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エンド・オブ・ザ・江戸・ピリオド  作者: ありんこ。


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6/12

鬼が見る、動乱の京



 


桂小五郎の屋敷に身を置くようになって、数日が経った。


 


この場所には静けさがある。


だが、それは安らぎをもたらす静けさではなかった。重く、張りつめた空気。嵐の前、森の生き物たちが一斉に息を潜めるような、あの不穏な静寂に似ている。


 


屋敷の中では誰もが声を抑え、足音さえも消そうとする。障子一枚隔てた向こうで誰かが文を読み、誰かが密やかに相談し、誰かが刀の柄に手を置いたまま夜明けを待つ。


 


尊皇攘夷派の本拠であるこの場所は、見た目こそ整然としているくせに、その実、いつ爆ぜてもおかしくない火薬のような緊張を抱えていた。


 


俺は今、桂の側近として動いている。


表向きは文書の整理や雑務の手伝い。裏では人の流れに紛れての情報集め。攘夷志士の一人として働く代わりに、俺にはただ一つだけ譲れない目的があった。


 


月夜魅の行方を探すこと。


 


町へ出ては噂を集めた。


裏路地に潜み、酒場の陰に身を置き、夜ごと漂う血の匂いの中に彼女の痕跡が紛れていないかを探った。医者のもとへ運ばれた奇妙な怪我人。川辺で目撃された異形の影。夜ごと耳に入る“あやかし”の噂。


 


その一つ一つに耳を傾け、鼻を利かせ、目を凝らした。


 


だが、どこにもいない。


 


あの温もりの欠片すら、京の町のどこにも落ちてはいなかった。


 


そんな晩だった。


 


桂が、俺を座敷へ呼び出した。


 


「……どうやら、焦っているようだな」


 


灯りの下、文机の向こうに座る男は、いつも通り静かだった。だが、その目だけはやけに冴えている。


 


俺は返す言葉もなく、黙って頭を下げた。


 


「だが、あの子は外に出ていない。それどころか、この町の“表”から完全に消えている」


 


桂の声音は冷静だった。まるで、俺の胸の内をあらかじめ読んでいたかのように。


 


「それもそのはずだ。君が探している“その子”は――壬生浪士組に囚われているからな」


 


息が詰まった。


 


やはり、あの組織か。


 


「……知っていたのか」


 


「噂程度だ」


 


桂はそう言って、手元の文を脇へ退けた。


 


「鬼の女が壬生狼に連行された――そんな話が、すでに町の一部で囁かれている。だが、それ以上のことは我々でも掴めていない」


 


そう言って広げられたのは、京の地図だった。


桂の指先が壬生の一角を示す。その場所には、はっきりと“屯所”の文字があった。


 


「壬生浪士組――今や幕府直属の治安組織だ。もとは浪士たちをまとめるための試験的な集団に過ぎなかったが、今では尊皇攘夷派を取り締まる武力そのものになっている」


 


「中でも巡回は苛烈だ。証拠がなくとも必要とあらば斬る。まして異形の者であれば、なおさらだろう」


 


彼女が、そんな場所に。


 


気づけば拳を握りしめていた。


 


「軽はずみに動くな」


 


桂の声が、低く落ちる。


 


「今、お前があそこへ突っ込めば、捨て駒になるだけだ」


 


「……なら、どうしろと?」


 


問い返す声には、自分でも抑えきれぬ苛立ちが混じっていた。


 


桂は目を細め、少しの間だけ俺を見つめた。


 


「探し続けろ。ただし慎重に、目立たぬように」


 


「我が派の名を使っても構わん。必要であれば、兵として潜り込ませる算段も立ててやる。だが――鬼であることだけは絶対に悟られるな」


 


俺は黙って頷いた。


 


月夜魅が壬生浪士組の中に囚われているのなら、飛び込めば済む話ではない。そんなことは、頭では分かっている。


 


それでも。


 


「……あの子は、ただの鬼じゃない」


 


 


その想いだけは、誰にも否定させたくなかった。


 


月夜魅は獣じゃない。化け物なんかじゃない。ただ、血の匂いに弱くて、臆病で、優しすぎるだけだ。


 


だからこそ、あんな連中の中にいることが、何よりも恐ろしかった。


 


俺は再び、夜の京へ足を踏み出した。


 


まだ見ぬ彼女の声を信じて。


この手で、もう一度あの温もりを取り戻すその日まで。


 


桂から命じられた任務は、ある商家の裏口へ書状を届けることだった。


表向きは、たわいもない文のやり取り。だが、その中身は幕府側の動きを記した極秘文書だ。


途中で見つかれば――まず助からない。


 


京の裏路地を抜け、夜の遊郭近くまで来た時だった。


どこからか、耳障りな怒声が飛び込んできた。


 


「おい! そこをどけッ……! 誰に向かって口をきいてやがるッ!」


 


……何だ、喧嘩か?


