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エンド・オブ・ザ・江戸・ピリオド  作者: ありんこ。


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9/12

無言の観察者



 


朝の空気は、どこまでも静かだった。


まるで、昨夜あの部屋で起きたことなど、初めから何ひとつなかったかのように。


 


けれど、私の中ではまだ、あの夜の影が消えずに渦巻いていた。


 


陽が昇るよりも早く目を覚まし、顔を洗い、髪を結う。


昨夜、山南さんが貸してくれた薄羽織を丁寧に畳みながら、ふとその手のぬくもりを思い出してしまう。


 


……甘えてはいけない。


 


あの人は、組の中でも重い立場にいる人だ。


私のような、ただ“保護されているだけ”の者が、心の支えを求めていい相手ではない。


そう自分に言い聞かせても、胸のどこかがそれを否定するように疼いた。


 


炊事場へ向かうと、すでに数人の隊士が食器を片づけ、朝の仕事を始めていた。


桶の触れ合う音。味噌汁の湯気。炊きたての米の匂い。


その中に混じる男たちの視線は、あいかわらず温かいものではない。


誰も私の顔をまともに見ようとはしないのに、時折背中へ突き刺さる気配だけが、妙にはっきりと伝わってきた。


 


そこへ、ひとつの足音が近づいてくる。


 


「……おはよう」


 


聞き慣れた声だった。


沖田さん――。


 


顔を上げると、彼はいつものように笑っていた。けれど、その笑みはどこかぎこちなく、目元の奥に薄い曇りが差しているように見えた。


 


「昨日は……寝られた?」


 


「……はい。山南さんのおかげで」


 


そう答えた自分の声が、少しだけ震えていたような気がした。


沖田さんはその言葉を受け止めて、小さく頷く。


 


「……そっか。なら、よかった」


 


それだけ言って、またいつものようにふわりと笑った。


けれど、その柔らかい笑みの奥に沈んだ色があることに、私は気づいてしまった。


それ以上、彼は何も言わない。


ただ、そのまま静かに歩き去っていく。


 


残された私は、その背中を見つめながら、昨日、自分が彼の“隣にいなかった”ことが、彼にとっても痛みだったのかもしれないと、初めて知った。


 


あたたかさの形は、人によって違う。


焔のぬくもりは、帰る場所のようなものだった。


山南さんのやさしさは、静かな灯のようだった。


そして沖田さんのそれは、ときどき刺さるほど不器用で――だからこそ、胸に残る。


 


朝から蝉が鳴いていた。


白く鋭い夏の陽射しが、瓦屋根をぎらつかせている。


洗い場の水はもう生ぬるく、桶の底でぬらりと揺れていた。


私は食器を手に取り、今日も黙ってそれを洗う。


 


すぐ横では、山南さんが静かに飯を炊いていた。


昨日と同じ時間。昨日と同じ場所。


それなのに、私たちの間にはひとつも言葉がなかった。


何もなかったように過ごそうとしている、そのぎこちなさが、かえって昨夜を思い出させる。


 


彼の薄羽織を返してから、私は一言も山南さんと話していない。


 


……私が勝手に、距離を置いているだけ。


 


そんなふうに自分へ言い訳しながらも、肩の力はどうしても抜けなかった。


 


食器を洗い終えようとした、その時だった。


 


「月夜魅」


 


ぴたりと背筋が凍る。


 


低く、よく通る声。


振り返れば、土方歳三が立っていた。


 


屯所へ来てからというもの、彼とは必要最低限の言葉すら交わしていなかった。


真正面から目を合わせるのも、これが初めてかもしれない。


 


「外出に付き合え」


 


ただ、それだけだった。


理由も、行き先も、何ひとつ説明されないまま。


 


「……はい」


 


短く返すと、隣で様子を見ていた山南さんがほんのわずかに眉をひそめた。


けれど、彼も何も言わなかった。


 


 


壬生浪士組に来てから、初めて屯所の外へ出た。


それだけでも心が落ち着かないのに、隣を歩くのが土方さんだという事実が、さらに息を詰まらせた。


 


彼の足取りには迷いがない。


無駄がなく、静かで、それでいて一歩ごとに強い意志が感じられる歩き方だった。


 


