を認めると、母親に獅噛附き乍ら、大声を挙げて号泣した。
「ママ、ごめんなさい。ごめんなさい。折角、浴衣を着付けてくれたのに、ごめんなさい。ごめんなさい。私…負けちゃった。また、負けちゃった。今度は絶対に、負けちゃいけなかったのに…。うわーん」
誰だって心のバランスを崩す事がある。子供の様に、激しく泣き噦る祐子。其の祐子を、ひろみと凛子といずなの三人掛かりでお風呂へ、ペスも心配して、うろうろと付いて来る。そんな、ペスを母親が宥めて、祐子たちは風呂へ。然し、祐子は風呂の中でも泣き通しだった。まるで、納まる気配は無かった。四人で入った後、お母さんに祐子をお願いし、ひろみと凛子といずなは、お風呂を借りて、温まった。そして、バスタオルを借りて、バスローブに包まり、応接間に通されて暖かい紅茶をいれてもらった。濡れた衣類は乾燥機を掛けて貰っていた。祐子は、母親が介抱していた。ペスも心配そうな何とも謂えぬ表情を浮かべ、ご主人様の傍らに蹲った。祐子の父親は不在だった。
「祐子、大丈夫かなあ」
「うん」
頓て、祐子の母親が入ってきた。ひろみが、
「あっ。お母さん。祐子さんの具合は?」
「大丈夫よ。先刻迄、泣き噦っていたけど…、今、寝付いた処」
母親は、皆を安心させる様に微笑みつつ、今更乍らの挨拶をした。
「えーっと。いつも、祐子がお世話になっています」
「あっ。私は稲森ひろみです。此方は、如月凛子。そして、小泉菜月。私達、同じ吹奏楽部で…」
「ああ、稲森さんと如月さんと小泉さんね。いつも、祐子からお話を伺っています。ところで、今日は何があったのか教えてもらえるかしら?」
「…そっ。其れは」
凛子は、流石に少し躊躇った。とても、親御さんに聞かせられる様な話では、無かった。然しそんな中、眦を決したひろみが、徐に語りだした。
「実は、今日、七夕祭りで、祐子の、その、…好きな子が、他の女の子と一緒にいる処に出くわして、其の女の子から、…何かとても酷い事を謂われて。それで、その、其れ迄我慢していたものが、つい、爆発してしまって…」
「そうだったの。正ちゃんね。あの子、何時だって、正ちゃんの話ばかりだったから…」
一同、顔を見合わせ乍らも、無言の儘、同意の意を示す。唯一、ひろみだけが、搾り出す様な声で、応じたのみだった。
「…はい」
「清水高校に行って。正ちゃんと同じクラスで、同じクラブに入れたって、其れはもう大燥ぎで。其れに、素敵な友達も一杯出来たって、最近は、すごく明るくなっていたのに…」
母親は居住まいを正すと、改めてひろみたちに、挨拶した。
「いつも、祐子に良くしてくれて本当にありがとうございます。其れに、今日は本当にありがとう。三人のおうちは、どちらの方向かしら? 本来は私がお送りするところだけど、祐子を一人にするのが不安だから、タクシーを頼むわね」
頓て、タクシーが到着し、三人が乗り込んだ。
「すみません、富士見町と村松原経由草薙迄。富士見町はS銀行の本店のところで一人降ります。其の後、梅陰寺経由で…」
「あっ、村松原です」
「其の後、草薙杉道。ローソンの辺り迄、お願いします」
雨は何時しか、綺麗に上がり、星空が顔を覗かせていた。そして、窓から外を見乍ら、凛子が重い口を開いた。
「あの子。駄目かもしれないわね」
いずなが反駁する。
「ムキー、そんな事」
ひろみも、力無く続く。
「ちょっと。そんな事…」
「無いって謂い切れるの? 二人とも」
「其れは…」
「いずれに、あの子か正太。どちらかが部活を止めた方が良いのよ」
「…謂い過ぎだよ。凛子っち」
「凛子!」
いずなとひろみが、同時に謂った。
「ならば、あなた達なら堪えられるの? 同じ部活でも。其れで無くても、同じクラスなのよ!」
「…」
其処にあるのは沈黙だけだった。
翌日、祐子は学校を休んだ。ひろみも体調不良という事で、早退した。テスト前という事で、部活も無かった。然し、高志と凛子と敬介といずなと明彦が暗い面持ちで部室に座っていた。全員、何か、光明を模索して、部室に蝟集したのであろう。遣り切れ無い思いで、明彦がボソリと呟いた。
「祐子ちゃん…。もう、来ないかも知れねえな。…まあ、其の方が良いのかも知れねえけどよ…」
「ムッキー、…謂い過ぎだよ。」
「…でも、やっぱり、其の方が良いんじゃないの? 二人にとっても」
凛子も明彦に同意する。
「…」
全員無言の儘に、辺りは刺々しい沈黙に支配されて行く。何か、そう、抗えない様な、名状し難い悪意と対峙したかの様に…。其処へ、正太郎が無言の儘入って来た。まず、怒りの形相の高志が口火を切った。
「よう。何の挨拶も無しか?」
正太郎が険しい目つきで高志を睨みつける。高志は、端から、喧嘩腰だった。いずなが二人を諌める様に声を上げる。
「ちょっとー。やめなよ」
「無視か? まあ良いけどよ。何をしようとお前の勝手だがな。でも、もうちっと、回りに気を使って遊べや。あと、友人として、一つだけ忠告しておいてやらあ。抑々、女の趣味が悪すぎらあ。…覚えて置いた方が良いぞ」
「何だと。此の野郎」
「面白え。やるのか?」
凛子が、たまりかねた様に叫ぶ。
「ちょっと、あんたら。良い加減にしなさいよ。喧嘩なら、外でやりなさいよ。鬱陶しい」
然し、高志は、全然、納まら無かった。
「お前な。昨日、祐子ちゃんが、どんな想いで、誰の為に、あの浴衣を着て来たのか、考え無かったのか? 使わねえ脳みそなら、捨てちまった方が良いぜ」
「知らねーな。抑々、俺が頼んだ訳じゃねえ」
「何だ。其の謂い草は? てめえ、やんのか?」
