鬼が見る、動乱の京
桂小五郎の屋敷に身を置くようになって、数日が経った。
この場所には静けさがある。
だが、それは安らぎをもたらす静けさではなかった。重く、張りつめた空気。嵐の前、森の生き物たちが一斉に息を潜めるような、あの不穏な静寂に似ている。
屋敷の中では誰もが声を抑え、足音さえも消そうとする。障子一枚隔てた向こうで誰かが文を読み、誰かが密やかに相談し、誰かが刀の柄に手を置いたまま夜明けを待つ。
尊皇攘夷派の本拠であるこの場所は、見た目こそ整然としているくせに、その実、いつ爆ぜてもおかしくない火薬のような緊張を抱えていた。
俺は今、桂の側近として動いている。
表向きは文書の整理や雑務の手伝い。裏では人の流れに紛れての情報集め。攘夷志士の一人として働く代わりに、俺にはただ一つだけ譲れない目的があった。
月夜魅の行方を探すこと。
町へ出ては噂を集めた。
裏路地に潜み、酒場の陰に身を置き、夜ごと漂う血の匂いの中に彼女の痕跡が紛れていないかを探った。医者のもとへ運ばれた奇妙な怪我人。川辺で目撃された異形の影。夜ごと耳に入る“あやかし”の噂。
その一つ一つに耳を傾け、鼻を利かせ、目を凝らした。
だが、どこにもいない。
あの温もりの欠片すら、京の町のどこにも落ちてはいなかった。
そんな晩だった。
桂が、俺を座敷へ呼び出した。
「……どうやら、焦っているようだな」
灯りの下、文机の向こうに座る男は、いつも通り静かだった。だが、その目だけはやけに冴えている。
俺は返す言葉もなく、黙って頭を下げた。
「だが、あの子は外に出ていない。それどころか、この町の“表”から完全に消えている」
桂の声音は冷静だった。まるで、俺の胸の内をあらかじめ読んでいたかのように。
「それもそのはずだ。君が探している“その子”は――壬生浪士組に囚われているからな」
息が詰まった。
やはり、あの組織か。
「……知っていたのか」
「噂程度だ」
桂はそう言って、手元の文を脇へ退けた。
「鬼の女が壬生狼に連行された――そんな話が、すでに町の一部で囁かれている。だが、それ以上のことは我々でも掴めていない」
そう言って広げられたのは、京の地図だった。
桂の指先が壬生の一角を示す。その場所には、はっきりと“屯所”の文字があった。
「壬生浪士組――今や幕府直属の治安組織だ。もとは浪士たちをまとめるための試験的な集団に過ぎなかったが、今では尊皇攘夷派を取り締まる武力そのものになっている」
「中でも巡回は苛烈だ。証拠がなくとも必要とあらば斬る。まして異形の者であれば、なおさらだろう」
彼女が、そんな場所に。
気づけば拳を握りしめていた。
「軽はずみに動くな」
桂の声が、低く落ちる。
「今、お前があそこへ突っ込めば、捨て駒になるだけだ」
「……なら、どうしろと?」
問い返す声には、自分でも抑えきれぬ苛立ちが混じっていた。
桂は目を細め、少しの間だけ俺を見つめた。
「探し続けろ。ただし慎重に、目立たぬように」
「我が派の名を使っても構わん。必要であれば、兵として潜り込ませる算段も立ててやる。だが――鬼であることだけは絶対に悟られるな」
俺は黙って頷いた。
月夜魅が壬生浪士組の中に囚われているのなら、飛び込めば済む話ではない。そんなことは、頭では分かっている。
それでも。
「……あの子は、ただの鬼じゃない」
その想いだけは、誰にも否定させたくなかった。
月夜魅は獣じゃない。化け物なんかじゃない。ただ、血の匂いに弱くて、臆病で、優しすぎるだけだ。
だからこそ、あんな連中の中にいることが、何よりも恐ろしかった。
俺は再び、夜の京へ足を踏み出した。
まだ見ぬ彼女の声を信じて。
この手で、もう一度あの温もりを取り戻すその日まで。
桂から命じられた任務は、ある商家の裏口へ書状を届けることだった。
表向きは、たわいもない文のやり取り。だが、その中身は幕府側の動きを記した極秘文書だ。
途中で見つかれば――まず助からない。
京の裏路地を抜け、夜の遊郭近くまで来た時だった。
どこからか、耳障りな怒声が飛び込んできた。
「おい! そこをどけッ……! 誰に向かって口をきいてやがるッ!」
……何だ、喧嘩か?
