囚われの女中、咲かぬ花のように
朝の空気は、ひやりと冷たかった。
まだ陽も昇りきらない刻だというのに、屯所の中はすでに慌ただしく動き始めている。遠くで桶の触れ合う音がして、誰かの怒鳴り声が飛び、廊下を行き交う足音が畳の下から響いてくる。
「おはようございます。今日は炊事場と洗濯場の使い方を覚えていただきますね」
そう言って現れたのは、昨日声をかけてきた山南敬助だった。
穏やかな声。やわらかな物腰。人を威圧する気配はどこにもない。けれど――だからといって、私は気を許すことができなかった。
ここは敵地だ。
私が“人間の世界に生きるふり”をしている、仮初の場所。
……私は、ただの女中なんかじゃない。
そう自分に言い聞かせながら、私は山南の案内についていった。
朝の炊事場には、すでに数人の男たちが出入りしていた。かまどには火が入り、湯気とともに米の匂いが立ち上っている。誰かが味噌を溶き、誰かが桶を抱えて行き来している。その合間を縫うように私は歩いた。
無遠慮な視線が刺さる。
ひそひそと囁く声も聞こえる。
気にしていないふりをしても、背中にまとわりつくそれらはごまかしようがなかった。
「……ここで洗い物を。奥にかまどがありますから、炊事の手伝いもお願いします」
山南は一通りの手順を教えると、「何か困ったことがあれば呼んでくださいね」とだけ言い残し、静かに去っていった。
私はしばらく、その場に立ち尽くした。
手を動かさなければ。役に立たなければ。“ここにいてもいい理由”を示し続けなければ。
けれど、ふと胸の奥で問いが浮かぶ。
……誰のために?
何のために?
かまどの火が揺れていた。
ぱち、と爆ぜるその炎に、焔の名を思い出す。
……帰りたい。
そう思っても、もう口には出さない。
“咲かぬ花”としてここに根を下ろすしか、今の私には生きる道がなかった。
昨夜は、結局一睡もできなかった。
布団に入っても、目を閉じても、意識はずっと浮いたままだった。
焔がいないと眠れない。それは子どもの頃からずっと変わらない。村が焼かれて逃げ惑った夜も、雪の朝に洞穴の中で震えていた時も、彼が隣にいてくれたから私は眠ることができた。
そのぬくもりも、あの手も、今はいない。
目を閉じるたびに思い出してしまうのは、焔が今どこかで私を探しているかもしれないということだった。
それが苦しくて、眠れなかった。
……いつまで、こうして耐えればいいのか。
誰にも答えられない問いを胸の底へ沈めながら、私は湯桶を持ち上げた。手を動かしていれば、少しは余計なことを考えずに済む――そう信じるしかない。
「よっ、と。悪いな、洗い物頼んで」
桶の湯を替えていた背後から、急に声が飛んできた。
振り向くと、少し癖のある髪を後ろでまとめた男が、木の椀を片手に立っていた。
知らない顔だ。
けれど向こうは、私を見た瞬間、どこか懐かしそうに笑った。
「あんたが“月夜魅”か。……へぇ、こうして近くで見ると、思ってたより普通だな」
軽い口調。悪意は感じないが、無遠慮だ。
“こうして近くで”という言葉が引っかかった。
「……会ったこと、ある?」
「そりゃあ、あの会議で見たしな。しっかり縄で縛られてただろ?」
「……ごめんなさい。覚えてない」
視線を逸らした。
あの会議の時、私は人の顔なんて見ていなかった。あの場の空気と、芹沢の視線と、いつ殺されてもおかしくないという恐怖だけが、濁ったまま記憶に残っている。
「ああ、気にすんな。こっちは見る側だったけど、あんたは“見られる側”だったからな」
彼はそう言って椀を桶に沈め、屈託なく笑った。
「俺は永倉新八。……あんたのこと、しばらく見かけることになりそうだな」
「新八、からかうな」
ぴたりと空気が引き締まる。