高志がついに切れた。今にも、正太郎に飛びかかろうとした。将に其の時の事である。明彦と敬介が割って入る。
「バカ! やめろ。良い加減にしねえか!いつも仲良しの二人が…」
「高志、落ち着け」
明彦が二人の間に割って入り、敬介が後ろから高志を抱え込んだ。そして、其の時だった。いずなが涙乍らに、両腕でテーブルをドスンと叩きつけ、金切り声を挙げた。
「もう、良い加減にしてよ。みんなおかしいよ。ぎすぎすとげとげしてさ。高志は祐子の為を思ってなのかもしれないけど、喧嘩したって祐子、絶対、喜ばないよ」
「いや、俺は唯、祐子ちゃんの事、考えると、一言、此のバカに…」
「正ちゃんだって、そんな挑発する様な態度を取る事、無いじゃない。いずなは、昨日のアレは正ちゃんワザとじゃ無いと思っているよ。祐子、正ちゃんの事、いつも優しい人だって謂ってたよ。先刻の正ちゃん見たら絶対に悲しむよ」
「…」
「明彦君や凛子ちゃん達だって、二人の事を思って謂っていると思うけど、祐子や正ちゃんの何方かがやめた方が良いって、そんなの、祐子や正ちゃんが決める事でしょ。随分、酷い事、謂っている様に聞こえるよ」
「其れは…」
明彦と凛子が項垂れて下を向く。
「いずなが知っているみんなは、もっと優しい人達だよ。どんな困難だって、機知と諧謔で切り抜ける素敵な人達だよ」
だが、明彦は、ウンザリした様に吐き捨てた。
「扨と、俺は帰るよ。テスト勉強しないとな。其れに、他人事で糾弾される蝟れも無いしな」
凛子も、不貞腐れた様な態度で、其れに続いた。
「扨と…、帰ってテス勉しないと。私も、明彦の意見に一票だわ。濡れ鼠になった挙句に、誹謗される様な覚えは、何も無いもの。あんた達も好きなだけ喧嘩でも、議論でもやったら。此処で。いずなも批判したければ、此処でやっていったら? 私は全く関心無いから、帰らせてもらうわ」
バタンと、荒々しく戸を閉めて、二人は部室を出て行った。いずなは下唇を噛み締めて、目には涙が滲んでいた。ボストンティーパーティーは寸々だった。完全に瓦解したかの様に見えた。
完全に瓦解したかの様に見えたのは、祐子の心もであった。祐子の母親は、元来、学校の欠席を安易に認める様な母親では無かった。でも、此の時ばかりは、祐子を学校に行かせ無かった。其れはそうであろう。祐子は泣き止んでこそいたが、常態には、程遠い事は、明白であった。こんな状態で学校になどやったら、其れこそ、どんな事件が出来するか、判った物では無い。母親は朝起きて、虚ろな瞳で学校に行こうとする祐子を、優しく、押し留め、ベッドへと寝かしつけた。傍らには、ペスが忠実に蹲っている。ペスは、ベージュの毛並みを持つ、2歳になるラブラドールレトリバーの牝犬である。此の種の犬は、元々は猟犬であり、飼い主に非常に忠実で、家族への帰属意識が大変強い。然も、いつも、大変可愛がってくれている祐子に良く懐いており、祐子に何かあったら、直ちに知らせてくれるであろう。其のペスも、心配そうに、祐子を見上げている。実年齢2歳と謂う事は、人間年齢に換算すれば十代後半であり、性別も同じ女の子である。祐子の寄る辺無い気持ちが理解出来たのかもしれない。祐子はペスを見つめると呟く様に謂った。
「…あのね、…ペス。私、正ちゃんに…、振られちゃった…」
「く…うん」
ペスは悲しげに鼻を鳴らす。祐子は昨日の悲しい思いが去来したのだろう。涙が込み上げて来た。ペスも普段であれば、祐子のベッドに乗ったりはしない。然し、此の時ばかりは違っていた。ペスはベッドに前足を掛けると、祐子の顔に鼻を擦り付けて来た。其れだけ、祐子の事が心配であったのだろう。祐子は、そんなペスの体を優しく撫で乍ら、懸命に涙を堪えた。大切な家族の一員であるペスにも、余計な心配は掛けたく無かったのであろう。
明彦、凛子が立ち去った後、正太郎、高志、敬介、いずなは、暫く、立ち竦んだ儘であった。とても、遣る瀬無い瞬間であった。然し、其の時、俄かに、風向きが変わった。丁度、高志が何か謂おうとした時に、正太郎が怖ず怖ずと喋りだした。
「あの、…ごめんなさい。此の部屋にいる人達だけにも先に謂わせてもらうよ。昨日は本当に済みませんでした。それに、いずな。先刻は俺と祐子の気持ちを代弁してくれてありがとう。其れと、高志。部屋に入った時から、喧嘩腰だった。本当に、ごめん。済まなかった」
そう謂うと、深々と頭を下げた。顔には、深い悔恨の表情が窺える。祐子の事を、そして、高志との喧嘩を、心から後悔している顔だった。いつもの、友人思いの優しい正太郎が還って来た。高志も頭を掻き乍らも、頭を下げた。
「いや、俺も。言葉が過ぎた。ごめん。…その、大切な人の事も、酷い事を謂っちまった。申し訳ない」
敬介が、優しく微笑み乍ら、いずなに謂った。
「いずなちゃん。ちゃんと伝わったじゃん。大丈夫。あの二人にも、ちゃんと伝わるよ。唯、伝え方は考えた方が良いよ。あれだけ、プライドの高い二人だ。正面から行けば、当然、反発するさ」
「うん。ありがと。ケースケ」
いずなは泣き笑顔だったが、敬介に、ニッコリ笑った八重歯が、愛らしかった。
翌日、祐子は登校した。然し、当然、普段通りと謂う訳には行か無かった。祐子が、此処最近、見せていた人懐っこさや愛嬌は、思い切り影を潜めていたし、正太郎とは目を合わせようともしなかった。顔も、此処、二日間泣きっぱなしでは、と思う程腫れぼったかったし、何よりも、吹奏楽部員との接触を絶っているとしか、思えなかった。そんな祐子にメールが来る。高志からだった。教室で高志の席である一列目の最後列を見る。然し、高志は外方を向いて座っている。一体、何事だろう?
