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エンド・オブ・ザ・江戸・ピリオド  作者: ありんこ。


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12/12

重ならない影



 


夏の風が、じっとりと肌にまとわりついていた。


 


土方さんの部屋を出てから、沖田さんと並んで歩く道すがら、私はどこか息苦しさを覚えていた。


 


二人きりだった。


それなのに、いや、二人きりだからこそ、この静けさが妙に胸を締めつける。


 


しばらく黙ったまま歩いたあと、沖田さんがぽつりと声を落とした。


 


「……月夜魅さん」


 


「はい」


 


顔を向けると、沖田さんはほんの少しだけ歩幅を緩めた。


 


「稽古、って言ったけど……」


 


そこで言葉を切り、彼はいつものように柔らかく笑った。


 


「僕が稽古してるの、横で見ててくれるだけでいいからね」


 


私は一瞬きょとんとして、それから小さく息を吐いた。


 


……よかった。


 


“付き合う”という言葉に、少しだけ身構えていたのだ。


本当に手合わせでもするのかと思っていたから。


 


「それなら、私でも……」


 


そう答えると、沖田さんはどこか嬉しそうに目を細めた。


けれどその横顔は、ただ晴れやかなだけではなく、何かを考え込んでいるようにも見えた。


 


……沖田さんは、何を考えているんだろう。


 


胸の奥に、小さなざわめきが生まれる。


けれどそれ以上に、私の心を重くしているものがあった。


 


――伝えなければならない。


 


夜になったら言おうと思っていた言葉。


 


「もう、沖田さんがいなくても眠れる」


 


その嘘を、ちゃんと口にしなければならない。


 


袖口をきゅっと握りしめた。


上手く言えるだろうか。


この穏やかな空気を壊さずに、笑って。


嘘を、本当のことみたいに言えるだろうか。


 


そんなことを考えながら、沖田さんの少し後ろを歩く。


 


やがて稽古場に着く。


朝の稽古が終わったばかりらしく、広い庭の隅にはまだ数人の隊士が残って談笑していた。汗の匂い、竹刀の乾いた音、土を踏みしめた跡。そこには、戦いに身を置く者たちの熱がまだ色濃く残っていた。


 


沖田さんは気軽に手を振り、


 


「お疲れ様〜」


 


と声をかけると、壁際に立てかけてあった竹刀を一本手に取った。


そして、私のほうをちらりと振り返る。


 


「じゃあ、始めるね」


 


まるで何でもないことのように、屈託なく。


 


静かに頷いて、近くの縁側へ腰を下ろした。


 


熱を孕んだ夏風が、庭を吹き抜ける。


その中で、沖田さんは竹刀を振るった。


 


まるで、舞うように。


 


柔らかく、しなやかで、軽やかだった。


けれど一振りごとに、そこに宿る鋭さは隠しようもない。遊びではない、本物の刃を持つ者だけが纏う気配があった。


 


ただ黙ってその姿を見つめた。


目が離せなかった。


 


けれど、見つめているのは自分だけではないのだと、すぐに気づく。


沖田さんもまた、何気ない顔をしながら、ときおりこちらを気にしていた。


 


ふと、竹刀を振り上げた腕が止まる。


沖田さんは何でもないふうを装って口を開いた。


 


「……月夜魅さんってさ」


 


「はい?」


 


「鬼の戦い方って、どんな感じなの?」


 


心臓が、びくりと跳ねた。


 


あまりに不意の問いだった。


 


けれど沖田さんの顔には、悪意も好奇心剥き出しの色もない。ただ知りたいという、静かな真剣さだけがあった。


鬼の力。


鬼の戦い方。


それを知りたいのだと、でも私を傷つけないように、そっと触れようとしているのだと分かってしまう。


 


……優しい人だ。


 


そう思うのに、それが余計に苦しかった。


そっと視線を落とし、縁側の乾いた板目を見つめながら、ゆっくりと口を開く。


 


「……鬼は、基本、刀は使いません」


 


沖田さんの動きがわずかに止まった。


 


「そうなの?」


 


小さく頷く。


 


「牙や、爪……あるいは、力任せに……」


 


そこまで言って、言葉が詰まった。


“力任せに裂く”。


“血を浴びる”。


“肉を噛み千切る”。


そうした生々しい言葉を口にすることが、どうしてもできなかった。


 


膝の上の手をぎゅっと握りしめる。


 


「……けれど、人の中で生きる時は、刀を使うこともあります」


 


ようやく、それだけを付け足した。


沖田さんはそれ以上深く問わず、静かに頷いた。


憐れむでもなく、面白がるでもなく、ただ聞いたことをそのまま受け取るように。


それが、少しだけ嬉しかった。


 


けれど次の瞬間、彼は竹刀をくるりと回して、ふわりと笑った。


 


「じゃあ、月夜魅さんは?」


 


「……え?」


 


「どっちが得意なの?」


 


冗談めいた口調だった。


けれどその目は、また少しだけ真剣だった。


 


短く息を吸い、答える。


 


「……どちらも、得意ではありません」


 


それは、正直な言葉だった。


 


力で押すのも。


刀を振るうのも。


どちらも、私は好きではなかった。


 


沖田さんは竹刀を肩に担ぎ、ふっと目を細めた。


 


「そっか」


 


それから、子どものように少しいたずらっぽく笑う。


 


「――なら、強くなろうよ」


 


その声は、どこまでも軽くて、どこまでも優しかった。


 