声の主は、柱の影に控えるように立っていた斎藤一だった。鋭い眼差しをこちらに向けているが、敵意も感情も、その奥までは読ませない。
「……見てるだけで判断はできねぇだろ。俺らだってまだ“様子見”だ」
永倉が肩をすくめると、斎藤は何も返さず視線を外し、そのまま背を向けて去っていった。
……誰も、信じていない。
当然だった。
けれど、こうして“人の中で生きる”ことが、これほど視線の重さを伴うものだとは思っていなかった。
「おい」
洗濯場の奥から声が飛ぶ。
振り向くと、桶を抱えた隊士がこちらを睨んでいた。
「どくか、女中」
私は黙って脇へ避けた。
言い返すことも、怒ることも、許されない立場だ。
“ここにいる”ためには、耐えるしかない。
かたん、と空になった桶を置いた時、ふと視線を感じた。
廊下の先へ目を向けると、襖の陰から芹沢鴨がこちらを見ていた。視線が合った瞬間、にやりと笑う。
声はかけてこない。ただ見ている。まるで品を値踏みするように。
……いやだ。
冷たいものが背中を這う。
けれど、その視線が逸れたのはほんの数秒後だった。
「おやおや。お勤めご苦労さま」
ひょい、と隣から顔を覗かせたのは沖田総司だった。相変わらず飄々と笑いながら、湯の入った桶を片手に持っている。
「逃げ出す様子もなく、しっかり働いてるみたいで安心したよ」
「……逃げたら斬るって、言った」
「言ったねぇ。だから斬らずに済んで良かったって話」
軽口を叩きながらも、その声音はどこか和らいでいた。沖田は洗い物の前で立ち止まり、さりげなく私の横に並ぶと、ちらりと芹沢のいた方へ目をやった。
「……ああいう目、嫌だよね。刺すような目」
私は答えなかった。
けれど、その一言が妙に胸に残る。
「じゃ、僕はもう少し見廻り。……頑張ってね、女中さん」
そう言って、沖田はひらひらと手を振って去っていった。
朝の光が差し込む桶の水面に、満月の影だけがまだ残っている気がした。
“咲かぬ花”として、ここで咲かずに生きるには――まだ、ほんの少しだけ勇気が足りなかった。
洗い物をすべて片づけ終えた頃には、炊事場の喧騒もひと段落していた。桶の湯気も薄れ、朝の光がようやく部屋の奥まで届いている。
ふと、かまどの前に視線をやる。
そこにはひとり、白い割烹着姿で黙々と手を動かしている山南の背があった。
……山南さん。
味噌汁をかき混ぜ、煮物の味を見て、小さく頷く。誰に見せるためでもなく、ただ丁寧に、当然のように。そこには、静かな誇りが滲んでいた。
「……手伝いましょうか」
気づけば、そう口にしていた。
山南は振り返り、少しだけ目を細めたあと、いつもの穏やかな微笑みを浮かべる。
「もう休んでいてもいい時間ですよ?」
「構いません。手を動かしていた方が落ち着きますから」
「……では、お言葉に甘えて。煮物用の芋を切ってもらえますか?」
私は黙って頷き、隣に並んでまな板を取り出した。
芋を切る感触。火のぱちぱちと爆ぜる音。しばらくは、言葉のない静かな時間が続いた。
「……意外でした」
ぽつりと呟くと、山南が首を傾げる。
「何がですか?」
「あなたのような立場の人が、こうして炊事まで担っているなんて」
彼はふっと笑った。
「よく言われます。副長という肩書きだけ見ると、机に向かっている方が似合う、と思われがちですから」
「でも、こうして朝から……」
「隊士たちには、日々命を削って働いてもらっています。剣の腕も、心のありようも、日々の糧がなければすぐに鈍りますから」
そう言って、山南は味噌汁の味を確かめながら続けた。
「うちは裕福な組織ではありません。高価な食材は使えませんが、それでも最低限、栄養と温もりのある食事をと思っていましてね。でないと、若い者はすぐに倒れてしまう」
私は黙って芋の皮を剥き続けた。