『本日、17時、赤灯台で待つ』
其の一行だけであった。
赤灯台は久し振りの梅雨晴間である。比較的、分厚い雨雲に囲まれ乍らも、雲間から薄日が射していた。時折、そよ吹く、白南風が、強い潮の香りを運んで来る。高志は先着して突堤に腰掛けていた。祐子の姿を見ると、突堤から飛び降り、そして、謂った。
「いよう、…態々、済まなかったな」
祐子は怖ず怖ずと話し掛けて来た。
「あの。まず、一昨日はごめんなさい。ひどく混乱して。ママに聞いたの、いろんな人に迷惑掛けて…。みんなに謝ろうと思ったのに、勇気が出なくて。ところで、今日は如何したの?」
高志がボソリと謂った。
「あのさあ。…俺と付き合ってくれないかな? 其の…、交際して欲しいんだけど…」
長い沈黙の末に、祐子がポツリと謂った。
「…嘘」
「嘘じゃないよ」
「私、そんな事。謂われたこと無いから…。それに、高志君、私の気持ちを知っているし…」
「知っているからこそ、かも、知れないぜ」
暫く、沈黙が続いた。長い沈黙だった。決心をする為の沈黙だった。頓て、沈黙を破って、祐子が徐に喋り始めた。
「高志君。真面目に謂ったから、私も真面目にお答えするね。私、好きな人がいるの。小学校の頃からずっと…」
其処で、祐子は一息つくと、残りを一気に謂った。
「だから、高志君の気持ちには、応えられません。…ごめんね」
それを聞いた高志は、残念そうな顔つきで頭を掻き乍ら謂った。
「そうか。…分かった。一つ、いや、二つだな。条件がある」
「条件?」
「ああ」
「何?」
「まず、部活はやめるな」
「其れが条件?」
「ああ、そうだ。お前がやめると、恐らく、いずなもやめる。当然、敬介もやめる。正太だって行動の割には、決して線が太くない。そんな状況の中で居残るとは思えない。ボストンティーパーティーはバラバラさ。主催者として、其れは余りにも辛い」
「…分かった。二つ目は?」
「…おっぱい触らせて」
「…」
祐子は、高志が謂った、一見、的外れな条件も、不謹慎極まり無い条件にも、俯いた儘沈黙している。が、頓て、顔を上げ、答えた。
「一つ目は…約束する」
「二つ目は?」
「…絶対、駄目」
其れを聞いた高志は、如何にも仕方無さそうに肩を竦めると、斯う謂った。
「…分かった。仕方無いな。其れで、手を打とう」
其れでも、祐子は今出来る精一杯の笑顔で斯う謂った。
「でも、…今日は。ありがとね。私も勇気が出た」
「何の勇気だ?」
「えへへ。内緒」
祐子はそう謂って、高志に向かってお辞儀をすると、
「其れじゃあね」
「何だよ、もう、帰るのか?」
「うん。だって、明日から期末テストだよ。実は、昨日、ひろみちゃんが、学校さぼって、うちに来てくれたの。『みんな、待っているから、早く学校に来て』って…、でも、今日はありがとう。本当にありがとう」
そう謂うと、祐子は涙を拭った。そして、自転車に乗ると、其の場を去って行った。祐子の後姿が遠ざかって行く。其の延長線上には、江尻船溜まり。そして、更に向こうには、霧に霞んだ山原の中継塔が幽かに見えた。宛ら水墨画の技法の様に色の濃淡だけで表現された、燻んだ灰色の山影である。山の方は、未だ雨なのかもしれない。頓て、祐子の姿が倉庫の角を曲がって見え無くなった時に、顔のニキビを気にしていた高志はふうっと、深い溜息を漏らし、頓て、大声で叫んだ。
「おーい。いるんだろ。出て来いよ」
建物の影から、いつもの面々が出て来た。祐子を除いた全員がいる。下を向いた正太郎もいる。ひろみが、呆れた様に謂った。
「最低っ」
「えぇっ。ちょっと待てよ。今日、俺、大分、良い事謂ったよ」
「おっぱい触らせて…」
「最低」
と、いずなも続く。ひろみが、
「もし、祐子が良いよって答えたら、如何するつもりだったのよ?」
「ばかやろ。千載一遇の好機じゃねーか。そん時は…触るに決まって…。ぐええっ」
ひろみが、踏み込んで肘打ちを食らわしていた。
「本当っ。最低。でも、ちょっとだけ、格好良かったわよ。ちょっとだけだけどね。これっ位だけどね」
ひろみは、自身の左手の親指と人差し指で、ランドルト環の様な形を作り、高志に見せ付けた。横で、明彦と凛子が怖ず怖ずといずなに歩み寄り、頓て、意を決した様に謂った。
「あの、いずな。昨日は…その、謂い過ぎた。すまん」
凛子も申し訳なさそうにいずなに謂った。
「私も、喧嘩腰で、感情の赴く儘に、酷い事を謂った。いずなに、謝ろうと思ってたけど、その、素直になれなくて。ごめんなさい」
「ううん。いずなの方こそ、デリカシーの無い謂い方をして、ごめんなさい。ケースケに諭された。あんな謂い方をしなくても、ちゃんと伝わるって。…ごめんね」
いずなの目にはまた、涙が滲んでいた。嬉しかったのだろう。明彦と凛子は顔を見合わせた。二人とも、和解出来てほっとしたのだろう。ひどく穏やかな顔だった。
「帰ろうか?」
「そうだね」
ひろみが、高志に呼びかけた。
「帰らないのー!」
「もう少し。海を見ていくよ。何てったって、俺、今日、失恋したばかりなんだぜ」
そう謂うと、高志はまた、突堤の上に登り、海を眺め始めた。遠くでカモメの鳴き声が聞こえる。ふんだんに湿気を含んだ潮風に、夏の香りを感じる。ひろみは、突堤上の高志に向かって大声で叫んだ。
