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エンド・オブ・ザ・江戸・ピリオド  作者: ありんこ。


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4/12

囚われの女中、咲かぬ花のように



 


朝の空気は、ひやりと冷たかった。


まだ陽も昇りきらない刻だというのに、屯所の中はすでに慌ただしく動き始めている。遠くで桶の触れ合う音がして、誰かの怒鳴り声が飛び、廊下を行き交う足音が畳の下から響いてくる。


 


「おはようございます。今日は炊事場と洗濯場の使い方を覚えていただきますね」


 


そう言って現れたのは、昨日声をかけてきた山南敬助だった。


穏やかな声。やわらかな物腰。人を威圧する気配はどこにもない。けれど――だからといって、私は気を許すことができなかった。


ここは敵地だ。


私が“人間の世界に生きるふり”をしている、仮初の場所。


 


……私は、ただの女中なんかじゃない。


 


そう自分に言い聞かせながら、私は山南の案内についていった。


 


朝の炊事場には、すでに数人の男たちが出入りしていた。かまどには火が入り、湯気とともに米の匂いが立ち上っている。誰かが味噌を溶き、誰かが桶を抱えて行き来している。その合間を縫うように私は歩いた。


 


無遠慮な視線が刺さる。


ひそひそと囁く声も聞こえる。


気にしていないふりをしても、背中にまとわりつくそれらはごまかしようがなかった。


 


「……ここで洗い物を。奥にかまどがありますから、炊事の手伝いもお願いします」


 


山南は一通りの手順を教えると、「何か困ったことがあれば呼んでくださいね」とだけ言い残し、静かに去っていった。


 


私はしばらく、その場に立ち尽くした。


手を動かさなければ。役に立たなければ。“ここにいてもいい理由”を示し続けなければ。


 


けれど、ふと胸の奥で問いが浮かぶ。


 


……誰のために?


何のために?


 


かまどの火が揺れていた。


ぱち、と爆ぜるその炎に、焔の名を思い出す。


 


……帰りたい。


 


そう思っても、もう口には出さない。


“咲かぬ花”としてここに根を下ろすしか、今の私には生きる道がなかった。


 


昨夜は、結局一睡もできなかった。


布団に入っても、目を閉じても、意識はずっと浮いたままだった。


焔がいないと眠れない。それは子どもの頃からずっと変わらない。村が焼かれて逃げ惑った夜も、雪の朝に洞穴の中で震えていた時も、彼が隣にいてくれたから私は眠ることができた。


 


そのぬくもりも、あの手も、今はいない。


目を閉じるたびに思い出してしまうのは、焔が今どこかで私を探しているかもしれないということだった。


それが苦しくて、眠れなかった。


 


……いつまで、こうして耐えればいいのか。


 


誰にも答えられない問いを胸の底へ沈めながら、私は湯桶を持ち上げた。手を動かしていれば、少しは余計なことを考えずに済む――そう信じるしかない。


 


「よっ、と。悪いな、洗い物頼んで」


 


桶の湯を替えていた背後から、急に声が飛んできた。


振り向くと、少し癖のある髪を後ろでまとめた男が、木の椀を片手に立っていた。


 


知らない顔だ。


けれど向こうは、私を見た瞬間、どこか懐かしそうに笑った。


 


「あんたが“月夜魅”か。……へぇ、こうして近くで見ると、思ってたより普通だな」


 


軽い口調。悪意は感じないが、無遠慮だ。


“こうして近くで”という言葉が引っかかった。


 


「……会ったこと、ある?」


 


「そりゃあ、あの会議で見たしな。しっかり縄で縛られてただろ?」


 


「……ごめんなさい。覚えてない」


 


視線を逸らした。


あの会議の時、私は人の顔なんて見ていなかった。あの場の空気と、芹沢の視線と、いつ殺されてもおかしくないという恐怖だけが、濁ったまま記憶に残っている。


 


「ああ、気にすんな。こっちは見る側だったけど、あんたは“見られる側”だったからな」


 


彼はそう言って椀を桶に沈め、屈託なく笑った。


 


「俺は永倉新八。……あんたのこと、しばらく見かけることになりそうだな」


 


「新八、からかうな」


 


ぴたりと空気が引き締まる。


声の主は、柱の影に控えるように立っていた斎藤一だった。鋭い眼差しをこちらに向けているが、敵意も感情も、その奥までは読ませない。


 