その背中から伝わってくる“本気の優しさ”に、胸の奥が少しだけきゅっとなる。
「みんなで食べるんですか?」
「いいえ。ここでは朝六時から七時の間に、各自が自由に来て食べる形です。全員で一斉に、というのは……あまりこの組織には合いませんからね」
「……そうなんですね」
「ええ。でもその分、誰が何をどれだけ食べたかは、私が見ておくようにしています」
山南はそう言いながら、私の手元をちらりと見た。
「君の包丁捌き、なかなか慣れていますね」
「よく手伝っていただけです」
「そうでしたか」
それ以上は深く聞かない。山南という人は、そういう距離を自然に守ってくれる。
私は刻んだ芋を鍋に入れながら、ふと思う。
……もし、ここで生きていくしかないなら。
こうして誰かと並んで手を動かす時間が、少しだけでも続けばいいのに。
火の匂い。湯気の温かさ。ここに“咲かぬ花”として留まるのなら、こんな朝も悪くない――そう思いかけた、その時だった。
「ガハハハハ! なんだそりゃあ!」
外から豪快な笑い声が響いた。壁を隔てていても、胸に響くような大きな声。
驚いて顔を上げると、山南が肩をすくめて笑う。
「近藤さんですね。朝から元気な人です」
「……偉い人も、みんなと一緒に食べるんですね」
「ええ。あの人は“隊長”ですが、そういうところは昔から変わらないんです。誰とでも同じように飯を食べて、同じように笑う。あの人が慕われる理由のひとつかもしれませんね」
私は少し意外に思った。けれど彼は、そこでわずかに言葉を切った。
「ただ……芹沢さんは、違います」
自然と手が止まる。
山南は火を見つめたまま続けた。
「彼は隊士たちと同じ席につくことはほとんどありません。炊いた飯や汁物も、平間さんや野口さんに運ばせて、自室で食べることが多いですね」
その声には、静かな諦めがあった。
「少し寂しいことですが……それもまた、威厳の形なのかもしれません」
「……あの二人、ずっと付き従っていますね」
「ええ。命令には絶対です。まるで影のように」
その瞬間だった。
空気が、ふっと変わった。
炊事場の戸口に影が落ちる。
「……ほう。俺の話か?」
低い声に振り返る。
そこには芹沢鴨が立っていた。上着の裾を乱し、煙管を片手に、薄く笑っている。
広間の笑い声が、ぴたりと止んだ。
「いやに熱心に語っていたようだが、なんだ? 俺がどれだけ“高貴”に食うかの話でもしていたのか?」
視線が、まっすぐ私へ向けられる。
ぞわりと背中に冷たいものが走った。
山南が一歩前に出る。
「……いえ、月夜魅さんに屯所の習わしを説明していただけです。悪意のある話ではありません」
「そうかい」
芹沢は笑う。だが、その目は笑っていない。
「ならいい。……ただ、気をつけな」
煙を吐き出しながら、私を一瞥する。
「炊事場での会話ってのは、案外、尾を引くもんだ」
そう言い残して、芹沢はゆっくりと去っていった。
背中を見送りながら、私は無意識に拳を握っていた。かまどの火の音が、先ほどよりも大きく聞こえる。
洗い上げた衣を軒下に干し終えると、山南が言った。
「これでひと通りの仕事は終わりですね。お疲れさまでした」
「夕刻の食事支度までは、しばらく自由時間です。……部屋に戻っても構いませんし、屯所内を歩いても」
「……自由?」
この場所で、“自由”なんてあるのだろうか。
そう思いながらも、私は中庭へ足を向けた。
道場からは剣の交わる音が響いていた。気合い、踏み込み、竹刀の乾いた衝突音。それは、この屯所で“生きている者たち”の証のようだった。
ふと立ち止まって砂利道を見つめていると、背後から声がした。
「やっと一息つけたみたいだね、女中さん」
振り返ると、沖田総司が笑いながら歩いてくる。見廻りから戻ってきたらしく、羽織を脱ぎ、手ぬぐいで首筋を拭っていた。
