眠れぬ夜に忍ぶ影
壬生浪士組に身を置くようになって、いく日かが過ぎた。
最初は息をするのも苦しかったこの場所にも、少しずつ身体が慣れ始めている――そんな気がしていた。
洗い場で桶が触れ合う音。朝の剣術稽古の掛け声。味噌と米の炊ける匂い。男たちの笑い声と、時折混じる怒鳴り声。
どれも山の里にはなかったものだ。けれど、その違いに慣れれば慣れるほど、逆に心の隅では焔の存在が濃く浮かんでは消えた。
……焔。
毎晩のように、彼の腕の中で眠っていた。
それが当たり前だった。
それがない夜は、目を閉じても闇が押し寄せるばかりで、眠りというものがどんなものだったのかさえ、分からなくなる。
そんな私を見ていたのだろうか。
ある晩、沖田が自室から布団を抱えて現れた。
「……別に、君のためじゃないから。部屋が寒いんだよ。こっちの方が日当たりいいしね。あったかい場所で寝たいだけ」
そう言いながらも、沖田は私の布団の隣へすとんと腰を下ろし、何事もない顔で背中を向けて横になった。
私は何も言わず、その隣で目を閉じた。
不思議と心は静かだった。
焔の温もりとは違う。もっと軽くて、もっと危ういものなのに、それでも人の気配がすぐ傍にあるというだけで、胸のざわめきが少しずつ収まっていった。
その夜、私は久しぶりに深く眠れた。
――それ以来、沖田は見廻りのない夜になると、何も言わずに同じようにやってきて、私の隣で眠るようになった。
もちろん、口は相変わらず悪い。
「勝手に布団に入り込まないでよ」とか、「こっちは気を使ってあげてるだけなんだから」とか、澄ました顔でそう言うくせに、隣にいる時間はいつも静かで、その静けさは不思議と心を落ち着かせた。
……眠れる夜が増えた。
沖田がいるだけで、焔のぬくもりには到底及ばなくても、心がぎりぎり壊れずに済んでいた。
けれど、沖田のいない夜は違った。
その夜も、彼は見廻りで屯所を出ていた。
私は、眠れそうになかった。
灯を落とし、布団の中でじっと目を閉じる。だが意識は沈まず、呼吸ばかりが浅くなっていく。
その時だった。
ぎぃ――
障子が、軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。
誰も来るはずのない時間に、誰かが部屋へ入ってくる。
その瞬間、ぞっとするものが背骨を這い上がった。
「……やっぱりいねぇな、あの小僧は」
低く、酒焼けした声。
その声を、私は知っている。
芹沢鴨。
「ま、俺が欲しいのは“女”だけだ。あの気取ったガキがいるとやりづれぇからな……。適時ってのは、大事だろ?」
笑っている。
なのに、空気が凍るような圧だけが部屋に満ちていく。
立ち上がろうとした身体が、動かなかった。
足がすくんだのではない。
――本能が、危険だと叫んでいた。
……いやだ。
胸の奥で声にならない悲鳴が上がる。
けれど喉は固まり、声は出ない。
「いつも沖田と一緒に寝てるってな。野口と平山がそう言ってた。……あいつら、よく見てやがる」
酒の匂いが鼻を刺す。
次の瞬間、芹沢の足音が一歩、私に近づいた。
ばさり、と布団が無造作に剥ぎ取られる。
身体がむき出しの空気にさらされ、肌が一瞬で緊張した。
「……どうした? 声も出ねぇのか」
芹沢の手が、私の手首を掴む。
たったそれだけで、身体から力が抜けていく気がした。
逃げなきゃ。
脳はそう叫ぶのに、身体は少しも言うことをきかない。
鬼であるはずの私が、この男の威圧の前で、ただ震えている。
「ったく、鬼ってのは力があるんだろ? ……らしくねぇな」
顔が近づく。
酒と汗の混じった匂いに、吐き気がこみ上げた。
「なァ……見た目は申し分ねぇ。肌も白いし、こぉんなに細いのに、ちゃんと女の体してやがる……」
