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エンド・オブ・ザ・江戸・ピリオド  作者: ありんこ。


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5/12

消えた温もり、満月の夜に



 


その夜も、彼女は確かに俺の腕の中で眠っていた

――はずだった。


 


月夜魅。


細い身体を俺の胸元に預け、静かな寝息を立てるその姿は、どこか儚げで、少し力を入れれば壊れてしまいそうな危うさをいつも孕んでいた。


けれど、それでも確かにそこに在る温もりだった。


 


彼女は一人では眠れない。


それは子どもの頃から、ずっと変わらなかった。


誰かの手が触れていなければ、隣に気配がなければ、月夜魅は深い眠りへ落ちていけない。


 


そして、それは俺も同じだった。


月夜魅の温もりがなければ、心が落ち着かない。


互いに依存し、支え合うようにして、俺たちはずっと共に生きてきた。


 


だが――


 


日が昇る少し前、ふと目を覚ました時、その温もりはもうどこにもなかった。


 


「……月夜魅?」


 


寝起きで掠れた声が、静まり返った部屋に落ちる。


返事はない。


 


布団をまさぐる。


そこに残っていたのは、かすかな熱だけだった。


まだ完全には冷えきっていない余温と、枕に絡みついた長い紅い髪がひとすじ。


それが逆に、ほんのさっきまで確かにここにいたことを思い知らせてきて、焔の胸をひどくざわつかせた。


 


信じられなかった。


月夜魅が、自分の意思でここを離れるはずがない。


この山を。


この里を。


――俺の傍を。


 


まさか、と胸の奥で嫌な予感が形を持つ。


前日の記憶が、不意に脳裏に蘇った。


 


昨日、仲間の一人が姿を消した。


その捜索で、一日中山を駆け回っていた。谷を越え、獣道を辿り、妖の気配を探し続けて、身体は限界まで疲れきっていた。


ようやく部屋に戻り、月夜魅が隣で眠っていることを確かめた。その安堵のまま目を閉じて――そこから先の記憶が、深い闇に沈んでいる。


 


俺が……気づいてやれなかった?


 


そんなはずはない。


あの子の寝返りひとつ、指先の震えひとつにだって俺は何度も目を覚ましてきた。


それほどまでに、月夜魅の呼吸や体温は俺の身体に染みついていたのに。


 


それでも現実は、何ひとつ言い訳を許さなかった。


 


いや、何も残っていないわけではない。


残っているのは痕跡だけだ。


温もりと、匂いと――


 


ふと、風が揺れた。


夜明け前の森をすり抜けてきた風の中に、微かな違和感を嗅ぎ取る。


 


血の匂いだ。


 


山を越えて、遠く人里の方から流れてくる、ひどく薄い血の匂い。


昨夜は満月だった。


血を知っている鬼にとって、あまりにも危うい夜。


力が抑えきれず、本能と理性の境目が曖昧になる夜。


 


それが月夜魅を、引き寄せたのだ。


 


ゆっくりと立ち上がった。


身支度を整えながら、ぎり、と奥歯を噛み締める。


 


誰よりも臆病で、誰よりも優しいあの子が、今どこかで恐怖に震えているかもしれない。


それを思うだけで、胸の内側が焼けるように熱かった。


 


「待ってろ。必ず、見つけるから」


 


この命が燃え尽きてもいい。


もう一度だけ、あの温もりを抱きしめることができるのなら。


 


夜明けの靄が立ちこめる森の中を、駆けた。


血の匂いの先へ。


彼女が囚われたかもしれない、見知らぬ世界へと。


 


 


町の気配が変わったのは、陽が西へ傾き始めた頃だった。


 


山を下りきるにつれ、鳥の声は消え、空気の匂いも変わっていく。湿った土と木々の香りは薄れ、代わりに煙と人の暮らしの匂いが濃くなっていった。


警戒を解かぬまま、初めて足を踏み入れる“人の里”へ視線を走らせる。


 


こんなにも……ざわざわしてるもんか。


 