「ずっと働きっぱなしだったみたいじゃない? ……僕のこと、少しは恨んでる?」
「……少しだけ」
「そっか。じゃあ今度金平糖でもあげようか」
ふざけた口調に、思わず眉をひそめる。
けれど、その足音は不思議と耳に馴染んだ。
沖田は私の隣に腰を下ろし、空を見上げながらふと呟いた。
「……そういえば、前から気になってたんだけど。妖って、鬼の他にはどんなのがいるの?」
私は少しだけ考えた。
「……私が知っているのは三種」
「へぇ。鬼以外にも?」
「ええ。鬼と、天狗と……九尾」
「九尾って、神社にいる狐の?」
「天の使い、とも言われてる。でも本当に九つの尾を持つかは……見たことがないから知らない」
沖田は「なるほど」と相槌を打った。
「じゃあ、その天狗っていうのは?」
「数が少ない。滅多に姿を見せない。己の生い立ちに誇りを持っているから、他の種族とあまり馴れ合わないって聞く。頭がいいから、今は将軍家に仕えている天狗も多いって噂」
「つまり、鬼は庶民で、天狗は役人、九尾は神様か」
「……そんな分け方でいいなら、ね」
沖田が、ふとこちらを見る。
「じゃあ、君は?」
「……?」
「鬼で、庶民。なのに、ずいぶん人間に慣れてるよね」
「……別に。育った場所が少し人間に近かっただけ」
「へぇ」
それ以上は追及してこない。
それが、かえって気を緩ませた。
「ペリーが来てから、全部変わったの」
ぽつりと呟くと、沖田の手が止まる。
「昔は、妖も人も一緒に暮らしていた。人の村に鬼がいても、誰も驚かなかった。でも、黒船が来て、外の国の人間が“妖は気持ち悪い”って言った」
「……それで?」
「それで、人間たちが妖と距離を取り始めた。境界線を引いて、“こっちには来るな”って。だから今、妖は姿を隠して生きてる」
「……なんだか、人間らしい話だね」
沖田は立ち上がって背伸びをする。そのまま軽く私を見下ろし、微笑んだ。
「でも、僕は見えてよかったと思うよ。妖って、想像してたよりずっと人間っぽい」
「……人間の前に姿を表す妖は、人喰いが多いから?」
「違うよ。君が、ちょっと不思議すぎるだけ」
そう言って、沖田は背を向けた。
「じゃ、次の見廻りまで昼寝でもしてくる。……“自由”ってやつ、楽しんでね」
その背中が離れていく。
けれど、彼の言葉だけが妙に耳に残った。
……妖は、人間に似ている?
それは肯定なのか。皮肉なのか。
風の抜ける中庭で、私はしばらくその意味を考えていた。
“自由”という言葉には、罠がある。
どこへでも行けるようでいて、いつどこで誰に見られているか分からない。それが、今の私の立場だった。
道場の前を通り、隣の廊下へ足を踏み入れたその時。
「……おい、そこを歩いているのは誰だ」
低く鋭い声が響いた。
振り返ると、土方歳三が立っていた。その隣には白い羽織を肩にかけた近藤勇もいる。
「……月夜魅です。すみません、通らせていただきます」
「通る? 貴様、囚われの身だったよな」
土方の視線は冷たい。
「女中の仕事は終わったのか。……いや、それ以前に、勝手にうろつくのは筋違いだろうが」
「……山南さんに、休憩時間だと言われました。屯所内なら自由にして構わないと」
「山南が、そう言ったか」
その言葉に、私は思わず唇を噛んだ。
背後で近藤がやれやれと肩をすくめる。
「まあまあ、歳さんよ。そんなに目くじら立てることもないだろう。まだ慣れてないんだから」
「……だからこそ、だ」
土方は一歩も引かない。
「慣れてない奴がうろついて、何かあってからじゃ遅い」
「何かって、たとえば?」
近藤が問うと、土方はわずかに目を細めた。
「――芹沢のこともある」
その一言で、空気が変わる。
