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エンド・オブ・ザ・江戸・ピリオド  作者: ありんこ。


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11/14

静かなる日常の狭間で



 


土方さんの監視下に置かれるようになって、数日が過ぎた。


 


とはいえ、四六時中そばに張りつかれているわけではない。


副長としての務めが忙しいからなのか、顔を合わせるのも一日のうち数回だけで、交わされる言葉も必要最低限だった。


 


「茶を淹れて部屋まで持ってこい」


「この書類をまとめておけ」


 


それだけ。


用が済めば、土方さんはいつもさっさと背を向けて去っていく。


 


……それでも、見られている。


 


あからさまではないのに、隙のない視線だけは、確かに感じた。


斬ることも、生かすことも、あの人にとってはどちらも“選択”なのだろう。そして私は、その選択のための材料として、毎日少しずつ見定められている。


 


怖くはない。


けれど時折、胸の奥がじりじりと焦げつくような感覚になる。


何かが焼けて、煙になって、誰にも見えないまま消えていくような――そんな、鈍い痛みだった。


 


朝と夕の支度は、相変わらず山南さんと一緒だった。


必要な会話だけを交わし、黙々と手を動かす。


あの夜以来、山南さんの距離は一歩だけ遠くなった気がする。


気のせいかもしれない。


けれど、あの膝の上のぬくもりを思い出そうとするたび、目には見えない細い線を引かれてしまったような気がしていた。


 


「……月夜魅さん、これ、拭いてもらえますか?」


 


朝の炊事場で、山南さんのやわらかな声が湯気の向こうから届く。


袖をまくり、器を手際よく洗っていく横顔は、今日も穏やかだった。


 


「はい」


 


私は桶の縁に浸した布を手に取り、言われたまま器の水気を拭き取っていく。


こういう小さな作業をしている時だけは、少しだけ心が静かになる。


手元だけを見ていればいい。


余計なことを考えなくて済む。


湯気の温度が肌にやさしくて、そのやわらかさが胸のざらつきをほんの少し和らげてくれるような気がした。


 


「最近は、少し顔色がいいですね」


 


山南さんが、洗い終えた椀を重ねながら、ふと目を細めた。


 


「そう……ですね」


 


思ったよりも素っ気ない声になってしまい、私はそっと彼の顔をうかがう。


けれど山南さんは変わらぬ笑みのまま、静かにこちらを見ていた。


 


「沖田くん、最近元気ですか?」


 


……どうしてそれを、私に聞くのだろう。


 


「……最近、彼に対する苦情がたくさん来ていましてね。私も少し困っているんです」


 


「苦情……?」


 


思いもよらぬ言葉に、器を拭く手が止まった。


 


「沖田くん、最近はあなたの部屋で毎晩眠っているでしょう」


 


穏やかな声音のまま、山南さんは言う。


 


「……不思議に思いませんか? 彼が、夜の見廻りにほとんど出なくなったこと」


 


「そういえば……」


 


言われてみれば、その通りだった。


以前は不定期に布団を持ってきていた彼が、今ではそれを当然のように私の部屋へ敷き、そのまま夜になれば戻ってくる。


まるで、最初からそういう習慣だったかのように。


 


「……見廻りは、他の方が?」


 


「ええ。永倉くんや平助くんに、うまく押し付けているようですよ」


 


山南さんの声には苦笑がにじんでいた。


怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ事実を告げているだけなのに、そのやわらかさがかえって胸に残る。


 


「私は、“情”を否定しようとは思いません」


 


そう言って山南さんは、一度手を止めた。


 


「でもそれが、“目”を曇らせることもある」


 


その一言には、ほんのわずかだが、たしかな重みがあった。


私は思わず彼の目を見つめる。


けれど山南さんは、やはり変わらぬ穏やかさで私を見返しただけだった。


 


「沖田くんは……とても、優しい人ですから」


 


やわらかな口調。


けれどそこには、それ以上踏み込まないという静かな距離も感じられた。


 


……違う。


 


その瞬間、私はようやく気づく。


“線を引かれた”のではない。


山南さんは、私たちのあいだにある距離を、自分の手で丁寧に保とうとしてくれているのだ。


 


そう思った途端、胸の奥がちくりと痛んだ。


 


「……私、迷惑……なんでしょうか」


 


ぽつりと零れた声に、山南さんは目を瞬かせる。


そしてすぐに、静かに、けれどたしかに優しく言った。


 


「月夜魅さんが、誰かの“隣”で心安らかに眠れることを……私は、とても良いことだと思っています」


 


その言葉に、胸の奥が少しだけほどけた。


 