京の町は、今日も人で溢れていた。


商人の張り上げる声、染物の暖簾、道端を駆ける子どもたちの笑い声。


どれも、山奥で育った私には未だに遠い世界のもののように思える。


 


「屯所の備蓄が足りない。薬草と保存食を補充する」


 


歩き始めてしばらくしてから、ようやく土方さんが口を開いた。


 


「……どうして、私を?」


 


つい、口をついて出る。


 


「時間に余裕がある者を選べと言われただけだ。それに――女の目のほうが、市場では役に立つ」


 


言葉に棘はなかった。


けれど、どこか突き放すような響きがある。


この人は、本当にただ必要だから私を連れ出したのではない。


 


……試されている。


 


そう直感した。


 


その後も、彼はほとんど口を開かなかった。


それなのに、視線の端ではずっと私を見ている気がした。


まるで、一歩ごとに何かを測られているようだった。


 


「人を斬ったことはあるか」


 


突然、そう問われる。


 


「……ありません」


 


「なら、喰ったことは?」


 


心臓がひとつ、大きく跳ねた。


けれど、動じないふりをして答える。


 


「……ありません」


 


「なら――鬼の力を使って、何を守った」


 


言葉を探しながら、私は少しだけ視線を伏せた。


 


「……大切な人がいました。その人と、一緒に逃げました」


 


それは真実だった。


けれど、その真偽を測るように土方さんがこちらを一瞥した瞬間、喉の奥がぎゅっと狭くなる。


 


きっと、この人は信じていない。


 


でも、それでよかった。


信頼を得るためにここにいるわけではない。


ただ、“今を生き延びる”ためにいるだけなのだから。


 


町の端の乾物屋で必要なものを買い揃え、帰り道には夕陽が差し始めていた。


それでも、土方さんは何も言わない。


終始無言のまま、私と並んで屯所へ戻っていく。


 


その背を見つめながら、私は思った。


この人の視線は、刀より鋭い。


そして――いつかその刀に、私自身が試される時が来るのかもしれない。


そう思うと、喉の奥が少しだけ乾いた。


 


屯所の敷居をまたぐ、その直前だった。


それまで一度も振り向かなかった土方さんが、不意に足を止め、こちらを振り返る。


 


「……今宵は、満月だな」


 


そのひとことだけで、全身がこわばった。


 


満月。


 


その言葉は、この屯所では“監視”とほとんど同じ意味を持っている。


鬼の力が最も強くなり、そして血に酔う鬼にとって最も制御が難しくなる夜。


だから私は、この夜だけは隔てられる。


 


壬生浪士組に来てから、これで三度目の満月だった。


そのたびに、夕餉の支度から外され、日が暮れる前には部屋へ押し込められてきた。


部屋の外には見張りの気配。


気配を消そうとしているのだろうが、鬼の感覚には逆に際立って伝わるだけだった。


 


私が“隔離される夜”。


 


山南さんも、沖田さんも、芹沢でさえ――この夜だけは誰ひとり近づいてこない。


昨夜のことを思えば、それだけでも安全だと言えるのかもしれない。


 


けれど、今宵は違った。


 


灯を落とし、障子越しに空を見上げた時、真円の月が静かに夜空へ浮かんでいた。


その白い光が、ゆっくりと身体の中へ入り込んでくる。


 


胸の奥が熱を帯びる。


指先が痺れる。


肩のあたりがむず痒く、血の中を何かが逆流するような感覚。


 


変化の前触れだ。


 


それはもう、慣れているはずのものだった。


だが、今夜はそれだけではなかった。


 


廊下に、ひとつだけ異質な気配があった。


ぽつりと、そこに在る。


見張りの隊士たちとは明らかに違う、張りつめた気配。


障子の向こうから、じわりとこちらへ滲み寄ってくる。


 


姿を見たわけではない。


声を聞いたわけでもない。


けれど、その空気と匂いが、私に教えていた。


 


……土方さん。


 


満月の力に目覚めた鬼の感覚が、間違いなくそう告げている。


 


気配は動かない。


まるで私がどう出るのかを、ただじっと見ているかのように。


 


なぜ、今夜……?