芹沢の指が、着物の襟元から胸元に沿ってなぞった。
布越しなのに、その感触が皮膚の上を直接這っているように思えて、全身が粟立つ。
「見た目よし。身体つきも上出来。……さて、気になるのは“中身”だが――品評ってのは、実際に手ぇ出してみねぇと分かんねぇからな?」
――いやだ。
心の中で何度も叫ぶ。
だがその声はどこにも届かない。
肩を掴まれ、着物の帯へ手がかかる。
だめ。
これ以上は――
震える手で、反射的に芹沢の胸を突いた。
その勢いは、自分でも思っていたより強かった。
芹沢の身体がわずかに仰け反る。その瞬間、伸びた爪が彼の頬をかすめた。
「……ッ」
白い皮膚の上に赤い筋が浮かぶ。
数滴の血が、顎をつたって落ちていった。
「ほぉ……やればできんじゃねぇか」
芹沢は笑った。
あの、下卑た愉しみを隠そうともしない顔で。
「抵抗される方が、よっぽど可愛いんだよなァ」
次の瞬間、芹沢は腰の刀を鞘ごと抜いた。
刃は抜いていない。
だが、そのまま目にも止まらぬ速さで間合いを詰め、気づけば私の背は冷たい壁に打ちつけられていた。
――しまった。
逃げ場がない。
鞘が首元に押し当てられる。
「ッ……!」
息が、できない。
喉が潰されるような圧がのしかかり、視界がぐらりと揺れた。
……死ぬ。
初めて、そう思った。
このまま、この男に――
その時だった。
熱が、身体を駆け巡った。
爪の先がじくじくと疼く。
血の中を何かが逆流する。
髪が、ふわりと浮き上がる。
満月の夜のように。
黒かった髪の中に、紅が滲み始めた。
「おいおい……まさか。満月でもねぇのに、そうやって“顔”が出るってのか。鬼ってのは、面白ぇなァ」
芹沢は恐れもしない。
むしろ、愉しんでいる。
そのまま彼は再び私を押し倒した。
「逃がさねぇよ、月夜魅。どうせ鬼なら、暴れりゃいいじゃねぇか。俺がその全貌、見てやるよ――」
重みがのしかかる。
首元に触れる鞘の冷たさが、皮膚を裂くように感じられた。
……誰か。
誰か、お願い――
そう思った矢先、
唐突に障子が激しく開く。
「――そこでおやめください、芹沢さん」
部屋の入口に立っていたのは、山南敬助だった。
月明かりを背に、その顔にいつもの柔らかな微笑はない。
静かであるがゆえに恐ろしいほどの、張りつめた意志だけがそこにあった。
「……なんだ、あんたかよ。悪いな、今ちょうどいいところでよ」
芹沢は動じない。邪魔をされたことに苛立ってすらいるようだった。
「その様子……まさか、女中の部屋を“巡察”して回っているわけではありませんよね?」
「巡察なんかじゃねぇよ。ただ、たまたま目に入ったもんが美味そうだっただけだ。鬼だからって特別扱いか? こいつぁ、こっちに首差し出してるようなもんだろうが」
「それは違います」
山南は、ゆっくりと一歩踏み出した。
「あなたがしていたのは、捕虜への私的な暴行です。我々は壬生浪士組であって、遊郭ではありません」
「……ハッ。遊郭の方が、まだ静かに済むってもんだぜ。お前は“仲間”を告げ口しに来たのか?」
「“仲間”だからこそです」
山南の声が、一段低くなる。
「我が組織の信用を失墜させるような振る舞いを、私は見過ごせません」
「信用? 組織? そんなもん、所詮お前の理想論だろうが」
芹沢は鼻で笑った。
「いいか、俺はこの“狼の群れ”を引っ張ってきた人間だ。綺麗事並べて実がねぇなら、口を閉じろ、山南」
「ならば、あえて言わせていただきます」
山南は一歩も退かない。
「あなたは“長”であることを勘違いしている。壬生浪士組は、私物ではありません。“支配”するものではなく、“束ねる”ものです」
