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エンド・オブ・ザ・江戸・ピリオド  作者: ありんこ。


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7/12

眠れぬ夜に忍ぶ影



 


壬生浪士組に身を置くようになって、いく日かが過ぎた。


 


最初は息をするのも苦しかったこの場所にも、少しずつ身体が慣れ始めている――そんな気がしていた。


洗い場で桶が触れ合う音。朝の剣術稽古の掛け声。味噌と米の炊ける匂い。男たちの笑い声と、時折混じる怒鳴り声。


どれも山の里にはなかったものだ。けれど、その違いに慣れれば慣れるほど、逆に心の隅では焔の存在が濃く浮かんでは消えた。


 


……焔。


 


毎晩のように、彼の腕の中で眠っていた。


それが当たり前だった。


それがない夜は、目を閉じても闇が押し寄せるばかりで、眠りというものがどんなものだったのかさえ、分からなくなる。


 


そんな私を見ていたのだろうか。


ある晩、沖田が自室から布団を抱えて現れた。


 


「……別に、君のためじゃないから。部屋が寒いんだよ。こっちの方が日当たりいいしね。あったかい場所で寝たいだけ」


 


そう言いながらも、沖田は私の布団の隣へすとんと腰を下ろし、何事もない顔で背中を向けて横になった。


 


私は何も言わず、その隣で目を閉じた。


不思議と心は静かだった。


焔の温もりとは違う。もっと軽くて、もっと危ういものなのに、それでも人の気配がすぐ傍にあるというだけで、胸のざわめきが少しずつ収まっていった。


その夜、私は久しぶりに深く眠れた。


 


――それ以来、沖田は見廻りのない夜になると、何も言わずに同じようにやってきて、私の隣で眠るようになった。


もちろん、口は相変わらず悪い。


「勝手に布団に入り込まないでよ」とか、「こっちは気を使ってあげてるだけなんだから」とか、澄ました顔でそう言うくせに、隣にいる時間はいつも静かで、その静けさは不思議と心を落ち着かせた。


 


……眠れる夜が増えた。


 


沖田がいるだけで、焔のぬくもりには到底及ばなくても、心がぎりぎり壊れずに済んでいた。


 


けれど、沖田のいない夜は違った。


その夜も、彼は見廻りで屯所を出ていた。


私は、眠れそうになかった。


灯を落とし、布団の中でじっと目を閉じる。だが意識は沈まず、呼吸ばかりが浅くなっていく。


 


その時だった。


 


ぎぃ――


 


障子が、軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。


 


誰も来るはずのない時間に、誰かが部屋へ入ってくる。


その瞬間、ぞっとするものが背骨を這い上がった。


 


「……やっぱりいねぇな、あの小僧は」


 


低く、酒焼けした声。


その声を、私は知っている。


 


芹沢鴨。


 


「ま、俺が欲しいのは“女”だけだ。あの気取ったガキがいるとやりづれぇからな……。適時ってのは、大事だろ?」


 


笑っている。


なのに、空気が凍るような圧だけが部屋に満ちていく。


 


立ち上がろうとした身体が、動かなかった。


足がすくんだのではない。


――本能が、危険だと叫んでいた。


 


……いやだ。


 


胸の奥で声にならない悲鳴が上がる。


けれど喉は固まり、声は出ない。


 


「いつも沖田と一緒に寝てるってな。野口と平山がそう言ってた。……あいつら、よく見てやがる」


 


酒の匂いが鼻を刺す。


次の瞬間、芹沢の足音が一歩、私に近づいた。


 


ばさり、と布団が無造作に剥ぎ取られる。


身体がむき出しの空気にさらされ、肌が一瞬で緊張した。


 


「……どうした? 声も出ねぇのか」


 


芹沢の手が、私の手首を掴む。


たったそれだけで、身体から力が抜けていく気がした。


 


逃げなきゃ。


脳はそう叫ぶのに、身体は少しも言うことをきかない。


鬼であるはずの私が、この男の威圧の前で、ただ震えている。


 


「ったく、鬼ってのは力があるんだろ? ……らしくねぇな」


 


顔が近づく。


酒と汗の混じった匂いに、吐き気がこみ上げた。


 