「元気出しなさいよ。高志。本当は、今日のあんた。かなり、格好良かったわよ。祐子が羨ましくなる位に」
高志は其れには答えずに、左手を上げただけだった。みんな、帰って行った。だが、正太郎だけは一人残った。そして、突堤を登り、高志の横に並んだ。目の前をのんびりと港内遊覧船が横切って行く。夏の陽は長く、周囲はまだ明るかった。正太郎が素直に口を開いた。
「…済まなかったな」
「ああ。…まあ、気にするな」
「…千春は、何がしたかったのかな」
「さーな」
暫しの沈黙の後、高志が口を開いた。
「忘れろ。今回の一件、忘れることが最高の解毒剤だ。お前にとっても、あの子にとっても、そして、祐子ちゃんにとってもな」
また、暫しの沈黙の後、今度は正太郎が口を開いた。
「本気だったのか?」
「何が?」
「祐子の事」
「ああ」
高志は肯定した後、にやりと笑い、酷くきっぱりと謂った。
「当然だろ。大体、此の状況で、『やっぱ、冗談でした』なんて、謂って見ろ。壊れちまうぞ、祐子ちゃん」
「ああ、だがお前は、祐子が絶対受け無い事を、知っていた…」
「…。まあな。聞いたろ。小学校の頃から、好きな人がいるんだとさ」
「…」
長い沈黙の後、俯いた正太郎が、小さく、呟いた。
「…俺は。…如何したら良い?」
高志は手ごろな石を一つ、右手で拾って、海に向かって、思いっきり投げ込んだ。元野球部のエースである。其れは、驚く程遠くの水面に、小さな水柱を一つ、作った。
「さあな、知るか。おまえが決めろ。そんな事は」
「…そう…だな」
もうすぐ、梅雨明けも近いのだろう。珍しく、薫風が江尻埠頭を渡って行った。
翌日。水曜日から金曜日までが期末試験の期間だった。水曜日と木曜日には、誰も部室には来なかった。4組でも相変らず微妙な空気だった。特に、正太郎と祐子は、会話は交わすものの気まずかった。其れでも、最終日の金曜日、テストが終わった後に、正太郎が祐子に話し掛けた。かなり、逡巡した上で、勇気を振り絞った一言だった。
「祐子…ちゃん。一緒に帰っても良い?」
「…うん」
祐子は徒歩である。正太郎は自転車を引いて一緒に歩いた。祐子と一緒に歩くのは、随分と久し振りの様な気がする。長らく続いた梅雨空は雲散霧消し、久し振りの抜ける様な青空だった。時折、白南風が熱波を連れだってやって来る。二人は、無言の儘、唯、黙々と歩いていた。沿道の民家の生垣沿いに、背の高い立葵の赤い花が顔を覗かせている。もうすぐ、夏本番である。夏の日差しを受け、青々とした葉っぱが煌めいていた。どの立葵も、一番上の蕾が開花しようとしている。不意に、正太郎が自転車を止め、立ち止まると、立葵を見上げ乍ら、ぼそりと呟いた。何の意味の無い一言ではあった。恐らく、祐子に話し掛ける切欠の為の、正太郎なりの精一杯の言葉だったのだろう。
「立葵の天辺に花が咲くと、梅雨が明けるんだよ。もうすぐ、梅雨が明けるね」
珍しく、爽やかな瑠璃色の風が駆け抜けて行く。そして、正太郎は、徐に立葵の赤い花を摘むと祐子の髪に優しく挿して、俯き加減で謂った。
「祐子ちゃん。ごめんね。俺、祐子ちゃんをひどく傷つけた。其れに、根性無しで、卑怯者だから、こんな事位しか、出来無い…」
「ううん。ありがと」
そう、謂い乍ら、祐子は正太郎を見据えると、優しく微笑んだ。久しぶりに、祐子の屈託の無い笑顔が見れた。そうだ、此の笑顔だ。其れが、どんなにか安らぎを与えてくれた事か。
「私の方こそ、みんなに迷惑掛けた。正ちゃんにも。あれは、正ちゃんが悪くないもの。其れに、正ちゃん卑怯者なんかじゃないよ。私の…ヒーローだもの」
祐子の笑顔が、正太郎の背中を押してくれた。それに、未だ、一番肝心な事が謂えて無い! 渋川橋東交差点まで来た時、正太郎が、
「祐子ちゃん。ちょっと待っていて」
正太郎の姿が、目の前の家の中に消え、暫くして直ぐに出て来ると、走って戻って来た。
「家に自転車と荷物を置いてきた。送って行くよ」
二人は歩き乍ら、テスト明けの開放的な状況での、長閑な会話を楽しんでいた。だが、直ぐに祐子の家である。然し、祐子も、
「えへへ。私も家に荷物を置いてきちゃった。其れに、お花も…。もう少し、一緒にお話してもいい?」
「うん」
二人は、巴川沿いを、下流に向かって歩き出した。他愛も無い話が妙に弾んだ。もうすぐ、旧国道1号の巴川橋である。道幅も俄かに広くなった。川向こうの自動車学校から教習車が、頻りに出入りしていた。民家の生垣にはまだ青々とした、風船葛がいくつもぶら下がっている。祐子は幸運にも、知っていた。世の中の大抵の出来事は、後になってみれば笑い話になる事を。唯、其の為には、一歩を踏み出さなければならない。其の一歩は、今の祐子にとって、万里の道なのだ。途轍も無い勇気と、夥しい出血と痛みが、代償として必要なのだ。勿論、漠然と時を消費する事で、自然と笑い話に成る事もあるかもしれない。然し、祐子は青春真っ只中に居るのである。漫然と過ごして行く様な時間など、何処にも無いのだ。頓て、祐子は意を決した様に、其の一歩を踏み出した。
「あのね、正ちゃん。本当は、千春ちゃんとは、もう、付き合っていないでしょう?」
真実はそのとおりだった。二人は去年の暮れに別れていた。正太郎が振られた形だった。正太郎にしてみれば、突然、告られ、3ヵ月後に、突然振られた状況だった。あまりにも、身勝手な話だった。入学式の時に、高志に、彼女がいると嘯いたのも、それを認めたくない心理の、裏返しだったのかもしれない。認めたくは無かった。が、如何あれ、