「……見てるだけで判断はできねぇだろ。俺らだってまだ“様子見”だ」


 


永倉が肩をすくめると、斎藤は何も返さず視線を外し、そのまま背を向けて去っていった。


 


……誰も、信じていない。


 


当然だった。


けれど、こうして“人の中で生きる”ことが、これほど視線の重さを伴うものだとは思っていなかった。


 


「おい」


 


洗濯場の奥から声が飛ぶ。


振り向くと、桶を抱えた隊士がこちらを睨んでいた。


 


「どくか、女中」


 


私は黙って脇へ避けた。


言い返すことも、怒ることも、許されない立場だ。


“ここにいる”ためには、耐えるしかない。


 


かたん、と空になった桶を置いた時、ふと視線を感じた。


廊下の先へ目を向けると、襖の陰から芹沢鴨がこちらを見ていた。視線が合った瞬間、にやりと笑う。


声はかけてこない。ただ見ている。まるで品を値踏みするように。


 


……いやだ。


 


冷たいものが背中を這う。


けれど、その視線が逸れたのはほんの数秒後だった。


 


「おやおや。お勤めご苦労さま」


 


ひょい、と隣から顔を覗かせたのは沖田総司だった。相変わらず飄々と笑いながら、湯の入った桶を片手に持っている。


 


「逃げ出す様子もなく、しっかり働いてるみたいで安心したよ」


 


「……逃げたら斬るって、言った」


 


「言ったねぇ。だから斬らずに済んで良かったって話」


 


軽口を叩きながらも、その声音はどこか和らいでいた。沖田は洗い物の前で立ち止まり、さりげなく私の横に並ぶと、ちらりと芹沢のいた方へ目をやった。


 


「……ああいう目、嫌だよね。刺すような目」


 


私は答えなかった。


けれど、その一言が妙に胸に残る。


 


「じゃ、僕はもう少し見廻り。……頑張ってね、女中さん」


 


そう言って、沖田はひらひらと手を振って去っていった。


 


朝の光が差し込む桶の水面に、満月の影だけがまだ残っている気がした。


“咲かぬ花”として、ここで咲かずに生きるには――まだ、ほんの少しだけ勇気が足りなかった。


 


洗い物をすべて片づけ終えた頃には、炊事場の喧騒もひと段落していた。桶の湯気も薄れ、朝の光がようやく部屋の奥まで届いている。


ふと、かまどの前に視線をやる。


そこにはひとり、白い割烹着姿で黙々と手を動かしている山南の背があった。


 


……山南さん。


 


味噌汁をかき混ぜ、煮物の味を見て、小さく頷く。誰に見せるためでもなく、ただ丁寧に、当然のように。そこには、静かな誇りが滲んでいた。


 


「……手伝いましょうか」


 


気づけば、そう口にしていた。


山南は振り返り、少しだけ目を細めたあと、いつもの穏やかな微笑みを浮かべる。


 


「もう休んでいてもいい時間ですよ?」


 


「構いません。手を動かしていた方が落ち着きますから」


 


「……では、お言葉に甘えて。煮物用の芋を切ってもらえますか?」


 


私は黙って頷き、隣に並んでまな板を取り出した。


 


芋を切る感触。火のぱちぱちと爆ぜる音。しばらくは、言葉のない静かな時間が続いた。


 


「……意外でした」


 


ぽつりと呟くと、山南が首を傾げる。


 


「何がですか?」


 


「あなたのような立場の人が、こうして炊事まで担っているなんて」


 


彼はふっと笑った。


 


「よく言われます。副長という肩書きだけ見ると、机に向かっている方が似合う、と思われがちですから」


 


「でも、こうして朝から……」


 


「隊士たちには、日々命を削って働いてもらっています。剣の腕も、心のありようも、日々の糧がなければすぐに鈍りますから」


 


そう言って、山南は味噌汁の味を確かめながら続けた。


 


「うちは裕福な組織ではありません。高価な食材は使えませんが、それでも最低限、栄養と温もりのある食事をと思っていましてね。でないと、若い者はすぐに倒れてしまう」


 


私は黙って芋の皮を剥き続けた。


その背中から伝わってくる“本気の優しさ”に、胸の奥が少しだけきゅっとなる。


 