「なァ……見た目は申し分ねぇ。肌も白いし、こぉんなに細いのに、ちゃんと女の体してやがる……」


 


芹沢の指が、着物の襟元から胸元に沿ってなぞった。


布越しなのに、その感触が皮膚の上を直接這っているように思えて、全身が粟立つ。


 


「見た目よし。身体つきも上出来。……さて、気になるのは“中身”だが――品評ってのは、実際に手ぇ出してみねぇと分かんねぇからな?」


 


――いやだ。


 


心の中で何度も叫ぶ。


だがその声はどこにも届かない。


 


肩を掴まれ、着物の帯へ手がかかる。


 


だめ。


これ以上は――


 


震える手で、反射的に芹沢の胸を突いた。


その勢いは、自分でも思っていたより強かった。


芹沢の身体がわずかに仰け反る。その瞬間、伸びた爪が彼の頬をかすめた。


 


「……ッ」


 


白い皮膚の上に赤い筋が浮かぶ。


数滴の血が、顎をつたって落ちていった。


 


「ほぉ……やればできんじゃねぇか」


 


芹沢は笑った。


あの、下卑た愉しみを隠そうともしない顔で。


 


「抵抗される方が、よっぽど可愛いんだよなァ」


 


次の瞬間、芹沢は腰の刀を鞘ごと抜いた。


刃は抜いていない。


だが、そのまま目にも止まらぬ速さで間合いを詰め、気づけば私の背は冷たい壁に打ちつけられていた。


 


――しまった。


逃げ場がない。


 


鞘が首元に押し当てられる。


 


「ッ……!」


 


息が、できない。


喉が潰されるような圧がのしかかり、視界がぐらりと揺れた。


 


……死ぬ。


 


初めて、そう思った。


このまま、この男に――


 


その時だった。


 


熱が、身体を駆け巡った。


爪の先がじくじくと疼く。


血の中を何かが逆流する。


髪が、ふわりと浮き上がる。


満月の夜のように。


 


黒かった髪の中に、紅が滲み始めた。


 


「おいおい……まさか。満月でもねぇのに、そうやって“顔”が出るってのか。鬼ってのは、面白ぇなァ」


 


芹沢は恐れもしない。


むしろ、愉しんでいる。


 


そのまま彼は再び私を押し倒した。


 


「逃がさねぇよ、月夜魅。どうせ鬼なら、暴れりゃいいじゃねぇか。俺がその全貌、見てやるよ――」


 


重みがのしかかる。


首元に触れる鞘の冷たさが、皮膚を裂くように感じられた。


 


……誰か。


誰か、お願い――


 

そう思った矢先、

唐突に障子が激しく開く。


 


「――そこでおやめください、芹沢さん」


 


部屋の入口に立っていたのは、山南敬助だった。


月明かりを背に、その顔にいつもの柔らかな微笑はない。


静かであるがゆえに恐ろしいほどの、張りつめた意志だけがそこにあった。


 


「……なんだ、あんたかよ。悪いな、今ちょうどいいところでよ」


 


芹沢は動じない。邪魔をされたことに苛立ってすらいるようだった。


 


「その様子……まさか、女中の部屋を“巡察”して回っているわけではありませんよね?」


 


「巡察なんかじゃねぇよ。ただ、たまたま目に入ったもんが美味そうだっただけだ。鬼だからって特別扱いか? こいつぁ、こっちに首差し出してるようなもんだろうが」


 


「それは違います」


 


山南は、ゆっくりと一歩踏み出した。


 


「あなたがしていたのは、捕虜への私的な暴行です。我々は壬生浪士組であって、遊郭ではありません」


 


「……ハッ。遊郭の方が、まだ静かに済むってもんだぜ。お前は“仲間”を告げ口しに来たのか?」


 


「“仲間”だからこそです」


 


山南の声が、一段低くなる。


 


「我が組織の信用を失墜させるような振る舞いを、私は見過ごせません」


 


「信用? 組織? そんなもん、所詮お前の理想論だろうが」


 


芹沢は鼻で笑った。


 


「いいか、俺はこの“狼の群れ”を引っ張ってきた人間だ。綺麗事並べて実がねぇなら、口を閉じろ、山南」


 


「ならば、あえて言わせていただきます」


 


山南は一歩も退かない。


 


