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エンド・オブ・ザ・江戸・ピリオド  作者: ありんこ。


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8/12

夜が明けて、揺れる決意



 


朝霧がまだ屯所の屋根にまとわりついている頃だった。


僕は見廻りを終え、汗を手拭いで軽く拭いながら、少し足を引きずるように廊下を歩いていた。


 


ああ、疲れた。


そう思いながらも、足は自然と彼女の部屋の前で止まる。


 


眠れたかな。


 


障子をそっと開ける。


 


……もぬけの殻だった。


 


布団の上には、整えられぬままの皺がいくつも残っている。枕元の掛け布は少しだけ握られたようにくしゃくしゃで、そこに確かに人がいた気配だけが、まだ薄く残っていた。


 


「……また、眠れなかったのかな」


 


ぽつりと独りごちて、視線を落とす。


そこに彼女がいたような温もりだけが、まだある気がした。


 


僕のいない夜は、こうして毎回、眠れずに過ごしているのだろうか。


芹沢のこともある。今後、見廻りや任務が増えれば、僕がそばにいられない夜だってもっと増えるかもしれない。


 


……やっぱり、山南さんにちゃんと頼んでおくべきだったかな。


 


あの子が夜、ひとりでは眠れないと知った時、僕はそれを“報告”しただけで終わらせてしまった。


山南さんなら、きっと分かってくれる。


そう思ったのと同時に、妙な遠慮もあった。自分だって忙しいくせに、これ以上あの人に余計な負担をかけてはいけない――そんなふうに考えてしまったからだ。


 


でも。


 


あの子、あんなに細いのに。


 


強がって、黙って、何でもない顔をしているくせに、本当はずっと心細かったんじゃないか。


そう思ったら、居ても立ってもいられなかった。


 


僕はそのまま、隊服のまま山南さんの部屋へ向かった。


 


障子の前で一呼吸置き、軽く声をかける。


 


「山南さん、起きてます?」


 


返事はなかった。


代わりに、かすかな寝息だけが耳に届く。


 


静かに障子を開けた、その時だった。


 


「…………」


 


畳に膝をついて座る山南さん。


その膝に、月夜魅さんがぐったりと身体を預けて眠っていた。


 


その顔を見た瞬間、息が止まる。


 


まぶたが、赤く腫れていた。


 


ただ眠っている顔じゃない。


泣いた跡だ。


 


「……何が、あったんですか」


 


思わず小声で問うと、山南さんは静かに顔を上げ、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


それから、ぽつりぽつりと語り始める。


 


昨夜、芹沢が部屋へ入ったこと。


月夜魅さんに手を出そうとしていたこと。


そして、自分が間一髪で止めたこと。


 


そこまで聞いたところで、胸の奥に煮えたぎるものが込み上げた。


 


「……やっぱり限界か、あの人」


 


自分でも、声に怒りが滲んでいるのが分かった。


 


月夜魅さんを屯所に置くと決めたのは僕たちだ。


危険があると分かっていて、それでもここに残して、働かせて、監視下に置くと決めたのは僕たちだ。


それなのに、味方であるはずの側があんな真似をするなんて。


 


許せない。


 


このまま芹沢鴨の暴走を見過ごせば、また誰かが傷つく。


今度はきっと、取り返しがつかない。


 


「……行ってきます」


 


それだけを告げて、僕は踵を返した。


向かう先は決まっている。


土方さんと、近藤さんのいる部屋だ。


 


あの人が壬生浪士組にとって、本当に必要な存在なのかどうか。


今、決めなければならない時が来ている。


 


「……入ります」


 


障子を開けると、帳簿を閉じかけた土方さんと、湯呑みを手にした近藤さんが顔を上げた。


 


「おう、総司。ご苦労だったな」


 


近藤さんが、いつものようにやわらかく笑う。


けれど今の僕には、その笑顔を受け止める余裕がなかった。


 


「話があります。……重要な話です」


 


僕が正座して真正面に座ると、近藤さんの表情が引き締まった。土方さんも無言で帳簿を閉じる。


 


「昨夜、芹沢さんが月夜魅さんの部屋に入りました」


 


部屋の空気が、一瞬で変わる。


 


「彼女を押し倒して、山南さんが止めに入らなければ……取り返しのつかないことになっていました」


 


言い切る前に、土方さんの目が鋭く細まる。


 


「お前は見たのか?」


 


「……え?」


 


「お前自身が、その現場を見たのかと聞いている」


 


「……見ていません。ですが、山南さんから直接――」


 


「山南も、最初から現場にいたわけじゃねぇんだろ」


 