「みんなで食べるんですか?」


 


「いいえ。ここでは朝六時から七時の間に、各自が自由に来て食べる形です。全員で一斉に、というのは……あまりこの組織には合いませんからね」


 


「……そうなんですね」


 


「ええ。でもその分、誰が何をどれだけ食べたかは、私が見ておくようにしています」


 


山南はそう言いながら、私の手元をちらりと見た。


 


「君の包丁捌き、なかなか慣れていますね」


 


「よく手伝っていただけです」


 


「そうでしたか」


 


それ以上は深く聞かない。山南という人は、そういう距離を自然に守ってくれる。


 


私は刻んだ芋を鍋に入れながら、ふと思う。


……もし、ここで生きていくしかないなら。


こうして誰かと並んで手を動かす時間が、少しだけでも続けばいいのに。


 


火の匂い。湯気の温かさ。ここに“咲かぬ花”として留まるのなら、こんな朝も悪くない――そう思いかけた、その時だった。


 


「ガハハハハ! なんだそりゃあ!」


 


外から豪快な笑い声が響いた。壁を隔てていても、胸に響くような大きな声。


驚いて顔を上げると、山南が肩をすくめて笑う。


 


「近藤さんですね。朝から元気な人です」


 


「……偉い人も、みんなと一緒に食べるんですね」


 


「ええ。あの人は“隊長”ですが、そういうところは昔から変わらないんです。誰とでも同じように飯を食べて、同じように笑う。あの人が慕われる理由のひとつかもしれませんね」


 


私は少し意外に思った。けれど彼は、そこでわずかに言葉を切った。


 


「ただ……芹沢さんは、違います」


 


自然と手が止まる。


山南は火を見つめたまま続けた。


 


「彼は隊士たちと同じ席につくことはほとんどありません。炊いた飯や汁物も、平間さんや野口さんに運ばせて、自室で食べることが多いですね」


 


その声には、静かな諦めがあった。


 


「少し寂しいことですが……それもまた、威厳の形なのかもしれません」


 


「……あの二人、ずっと付き従っていますね」


 


「ええ。命令には絶対です。まるで影のように」


 


その瞬間だった。


空気が、ふっと変わった。


炊事場の戸口に影が落ちる。


 


「……ほう。俺の話か?」


 


低い声に振り返る。


そこには芹沢鴨が立っていた。上着の裾を乱し、煙管を片手に、薄く笑っている。


 


広間の笑い声が、ぴたりと止んだ。


 


「いやに熱心に語っていたようだが、なんだ? 俺がどれだけ“高貴”に食うかの話でもしていたのか?」


 


視線が、まっすぐ私へ向けられる。


ぞわりと背中に冷たいものが走った。


 


山南が一歩前に出る。


 


「……いえ、月夜魅さんに屯所の習わしを説明していただけです。悪意のある話ではありません」


 


「そうかい」


 


芹沢は笑う。だが、その目は笑っていない。


 


「ならいい。……ただ、気をつけな」


 


煙を吐き出しながら、私を一瞥する。


 


「炊事場での会話ってのは、案外、尾を引くもんだ」


 


そう言い残して、芹沢はゆっくりと去っていった。


 


背中を見送りながら、私は無意識に拳を握っていた。かまどの火の音が、先ほどよりも大きく聞こえる。


 


洗い上げた衣を軒下に干し終えると、山南が言った。


 


「これでひと通りの仕事は終わりですね。お疲れさまでした」


 


「夕刻の食事支度までは、しばらく自由時間です。……部屋に戻っても構いませんし、屯所内を歩いても」


 


「……自由?」


 


この場所で、“自由”なんてあるのだろうか。


そう思いながらも、私は中庭へ足を向けた。


 


道場からは剣の交わる音が響いていた。気合い、踏み込み、竹刀の乾いた衝突音。それは、この屯所で“生きている者たち”の証のようだった。


 


ふと立ち止まって砂利道を見つめていると、背後から声がした。


 


「やっと一息つけたみたいだね、女中さん」


 


振り返ると、沖田総司が笑いながら歩いてくる。見廻りから戻ってきたらしく、羽織を脱ぎ、手ぬぐいで首筋を拭っていた。


 


「ずっと働きっぱなしだったみたいじゃない? ……僕のこと、少しは恨んでる?」


 