「僕が、教えるから」


 


胸の奥が、ぎゅう、と痛むように締めつけられる。


 


夏の空は高く、ひどく青かった。


目の前にいる人は、こんなにもまっすぐで。


そのまっすぐさが、時々たまらなく苦しい。


 


返事ができなかった。


ただ、胸の奥で何かが震えるのを、必死に押し込めていた。


 


沖田さんは、そんな私を急かさなかった。


竹刀を脇へ置き、ただ静かに待ってくれていた。


 


その沈黙が、かえって優しかった。


 


やがて彼は竹刀を手放し、こちらへ歩み寄ってきた。


 


拳を握りしめる。


 


――今だ。


 


夜になってから言おうと思っていた言葉を、今ここで言わなければ。


 


「……沖田さん」


 


呼びかける声が、わずかに震える。


沖田さんは足を止め、いつものやさしい目で私を見た。


 


「ん?」


 


その何気ない仕草ひとつで、胸が痛む。


けれど、躊躇ってはいけない。


 


「私……」


 


言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。


 


「――今日はさ」


 


沖田さんがふっと笑った。


 


「夜、月見しようよ」


 


その笑顔は、あまりにも自然で、あまりにも優しかった。


一瞬、息を呑む。


 


……気づかれてる?


 


自分が何かを言おうとしていたことに。


けれど彼は、あえてそこへ触れなかった。聞かずに、ただこの空気を守ろうとした。


 


……でも、だめだよ。


 


爪が食い込むほど掌を握りしめ、自分を叱るように息を整えた。


こんな優しさに甘えてはいけない。


だから。


 


「……沖田さん」


 


もう一度、名を呼ぶ。


沖田さんの笑みが、ほんのわずかに揺れた。


 


「……もう、大丈夫です」


 


小さな、小さな声だった。


それでも、ちゃんと届くように。


 


「だから……もう、夜は……来なくて大丈夫です」


 


やっと、言えた。


 


沖田さんはわずかに目を見開いた。


ほんの一瞬だけ。


でもその次には、もう、いつものようにふわりと笑っていた。


 


「……そっか」


 


やわらかく。


やさしく。


まるで最初から、そう言われると分かっていたかのように。


 


胸の奥が、じんわりと痛む。


 


ああ、この人は本当に優しい。


こんな嘘だって、きっと全部分かったうえで、受け止めてくれている。


だからこそ、苦しかった。


 


沖田さんは空を見上げた。


夏の空はどこまでも高く、青かった。


 


「じゃあ……」


 


少しだけ名残惜しそうに、けれど軽やかに。


 


「今日はちゃんと、見廻り行くよ」


 


頷いた。


それしかできなかった。


 


「……はい」


 


本当は、喉が詰まってうまく声にならなかった。


けれどそれでも、笑った。


 


そんな私に、沖田さんもまたにこりと笑って、軽く手を振る。


 


「じゃあ夜に向けて、隊士たちにきつい稽古つけてこようかな」


 


それだけを言って、くるりと踵を返した。


 


夏の風の中へ、軽やかに溶けていく背中。


 


残された私は、静かに目を閉じた。


 


――これでいい。


 


そう、思おうとした。


けれど胸の奥は、ずっと苦しいままだった。


 


吹き抜ける風が、乾いた洗濯物を揺らしている。


その音が、やけに耳に刺さる。


 


そっと拳を握りしめた。


誰にも悟られないように。


ただひとり、胸の痛みを抱えたまま。


 


空を見上げる。


夏の、どこまでも高い空を。


 


朝、沖田さんに「もう夜は来なくていい」と伝えたあとも、いつも通りに働いた。


縁側を拭き、廊下に積もった埃を払い、食器を整え、薪を割る。


 


そんな単純な作業なのに、指先には妙に力が入り、何度も箒を取り落としそうになった。


 


心の中では、同じ思いばかりが何度も巡っていた。


 


……私、わがままだったかもしれない。


……あんなふうに言わなくても、よかったかもしれない。


……沖田さんは、きっと私を助けようとしてくれていただけなのに。


 


答えの出ない後悔ばかりが、ぐるぐると頭の中を回る。


 


昼には山南さんとともに夕餉の支度をした。


 


「月夜魅さん、茄子を少し炙ってください」


 


「はい」


 


淡々と交わされる言葉。


山南さんは今日も、いつも通りだった。


優しく、穏やかに。


 


それが余計に胸へ響いた。


こんなふうに普通に振る舞ってくれる人たちの中で、自分だけが心を曇らせている気がして、ひどくつらかった。


 


夏の陽はゆっくりと傾いていく。


赤みを帯びた光が屯所を染め始める頃には、あたりの空気もどこか浮き立っていた。


会津藩からの要請があったという噂が、隊士たちのあいだに流れ始めていたからだ。


 


皆が未来へ向かって歩き始めているのに。


自分だけが、同じ場所で立ち尽くしているような気がした。


 


そして、夜。


 


日が完全に落ち、湿った空気だけが頬を撫でるころ。


ひとり、小さな部屋の隅で膝を抱えていた。


 


隣に、誰もいない夜。


 


こんなにも部屋は広かっただろうか。


こんなにも静かだっただろうか。


 


震える指先を隠すように、膝へ顔を埋める。


 


……これでよかったんだ。


 


自分にそう言い聞かせても、心細さは胸の奥深くまでじわじわと沁みてくるばかりだった。







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