「芹沢は、ああ見えて“自分の所有物”には執着が強い。あの目をつけられた女が、一人で屯所を歩いていたら……何が起こっても不思議じゃねぇ」
その言葉には理があった。私自身も、それを嫌というほど理解している。
「……なら、どうすればいいのですか」
絞り出すように尋ねると、近藤が答えた。
「これからは、屯所内を歩く時は誰かに付き添ってもらいなさい。沖田でも山南でも、信頼できる者に声をかけて」
「……わかりました」
私は小さく頭を下げた。
土方はそれ以上何も言わず、袴の裾を払って去っていく。
その背を見送りながら、近藤が笑った。
「厳しいだろう? あれでも心配してるんだよ、君のこと」
「……そうは見えませんでした」
「だろうね。でも、あいつは口より先に刀が動く男だ。言葉で守るのは苦手なんだよ」
近藤の笑い声は、どこか包み込むように柔らかい。だが、その奥には確かな鋭さも潜んでいた。
「この場所は、思っている以上に危うい。気を張っていなさい。今はまだ、“預かっている命”なのだから」
私は静かに頷いた。
“自由”という名の檻の中で、生き延びるためのルールをまた一つ覚えたのだ。
その日の夜。
夕餉の支度を終え、自室へ戻って戸を閉めた途端、空気の重さが肩にのしかかってきた。
この部屋が逃げ場所なのか、檻なのか、まだ分からない。
布団に横たわっても、眠れる気はしなかった。
焔のいない夜。広すぎる布団。静かすぎる部屋。
焔……
その名を思うたび、胸がぎゅっと縮む。
隣にいないというだけで、私はこんなにも眠れない。
……今日も、眠れない。
――こん。
戸が小さく叩かれた。身体が反射的に強張る。
「……まだ、起きてる?」
聞き慣れた声だった。沖田だ。
戸を開けると、手に湯桶と手拭いを持って立っている。
「ちょっと悪いんだけど、手、貸してくれる?」
「……なに」
「風呂の番が混んでて、僕のところまで回ってこなかった。今日の番、芹沢さんだったから……いろいろ押し出されてさ。だから今日は身体だけ拭いて済ませようかと。……背中、拭いてくれない?」
「私で、いいの?」
「うん。誰か他の人に頼むのも妙だし、君なら断らないかなって思って」
「…………それ、褒めてるの?」
「もちろん。君、優しいから」
沖田は湯桶を部屋の隅に置き、浴衣の襟を緩めて座り直した。
私は黙って手拭いを湯に浸し、その背中へ当てる。
思ったより細い。けれど芯は強そうで、力が抜けているのに、どこか隙がない。
剣士の背中だった。
静けさの中で、沖田がぽつりと言う。
「……眠れてないでしょ?」
手が止まる。
「……どうして、それを」
「目の下の隈と、朝の顔色。あと……君の立ち方」
沖田は振り返らずに続けた。
「眠れてない人って、身体の重心が違うから」
……鋭い。
私は何も返せず、ただ黙って手を動かした。
すると沖田が、ふっと笑う。
「……いつもはどうしてたの? 寝る時」
「……」
「誰かに、そばにいてもらってた?」
意地悪な響きだった。けれど、その奥には探るような気配と、ほんの少しの優しさがあった。
「……別に、あなたに関係ない」
「うん、関係ない。でも、もし君が眠れるように“そうしてあげる”って言ったら――どうする?」
その言葉に、胸がきゅうっと痛んだ。
まるで見透かされたみたいで。
沖田はくすりと笑って立ち上がる。
「ま、また眠れない夜が来たら呼んで。……僕、気まぐれだけど、面倒見は悪くないよ」
そう言って湯桶を持ち、戸の外へ出ていく。
「じゃ、またね。おやすみ、月夜魅さん」
しばらく、音の消えた部屋にひとり。
けれど、彼の残り香のような言葉の余韻だけが、まだふんわりと空気に残っていた。
……呼べるわけ、ないじゃない。
でも、ほんの少しだけ。
今夜は、眠れるかもしれないと思ったのも事実だった。