けれど、そのやさしさの奥には、やはり決して踏み込ませない距離があった。


湯気の向こうの山南さんは、どこまでも穏やかで、どこまでも正しい。


そしてその穏やかさが、もしかすると“誰に対しても向けられる優しさ”なのかもしれないと思ってしまった時、私は妙に寂しくなった。


 


あの日の夜。


 


芹沢は、たしかに恐ろしかった。


けれど、それ以上に――山南さんの膝の上は、あたたかかった。


心地よかった。


優しかった。


もう幼子でもないのに、涙が止まらなくて、そのぬくもりにただ甘え、そのまま朝を迎えてしまった。


 


“誰かの隣で、心安らかに眠れることを……”


 


山南さんは、そう言った。


けれど。


 


――私は。


 


私の気持ちは、もっとずっと矛盾している。


 


怖かったはずなのに。


助けてくれた人だから、そんな単純な理由だけでは片づけられない。


あの夜は、ここで過ごしたどの夜よりも安らかだった。


まるで胸の奥に、ぽつりと小さな焚き火が灯ったみたいに。


 


そんな感覚に、私はまだ戸惑っていた。


もし我儘を言っても許されるのなら、山南さんが言う、その“誰か”は――


 


何か言いたげな私の視線に気づいたのだろう。


山南さんと目が合う。


けれど彼は、すぐにやさしく話を切り替えた。


 


「……さて、朝の支度は終わりましたね」


 


「月夜魅さんは、洗濯物に取り掛かってください。私は副長としての仕事に戻ります」


 


何か言いかけたようにも見えた。


それでも彼は、結局それ以上は何も言わず、濡れた手を拭きながら炊事場を出ていく。


 


その背を、私はただ見送ることしかできなかった。


 


――寂しい。


 


そんな感情を抱いた自分に驚きながら、私は急ぐように桶を抱えて洗濯場へ向かった。


 


「……あ、鬼の子」


 


ぱたぱたと洗濯物を広げていた私の背後から、気安い声が飛んできた。


 


この呼び方に遠慮も気遣いもないのは、一人しかいない。


 


「永倉さん、なんの用ですか」


 


振り返ると、案の定だった。


上半身裸のまま肩に手拭いをかけた永倉新八が、のんきな顔でそこに立っている。


 


永倉さんとは、洗濯の合間にこうして時々言葉を交わす。


必要以上に馴れ馴れしいけれど、悪意はない。思ったことをそのまま口に出すような、分かりやすい人だった。


 


「ちょっと愚痴、聞いてくれよ」


 


「……その前に、その格好、寒くないんですか」


 


私が洗濯物を干しながら言うと、永倉さんは呆れたように肩をすくめた。


 


「何言ってんだ、この暑い中寒いわけねえだろうが。明けで、さっきまで湯浴みしてたんだよ。身体が火照って仕方ねえんだ」


 


ぱたぱたと自分で扇ぐ仕草。


がっしりした身体つきは、そこらの女なら見ただけで顔を赤くするだろう。


私は横目で軽く流しながら、黙々と洗濯物を干し続けた。


 


「んなことはどうでもいいんだって。とにかく聞いてくれよ、俺の愚痴」


 


「……はいはい、どうぞ」


 


手を止めずに素っ気なく返すと、永倉さんはその場へどかりと腰を下ろした。


しかも手には、どこから持ち出したのか酒瓶まである。


 


「だからって、ここで呑まないでください」


 


「いいじゃねえかよ。鬼でも花街の女に負けねえ顔してんだから、朝っぱらからいい肴だっての」


 


にやにやと笑う。


 


「お酌してくれてもいいんだぜ?」


 


「馬鹿言わないでください」


 


吐き捨てるように言いながら、私は洗濯物をぱんと勢いよく干した。


それを見て、永倉さんはけらけらと笑う。


 


「相変わらず手ぇ早ぇな、鬼の子!」


 


「……永倉さんこそ、さっさと服を着てください」


 


そんなふうに言い合っているうちに、少しだけ肩の力が抜けていた。


 


「最近よ、総司に夜の隊務、代われ代われって押し付けられてさ。心労が溜まってんだわ」


 


酒瓶を振りながら、永倉さんは愚痴をこぼし始める。


 


「それだけならまだしも、“門番よろしく〜”とか笑いながら言いやがるんだぞ。次の日はケロッとしてやがるし、こっちは死にかけてんのに!」


 


「……大変なんですね」


 


乾いた返事しかできない私に、永倉さんはますます大袈裟に肩を落とした。


 