『もう、会わないようにしましょう』
と謂われたのは事実だった。今となっては、何が起こったのか、皆目、分からなかった。自分が何かしたのならまだ良い。だが、正太郎にとって、突然の告白、そして、突然の失恋だった。事態に対して、頭が、心が、付いて行けなかった。
さらに、正太郎をジレンマに陥れたのが、祐子の存在だった。正太郎の心中の天秤は、清水高校入学以来、急速に祐子に傾いて行った。然し、正太郎は敢えてそれから、目を切った。正太郎の美意識と相容れ無い感情だった。『たとえ、振られたのであっても、すぐ、別の人を好きになる事は許されない』、思春期特有の美意識か、或いは、正太郎固有の物かは、分から無い。然し、其の美意識から一つだけ洩れてている物があった。祐子の感情である。それが正太郎の不覚だった。随分、間の抜けた話ではあるが、正太郎は祐子が自分に抱いていた感情を、予想だにしなかったのである。そして、其の不覚が先日の事件の引き金となった。
「如何して。…そう思うの?」
「そんなの、正ちゃんを見ていれば、分かるよ。幼稚園の頃から、ずっと見ていたんだから…」
そう謂うと、祐子は、やや間を空けて、再び、語りだした。
「私、本当は、正ちゃんのそばに居れれば良い、見ていられるだけで良い。そう、思っていた。でも違った。もっと、そばにいたい。もっと、もっと、一杯お話したい。何時だって、隣にいたい。そして、…他の子には、取られたく無い。…だから」
祐子は正太郎の方に向き、居ずまいを正すと、ニッコリ笑って斯う謂った。
「私、正ちゃんの事が好きです。小学校の頃から、ずっと…。私、美人では無いし、おデブだけど…。お願いです。若し、良ければ、私と付き合って下さい」
それは、祐子が永年に渡り、育んで来た少女らしい憧憬が、いつしか愛情へと昇華し、自らの殻を内側から突き破り、告白という名の飛翔をした瞬間であった。正太郎は祐子の事をまじまじと見つめた。丸顔の愛嬌のある顔。確かに、美人顔では無かった。でも、笑顔を絶やさない其の顔は、世界中の誰よりも可愛いかった。いつも優しい言葉を掛けてくれる、ぽっちゃりした其の顔は、世界中の誰よりも愛らしかった。そして、自分に好意を抱いてくれている、コロコロッとした此の子の事が、世界中の誰よりも愛おしかった。
「…ごめん」
正太郎が不用意に放った此の一言で、祐子は口に両手を当てた儘、『ひいっ』と、小さな悲鳴を上げ掛けた。然し、正太郎は慌てて、早口で訂正した。
「…あっ。いや。そう謂う意味じゃなくて。こんな事、謂わせちゃって、ごめん。…本当は、僕も祐子ちゃんの事、入学した日から意識してた。気がつくと、いつだって、祐子ちゃんの姿を探していた。本当は、学校祭の時に、二人で大冒険出来て、すごく嬉しかった。学校祭の時に、手を繋いで歩いて、とても、幸せだった。此の間の件の後で、こんな事を言うのは、烏滸がましいけど、そして、自分としても嫌だけど、祐子ちゃんが勇気を出したから、僕も謂うね。僕は祐子ちゃんの笑顔が大好きです。そして、祐子ちゃんの事が大好きです。こんな僕でよかったら、付き合ってください。…祐子ちゃんに、悲しい思いをさせてごめんね。泣かせちゃってごめんね。告らせちゃってごめんね。本当は、僕が謂うべき事だったのに…」
祐子が産れて以来、一番聞きたかった言葉だった。
「ううん、そんな事無いよ。レンゲ、白つめ草、虞美人草、ジャスミン、そして、今日は立葵。正ちゃん一生懸命伝えようとしてくれていたもん。私が、気がつかなかっただけで…。うれしい…。ありがとう。正ちゃん、大好きです」
嬉しそうな笑顔の祐子のほほを涙が二筋伝った。続いて、嗚咽。祐子はお辞儀をする様な格好で、正太郎の胸に顔を埋めた。祐子の肩が大きく震えていた。
(私、嬉しいのに…。嬉しい筈なのに、何で泣いちゃっているんだろ)
祐子には解けない疑問だった。然し、祐子にしか解けない疑問でもあった。それ程迄に、祐子は正太郎の事を焦がれていたのである。正太郎は祐子の髪を優しく撫でていた。不器用な彼には、他にするべき事が、思い浮かばなかったのだ。焼けた土瀝青の照り返しがギラついている。正太郎は眩しそうに、少し目を瞬いた。白南風が土瀝青から立ち上る陽炎を払って行く。
正太郎達以外のいつものメンバーは部室で寛いでいた。ブラスの練習再開は来週の火曜日からだったが、テスト終了後の開放感が、彼らを部室に誘った。期末テストも終わり、後は夏休みを待つだけだった。取敢えず、海の日である、来週月曜日の『清水巴川灯ろうまつり』にみんなで行こうと謂う話に成っていた。
「あれっ。祐子からメールだ。何だろう」
ひろみが呟いた。メールは、ひろみ、いずな、凛子に同時に到着した様子だった。
『正ちゃんに告りました。そして、正ちゃんからも告られました。応援してくれて、本当にありがとう。いろいろ、心配掛けてごめんね』
忽ち、部室内は安堵の空気に支配された。
「ゆーちん。本当に良かったね」
「祐子、良く勇気を出したね。良かったわね。これも、誰かが背中を押したお陰かな。振られた甲斐があったわね」
ひろみがニヤニヤし乍ら謂った。明彦もそれに続く。
