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エンド・オブ・ザ・江戸・ピリオド  作者: ありんこ。


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10/12

揺らぐ理と、寄る情と



 


――夜が明ける。


けれど、私の中にはまだ、先ほどまで続いていた夜の気配が微かに残っていた。


 


月夜魅さんの震える声。


涙に濡れた頬。


膝に預けられていたあの身体の熱が、いまだに自分の手のひらへ残っているような気がして、私はいつもより少しだけゆっくりと朝を迎えていた。


 


静かな部屋の中。


まだ眠り続ける彼女を、私は一度も起こさなかった。


あの夜、誰にも見せなかった心の奥を、私にだけ晒してくれた――そのことを思うと、どんな言葉も軽々しくかけることができなかった。


 


……もう少し、このままで。


 


そんなことを考えてしまう自分に、苦笑したくなる。


 


芹沢さんの目の奥に見た狂気。


そして、怯えきった月夜魅さんの震え。


あの時、私は“組の一員”としてその場にいたのか。それとも――


 


……私は、ただの“男”だったのか。


 


その問いが、頭の隅から離れないまま、私は今もなお膝の上で眠る月夜魅さんの黒髪を、そっと指先で撫でた。


 


その時だった。


障子の向こうから、静かな足音が近づいてくる。


気配に顔を上げると、そこに立っていたのは沖田君だった。


 


見廻り帰りなのだろう。


まだ朝の光も差し切らぬ時刻だというのに、隊服のまま、わずかに疲れを滲ませた顔でこちらを見ている。


 


その視線はすぐに、私の膝で眠っている月夜魅さんへと落ちた。


赤く腫れたまぶた。


昨夜の涙の痕は、朝になってもまだ消えていなかった。


 


沖田君はしばらく何も言わずにその顔を見つめていたが、やがてぽつりと口を開いた。


 


「……何が、あったんですか」


 


その声には、静かな怒りが滲んでいた。


 


私は息をひとつ吐き、小さく頷く。


そして昨夜のことを、言葉を選びながら話した。


 


芹沢さんが酔ったまま彼女の部屋に入ったこと。


月夜魅さんが怯え、抵抗し、鬼の変化が現れかけていたこと。


そして、私が間一髪でその場に踏み込んだこと。


 


沖田君は、その間ひとことも口を挟まなかった。


ただ黙って聞いていた。


 


語り終えた時、彼は視線を落とし、かすかに唇を噛みしめた。


 


「……やっぱり限界か、あの人」


 


吐き出すようなその呟きに、私は返す言葉を見つけられなかった。


沖田君の胸の内には、怒りも、悔しさも、後悔もあるのだろう。


昨夜、自分がそこにいなかったことを責めている気配が、その声には確かにあった。


 


……この子も、また情が深い。


 


だからこそ危うい。


月夜魅さんへ向けるその“情”が、やがて判断を曇らせるのではないか――そう思いながらも、同時に、その情の深さに救われることもあるのだから、皮肉なものだ。


 


それからしばらくして、月夜魅さんは目を覚ました。


少し驚いたように顔を上げたが、何も言わなかった。


私は、ただ穏やかに微笑んだ。


 


「おはようございます。……少しは眠れましたか?」


 


彼女は小さく「すみません……」と頭を下げ、そっと自分の手元にある羽織を丁寧に畳む。


その所作を見て、私は胸の奥にほのかな熱を覚えた。


 


……やはり、優しい方だ。


 


どれだけ怯えていても、どれだけ傷ついていても、こうして他人のものを粗末に扱わず、まず礼を尽くそうとする。


 


けれど、その優しさは時として“弱さ”にもなり得る。


それを、私は誰より知っている。


 


だからこそ――守りたいと思ってしまうのかもしれない。


副長として。いや、それだけではなく、一人の男として。


 


その後、彼女は「炊事場に行きます」と言った。


私は「無理はなさらないでください」と返したが、彼女はただ静かに微笑んで首を振る。


 


そうして、二人で炊事場へ向かった。


湯を沸かし、味噌を溶き、米の炊ける香りに包まれながら、私たちは並んで朝の支度をする。


 


いつもの朝。


けれど、昨夜という夜を越えたあとでは、その“いつも”が少しだけ違って見える。


 


私の中で、何かが変わってしまったのだろう。


それでも、変わったことを認めるのはまだ怖かった。


 


鍋の中を見つめながら、私は静かに思う。


この世界では、鬼というだけで命を奪われることがある。


だが、もしその奥に“それ以上のもの”が確かにあるのなら――私は、それを信じたいと思ってしまう。


 


……たとえ、それが甘さだとしても。


 


味噌汁の立てる柔らかな音が、朝の空気に溶けていく。


私はもう一度、鍋の中を静かにかき混ぜた。


 


「――月夜魅」


 


その声が響いた瞬間、私は手にした湯桶をわずかに揺らしてしまった。


静かな炊事場の空気が、ぴたりと凍りつく。


声の主は、土方さんだった。


 


入り口に立ったまま、無表情に月夜魅さんを見つめている。


彼女は肩をわずかにすくめるようにして振り返り、それから口を開いた。


 


「……はい」


 


たったそれだけのやり取りだった。


けれど、その間に流れた空気は、ひどく張りつめていた。


 


土方さんは「外出に付き合え」とだけ告げて、すぐに踵を返した。


理由も、行き先もない。ただ命令だけがそこにある。


 


私は、洗った椀を拭く手を止めたまま、その場に立ち尽くしていた。


去っていく二人の背を見送りながら、胸の奥に重く冷たいものが沈んでいく。


 


鬼の副長。


そう呼ばれる人だ。


あの人が何かを“決める”時、そこに情はない。


 