「だろ!? 俺、最近思うんだよ。もしかしてあいつ、俺のこと嫌いなんじゃねぇかって!」


 


「それは……たぶん、違うと思います」


 


洗濯物を干しながら一応否定はしてあげる。


 


「ほんとにぃ? 俺、ここだけの話、夜中にあいつの布団に塩撒こうかと思ったもん」


 


「……それはやめてください」


 


思わず溜息が漏れる。


けれど、こうしてぶつぶつと愚痴をこぼしながらも、本気で人を憎みきれないところがこの人らしかった。


 


きっと本当に鬱憤は溜まっているのだろう。


でもその一方で、沖田さんのことを嫌い切れずにいるのも分かる。


 


――そんな時だった。


 


「なに、僕の悪口?」


 


ふいに、背後からさらりとした声が落ちてきた。


 


「っ――」


 


驚いて振り向くと、にこやかに笑う沖田さんが立っていた。


 


「げっ」


 


永倉さんが、あからさまに嫌そうな声を出す。


 


「悪口……なんて、そんな大それたこと……ただの、憂さ晴らしで……」


 


目を逸らす永倉さんを見て、私はつい笑いそうになるのを堪えた。


 


沖田さんは、ふわりと微笑んだまま永倉さんの前まで歩み寄る。


そして――


 


「へえ、憂さ晴らしかあ」


 


ぱしん、と軽く額をはたいた。


 


「いてぇ!」


 


「まぁ、少しは僕も反省しますけど……」


 


言いながら、沖田さんはちらりと私を見る。


その視線はどこか拗ねたようで、妙に拗れていて、見ているこちらの呼吸が詰まりそうになった。


 


「永倉さんの文句を聞いてくれるのが、僕じゃなくて月夜魅さんなの、ちょっと悔しいなぁ」


 


冗談めかしているのに、その中に本気が混じっている。


 


私は思わず目を瞬いた。


 


沖田さんは、朝の光を背に笑っていた。


けれど、その笑みの向こうに何か別のものが隠れているようで、私はうまく息ができなかった。


 


最近、なんだか――胸の奥がざわりと揺れる。


 


以前の沖田さんは、もっと気まぐれだった。


ただ面白がって、からかうように、私へちょっかいを出してくる人だった。


監視対象として。


鬼という“面白いもの”として。


私はずっと、そう思っていた。


 


けれど今は違う。


 


夜、見廻りに出ることも少なくなって、まるでそれが当然のように毎晩私の部屋へ来る。


何も言わずに私の隣で眠り、呼吸だけを静かに重ねていく。


 


そんな日々が、もう当たり前になっていた。


 


……気のせい、だよね。


 


自分へそう言い聞かせる。


けれど今、永倉さんと話していた私を見る沖田さんの目を見てしまえば、もう“気のせい”では済まない気がした。


 


「……僕、さっきまで隊士たちに稽古つけてたんだよ」


 


ふいに沖田さんが呟く。


 


「だけどさ」


 


その目が、また真っ直ぐ私を捉えた。


 


「……君が楽しそうにしてるの、見えちゃったから」


 


ぽつり、と。


 


「後は“自主練”してろ、って言って抜けてきちゃった」


 


にこりと笑うその顔は、いつもの柔らかな沖田さんのままだった。


でも、その言葉は、胸の奥にひりつくような熱を残した。


 


……そんな理由で、わざわざ。


 


何も言えない私の隣で、永倉さんが頭をかいた。


 


「お、おう……俺、そろそろ戻るわ!」


 


「じゃ、後は若ぇ二人で仲良くやってくれ!」


 


そんな茶化すような言葉を残して、永倉さんはそそくさと洗濯場を離れていく。


 


二人きりになった空気が、急に近くなる。


朝の光の中、沖田さんはほんの数歩先に立っているだけなのに、それがやけに近く感じられた。


 


「……月夜魅さん」


 


その声に、私はゆっくりと顔を上げる。


 


「ねえ、僕……迷惑?」


 


冗談めかした口調。


けれど、その目は少しだけ真剣だった。


 


迷惑――そんなふうに思ったことは、一度もなかった。


ただ。


それがどういう意味でそうなのか、私はまだ知らない。


 


沖田さんが私へ向けるこの感情の名前も。


私自身が、どう応えたいのかも。


 


私はそっと目を伏せ、静かに首を横へ振った。


 


「……迷惑、じゃないです」


 


聞こえるか聞こえないかほどの小さな声だった。


 


沖田さんは、ふっと微笑んだ。


けれどその奥に、また何かを隠したような影が揺れたのを、私は見逃さなかった。


 


