消えた温もり、満月の夜に
その夜も、彼女は確かに俺の腕の中で眠っていた
――はずだった。
月夜魅。
細い身体を俺の胸元に預け、静かな寝息を立てるその姿は、どこか儚げで、少し力を入れれば壊れてしまいそうな危うさをいつも孕んでいた。
けれど、それでも確かにそこに在る温もりだった。
彼女は一人では眠れない。
それは子どもの頃から、ずっと変わらなかった。
誰かの手が触れていなければ、隣に気配がなければ、月夜魅は深い眠りへ落ちていけない。
そして、それは俺も同じだった。
月夜魅の温もりがなければ、心が落ち着かない。
互いに依存し、支え合うようにして、俺たちはずっと共に生きてきた。
だが――
日が昇る少し前、ふと目を覚ました時、その温もりはもうどこにもなかった。
「……月夜魅?」
寝起きで掠れた声が、静まり返った部屋に落ちる。
返事はない。
布団をまさぐる。
そこに残っていたのは、かすかな熱だけだった。
まだ完全には冷えきっていない余温と、枕に絡みついた長い紅い髪がひとすじ。
それが逆に、ほんのさっきまで確かにここにいたことを思い知らせてきて、焔の胸をひどくざわつかせた。
信じられなかった。
月夜魅が、自分の意思でここを離れるはずがない。
この山を。
この里を。
――俺の傍を。
まさか、と胸の奥で嫌な予感が形を持つ。
前日の記憶が、不意に脳裏に蘇った。
昨日、仲間の一人が姿を消した。
その捜索で、一日中山を駆け回っていた。谷を越え、獣道を辿り、妖の気配を探し続けて、身体は限界まで疲れきっていた。
ようやく部屋に戻り、月夜魅が隣で眠っていることを確かめた。その安堵のまま目を閉じて――そこから先の記憶が、深い闇に沈んでいる。
俺が……気づいてやれなかった?
そんなはずはない。
あの子の寝返りひとつ、指先の震えひとつにだって俺は何度も目を覚ましてきた。
それほどまでに、月夜魅の呼吸や体温は俺の身体に染みついていたのに。
それでも現実は、何ひとつ言い訳を許さなかった。
いや、何も残っていないわけではない。
残っているのは痕跡だけだ。
温もりと、匂いと――
ふと、風が揺れた。
夜明け前の森をすり抜けてきた風の中に、微かな違和感を嗅ぎ取る。
血の匂いだ。
山を越えて、遠く人里の方から流れてくる、ひどく薄い血の匂い。
昨夜は満月だった。
血を知っている鬼にとって、あまりにも危うい夜。
力が抑えきれず、本能と理性の境目が曖昧になる夜。
それが月夜魅を、引き寄せたのだ。
ゆっくりと立ち上がった。
身支度を整えながら、ぎり、と奥歯を噛み締める。
誰よりも臆病で、誰よりも優しいあの子が、今どこかで恐怖に震えているかもしれない。
それを思うだけで、胸の内側が焼けるように熱かった。
「待ってろ。必ず、見つけるから」
この命が燃え尽きてもいい。
もう一度だけ、あの温もりを抱きしめることができるのなら。
夜明けの靄が立ちこめる森の中を、駆けた。
血の匂いの先へ。
彼女が囚われたかもしれない、見知らぬ世界へと。
町の気配が変わったのは、陽が西へ傾き始めた頃だった。
山を下りきるにつれ、鳥の声は消え、空気の匂いも変わっていく。湿った土と木々の香りは薄れ、代わりに煙と人の暮らしの匂いが濃くなっていった。
警戒を解かぬまま、初めて足を踏み入れる“人の里”へ視線を走らせる。
こんなにも……ざわざわしてるもんか。
人の世界は、音が多すぎた。
叫び声、笑い声、怒鳴り声、物を叩く音、駆ける足音。
無数の命の振動が重なり合い、肌の下でまとわりつくような熱を生み出している。
月夜魅は、こんな世界の中で彷徨っているのだろうか。
あの子が血の匂いに耐えながら、怯えながら、それでも人の姿を保っているのかと思うと、胸の奥に言いようのない痛みが走った。
腰の刀へそっと手をやる。
里を出る時、仲間の一人が押しつけるように託してきたものだ。
――人間の中に入るなら、最低限、人間らしい武器を持て。
本来、剣を使うことを好まない。
鬼の腕なら、わざわざそんなものに頼らずとも十分に戦えるからだ。
だが今は、人間の中に紛れ、人間の理に近いかたちで動かねばならない。
必ず見つける。
この目で、生きていると確かめる。
そう心の中で繰り返しながら歩き出した、その時だった。
ふいに、首筋を冷たいものが撫でた。
――殺気。
ぴたりと足を止める。
騒がしい町の音の中から、その異質な気配だけが鋭く浮かび上がる。
路地裏の奥。瓦屋根の上に佇む影が、焔の視線に応じるように、ゆっくりと姿を現した。
「……面白い。こちらに気づくとは、只者ではないな」
黒い羽織に浅黄色の袴。
鋭い瞳。だが、その眼差しには獣のような剥き出しの敵意ではなく、どこか理知的で底の読めない光が宿っていた。
一歩も動かないまま、その男を見上げた。
「何者だ?」
「その問いは、こちらが先に聞きたい。……君は鬼だろう?」
……なぜ気付かれた?
わずかに唇を歪める。
「人間の目には、見えないはずだが」
「普通の目にはな。だが私は、人の内と外にある“違和”を見慣れている」
男は静かに笑った。
「君の目は、光を反射しない。その奥にあるのは、人の理の温度ではない」
なるほど、聡い。
舌打ちすることもなく、むしろ納得したようにその男を見据えた。
「それで? 鬼と分かって、どうするつもりだ。斬るか?」
「いや――歓迎するさ」
「……は?」
予想外の返答に、眉が動く。
男は屋根から軽やかに飛び降りると、何でもないことのように前へ立った。
「君の力を借りたい。尊皇攘夷のために」
何を言ってやがる。
視線が、僅かに険を帯びる。
「なぜ鬼を?」
「力が欲しいからだ。外敵を退け、幕府を正すためには、人ならざる力が必要な時もある」
……利用する気か。
胸の内に冷たい笑いが広がった。
「断る理由は?」
「君にも、ないはずだ」
男は迷いなく言った。
「君は何かを探している。いや、“誰か”か。違うか?」
その言葉に、目が細くなる。
「俺は、ある女を探している。そいつがどこかで捕らえられているかもしれない。そのためなら、どんな手でも使う」
一歩、前へ出る。
「……あんたらのやり方が、俺の邪魔にならないなら。利用されてやるよ」
男はそこで初めて、心から面白そうに笑った。
「それでいい。だが、君のような者が勝手に動くのは、我が派にとっても不安の種になる」
「……じゃあ、どうする」
「私の傍につけ」
男の声は静かだった。
「私の目の届くところで動け。そうすれば、君も“探したいもの”をより早く見つけられるかもしれない」
黙ったまま、その男を見つめた。
敵か、味方か。
そんなことは、まだ分からない。
けれど、ひとつだけ確かなのは――今ここで立ち止まれば、月夜魅に辿り着けないということだった。
「……好きにしろ」
低く言った。
「だが、手綱を引くつもりなら、噛みちぎる覚悟でいろ」
男は楽しげに目を細める。
「ふふ。期待しているよ、“鬼”くん」
その日、焔は人の世界で“同志”という名の鎖に繋がれた。
その先に、月夜魅の姿があると信じて。