……今すぐ何かを下すとは思っていない。


けれど、あの人はきっと見極めに行ったのだろう。


今まで私や沖田君に任せていた“月夜魅”という存在を、自分の目で見て、自分の中の秤にかけるために。


 


……月夜魅さん、大丈夫でしょうか。


 


あの子は、自分の弱さを知っている人だ。


だからこそ、どんな言葉をぶつけられても、それをそのまま自分を責める刃に変えてしまう危うさがある。


 


私は米を研ぐ手を再び動かした。


けれど――


 


まったく、手につかなかった。


 


気づけば、手のひらに湯をすくっては落とすことを繰り返しているばかりだった。


 


「……あれ、山南さん。何してるんですか?」


 


背後から、いつもの飄々とした声がした。


振り返ると、沖田君が立っていた。非番なのだろう、刀は帯びていない。


 


「……沖田君」


 


彼は湯気を軽くよけながら炊事場へ入り、私の手元を見て首を傾げた。


 


「今日の朝ごはん、ずいぶん丁寧ですね」


 


私は苦笑する。


 


「少し……考え事をしていまして」


 


沖田君は何かを察したように、小さく頷いた。


そして黙って木桶へ手を伸ばし、水をすくう。


 


しばらくの間、二人の間に会話はなかった。


水音だけが静かに続く。


 


けれど、その静けさに耐えきれず、私は先に口を開いた。


 


「土方さんが、月夜魅さんを外出に誘われました」


 


その言葉に、沖田君の手がわずかに止まる。


柄杓から落ちた水が、こぽん、と桶へ沈んだ。


 


「そっか」


 


返ってきたのは、たったそれだけ。


けれど、そのひと言には、予想していたような諦めと、どこか張りつめた覚悟があった。


 


「鬼の副長が直接接触を図るとは、珍しいですよね」


 


私がそう言うと、沖田君は軽く笑った。


 


「山南さんが言うと、“鬼”って言葉に響きがありますね」


 


笑っているのに、目は笑っていない。


この子は本当に、何もかもをそうして包んで隠すのがうまい。


 


しばしの沈黙。


私たちは並んで味噌を溶き、米の炊ける匂いの中で、それぞれの思考に沈んでいた。


 


朝の穏やかさが、かえって奇妙だった。


昨夜は、月夜魅さんが涙に濡れた顔で私の膝に身を預けて眠っていたというのに。


そして今、彼女は別の誰かの目に晒されている。


 


……何を問われているのでしょうね、君は。


 


湯気の向こうに見える沖田君の横顔を見ながら、私は何気ない調子を装って問いかけた。


 


「……君は、どう思っているんですか。月夜魅さんのこと」


 


鍋をかき混ぜながら、ごく自然な流れに見えるように。


けれど、胸の内では彼の答えを逃すまいとしていた。


 


彼はわずかに顔を上げたが、こちらは見ないままだった。


 


「……あの子、山南さんのこと、すごく信頼してますよ」


 


――答えになっていない。


しかも、それはわざとだ。


 


私は微笑んだまま、胸の内で小さく息を吐いた。


 


……かわしましたね。


 


この子は、意味のない受け流し方をする人ではない。


ならば今の返しそのものが、答えなのだろう。


 


君もまた、探っているんですね。


 


私は鍋底に沈んだ味噌を静かにかき混ぜながら、そのまま待った。


すると、やがて彼が言った。


 


「じゃあ、山南さんは?」


 


ぴたり、と空気が変わる。


湯気越しの視線が、今度はこちらをまっすぐ射抜いてきた。


 


私は一瞬だけ答えをためらった。


けれど、副長としての顔を崩さぬまま、穏やかに返す。


 


「……任された“保護対象”です。目を離してはいけない存在ですから」


 


沖田君はふっと目を細めた。


それが笑みなのか、何かを見透かした合図なのかは分からない。


 


「冷たいなあ、山南さんは」


 


「仕事ですから」


 


「……情は?」


 


「最も、判断を狂わせるものですね」


 


そう返した私に、沖田君はまたひとつ笑みを浮かべた。


けれどその笑みの裏に、何かを隠していることは私にも分かる。


 


私たちは、どこか似ている。


だからこそ、言葉にして確かめる必要のないこともある。


それでも、沖田君はぽつりと漏らした。


 


「まだ、あの子が来て……三月みつきほど、ですよね」


 


私は頷いた。


 


「……それなのに、なんでだろうなあ」


 


味噌汁をかき混ぜながら、彼は言う。


 


「こんなに早く、気になるなんて。今までの女たちには、こんな感情抱いたことなかったんですけどね」


 


私は柄杓を持つ手を止めた。


だが、すぐには答えない。


その言葉にあるのが恋情なのか、好奇心なのか、責任感なのか――おそらく彼自身にも、まだ判然としていないのだろう。


 


だから私は、できるだけやわらかく返した。


 


「……人とは違う“妖”という、異質な存在だからですかね」


 


「異質、ですか」


 


「人とは違う存在に、心が動かされる。それ自体は、決しておかしなことではないでしょう」


 


沖田君は何も言わなかった。


けれど、その沈黙そのものが、ひとつの答えのようでもあった。


 


炊事場の湯気が、ゆらりと揺れる。


その向こうで、私たちは互いに“これ以上は踏み込まない”という線を、そっと引いていた。


 


同じ人を見ていることを知りながら。


同じように心を動かされていることに薄々気づきながら。


それでも、その想いに名を与えることだけは避けたまま。


 


朝の湯気の中、味噌の香りが静かに満ちていく。


 


この日常が、あとどれほど続くだろう。


そんな予感が、どこかでゆっくりと胸を締めつけていた。






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