「……少しだけ」


 


「そっか。じゃあ今度金平糖でもあげようか」


 


ふざけた口調に、思わず眉をひそめる。


けれど、その足音は不思議と耳に馴染んだ。


 


沖田は私の隣に腰を下ろし、空を見上げながらふと呟いた。


 


「……そういえば、前から気になってたんだけど。妖って、鬼の他にはどんなのがいるの?」


 


私は少しだけ考えた。


 


「……私が知っているのは三種」


 


「へぇ。鬼以外にも?」


 


「ええ。鬼と、天狗と……九尾」


 


「九尾って、神社にいる狐の?」


 


「天の使い、とも言われてる。でも本当に九つの尾を持つかは……見たことがないから知らない」


 


沖田は「なるほど」と相槌を打った。


 


「じゃあ、その天狗っていうのは?」


 


「数が少ない。滅多に姿を見せない。己の生い立ちに誇りを持っているから、他の種族とあまり馴れ合わないって聞く。頭がいいから、今は将軍家に仕えている天狗も多いって噂」


 


「つまり、鬼は庶民で、天狗は役人、九尾は神様か」


 


「……そんな分け方でいいなら、ね」


 


沖田が、ふとこちらを見る。


 


「じゃあ、君は?」


 


「……?」


 


「鬼で、庶民。なのに、ずいぶん人間に慣れてるよね」


 


「……別に。育った場所が少し人間に近かっただけ」


 


「へぇ」


 


それ以上は追及してこない。


それが、かえって気を緩ませた。


 


「ペリーが来てから、全部変わったの」


 


ぽつりと呟くと、沖田の手が止まる。


 


「昔は、妖も人も一緒に暮らしていた。人の村に鬼がいても、誰も驚かなかった。でも、黒船が来て、外の国の人間が“妖は気持ち悪い”って言った」


 


「……それで?」


 


「それで、人間たちが妖と距離を取り始めた。境界線を引いて、“こっちには来るな”って。だから今、妖は姿を隠して生きてる」


 


「……なんだか、人間らしい話だね」


 


沖田は立ち上がって背伸びをする。そのまま軽く私を見下ろし、微笑んだ。


 


「でも、僕は見えてよかったと思うよ。妖って、想像してたよりずっと人間っぽい」


 


「……人間の前に姿を表す妖は、人喰いが多いから?」


 


「違うよ。君が、ちょっと不思議すぎるだけ」


 


そう言って、沖田は背を向けた。


 


「じゃ、次の見廻りまで昼寝でもしてくる。……“自由”ってやつ、楽しんでね」


 


その背中が離れていく。


けれど、彼の言葉だけが妙に耳に残った。


 


……妖は、人間に似ている?


それは肯定なのか。皮肉なのか。


風の抜ける中庭で、私はしばらくその意味を考えていた。


 


“自由”という言葉には、罠がある。


どこへでも行けるようでいて、いつどこで誰に見られているか分からない。それが、今の私の立場だった。


 


道場の前を通り、隣の廊下へ足を踏み入れたその時。


 


「……おい、そこを歩いているのは誰だ」


 


低く鋭い声が響いた。


振り返ると、土方歳三が立っていた。その隣には白い羽織を肩にかけた近藤勇もいる。


 


「……月夜魅です。すみません、通らせていただきます」


 


「通る? 貴様、囚われの身だったよな」


 


土方の視線は冷たい。


 


「女中の仕事は終わったのか。……いや、それ以前に、勝手にうろつくのは筋違いだろうが」


 


「……山南さんに、休憩時間だと言われました。屯所内なら自由にして構わないと」


 


「山南が、そう言ったか」


 


その言葉に、私は思わず唇を噛んだ。


背後で近藤がやれやれと肩をすくめる。


 


「まあまあ、歳さんよ。そんなに目くじら立てることもないだろう。まだ慣れてないんだから」


 


「……だからこそ、だ」


 


土方は一歩も引かない。


 


「慣れてない奴がうろついて、何かあってからじゃ遅い」


 


「何かって、たとえば?」


 


近藤が問うと、土方はわずかに目を細めた。


 


「――芹沢のこともある」


 


その一言で、空気が変わる。


 