「おう、そうだな。壮絶な爆死だったもんなあ…」
高志が顔を赤らめ乍ら、反駁する。
「うるせー。あいつら、幼稚園の頃からの付き合いだぞ。敵う訳無いだろ」
敬介が、しみじみと、
「なんか、そんな話あったよな。えーっと。美人局だっけか?」
「筒井筒よ。ばかね、『つつ』しか、合って無いじゃないの。全然、違うでしょ」
ひろみが呆れた様に、敬介を窘める。それを聞き咎めた高志が尋ねる。
「何だ。それ?」
「伊勢物語よ。知らないの?」
ひろみが謂った。
「小さい頃、無邪気に遊んでいた幼馴染の間柄の二人が、思春期になり、変にお互いを意識し始めて、会わなくなってしまった。でも、最終的に結ばれる。確か、そう謂う話よ」
「まんま、あいつらじゃないか」
明彦が嘆息した。ひろみが続けた。
「其の時、男が送った歌が確か、『筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに』井戸の井筒と背比べをした私の背は、もう井筒を越してしまったようだ。あなたに会わないでいるうちに。って意味で、変に意識して会わなくなってから、こんなにも経ってしまったのかって謂う心情を歌ったものよ。それに対して女が送った歌が…、何だっけ?」
いずながそれを受けて、
「『くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき』、比べ合ってきた私の振り分け髪も、肩を過ぎました。あなた以外の誰の為に、此の髪を結い上げましょうか。一途な心情が良く表れているよね。本当に、ゆーちんみたい。すごくロマンチックな話だよね」
「本当に祐子たちみたいね」
凛子が改めて嘆息した。
いずなが、夢見がちな顔付きで謂った。
「ゆーちん、如何してるかなあ。メールしてみようか?」
敬介が、
「おーい、野暮は止めときなよ」
「いーから、いーから。えーと。『今、何しているの?』、えいっ」
敬介が呆れて、
「あーっ。本当に送ちゃった。いずなちゃん、駄目だよ」
高志が、ニヤニヤし乍ら謂った。
「ばかだなー。『今、正ちゃんとホテルにいるの。何をしてるかは、二人だけのひ・み・つ』なんて、メールが返ってきたら、どーすんだよ。ぐわあっ」
ひろみが、肘打ちを食らわした。此の光景も最早お約束になりつつある。
「バカはあんたでしょ。そんなメールが来る訳無いでしょ?」
「あっ。メール来た」
「えーっ。マジなの? やっぱ、本当にラブホにいるの?」
いずなは笑い乍ら、
「違うよ、ひろみっち。えーとね。ほら。『いま、正ちゃんと『ポプテピピック』の話で盛り上がっているの。ピピ美ちゃんて横顔美人だよね』って」
「ポプテだあ?」
と高志。
「そう謂う漫画だっけか? あれ」
とひろみ。
「いや。違うだろ」
「あっ。またメール来た。今度は、FFの話で盛り上がってるみたい。ピスコディーモンって本当にうざいよね。あと、ビホルダーも。って」
「謂ってる事は間違っちゃいないが…。あいつら、愛を語らう気あるのか?」
「さあ」
「でも、良いんじゃないかな。とっても、ゆーちんらしいよ」
いずなは遠い目をし乍ら、窓から外を見下ろした。道路の土瀝青の照り返しが、少し、眩しかった。
「だな」
部室の中にも、ゆったりとした長閑な時間が流れている。
7月16日、『清水巴川灯ろうまつり』は、幸いにも晴天に恵まれた。ひろみ達は流石に、祐子に遠慮して誘わなかった。高志達にしても、同様である。正太郎と祐子は渋川橋で19時に待ち合わせた。正太郎は開襟シャツにジーンズ。足下はサンダルだった。祐子は浴衣姿だった。
「えへへ。また着てきちゃった。変かな?」
正太郎はまじまじと祐子を見つめた。祐子の浴衣は青系統を基調としたものである。瓶覗の地に白抜きと紺色の川柄、蝦色の縮緬帯に、藍錆色の桔梗を配った涼しげな図柄である。
「ううん。とても良く似合っている。…それに、…すごく綺麗だ」
祐子のほほがぽっと赤くなった。含羞む様な笑顔がとても幸せそうだった。
「…もう。…恥ずかしいよ」
祐子は、町内会で配布された、鶯色、真珠色、桜色の、三色の段だら模様の灯篭を持参していた。『家内安全』と書かれた横に、祐子の達筆な毛筆で、『正ちゃんと仲直り出来ます様に』と、書かれていた。
「ママが流して来てって。あっ。これ。…もう、願い叶っちゃったね」
そう謂ってほんのりと赤らめた祐子の顔は、とても嬉しそうだった。二人で灯篭に灯を燈す。蝋燭の仄かな炎は、ゆらゆらと揺らめき、ぼんやりと周囲を浮かび上がらせた。正太郎と祐子は、二人で渋川橋から灯篭を流した。渋川橋は灯篭流しの橋の中では、最上流にあたる。これより上流は能島橋迄、橋がない。灯篭の数も、未だ、疎らである。祐子の家の前を通り過ぎ、二人は巴川東岸を下流に向かって歩き始めた。川の方からそよ吹く、水気を含んだ夜風が、微かに鼻腔を擽る。川面にはポツリポツリと灯篭が淡い光を放っている。祐子は、正太郎が何か袋を手している事に気がついた。
「正ちゃん。それは?」
「ああ。高志の体育館シューズ。此の前の球技大会の時借りたのだけど、喧嘩して返しそびれちゃっていて、どうせ、花火の時に合流するだろうから持ってきた」
「高志君にも、気を使わせちゃって、申し訳無かったな…」