人の世界は、音が多すぎた。


叫び声、笑い声、怒鳴り声、物を叩く音、駆ける足音。


無数の命の振動が重なり合い、肌の下でまとわりつくような熱を生み出している。


 


月夜魅は、こんな世界の中で彷徨っているのだろうか。


あの子が血の匂いに耐えながら、怯えながら、それでも人の姿を保っているのかと思うと、胸の奥に言いようのない痛みが走った。


 


腰の刀へそっと手をやる。


里を出る時、仲間の一人が押しつけるように託してきたものだ。


 


――人間の中に入るなら、最低限、人間らしい武器を持て。


 


本来、剣を使うことを好まない。


鬼の腕なら、わざわざそんなものに頼らずとも十分に戦えるからだ。


だが今は、人間の中に紛れ、人間の理に近いかたちで動かねばならない。


 


必ず見つける。


この目で、生きていると確かめる。


 


そう心の中で繰り返しながら歩き出した、その時だった。


 


ふいに、首筋を冷たいものが撫でた。


 


――殺気。


 


ぴたりと足を止める。


騒がしい町の音の中から、その異質な気配だけが鋭く浮かび上がる。


路地裏の奥。瓦屋根の上に佇む影が、焔の視線に応じるように、ゆっくりと姿を現した。


 


「……面白い。こちらに気づくとは、只者ではないな」


 


黒い羽織に浅黄色の袴。


鋭い瞳。だが、その眼差しには獣のような剥き出しの敵意ではなく、どこか理知的で底の読めない光が宿っていた。




 


一歩も動かないまま、その男を見上げた。


 


「何者だ?」


 


「その問いは、こちらが先に聞きたい。……君は鬼だろう?」


 


……なぜ気付かれた?


 


わずかに唇を歪める。


 


「人間の目には、見えないはずだが」


 


「普通の目にはな。だが私は、人の内と外にある“違和”を見慣れている」


 


男は静かに笑った。


 


「君の目は、光を反射しない。その奥にあるのは、人の理の温度ではない」


 


なるほど、聡い。


 


舌打ちすることもなく、むしろ納得したようにその男を見据えた。


 


「それで? 鬼と分かって、どうするつもりだ。斬るか?」


 


「いや――歓迎するさ」


 


「……は?」


 


予想外の返答に、眉が動く。


男は屋根から軽やかに飛び降りると、何でもないことのように前へ立った。


 


「君の力を借りたい。尊皇攘夷のために」


 


何を言ってやがる。


 


視線が、僅かに険を帯びる。


 


「なぜ鬼を?」


 


「力が欲しいからだ。外敵を退け、幕府を正すためには、人ならざる力が必要な時もある」


 


……利用する気か。


 


胸の内に冷たい笑いが広がった。


 


「断る理由は?」


 


「君にも、ないはずだ」


 


男は迷いなく言った。


 


「君は何かを探している。いや、“誰か”か。違うか?」


 


その言葉に、目が細くなる。


 


「俺は、ある女を探している。そいつがどこかで捕らえられているかもしれない。そのためなら、どんな手でも使う」


 


一歩、前へ出る。


 


「……あんたらのやり方が、俺の邪魔にならないなら。利用されてやるよ」


 


男はそこで初めて、心から面白そうに笑った。


 


「それでいい。だが、君のような者が勝手に動くのは、我が派にとっても不安の種になる」


 


「……じゃあ、どうする」


 


「私の傍につけ」


 


男の声は静かだった。


 


「私の目の届くところで動け。そうすれば、君も“探したいもの”をより早く見つけられるかもしれない」


 


黙ったまま、その男を見つめた。


 


敵か、味方か。


そんなことは、まだ分からない。


けれど、ひとつだけ確かなのは――今ここで立ち止まれば、月夜魅に辿り着けないということだった。


 


「……好きにしろ」


 


低く言った。


 


「だが、手綱を引くつもりなら、噛みちぎる覚悟でいろ」


 


男は楽しげに目を細める。


 


「ふふ。期待しているよ、“鬼”くん」


 


その日、焔は人の世界で“同志”という名の鎖に繋がれた。


 


その先に、月夜魅の姿があると信じて。







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