微笑み
会議が終わると、私は再び沖田に連れられ、目を覚ましたあの部屋へと戻された。
部屋に足を踏み入れた途端、彼は後ろで障子を閉め、何でもないことのように言った。
「はい、お疲れさま。大役終了」
そのまま私の腕と胴に巻かれていた縄を、器用な手つきで解いていく。
縄が外れていく感覚は、普通なら安堵をもたらすものなのだろう。けれど、胸の奥は少しも軽くならなかった。むしろ、さっきまでよりひどく息苦しい。
「とりあえず今日はもう日も暮れるし、好きにしていいよ。屯所の中、見て回ってみたら?」
「……見て回る?」
思わず聞き返していた。
自由にしろ、とでも言うつもりなのだろうか。
さっきあれほど、“危険だ”“監視が必要だ”と話していたくせに。
「……随分気前がいい人」
少しだけ皮肉を込めて言うと、沖田はふっと笑った。
「まあね。けど、逃げようとしたら……その時は本当に斬るから」
その声は相変わらず柔らかくて、どこか人を安心させる響きがあるのに、言葉の芯だけがひどく冷たい。
「じゃ、僕は見廻りに行ってくるから。……うろつくなら気をつけてね」
そう言って沖田は、何の未練もなさそうにひらひらと手を振り、部屋を出て行った。
残されたのは、静かな畳の匂いと、私の小さな吐息だけだった。
……見て回れって、何よ。
囚われの身でありながら、“好きに動け”だなんて。皮肉にもほどがある。
そして何より――この屯所には、あの男がいる。
芹沢鴨。
あの目。
値踏みするように女を見る、いやらしい視線。
“女”であることが、今この場所で最も危ういことなのだと、嫌というほど思い知らされた。
もし、廊下の角でばったり鉢合わせでもしたら――
想像しただけで、背筋が粟立つ。
逃げ出したくても逃げられない。ここはもう、檻だった。
私は畳の上に腰を下ろし、膝を抱えるようにして座り込む。
何も見たくない。誰にも会いたくない。
部屋から一歩でも出れば、また人間の世界に引きずり戻される気がして、身体は少しも動かなかった。
そうしてじっと畳の上でうずくまっていると、不意に人の気配が近づいてきた。
……がらり、と障子が開く。
思わず肩が跳ねた。
けれど、そこに立っていたのは芹沢ではなかった。
やわらかな微笑を浮かべた男――眼鏡越しの瞳が、穏やかにこちらを見つめていた。
「こんばんは。驚かせてしまいましたか?」
その声は、沖田のような軽さもなければ、土方のような鋭さもない。
ぬるま湯のように、じんわりと心へ広がる、不思議なあたたかさがあった。
「私は、山南敬助。ここでは“副長”という立場にいます。まあ……雑事も揉め事も引き受ける、便利屋のようなものです」
その微笑みに、なぜだか少しだけ息がしやすくなった。
――この出会いが、私にとって“人の中で生きる”という意味を、ほんの少しだけ変えていくことになるとは、この時はまだ知らなかった。
「……副長?」
私が繰り返すと、彼は小さく笑った。
「ええ。少し仰々しく聞こえるかもしれませんが、簡単に言えば……皆の間に立って、物事を収める立場です。ここは、何かと騒がしいもので」
その微笑みには、どこか諦めと達観が混ざっていた。
けれど同時に、押しつけがましくない気遣いも感じられる。不思議と、不快ではなかった。
「……気分はどうですか?」
そう問われて、私は答えに詰まった。
気分、と言われても。
縄で縛られて連れ回され、男たちに値踏みされ、その末に“働け”とだけ言われた身だ。何をどう感じれば正しいのか、自分でもよく分からない。
けれど、そんなことを口にしたところで何かが変わるはずもない。
「……生きてるだけで、ありがたいこと…なんですよね、きっと」
ぽつりと漏れたその言葉に、山南は少しだけ目を細めた。
「……生きているだけでは、充分ではないと?」
「え?」
「“生かされた”という感覚は、時に息苦しいものですから。自分の命を、自分で持っていないような気がしてしまう。……特に、その命を取り戻す力が、自分の中にまだ残っていると気づいてしまった者にとっては」
私は、一瞬だけ息を止めた。
どうして、この人はそんなことが分かるのだろう。
「……あなたも、誰かに“生かされた”ことがあるの?」
山南は少しだけ笑って、視線を畳に落とした。
「どうでしょうね。もしそうだとしても……私は、それを後悔してはいません」
「どうして?」
「誰かに許された命には、それだけで価値があると信じているからです。たとえ、その誰かが自分を利用しようとしていたのだとしても」
……この人、怖いくらい静かだ。
人間というものは、もっと感情的で、もっと自分本位で、理性より先に声を荒げるものだと思っていた。
けれどこの人は違う。
静かに、深く、私の内側を覗こうとしている。
探るのでもなく、責めるのでもなく、ただ“知ろう”としているのが伝わってくる。
「……どうして、話しに来たんですか?」
絞るように問いかけると、山南はほんの少し首を傾げた。
「あなたが、ここで“人間の中で生きる”ことを選ぼうとしているのか……それを知りたくて」
「……選ぶかどうかなんて、そんな余裕はない、です」
「でも、選べますよ。選びたくなった時には」
「……そんな簡単な話じゃない」
「ええ、もちろん。けれど、“可能性”を誰かがそっと置いていってくれるだけで、人は救われることもあります」
その言葉が、まるで遠くから舞い落ちてくる一枚の羽のように、心の表面へそっと触れた。
強くはない。けれど確かに、そこには優しさがあった。
「私は、味方になるとも敵になるとも約束はできません。ですが――あなたが苦しんでいる時に、目を背けたりはしないつもりです」
そう言って山南は立ち上がった。
「明日から、台所と洗濯場を覚えてもらいます。何か役目があった方が……少しは気が紛れるかもしれませんから」
私が何も言わないままでいると、彼は障子の前でふと振り返った。
「……“生きているだけでありがたい”と言えるあなたは、強い人だと、私は思いますよ」
静かに障子が閉じられる。
残された私は、膝の上でそっと指を重ね、小さく息をついた。
この場所で初めて――私は“鬼”ではなく、“ひとりの人”として扱われた気がした。