「本当だね。俺も、高志に借りが出来た。…ところで、祐ちゃん。お誕生日何時なの? 確か、8月だったと思ったけど?」
祐子がニコニコし乍ら、謂った。
「8月31日。おとめ座。A型。正ちゃんは9月14日。おとめ座。B型。でしょ? 私の方がちょっとだけお姉さんだね」
正太郎は、祐子が自分の誕生日を知っている事に真っ赤になり乍ら、応える。
「良く知ってるね?」
「正ちゃんの事は大抵知ってるつもりだよ」
「…ありがと」
「如何いたしまして」
微妙に恥じらいを感じた祐子が、閑話休題をしたかったのだろう。話題を変えた。
「ところで、おとめ座って、今日見れるのかなあ?」
ハハハと、笑い乍ら、正太郎が、明るく説明する。
「多分無理だと思うよ。十二星座は黄道十二宮と謂って、黄道上(太陽の通り道)の星座を12に区分けしたものだよ。自分の生まれ月に太陽が其処にいると謂う事だから、自分の星座が見れるのは、誕生月と反対側の季節だよ。おとめ座が見頃なのは冬から春先に掛けてだよ」
「そうなんだ」
「おとめ座には、スピカ(スパイカ)って一等星があってね。『春の大三角』の一つだけど。ギリシャ語で麦の穂先って意味だよ。英語で謂うところの『スパイク(突起)』だね。真っ白で綺麗な星だよ。祐ちゃんみたいに真っ白…」
「…ちょっと。恥ずかしいよ」
祐子が照れ乍ら続けた。
「でも、『春の大三角』って、初めて聞いたよ。スピカってすぐ見つかるの?」
「うん。すごく見つけやすいよ。冬から春って『北斗七星』が見えるだろ。柄杓星。其の柄杓の柄の部分が湾曲しているのけど、大体、同じ曲率で曲線を延長していくと、オレンジ色の星にぶつかる。『アークチュルス』って、うしかい座の一等星だけど、さらに同じ曲率でほぼ、等距離伸ばすと、真っ白な星に行き当たる。それがスピカだよ。あとそれに、しし座のデネボラの3つが『春の大三角』になるんだけどね」
「すごいね、正ちゃん。星、詳しいんだね。知らなかったな」
正太郎は照れて、少し赤くなる。
「そして、北斗七星、柄杓の柄とスピカとアークチュルスの曲線の事を、『春の大曲線』って、言うんだよ。此の季節の此の時間なら、北斗七星やアークチュルスは見れると思うけど、スピカは如何かなあ?」
「春になったら、探すの手伝ってくれる?」
「うん」
「私、星の事、全然、知らないもん。『夏の大三角形』も化物語のオープニングテーマ曲で知った位だよ」
「夏三角はこれからが見頃なんだけど、最近の夏って、もの凄く暑いだろ。だから、夜でも空がぼうっと靄掛かったようになって、凄く見辛いよ。9月になってからの方が見易いかもね…」
「今度、『夏の大三角形』も教えてね」
「うん」
頓て、正太郎達が歩いてきた川沿いの細い道は国道1号とぶつかり、巴川橋を過ぎた辺りから、徐々に、灯篭の数が増えて来た。薄暮に包まれていた風景に、川面の灯篭の灯が映える様になり、二人の通った小学校の脇を抜ける頃には、夜の帳が完全に下りていた。
どーん。
大きな音とともに、花火が始まった。夜空に大輪の花が咲く。花火の残滓が、パラパラと夜空に散って行く。川面に映える無数の灯篭。其の向うには清水市街地のビル群の参差なシルエット。そして、夜空を彩る赤、青、黄、緑、紫の大輪の花。とても、幽玄な光景である。其の幻想的な風景と、祭り独特の雰囲気が正太郎の背中を押した。
「あのね、祐ちゃん。手を繋いでも良い?」
「うん」
祐子の手は、とても柔らかで熱かった。正太郎は祐子の手の感覚に、少し戸惑っていた。正太郎は、はにかみ乍ら謂い出した。
「本当は、春の花見の時、まだ、みんなと合流する前。桜の下で、…その、祐ちゃんと手を繋ぎたかったんだ。でも、恥ずかしくて謂い出せなかった。…ごめんね」
「えーっ、実は、私も。後、30センチ手を伸ばせばって、何度も思った。…でも、勇気が出なかった。子供の頃は、いつも、手を繋いで歩いていたのにね」
祐子はにっこりと笑い乍ら、回想した。
「本当だね。来年、桜の季節に、また、大沢川へ見に行こうよ。そうしたら、今度は手を繋いでも良いかな?」
「勿論だよ。じゃあ、約束ね」
正太郎と祐子は子供達がするように、指きりを交わした。
二人は清水銀座を抜け、赤灯台へ向かった。件の裏通りのホテルの前に差し掛かった時、何事か、正太郎が、一瞬、立ち止まった。後ろから、祐子の声が追い掛けて来た。
「寄ってく? 私、正ちゃんとなら…。良いよ」
やや、後方にいる祐子の表情は、伺え無い。
「えっ?」
驚いた正太郎が振り返ると、祐子がニコニコし乍ら、イタズラっ子の様な顔つきで斯う謂った。
「でも、正ちゃん。浴衣の着付け出来るの?」
いつもの、祐子に戻っている。正太郎はどぎまぎしていた。正太郎の、一瞬見せた残念そうな顔を、見透かした様に、祐子が謂った。
「浴衣は、其の為の、防護服ですよーだ」
「…もう」
真砂踏切を渡り、小さな公園に差し掛かった頃、正太郎は祐子の歩みが遅くなっている事に気がついた。赤灯台には高志達がいる筈だが、未だ道程で1キロ以上ある。不吉な胸騒ぎが正太郎を支配した。正太郎は竜爪山の登山を思い出した。あなやとばかり、祐子の足下の桐下駄を見た。慣れない鼻緒で擦れたのだろう。両足とも鼻緒の部分に血が滲んでいた。
「祐ちゃん。足!」
「大丈夫だよ。平気だよ」