夏の空に、湿った風が吹き抜ける。


洗濯物が、ぱたぱたと乾いた音を立てた。


その音だけが、妙に耳に痛かった。


 


……気まずい。


 


さっきのやり取りのせいで、言葉が続かない。


沖田さんは隣に立ったまま。


私も、手にした洗濯物を持て余したまま動けない。


 


そんな沈黙に耐えきれなくなった時だった。


 


「……今日は、いい天気だね」


 


沖田さんが、わざとらしいくらい普通のことを言った。


 


「あ、はい……いい天気、ですね」


 


私も慌ててそれに返す。


空は高く、夏晴れで、洗濯物はからからと気持ちよさそうに揺れている。


けれど心の中は、少しも晴れなかった。


 


この人はいったい、何を考えているんだろう。


たった数歩の距離なのに、それがひどく近い。


言葉を選びすぎて、喉の奥がこわばってしまう。


 


その時だった。


 


「月夜魅」


 


凛とした声が飛んでくる。


 


「っ!」


 


驚いて振り向けば、縁側の端に土方さんが立っていた。


無表情のまま、こちらを見下ろしている。


 


「副長室の掃除、頼む」


 


それだけを、簡潔に言い渡した。


 


「……承知しました」


 


深く頭を下げると、土方さんはそれ以上何も言わず、踵を返す。


その背を見送るしかなかった。


 


けれど、その場に残った沖田さんが、ふっと苦笑して言った。


 


「……そんな仕事までやらされてるの」


 


小さな声。


 


「土方さんの世話役じゃないんだからさ」


 


拗ねるようで、でも優しさがにじんでいる。


しかし、その言葉を耳にした土方さんが、くるりと振り返った。


 


「黙れ。これも月夜魅の重要な仕事だ」


 


ぴしゃりとした声音。


容赦も甘えもなかった。


 


沖田さんは、やれやれと肩をすくめるだけだったが――私は密かに胸を撫で下ろしていた。


 


……助かった。


 


あの気まずい空気を、土方さんが一瞬で吹き飛ばしてくれた。


今だけは、あの不愛想な命令に感謝したかった。


 


私は洗濯桶を置き、そっと土方さんの後を追う。


背筋を伸ばし、無言で歩くその背に、沖田さんの視線がずっと突き刺さっている気がした。


振り返る勇気はなく、ただ足を速める。


 


副長室は、屯所の一角にあった。


 


戸を開けると、そこは思ったよりも雑然としていた。


机の上には書類が積み重なり、畳の上にも文書がいくつか散らばっている。


 


……これは。


 


さすが副長、と言うべきなのか、それとも単に片づけが苦手なのか。


私はそっと障子を閉め、邪魔にならぬよう隅から書類を集め始めた。


 


筆遣いの荒い覚え書き。


折り目のついた出兵記録。


誰かへ返すべき報告書。


 


一枚一枚に目を通しながら、丁寧に束ねていく。


 


同じ副長でも――ふと、思い出す。


あの夜、一度だけ訪れた山南さんの部屋。


あそこは驚くほど整っていた。


書棚も、机も、畳の上さえも、まるで呼吸するように静かで乱れがなかった。


 


部屋って……性格が出るものなんだな。


 


そんなことを思っていた時だった。


 


「――総司が、仕事を他の隊士に押し付けているようだな」


 


不意に背後からかけられた声に、私はぴくりと肩を跳ねさせた。


振り返ると、土方さんが机の向こうからこちらを見ている。


 


無表情。


だが、ただの雑談ではないとすぐに分かった。


 


「本人にも言ったさ」


 


私の顔に浮かんだ疑問を見抜いたのか、土方さんは淡々と続ける。


 


「決められた仕事は、きちんとこなせとな」


 


私は黙って頷く。


それは当然のことだ。


 


だが土方さんは、そこで言葉を切り、ほんの少しだけ言いづらそうに次を吐き出した。


 


「……だが、言うことを聞かない」


 


指先が、わずかに揺れる。


 


「“お前のためだ”と、そう言う」


 


――どきり、と心臓が跳ねた。


 


……私の、ため。


 


その意味を考えまいとしても、考えずにはいられない。


苦情が来るほど他人へ負担を押しつけてまで。


私のために。


 


だからこそ、今こうして土方さんは、私へ釘を刺しているのだろう。


 


「……私に、どうしろと」


 


ようやく絞り出した声に、土方さんはわずかに眉をひそめた。


 


「お前からも、言っておけ」


 


静かに。


けれど重みのある声だった。


 


「このままじゃ、他の隊士たちに示しがつかない」


 


私は、しばらく言葉が出なかった。


 


お前から、言え。


 


そんなふうに命じられるとは思っていなかった。


沖田さんは、私にとって――そんな簡単に切り出せる相手ではないのに。


 


「……はい」


 


ようやく返した声は、情けないほど頼りなかった。


 


土方さんはそれ以上何も言わず、机の上の書類へ目を戻した。


その背中が、やけに遠く見える。


 


私は再び散らばった書類を拾い上げた。


 


……伝えられるだろうか。


 


胸の中に、小さな痛みが沈んでいく。


 


その時、ふと手に取った一枚の文書に、見覚えのある二文字が目に入った。


 


――会津藩。


 


思わず息を呑む。


 


会津藩?