「……随分と威勢がいいじゃねぇか。本性、ようやく出してきたな?」
「私の本性など、関係ありません。今、問題なのはあなたの行動です」
芹沢は鞘を持ったまま、わずかに身体をずらした。
「なぁ、山南。……もしここで俺を止めようってなら、お前はこの“刃”を受ける覚悟があるってことだよな?」
私はその会話のすべてを、押し倒されたまま、息もろくにできずに聞いていた。
喉が締めつけられているわけではないのに、まだ鞘が首元にあるような気がする。
「……たとえ私が斬られようとも、私はこの場であなたを止める責任があります」
「っは、笑えるな。責任? じゃあ証人でも連れてきたのかよ、あぁ?」
「証人など不要です」
山南は芹沢から視線を逸らさない。
「この空気こそが、十分な証左です」
静かなのに、言葉の一つ一つが鋭かった。
「この件は、然るべき形で上へ報告させていただきます。その時に、あなたの振る舞いがどう見られるか――覚悟しておいてください」
「……チッ」
しばらく睨み合った末、芹沢はようやく肩をすくめた。
「今夜は引いてやるよ。だがな、山南……“引いた”んじゃねぇ。“なかったことにしてやる”だけだ」
その捨て台詞とともに、芹沢は障子を乱暴に閉めて去っていった。
気配が、消える。
それでも私はまだ、冷たい汗に濡れたまま震えていた。
「……月夜魅さん、大丈夫ですか?」
山南の声が、ようやく耳に届く。
その瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
部屋にはもう芹沢の気配はない。
なのに、身体はまだ恐怖を忘れていなかった。襟元を掴んでいた指が汗で冷たく、呼吸はまだ浅いままだ。
「……月夜魅さん」
もう一度、柔らかい声で名前を呼ばれる。
私は涙を拭うこともできず、ゆっくりと顔を上げた。
ぼやけた視界の向こうで、山南が膝をつき、私と目線を合わせてくれていた。
「どうして……来てくれたんですか……」
ようやく絞り出せた声は、ひどくかすれていた。
山南は小さく頷く。
「今夜の見廻りは、沖田くんの隊と芹沢さんの隊でした。それなのに、あの方の隊が酒の匂いを漂わせて屯所へ戻ってきたのが見えて……どうにも嫌な予感がしたのです」
その予感は外れなかった。
もし彼が来なければ、自分がどうなっていたのか分からない。
「……こわかった」
それだけ言うのが精一杯だった。
山南は何も急かさず、ただ私の側にいた。
それだけで、少しずつ息が吸えるようになっていく。
「沖田くんがいない夜は、私の部屋にいらっしゃい」
その言葉に、私ははっと顔を上げた。
山南は、穏やかに微笑んだ。
「何もしません。ただ、そばにいるだけです。私は本を読むか、少し仕事をするか……。あなたは隣で、安心して眠ればいい」
「……でも……それって、迷惑じゃ……」
「迷惑ではありません」
山南は、間を置かずに言った。
「彼――沖田くんが、話していました。“あの子は、誰かがそばにいないと眠れない”と。……でも私は、それを聞いても動かなかった。君がここで、こうして怯える夜を過ごしていると知っていたのに」
その声には、ほんの少しだけ悔いが滲んでいた。
「だから、今度は動きました。遅くなって、すみません」
……謝らないでほしい。
その声だけで、もう十分救われているのに。
私は小さく、何度も頷いた。
「……じゃあ……次、沖田さんがいない夜は……行っても、いいですか……?」
「もちろんです」
山南の微笑みは、夜の底に静かに灯る灯のようだった。
「私の部屋の灯は、遅くまで点いています。君が来るのを、ちゃんと待っていますから」
ふ、と息が漏れる。
それはきっと、胸の奥に絡みついていた鎖が、ひとつだけほどけた音だった。