「平気じゃないよ。血まみれじゃないか!」
祐子を公園のベンチに腰掛けさせ、正太郎は自分のサンダルを水道で洗う。正太郎は自身のサンダルを祐子に差し出した。
「俺のサンダルなら、ちょっと大きいけど、鼻緒が無いから。まだ、楽でしょ。花火は此処で見ようよ」
二人は公園のベンチに腰掛けた。だが、此処からだと、ビルの陰になって、余り花火は見えない。どーんどーんという、大きな音だけが聞こえる。
「いずなちゃん達にも合いたかったな。でも、正ちゃん。履物は如何するの? 私の桐下駄入るかなあ?」
「いや、高志の体育館シューズを、使わして貰うよ。それより、足は大丈夫?」
祐子の桐下駄を、高志の体育館シューズの袋に納め、祐子の隣に座った。祐子の瞳が潤んでいた。
「正ちゃん。本当に優しいね。ありがとう。足、平気だよ」
夜空を染める鮮やかな色彩。広がっては消え、消えては広がる、幻想的な光の華の中、握った手と手の儘に、どちらからともなく、二人の唇が合わさった。祐子の唇はとても柔らかかった。ふたりとも、初めてのキスだった。
帰り道、件のホテルの前に差し掛かった時、それは起こった。祭りの高揚感がそうさせたのかもしれない。一夜限りの魔法の様な出来事だった。再び、手を引かれた祐子の足取りが、ハタと止まり、後ろから、魔法の様な祐子の声が追い掛けて来た。
「私、正ちゃんとなら…。良いよ」
耳の迷いでは無かった。…と、思う。今度は、正太郎は躊躇しなかった。祐子の手を掴むと足早に、レストランではなくホテルの方へ。二人はロビーを抜け、部屋を選択し入室した。正太郎の心臓は早鐘の様に、と謂うよりも、嘗て無いような鼓動を刻んでいた。それこそ、心臓が破裂するのでは、と思った程だった。部屋に飛び込んだ時には、全身の力が抜けてしまっていた。恐ろしい迄の脱力感で、まるで、自分の体では無いみたいだ。正太郎がベッドの端に腰掛けた時には、腰に鈍い痛みが走った。立ち上がる事が出来無い。極度の緊張と興奮で、そう、所謂、腰が抜けたという奴だ。それでも、晩熟な少年と内向的な少女とが、一気に大人の階段を駆け上がった瞬間だった。二人はベッドの端に腰掛け、手を繋いだ儘、唇を重ねた。祐子が、気持ち俯き乍ら、謂った。
「正ちゃん。私、…初めてだから、うまく、出来無くても…嫌いにならないでね」
「僕も、初めてだから、失敗したら、…ごめんね」
「それに、私。かなり、…おデブだよ」
正太郎は顔を赤らめ乍ら謂った。
「僕、おデブな祐ちゃんの方が好きだな。可愛らしいもん」
そして、二人は結ばれた。何か、あっけないものだった。
「祐ちゃん。大丈夫? 平気だった?」
「うん。ちょっとだけ痛かったけど。それより、正ちゃんと…一つになれた事の方が、うれしい。…あのね、もういっぺん、…キスして」
二人は、長い間、接吻を交わした。
「ありがとね」
正太郎も、漸く、少し余裕が出てきた。いつもの、飄々とした正太郎に戻っていた。
「これが、此の前英語でやった、ノット・オンリー・A・バット・オルソー・C(AのみならずC迄も)、って奴だな」
「正ちゃんの…ばか。知らない」
二人は手を繋いで家路を辿った。梅雨末期の風物詩である遠雷が聞こえる。通り雨が来るのかもしれない。家迄、駅から約30分の道程である。正太郎は来るべき雨を意識して、多少、足早に歩く。然し、西の空は星が瞬き始め、雨が遠のいた事を告げていた。正太郎は思った。
(もう、梅雨も終わりだな…)
遠ざかった雨雲が、今日と謂う日を振り返る余裕を与えてくれた様である。正太郎は祐子の手を握り、歩き乍ら考えた。自分が、此の先どういった人生を歩むのか、想像も出来無い。然し、願わくば、隣で無邪気な笑顔を浮かべている、此の素敵な子と共に歩んで行きたい。いや、歩まなければならないと。そう思わずにはいられなかったのである。
「祐ちゃん。寒くはない?」
正太郎は、突然、祐子に囁いた。夏とは謂え、祐子の浴衣はかなり濡れている。正太郎はそんな祐子を気遣っての一言であった。
「平気だよ」
祐子はニッコリとした笑顔を返す。祐子の家の近所、件の生垣の立葵。見ると天辺の蕾も見事に開花していた。祐子がそれを見て、此れ以上無い笑顔で斯う謂った。
「正ちゃんが謂ったとおりだね。立葵の天辺に花が咲いたら、梅雨が明けた。…小学校1年から9年間…。長かったけど」
「…ごめんね。…僕の梅雨も明けたよ。祐ちゃんありがとう。…大好きです」
正太郎はそう謂うと、また、立葵の花を摘んで祐子の髪に優しく挿して、祐子の唇に優しく口づけをした。祐子は輝く様な笑顔で目には一杯涙を溜めていた。送り火の夜の、幸福感に満ちた泣き笑いであった。
祐子の机上の花瓶には、正太郎と祐子の小さな一歩の成果である、2輪の立葵が活けてあり、まだまだ、瑞々しさを保っている。其の日、静岡地方気象台から、梅雨明けの発表がなされた。此れからが、夏本番である。因みに、立葵は静岡市の花に指定されている。そして、立葵の花言葉は、『熱烈な恋』でもある。
世の中、楽しい事ばかりでは無いのが常である。夏休み前の一波乱。一学期の成績表返却。面々の中でも、正太郎、敬介は、特に期末テスト結果が深刻で、両者、赤点の危機にある。果たして、彼らは赤点、追試、補習を回避出来るのか? 次回、『第10話 槍を持った火星人』。お楽しみに。