 


尊王攘夷の嵐が吹き荒れる京で、幕府側の大きな後ろ盾とされる、あの会津藩が――壬生浪士組へ何かを求めている?


 


「……土方さん、これ……」


 


そっと文書を差し出すと、土方さんはちらりとだけそれを見た。


そして小さく鼻で笑う。


 


「これから、壬生浪士組はもっと大きくなる」


 


静かだが、確信に満ちた声だった。


 


「俺は、そう確信している」


 


胸の奥がざわめく。


 


「……このこと、他の方々はご存じなのですか?」


 


「まだだ。知っているのは、局長と副長、上位幹部だけだ」


 


会津藩からの要請。


これからの動き。


それを知る者は、組の中でもごくわずかしかいないのだ。


 


「この後、幹部会議で詳細を詰める」


 


だから。


 


「……だから、黙っておけ、ということですね」


 


私の言葉に、土方さんは無言で頷いた。


 


「そもそも、お前は隊士ですらない」


 


今度ははっきりと、突き放すように。


 


「隊士ではない者が知るには、過ぎた話だ。黙って掃除を続けろ。……仕事の邪魔だ」


 


ぴしゃりと断ち切る声。


 


……分かってる。


 


分かっている。


私はただ、保護されているだけの存在だ。


正式な仲間ではない。


 


それでも――


 


……私の生活に、関わることだってあるのに。


 


そんな小さな不満が胸の奥でじくじく滲む。


けれど、それを口に出すことはできなかった。


 


私は目を伏せ、再び散らばった書類を丁寧に束ね始めた。


朝の光は、どこまでも清々しいのに、胸の中には拭いきれないざらつきだけが降り積もっていく。


 


どれだけ炊事を手伝っても。


どれだけ誰かの隣で眠れるようになっても。


ここで私は、所詮“よそ者”なのだ。


 


掃除を終え、そっと近づいて声をかける。


 


「……掃除、終わりました」


 


土方さんは、文書から目を上げることなく言った。


 


「ご苦労」


 


たったそれだけだった。


 


……やっぱり。


 


胸の奥が、また小さく痛む。


 


それでも頭を下げ、部屋を出ようとした、その時。


 


「土方さんの世話役さんに、ちょっと用事があるので、お借りしますね〜」


 


軽やかで、それでいて少しだけ棘を含んだ声が響いた。


振り向けば、そこに立っていたのは沖田さんだった。


 


にこやかに笑いながらも、その口調にはわずかな皮肉が滲んでいる。


 


土方さんはちらりとだけ私を見た。


冷たくもなく、優しくもなく、ただ静かな視線だった。


そして何も言わないまま、再び目を文書へ戻す。


それが無言の許可だと分かり、私は思わず胸を撫で下ろした。


 


沖田さんは、私に向き直るといつものように柔らかく笑う。


 


「今日は非番なんだ。……だから、稽古、付き合ってよ」


 


「え……稽古?」


 


戸惑う私に、沖田さんはふわりと微笑んだ。


 


「うん。……それに、ちょっと気になってたんだ」


 


そう言って、私の袖を軽く引く。


 


「土方さんに、意地悪されなかった?」


 


冗談めかしているのに、その目は真剣だった。


私のことを、ちゃんと気にかけてくれている。


そのことが胸の奥へ小さなあたたかさを灯す。


 


……だけど。


 


私は、今夜伝えなければならない。


 


「もう、隣にいなくても眠れる」と。


 


たとえそれが嘘でも。


このまま私のために沖田さんが仕事を疎かにするなんて、あってはならない。


 


壬生浪士組という“場”に、私はまだ居場所を与えられているだけの存在だ。


一人の甘えで、それを壊すわけにはいかない。


 


私は小さく微笑み、頷いた。


 


「……はい。稽古、お供します」


 


夏の空は、どこまでも高く澄んでいた。


けれど胸の奥に広がるざわめきは、少しも消えそうになかった。




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