ちらりと視線を向けた、その瞬間だった。
白と藍の羽織をまとった男たちが、店先からどっと溢れ出してくる。
腰に差した刀、荒い足取り、夜の町を我が物のように歩く空気。
壬生浪士組――間違いない。
まずい。
踵を返そうとした刹那、赤ら顔の大柄な男がふらつくようにこちらへ歩いてきた。酒気を纏いながらも、その存在感だけは異様に濃い。
「なんだてめぇ、見ねぇ面だなァ……京に来たばかりの若造か?」
こいつが――芹沢鴨。
その名は嫌というほど耳にしていた。幕府側の筆頭格。酒と女と暴力を好み、京では“狼”というより“鬼”のように恐れられている男。
関わりたくない。
そう思ったのに、芹沢は俺の顔をじっと見つめ、にやりと笑った。
「ほう……その目、見覚えがあるなァ」
焔はわずかに眉をひそめる。
「……目?」
「あぁ。あの女も、こんな目をしていた。血の匂いが似合いそうな目だ」
その瞬間、胸の奥がぐらりと揺れた。
「あの女」は、月夜魅のことだ。
「お高く止まって、しれっと斬られもせず生き延びてよォ……あぁいう女は、なぶってから斬る方が味がある。そこらの妓より、よほど好みだ」
頭が真っ白になった。
「……口を慎め」
芹沢が、片眉を上げる。
「ん? なんだって?」
次の瞬間には、足が動いていた。
柄に手をかける。
無言で踏み込み、そのまま斬りかかる。間に入ろうとした隊士がいたが、一太刀で弾き飛ばした。
「おい、何者だてめぇは」
弾き飛ばされた仲間に一瞥もくれず、芹沢は俺を見据えていた。
その瞳は酒に濁っているようでいて、どこか妙に冴えている。人の皮一枚下に潜むものを見抜くような、獣じみた目だった。
「“その女”を侮辱するな」
声は低かった。
だが、自分でも分かるほど怒りが滲んでいた。
芹沢が、細く目を眇める。
「ほう……その反応。やはり、そういうことか」
「……」
「“同じ目”をしている。あの女も、月の夜だけは目の奥が光ってやがった。普通の目のふりをしてもなァ――俺の目は誤魔化せん」
……やはり。
芹沢は、月夜魅のことを知っている。
そして、今も壬生浪士組の中にいる。
剣を納めることなく、芹沢を一瞥して背を向けた。
「次に会ったら、その目潰してやるよ、鬼の坊や」
背後で浪士たちが慌ただしく動き出す。
怒号が飛ぶ。
けれど、それらすべてを振り切るように、俺は闇へ駆けた。
胸の奥には、確かなものが灯っていた。
――月夜魅は、生きている。
そして、壬生浪士組の中に囚われている。
次こそ、その手で奪い返すために。
夜の遊郭を抜け、闇の中へ消えた。
次に会う時、彼女はどんな顔をしているだろうか。
そう思うだけで、胸が軋んだ。
屋敷へ戻った頃には、夜もすっかり更けていた。
だが、俺の足は迷いなく奥の書院へ向かっていた。
桂が、灯りを残して待っている気がして――いや、そうではない。あの男は、最初から俺が戻る時刻も、戻ってくる顔つきも読んでいる。
「……任務は完了した。だが、途中で壬生浪士組と接触があった」
文を読んでいた桂の手が止まる。
「どこで?」
「遊郭の近くだ。……芹沢鴨がいた」
その名を口にした途端、桂の目が細くなった。
沈黙が落ちる。
そして、静かな問いが向けられた。
「手を出したか?」
「絡まれた。……だが、感情で動いたのも事実だ」
嘘はつけなかった。
あの時、俺は確かに怒りに身を任せた。
桂は立ち上がり、畳を踏みしめながら言った。
「これで芹沢に顔を覚えられたな。お前はもう、京の表では自由に動けん。まして壬生浪士組への潜入など――もってのほかだ」
言われなくても分かっている。
けれど、押さえきれなかった。
「……だが、あいつは確かに言った。“あの女”と同じ目をしていると。芹沢は――月夜魅を知っている。あの男の元に“いる”と確信した」
桂はその言葉を受け止めながらも、声色ひとつ変えない。
「それでも動くな」
「今、お前が熱に任せて飛び込めば、すべてが水の泡になる。彼女が生きていたとしても、お前が潰れれば、そこから先の情報は絶たれる」
「……じゃあ、俺は……どうすればいい」
苦し紛れの問いだった。
手も足もあるのに、何もできない。届くはずの距離にいるかもしれないのに、伸ばすことすら許されない。
桂は振り返り、静かに告げた。
「動くな。今は、時を待て」
その言葉は胸に深く刺さった。
けれど、俺の中で燃え続けるものは、それでも消えない。
「……わかった。けど、あきらめはしない」
「それでいい」
桂は短く頷いた。
「私も手を打つ。芹沢鴨の動向、壬生浪士組の内情――必ず突破口はある。それまで、勝手な行動は控えろ。これは“命令”だ」
俺は深く頭を下げた。
怒りも焦りも、今は飲み込むしかない。
それを剣に変えるのは、まだ先だ。
待つしかない。
その時が来るまで。
そう自分に言い聞かせながら、俺は強く拳を握りしめた。