 


問いかけたくても、言葉にはならなかった。


こちらから障子を開けるべきか。


それとも、開けてはならないのか。


分からない。


 


けれど確かに感じた。


その気配には、刀を持つ者の緊張と、ほんのわずかに――“興味”にも似たものが混じっている。


 


私は布団の中で息を潜めたまま、その気配の行方を窺う。


月の光が、障子の紙を薄く透かしている。


その向こう、縁側に立つ人影の輪郭が、かすかに揺れて見えた。


 


どれほどの間、そうしていただろう。


ひとときか、ふたときか。


正確には分からない。


けれど、この静けさの中では、ほんの数息の沈黙ですら、ひどく永く感じられた。


 


……このまま、夜が明けるのを待つの?


 


見張りの役目なら、それでもいいのだろう。


けれど、何の声もかけず、何の動きも見せず、ただそこに“在る”だけのその気配が、かえって胸を締めつけた。


 


私は、そっと身を起こした。


足音を忍ばせ、障子のすぐ前まで歩み寄る。


満月の光を浴びた自分の影が紙に薄く映る。


そしてその向こうにも、人影の揺らぎがある。


 


「……あの」


 


喉が渇いて、最初の声はかすれた。


けれど、逃げない。


 


「わたし、これまで幾月か……この屯所で過ごしてきました」


 


声が震えていないか、不安になりながらも続ける。


 


「けれど、よく言葉を交わすのは……山南さんと、沖田さんくらいです。それ以外の方とは、ほとんど――」


 


土方さんの影は、動かない。


 


「……満月の夜は、長いです。黙って監視を続けるのも、きっと、お疲れでしょう?」


 


自嘲のように、少し笑ってしまった。


 


「わたしのことを“監視対象”として見るのは、当然のことです。でも今夜だけ……ほんの少しだけでも構いません」


 


「土方さんの目に映る“隊士たち”のこと、教えていただけませんか」


 


静寂が落ちる。


何の反応もない。


 


……調子に乗りすぎた。


 


そう思って、私は黙って頭を下げた。布団へ戻ろうと背を向けた、その時だった。


 


「……新八は、口が軽い。要らぬことばかりベラベラ喋る」


 


不意に、低い声が落ちてきた。


 


え……?


 


足を止める。


障子の向こうの影はそのままだ。


けれど、続けられる声には、ほんのわずかに柔らかさが混じっていた。


 


「左之助は自分勝手だ。だが、あいつほど裏表のない奴もいない」


 


「総司は……厄介だな。普段は飄々としてるくせに、どこまで考えてるのか分からん。俺ですら読めないことがある」


 


次々に語られる隊士たちの姿。


それは噂話でも、誰かへの愚痴でもなかった。


ただ土方歳三という男が、彼自身の目で見てきた人間たちを、そのまま静かに語っているだけだった。


 


胸の奥が、じんと温かくなる。


 


話してくれている。


 


ただ監視しているだけではない。


ほんのわずかでも、人と人として向き合おうとしてくれている――そんなふうに思えてしまった。


 


私は障子の前へ座り込んだ。


一枚隔てた向こうへ、ぴたりと寄り添うように。


 


静かに語られる、隊士たちのこと。


それは月の光が滲む夜にだけ聞こえる、小さな物語のようだった。


 


「……斎藤は無口だ。話さなくても通じると、本気で思ってる節がある」


 


変わらず低く、感情の起伏は少ない。


それでも、その一言一言には、妙なぬくもりがあった。


 


「平助は……よく笑う。歳相応の馬鹿さもあるが、人の痛みにゃ敏い」


 


「井上さんは頑固だ。だが芯がある。年長者ぶって口うるせぇのも、結局は俺たちを守るためだろうよ」


 


短く、端的な言葉。


けれどそこにあるのは、決して薄い観察ではない。


その人間を見て、知って、抱えた上での言葉だった。


 


私は知らず知らずのうちに、土方さんの語る声の中で、隊士たちの輪郭を思い描いていた。


今までまともに関わったことのない人たちの“中身”を、誰かの目を通して知っていくのは、不思議な感覚だった。


 


「近藤さんは……まあ、見ての通りの人だ」


 


ふっと、声の奥に何かが揺れる。


 