 


ちらりと視線を向けた、その瞬間だった。


白と藍の羽織をまとった男たちが、店先からどっと溢れ出してくる。


腰に差した刀、荒い足取り、夜の町を我が物のように歩く空気。


 


壬生浪士組――間違いない。


 


まずい。


 


踵を返そうとした刹那、赤ら顔の大柄な男がふらつくようにこちらへ歩いてきた。酒気を纏いながらも、その存在感だけは異様に濃い。


 


「なんだてめぇ、見ねぇ面だなァ……京に来たばかりの若造か?」


 


こいつが――芹沢鴨。


 


その名は嫌というほど耳にしていた。幕府側の筆頭格。酒と女と暴力を好み、京では“狼”というより“鬼”のように恐れられている男。


 


関わりたくない。


そう思ったのに、芹沢は俺の顔をじっと見つめ、にやりと笑った。


 


「ほう……その目、見覚えがあるなァ」


 


焔はわずかに眉をひそめる。


 


「……目?」


 


「あぁ。あの女も、こんな目をしていた。血の匂いが似合いそうな目だ」


 


その瞬間、胸の奥がぐらりと揺れた。


 


「あの女」は、月夜魅のことだ。


 


「お高く止まって、しれっと斬られもせず生き延びてよォ……あぁいう女は、なぶってから斬る方が味がある。そこらの妓より、よほど好みだ」


 


 


頭が真っ白になった。


 


 


「……口を慎め」


 


 


芹沢が、片眉を上げる。


 


「ん? なんだって?」


 


 


次の瞬間には、足が動いていた。


 


柄に手をかける。


無言で踏み込み、そのまま斬りかかる。間に入ろうとした隊士がいたが、一太刀で弾き飛ばした。


 


「おい、何者だてめぇは」


 


弾き飛ばされた仲間に一瞥もくれず、芹沢は俺を見据えていた。


その瞳は酒に濁っているようでいて、どこか妙に冴えている。人の皮一枚下に潜むものを見抜くような、獣じみた目だった。


 


「“その女”を侮辱するな」


 


声は低かった。


だが、自分でも分かるほど怒りが滲んでいた。


 


芹沢が、細く目を眇める。


 


「ほう……その反応。やはり、そういうことか」


 


「……」


 


「“同じ目”をしている。あの女も、月の夜だけは目の奥が光ってやがった。普通の目のふりをしてもなァ――俺の目は誤魔化せん」


 


……やはり。


 


芹沢は、月夜魅のことを知っている。


そして、今も壬生浪士組の中にいる。


 


剣を納めることなく、芹沢を一瞥して背を向けた。


 


「次に会ったら、その目潰してやるよ、鬼の坊や」


 


背後で浪士たちが慌ただしく動き出す。


怒号が飛ぶ。


けれど、それらすべてを振り切るように、俺は闇へ駆けた。


 


胸の奥には、確かなものが灯っていた。


 


――月夜魅は、生きている。


そして、壬生浪士組の中に囚われている。


 


次こそ、その手で奪い返すために。


 


夜の遊郭を抜け、闇の中へ消えた。


次に会う時、彼女はどんな顔をしているだろうか。


そう思うだけで、胸が軋んだ。


 


屋敷へ戻った頃には、夜もすっかり更けていた。


だが、俺の足は迷いなく奥の書院へ向かっていた。


桂が、灯りを残して待っている気がして――いや、そうではない。あの男は、最初から俺が戻る時刻も、戻ってくる顔つきも読んでいる。


 


「……任務は完了した。だが、途中で壬生浪士組と接触があった」


 


文を読んでいた桂の手が止まる。


 


「どこで?」


 


「遊郭の近くだ。……芹沢鴨がいた」


 


その名を口にした途端、桂の目が細くなった。


沈黙が落ちる。


そして、静かな問いが向けられた。


 


「手を出したか?」


 


「絡まれた。……だが、感情で動いたのも事実だ」


 


嘘はつけなかった。


あの時、俺は確かに怒りに身を任せた。


 


桂は立ち上がり、畳を踏みしめながら言った。


 


「これで芹沢に顔を覚えられたな。お前はもう、京の表では自由に動けん。まして壬生浪士組への潜入など――もってのほかだ」


 


言われなくても分かっている。


けれど、押さえきれなかった。


 


「……だが、あいつは確かに言った。“あの女”と同じ目をしていると。芹沢は――月夜魅を知っている。あの男の元に“いる”と確信した」


 


桂はその言葉を受け止めながらも、声色ひとつ変えない。


 


「それでも動くな」


 


「今、お前が熱に任せて飛び込めば、すべてが水の泡になる。彼女が生きていたとしても、お前が潰れれば、そこから先の情報は絶たれる」


 


「……じゃあ、俺は……どうすればいい」


 


苦し紛れの問いだった。


手も足もあるのに、何もできない。届くはずの距離にいるかもしれないのに、伸ばすことすら許されない。


 


桂は振り返り、静かに告げた。


 


「動くな。今は、時を待て」


 


その言葉は胸に深く刺さった。


けれど、俺の中で燃え続けるものは、それでも消えない。


 


「……わかった。けど、あきらめはしない」


 


「それでいい」


 


桂は短く頷いた。


 


「私も手を打つ。芹沢鴨の動向、壬生浪士組の内情――必ず突破口はある。それまで、勝手な行動は控えろ。これは“命令”だ」


 


俺は深く頭を下げた。


怒りも焦りも、今は飲み込むしかない。


それを剣に変えるのは、まだ先だ。


 


待つしかない。


 


その時が来るまで。


 


そう自分に言い聞かせながら、俺は強く拳を握りしめた。






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