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エンド・オブ・ザ・江戸・ピリオド  作者: ありんこ。


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3/12

微笑み



 


会議が終わると、私は再び沖田に連れられ、目を覚ましたあの部屋へと戻された。


 


部屋に足を踏み入れた途端、彼は後ろで障子を閉め、何でもないことのように言った。


 


「はい、お疲れさま。大役終了」


 


そのまま私の腕と胴に巻かれていた縄を、器用な手つきで解いていく。


縄が外れていく感覚は、普通なら安堵をもたらすものなのだろう。けれど、胸の奥は少しも軽くならなかった。むしろ、さっきまでよりひどく息苦しい。


 


「とりあえず今日はもう日も暮れるし、好きにしていいよ。屯所の中、見て回ってみたら?」


 


「……見て回る?」


 


思わず聞き返していた。


 


自由にしろ、とでも言うつもりなのだろうか。


さっきあれほど、“危険だ”“監視が必要だ”と話していたくせに。


 


「……随分気前がいい人」


 


少しだけ皮肉を込めて言うと、沖田はふっと笑った。


 


「まあね。けど、逃げようとしたら……その時は本当に斬るから」


 


その声は相変わらず柔らかくて、どこか人を安心させる響きがあるのに、言葉の芯だけがひどく冷たい。


 


「じゃ、僕は見廻りに行ってくるから。……うろつくなら気をつけてね」


 


そう言って沖田は、何の未練もなさそうにひらひらと手を振り、部屋を出て行った。


 


残されたのは、静かな畳の匂いと、私の小さな吐息だけだった。


 


……見て回れって、何よ。


 


囚われの身でありながら、“好きに動け”だなんて。皮肉にもほどがある。


そして何より――この屯所には、あの男がいる。


 


芹沢鴨。


 


あの目。


値踏みするように女を見る、いやらしい視線。


“女”であることが、今この場所で最も危ういことなのだと、嫌というほど思い知らされた。


 


もし、廊下の角でばったり鉢合わせでもしたら――


 


想像しただけで、背筋が粟立つ。


逃げ出したくても逃げられない。ここはもう、檻だった。


 


私は畳の上に腰を下ろし、膝を抱えるようにして座り込む。


何も見たくない。誰にも会いたくない。


部屋から一歩でも出れば、また人間の世界に引きずり戻される気がして、身体は少しも動かなかった。


 


そうしてじっと畳の上でうずくまっていると、不意に人の気配が近づいてきた。


……がらり、と障子が開く。


 


思わず肩が跳ねた。


 


けれど、そこに立っていたのは芹沢ではなかった。


やわらかな微笑を浮かべた男――眼鏡越しの瞳が、穏やかにこちらを見つめていた。


 


「こんばんは。驚かせてしまいましたか?」


 


その声は、沖田のような軽さもなければ、土方のような鋭さもない。


ぬるま湯のように、じんわりと心へ広がる、不思議なあたたかさがあった。


 


「私は、山南敬助。ここでは“副長”という立場にいます。まあ……雑事も揉め事も引き受ける、便利屋のようなものです」


 


その微笑みに、なぜだか少しだけ息がしやすくなった。


 


――この出会いが、私にとって“人の中で生きる”という意味を、ほんの少しだけ変えていくことになるとは、この時はまだ知らなかった。


 


「……副長?」


 


私が繰り返すと、彼は小さく笑った。


 


「ええ。少し仰々しく聞こえるかもしれませんが、簡単に言えば……皆の間に立って、物事を収める立場です。ここは、何かと騒がしいもので」


 


その微笑みには、どこか諦めと達観が混ざっていた。


けれど同時に、押しつけがましくない気遣いも感じられる。不思議と、不快ではなかった。


 


「……気分はどうですか?」


 


そう問われて、私は答えに詰まった。


気分、と言われても。


縄で縛られて連れ回され、男たちに値踏みされ、その末に“働け”とだけ言われた身だ。何をどう感じれば正しいのか、自分でもよく分からない。


 


けれど、そんなことを口にしたところで何かが変わるはずもない。


 


「……生きてるだけで、ありがたいこと…なんですよね、きっと」


 


ぽつりと漏れたその言葉に、山南は少しだけ目を細めた。


 


「……生きているだけでは、充分ではないと?」


 


「え?」


 


「“生かされた”という感覚は、時に息苦しいものですから。自分の命を、自分で持っていないような気がしてしまう。……特に、その命を取り戻す力が、自分の中にまだ残っていると気づいてしまった者にとっては」


 


私は、一瞬だけ息を止めた。


 


どうして、この人はそんなことが分かるのだろう。


 


「……あなたも、誰かに“生かされた”ことがあるの?」


 


山南は少しだけ笑って、視線を畳に落とした。


 


「どうでしょうね。もしそうだとしても……私は、それを後悔してはいません」


 


「どうして?」


 


「誰かに許された命には、それだけで価値があると信じているからです。たとえ、その誰かが自分を利用しようとしていたのだとしても」


 


……この人、怖いくらい静かだ。


 


人間というものは、もっと感情的で、もっと自分本位で、理性より先に声を荒げるものだと思っていた。


けれどこの人は違う。


静かに、深く、私の内側を覗こうとしている。


探るのでもなく、責めるのでもなく、ただ“知ろう”としているのが伝わってくる。


 


「……どうして、話しに来たんですか?」


 


絞るように問いかけると、山南はほんの少し首を傾げた。


 


「あなたが、ここで“人間の中で生きる”ことを選ぼうとしているのか……それを知りたくて」


 


「……選ぶかどうかなんて、そんな余裕はない、です」


 


「でも、選べますよ。選びたくなった時には」


 


「……そんな簡単な話じゃない」


 


「ええ、もちろん。けれど、“可能性”を誰かがそっと置いていってくれるだけで、人は救われることもあります」


 


その言葉が、まるで遠くから舞い落ちてくる一枚の羽のように、心の表面へそっと触れた。


強くはない。けれど確かに、そこには優しさがあった。


 


「私は、味方になるとも敵になるとも約束はできません。ですが――あなたが苦しんでいる時に、目を背けたりはしないつもりです」


 


そう言って山南は立ち上がった。


 


「明日から、台所と洗濯場を覚えてもらいます。何か役目があった方が……少しは気が紛れるかもしれませんから」


 


私が何も言わないままでいると、彼は障子の前でふと振り返った。


 


「……“生きているだけでありがたい”と言えるあなたは、強い人だと、私は思いますよ」


 


静かに障子が閉じられる。


 


残された私は、膝の上でそっと指を重ね、小さく息をついた。


 


この場所で初めて――私は“鬼”ではなく、“ひとりの人”として扱われた気がした。






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