「でかくて、暑苦しくて、お節介焼きで……それでも、あの人についていきたいと思う奴は多い。俺も、あの人がいたからここにいるようなもんだ」


 


少しだけ、笑ったような気配がした。


その顔は見えないのに、そうと分かるほど声が柔らかかった。


 


「あの人は……強い人だ。近藤さんが“強く在ろうとする理由”を、俺は知ってる」


 


それが何なのかは語られない。


けれど、その一言だけで、この人がどれほど近藤さんを信頼しているのか、痛いほど伝わってきた。


 


「山南は……」


 


そこで、土方さんはわずかに言葉を切る。


 


「あいつは、穏やかすぎて損してる」


 


静かな声だった。


 


「何があっても表に出さねぇ。怒りも、疑念も、全部胸にしまって“優しさ”で包み込もうとする。……あれは、あいつの強さであり、脆さでもある」


 


責めるような響きはない。


むしろ、遠くを見るような、どこか静かな敬意に近いものがあった。


 


昨夜のことを、山南さんは土方さんへ報告したのだろう。


けれど、この人は今、芹沢の名も、暴力のことも、ひとつも口にしない。


ただ山南敬助という人間の本質だけを、淡々と語っている。


 


「そういう性分だから、時に公平であるべき判断にも私情が混じる。見たものより、信じたいものへ寄ってしまう」


 


――?


 


その意味のすべては、私にはまだ分からなかった。


ただ、それでも土方さんが、山南さんを信用していないわけではない――それだけは、声で伝わってきた。


 


……優しいんだ、この人。


 


意外だった。


もっと冷たくて、もっと無骨で、判断だけで生きている人だと思っていた。


けれど、仲間たちのことを語る時のこの人は、ちゃんと一人ひとりを見ている。


それが、声だけで分かった。


 


私は、静かに息を吐いた。


その時だった。


 


「……で、お前は?」


 


はっとして顔を上げる。


障子の向こう、土方さんの影が、わずかにこちらを向いた気がした。


 


「山から下りてきて、ここに来て。何を見て、何を考えてる?」


 


その言葉は、詰問ではなかった。


けれど、試されている感覚があった。


 


どう答えるのが正しいのか、分からなかった。


それでも、この人は今、私の声を待っている。


そう思うと、黙っていることの方が卑怯な気がした。


 


「……怖いと思っていました」


 


ゆっくりと、言葉を選ぶ。


 


「ここに来た初日から、ずっと。人の視線も、声も、空気も。何をすれば斬られるのか、何が怒りに触れるのか、分からなくて……」


 


自分でも、こんなふうに話すつもりはなかった。


けれど、一度零れた言葉はぽろぽろと続いていく。


 


「でも……誰かの隣にいると、少しだけ怖くなくなるんです。山南さんも、沖田さんも」


 


「皆さんがどんな人たちなのかを知れたら……もしかしたら、わたしはここで、生きていけるのかなって」


 


沈黙が落ちた。


風が、そっと部屋の空気を撫でる。


 


その時、ふと気配が変わった。


障子越しではなく、もう少し近く――縁側の方だ。


顔を上げると、月の光の差し込む廊下に人影が浮かんでいた。


 


――土方さん。


 


私は思わず息を呑む。


声をかける前に、彼の視線が真っ直ぐこちらへ向けられた。


静かな月光に照らされたその姿は、研ぎ澄まされた刃のようで、同時にひどく端正だった。


こんなにも美しい人だったのかと、そんな場違いなことを思ってしまった自分が、少しだけ悔しかった。


 


「……それが、“鬼”の姿か」


 


ぽつり、と土方さんが言う。


冷たさはない。ただ、事実を確認するような声音だった。


 


――はっ。


 


その瞬間、私は気づく。


髪も、瞳も、角も。


満月に引き出された鬼としての変化が、今、すべて彼の目に映っている。


 


胸の奥が、ずくりと痛んだ。


まるで“人ではない自分”の輪郭だけをなぞられたようで、心がざわめく。


 


黒かった髪は血のような紅へ滲み、瞳は微かに光を帯びている。


額には、鬼の証である角。


 


見られた。


 


この姿を。


 