「芹沢は、ああ見えて“自分の所有物”には執着が強い。あの目をつけられた女が、一人で屯所を歩いていたら……何が起こっても不思議じゃねぇ」


 


その言葉には理があった。私自身も、それを嫌というほど理解している。


 


「……なら、どうすればいいのですか」


 


絞り出すように尋ねると、近藤が答えた。


 


「これからは、屯所内を歩く時は誰かに付き添ってもらいなさい。沖田でも山南でも、信頼できる者に声をかけて」


 


「……わかりました」


 


私は小さく頭を下げた。


土方はそれ以上何も言わず、袴の裾を払って去っていく。


その背を見送りながら、近藤が笑った。


 


「厳しいだろう? あれでも心配してるんだよ、君のこと」


 


「……そうは見えませんでした」


 


「だろうね。でも、あいつは口より先に刀が動く男だ。言葉で守るのは苦手なんだよ」


 


近藤の笑い声は、どこか包み込むように柔らかい。だが、その奥には確かな鋭さも潜んでいた。


 


「この場所は、思っている以上に危うい。気を張っていなさい。今はまだ、“預かっている命”なのだから」


 


私は静かに頷いた。


“自由”という名の檻の中で、生き延びるためのルールをまた一つ覚えたのだ。


 


 


その日の夜。


 


夕餉の支度を終え、自室へ戻って戸を閉めた途端、空気の重さが肩にのしかかってきた。


この部屋が逃げ場所なのか、檻なのか、まだ分からない。


 


布団に横たわっても、眠れる気はしなかった。


焔のいない夜。広すぎる布団。静かすぎる部屋。


 


焔……


その名を思うたび、胸がぎゅっと縮む。


隣にいないというだけで、私はこんなにも眠れない。


 


……今日も、眠れない。


 


――こん。


 


戸が小さく叩かれた。身体が反射的に強張る。


 


「……まだ、起きてる?」


 


聞き慣れた声だった。沖田だ。


戸を開けると、手に湯桶と手拭いを持って立っている。


 


「ちょっと悪いんだけど、手、貸してくれる?」


 


「……なに」


 


「風呂の番が混んでて、僕のところまで回ってこなかった。今日の番、芹沢さんだったから……いろいろ押し出されてさ。だから今日は身体だけ拭いて済ませようかと。……背中、拭いてくれない?」


 


「私で、いいの?」


 


「うん。誰か他の人に頼むのも妙だし、君なら断らないかなって思って」


 


「…………それ、褒めてるの?」


 


「もちろん。君、優しいから」


 


沖田は湯桶を部屋の隅に置き、浴衣の襟を緩めて座り直した。


私は黙って手拭いを湯に浸し、その背中へ当てる。


 


思ったより細い。けれど芯は強そうで、力が抜けているのに、どこか隙がない。


剣士の背中だった。


 


静けさの中で、沖田がぽつりと言う。


 


「……眠れてないでしょ?」


 


手が止まる。


 


「……どうして、それを」


 


「目の下の隈と、朝の顔色。あと……君の立ち方」


 


沖田は振り返らずに続けた。


 


「眠れてない人って、身体の重心が違うから」


 


……鋭い。


私は何も返せず、ただ黙って手を動かした。


 


すると沖田が、ふっと笑う。


 


「……いつもはどうしてたの? 寝る時」


 


「……」


 


「誰かに、そばにいてもらってた?」


 


意地悪な響きだった。けれど、その奥には探るような気配と、ほんの少しの優しさがあった。


 


「……別に、あなたに関係ない」


 


「うん、関係ない。でも、もし君が眠れるように“そうしてあげる”って言ったら――どうする?」


 


その言葉に、胸がきゅうっと痛んだ。


まるで見透かされたみたいで。


 


沖田はくすりと笑って立ち上がる。


 


「ま、また眠れない夜が来たら呼んで。……僕、気まぐれだけど、面倒見は悪くないよ」


 


そう言って湯桶を持ち、戸の外へ出ていく。


 


「じゃ、またね。おやすみ、月夜魅さん」


 


しばらく、音の消えた部屋にひとり。


けれど、彼の残り香のような言葉の余韻だけが、まだふんわりと空気に残っていた。


 


……呼べるわけ、ないじゃない。


 


でも、ほんの少しだけ。


 


今夜は、眠れるかもしれないと思ったのも事実だった。







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