土方さんの声は低く、重たかった。


 


「証言だけで、一方的に芹沢を断罪しようってのか?」


 


「でも、実際に月夜魅さんは泣いていた。あのままだったら――」


 


「“泣いていた”くらいで人を裁くなら、俺たちの首はとっくに跳ねられてる」


 


怒鳴っているわけじゃない。


けれど、その言葉は氷みたいに冷たかった。


 


「お前も山南も、あの女に肩入れしすぎだ」


 


「……肩入れしてるかもしれませんよ」


 


気づけば、そう言い返していた。


 


「でもそれは、あの子を見てきたからです。笑わないけど、文句も言わない。黙って働いて、誰よりも――」


 


「“黙ってる奴”が一番信用ならねぇんだよ」


 


ぴしゃり、と土方さんが遮った。


 


「そいつは鬼だ。この前、町で人が喰われた現場にいたのも、その“鬼”だった」


 


「……!」


 


「たまたま保護された、たまたま倒れていただけで、信じきるな。あの夜だって、“芹沢を騙して近づき、喰う機会を窺っていた”可能性だってある」


 


胸に鉛を流し込まれたような気がした。


 


「そこまで……あの子を疑うんですか……?」


 


「当然だ」


 


土方さんの目は少しも揺らがない。


 


「お前がいない夜、そいつが本性を現さない保証はどこにもねぇ。“眠れないから”と一緒に寝るだと? それだって俺は黙認してきたが……このままじゃ、隊全体に甘さが染み込む」


 


言葉が喉元で詰まる。


僕は確かに、月夜魅さんに肩入れしている。


でも、土方さんの言葉はあまりにも――冷たかった。


 


「土方さん……どうしてそこまで、人でなしでいられるんですか」


 


静かに、それでも確かに、そう口から出ていた。


 


近藤さんが一瞬、目を見開く。


 


「信用できる材料が何一つねぇ妖に、俺は甘い顔はできない。それが隊の副長って立場だ」


 


「僕は、あの子の目を見ました。本気で怯えてた。あれは、演技なんかじゃない」


 


「“演技じゃない”ことをどうやって証明する?」


 


土方さんは、僕を真正面から見据えたまま言う。


 


「“泣いてた”“震えてた”“瞼が赤かった”――それだけで、芹沢を斬る理由にはならねぇ」


 


「山南は“止めた”と言ったが、事の始まりを見たわけじゃない。泣いていたのが“被害”の証だっていうなら、誰だって泣ける」


 


「でも、あのままだったら本当に――!」


 


「感情で動くな、総司」


 


その一言が、まっすぐ胸に刺さる。


 


何も言い返せなかった。


 


「……芹沢の悪い噂や素行なら、俺たちも耳にしている」


 


そう言って、土方さんは一つ息を吐いた。


 


「だが、組の筆頭である男を、来たばかりの妖ひとりと天秤にかけるってのか?」


 


重苦しい沈黙が部屋を満たす。


しばらくして、近藤さんがゆっくりと口を開いた。


 


「……芹沢には功もある」


 


その声は低く、慎重だった。


 


「浪士組を成立させた力も、今の立場も、確かにあいつの手柄だ。あいつがいなければ、幕府筋との繋がりも、資金の流れも立ちいかなくなる」


 


「芹沢の顔があるからこそ、俺たちは今この地で隊を構えていられる。……それも事実だ」


 


言葉を切り、近藤さんは静かに続ける。


 


「だが、総司が言ったように、今回のことが事実であれば……見過ごすわけにはいかない」


 


「……どうするんですか」


 


「もう少し様子を見る」


 


その言葉に、思わず顔が上がった。


 


「山南からも、月夜魅の状態を定期的に報告させよう。芹沢の行動も、俺と歳の目で監視する」


 


近藤さんは、土方さんを一瞥してから僕へ視線を戻した。


 


「俺たちも、動く準備はしておく。だが今は、まだその時じゃない。総司」


 


僕は静かに頷いた。


けれど胸の奥では、何かが焦げついていた。


 


……僕は、あの子の目を信じる。


 


信じて、何が悪い。


 


たとえそれが、組の中では“甘さ”だと言われようと。


たとえ土方さんに“感情”だと切り捨てられようと。


 


あの夜、泣き腫らしたまぶたのまま山南さんの膝で眠っていた月夜魅さんの顔を、僕は忘れない。


あれが嘘なものか。


あれが演技であってたまるか。


 


部屋を辞したあとも、その思いだけが、胸の中で静かに燃え続けていた。






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