けれど、土方さんは部屋へ入ってこなかった。


一歩も、敷居を跨ごうとはしない。


まるでそこに見えない線でも引くように。


“お前と俺の間には距離がある”


そう無言で示しているようで――それが、少しだけ悲しかった。


 


「芹沢は、怖いか?」


 


突然、その名を問われる。


どきり、と胸の奥が嫌な音を立てた。


 


私は言葉を返せず、小さく頷く。


 


「鬼の力があれば、たかが人間ひとり。本気を出せば、息の根を止めることなど容易いだろう」


 


障子の外から落ちてくるその声に、私は息を詰めた。


なぜそんなことを聞くのか。


――いや、分かっている。


試されているのだ。


 


「……あの夜、芹沢の顔に傷をつけたと聞いた。だが、それだけで終わった」


 


声に責める色はなかった。


それがかえって、問いの本質を深くえぐってくる。


 


「鬼の力なら、もっと容易く……腕の一本くらい、奪えただろう」


 


私は拳を握りしめる。


障子一枚向こうにいる男は、私の呼吸一つまで聞き逃すまいとしている気がした。


 


「……それは、わたしが……」


 


声が掠れる。


それでも、言わなければならないと思った。


 


「……人を殺したくないと、思うからです」


 


静かな夜に、自分の声だけが驚くほど脆く響いた。


 


「わたしは……昔、一度だけ、人を喰ったことがあります」


 


心臓が、ぎゅっと縮む。


思い出すだけで、指先が冷たくなる記憶。


 


「その時のことを、忘れることはできません。匂いも、感触も、あの時の自分の心も。全部……消えてくれないんです」


 


どれだけ綺麗な布を羽織っても。


どれだけ丁寧に言葉を紡いでも。


一度血を口にした鬼は、人ではないと――そう定められている。


 


「……でも、もう二度と、誰かを傷つけたくないんです。たとえ、自分が壊れそうになっても」


 


沈黙が落ちた。


どれほどの時が過ぎただろう。


やがて、土方さんの声が再び静かに落ちてきた。


 


「……俺は、情に流される奴が嫌いだ」


 


その言葉に、息が止まりそうになる。


 


「目の前の涙や、震える声に“真実”があるとは限らない。人は、どんな顔をしてでも、嘘を吐けるからな。実際お前は買い出しの時に俺に“人を喰ったことはない”と言っただろ」


 


冷たい。


そう思った。


けれど同時に、その声には何か別のもの――哀しみのような、深い疲れのようなものも滲んでいる気がした。


 


「だから俺は、斬る時には斬る。たとえそれが誰であっても、だ」


 


私は息を飲む。


 


「……だが、斬らないと決めたなら――徹底的に“見極める”必要がある。ただの情けで、命を預かるわけにはいかないからな」


 


低く、静かな声だった。


 


「だから、俺はお前を“見に来た”。……それだけだ」


 


そのあと、廊下の気配はふと静まり返る。


けれど、完全に消えたわけではなかった。


戸の閉まる音も、足音もない。


ただそこに、張りつめた空気だけが残っている。


月夜に溶け込むように、土方歳三という存在だけが、まだその場にあった。


 


私は、障子越しの気配へ向かってそっと視線を落とした。


感謝ではない。


けれど、ほんの少しだけ、何かに気づきかけていた。


 


……あの人は、“私”を見ていたわけじゃない。


 


語りかけたのは、名もなく預けられた“監視対象”としてのこの身だ。


心の内を引き出すために、ただ言葉を差し出しただけなのかもしれない。


それでも、あの静かな語りには、嘘だけではないものが確かに宿っていた気がして――私は、余計に分からなくなった。


 


ただ、ひとつだけ分かったことがある。


 


――私はまだ、この人には認められていない。


 


鬼だからか。


人を喰った過去があるからか。


何も語らず生きてきたからか。


 


理由は分からない。


けれどその影は、私をまだ“外”の存在として見ている。


それが、痛いほどに伝わってきた。


 


こうして、満月の夜は静かに更けていく。


眠れぬまま、言葉を交わしながら。


同じ闇を、違う距離感で共有しながら。


 


心は近くて、遠いまま。


それでもどこかで、確かに揺れていた。







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