「あなたは“長”であることを勘違いしている。壬生浪士組は、私物ではありません。“支配”するものではなく、“束ねる”ものです」


 


「……随分と威勢がいいじゃねぇか。本性、ようやく出してきたな?」


 


「私の本性など、関係ありません。今、問題なのはあなたの行動です」


 


芹沢は鞘を持ったまま、わずかに身体をずらした。


 


「なぁ、山南。……もしここで俺を止めようってなら、お前はこの“刃”を受ける覚悟があるってことだよな?」


 


私はその会話のすべてを、押し倒されたまま、息もろくにできずに聞いていた。


喉が締めつけられているわけではないのに、まだ鞘が首元にあるような気がする。


 


「……たとえ私が斬られようとも、私はこの場であなたを止める責任があります」


 


「っは、笑えるな。責任? じゃあ証人でも連れてきたのかよ、あぁ?」


 


「証人など不要です」


 


山南は芹沢から視線を逸らさない。


 


「この空気こそが、十分な証左です」


 


静かなのに、言葉の一つ一つが鋭かった。


 


「この件は、然るべき形で上へ報告させていただきます。その時に、あなたの振る舞いがどう見られるか――覚悟しておいてください」


 


「……チッ」


 


しばらく睨み合った末、芹沢はようやく肩をすくめた。


 


「今夜は引いてやるよ。だがな、山南……“引いた”んじゃねぇ。“なかったことにしてやる”だけだ」


 


その捨て台詞とともに、芹沢は障子を乱暴に閉めて去っていった。


 


気配が、消える。


 


それでも私はまだ、冷たい汗に濡れたまま震えていた。


 


「……月夜魅さん、大丈夫ですか?」


 


山南の声が、ようやく耳に届く。


その瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。


 


部屋にはもう芹沢の気配はない。


なのに、身体はまだ恐怖を忘れていなかった。襟元を掴んでいた指が汗で冷たく、呼吸はまだ浅いままだ。


 


「……月夜魅さん」


 


もう一度、柔らかい声で名前を呼ばれる。


私は涙を拭うこともできず、ゆっくりと顔を上げた。


ぼやけた視界の向こうで、山南が膝をつき、私と目線を合わせてくれていた。


 


「どうして……来てくれたんですか……」


 


ようやく絞り出せた声は、ひどくかすれていた。


 


山南は小さく頷く。


 


「今夜の見廻りは、沖田くんの隊と芹沢さんの隊でした。それなのに、あの方の隊が酒の匂いを漂わせて屯所へ戻ってきたのが見えて……どうにも嫌な予感がしたのです」


 


その予感は外れなかった。


もし彼が来なければ、自分がどうなっていたのか分からない。


 


「……こわかった」


 


それだけ言うのが精一杯だった。


 


山南は何も急かさず、ただ私の側にいた。


それだけで、少しずつ息が吸えるようになっていく。


 


「沖田くんがいない夜は、私の部屋にいらっしゃい」


 


その言葉に、私ははっと顔を上げた。


山南は、穏やかに微笑んだ。


 


「何もしません。ただ、そばにいるだけです。私は本を読むか、少し仕事をするか……。あなたは隣で、安心して眠ればいい」


 


「……でも……それって、迷惑じゃ……」


 


「迷惑ではありません」


 


山南は、間を置かずに言った。


 


「彼――沖田くんが、話していました。“あの子は、誰かがそばにいないと眠れない”と。……でも私は、それを聞いても動かなかった。君がここで、こうして怯える夜を過ごしていると知っていたのに」


 


その声には、ほんの少しだけ悔いが滲んでいた。


 


「だから、今度は動きました。遅くなって、すみません」


 


……謝らないでほしい。


 


その声だけで、もう十分救われているのに。


 


私は小さく、何度も頷いた。


 


「……じゃあ……次、沖田さんがいない夜は……行っても、いいですか……?」


 


「もちろんです」


 


山南の微笑みは、夜の底に静かに灯る灯のようだった。


 


「私の部屋の灯は、遅くまで点いています。君が来るのを、ちゃんと待っていますから」


 


ふ、と息が漏れる。


それはきっと、胸の奥に絡みついていた鎖が、ひとつだけほどけた音だった。






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