妖しい女
障子を静かに閉めると、その場に一拍、立ち尽くした。
……意外と、大人しい。
正直、もっと荒れるかと思っていた。
喰っていないとはいえ、鬼だ。満月の夜に血の匂いに酔った妖が、人のふりをして静かに眠っている――そんなもの、普通はあり得ない。
それにしても、あの姿……。
脳裏に、昨夜の光景が蘇る。
気を失っているはずなのに、あの“異形”は確かに何かを放っていた。
紅い髪。額に浮かぶ二本の角。
満月に照らされながらも闇のように沈んだその姿は、美しいのに、どこか恐ろしかった。
妖しい――いや、違うな。
妖艶で、それでいて、あれはどこか“狂っている”。
まるで芯の部分だけが、氷のように冷たい。
“殺す”という行為を、身体の奥で覚えているような――そんな女だった。
……もし、理性を飛ばした状態で剣を交えることになったら。
思わず、背筋がひやりと冷える。
だが同時に、喉の奥をなぞるような高揚が湧き上がる。
……どのくらい強いんだろうね。
それは、僕にとってごく自然な感情だった。
善悪よりも先に来る、“強さ”への興味。
それが相手に血を流させることになっても、構わない。
「……ま、今はその気配、ないけど」
口元にうっすら笑みを浮かべながら、廊下を進む。
向かったのは屯所の一室。
近藤さんと土方さんが、帳面を前に話し込んでいた。
「入りますよ」
軽く障子を開けると、土方さんが顔を上げ、眉をひそめた。
「……総司か。報告か?」
「うん、例の鬼……目、覚ましたよ」
「そうか。様子は?」
「思ってたより大人しいね。少しふらついてたけど、ちゃんと話はできた」
部屋に入り、柱にもたれかかるように座る。
「名前は“月夜魅”。夜に出て、月に魅せられて、それで人を喰う……なんて話があるなら、そのまんまって感じの名前だね」
近藤さんが、わずかに目を見開く。
「……月夜魅」
「本人は“喰ってない”ってさ。あの夜も、血の匂いに酔って倒れただけだって」
土方さんが無言で煙管に火をつける。
煙がゆっくりと部屋に広がった。
「今は黒髪で、角もない。……見た目だけなら、ただの女だよ」
「だからって、気を抜くな」
「分かってますよ。……けど、ちょっと気になるね」
「何がだ」
「理性の奥に、何か溜め込んでる」
二人の視線が、こちらに向く。
「殺したくて震えてる、って感じじゃない。――むしろ逆だね」
「……逆?」
「殺さないように、ずっと我慢してる。そんな空気だった」
それは、言葉というより直感だった。
鬼でありながら、“喰らわない”選択をし続けてきた者の、歪んだ静けさ。
近藤さんが低く唸る。
「……会議にかけよう。山南にも意見を聞く」
「それがいいと思いますよ」
土方さんも短く頷いた。
「じゃあ僕は、見張り役ってことで」
「軽口叩くな」
睨まれる。
けれど、ひらりと手を振って受け流す。
「大丈夫ですよ。万が一の時は、ちゃんと斬りますから」
そう言った時、
自分でも分かるくらい、目の奥に“期待”が滲んでいた。
ぎぃ――と、障子がわずかに開く。
僕の手に繋がれた縄が、音もなく座敷へと引き込まれていく。
視線が、一斉に集まった。
その先にいるのは――
両腕を後ろ手に縛られ、胴に太い縄を巻かれた月夜魅さん。
縄の感触が、妙に冷たい。
そして、重い。
笑っているつもりでも、きっと顔は引きつっていた。
座敷の空気は、外よりも冷たい。
いや――それ以上に、張り詰めている。
並ぶのは壬生浪士組の主だった面々。
正面に近藤勇。
その隣に土方歳三。
少し下がった位置に山南敬助。
さらに脇には永倉新八、斎藤一。
そして――
上座に、あぐらをかく男。
芹沢鴨。
その両脇には平間重助と野口健司。
何もしていなくても、空気を濁らせるような連中だ。
「……こいつが、その鬼か」
芹沢が鼻で笑う。
酒の匂いが、遠くからでも分かる。
「へぇ……噂の妖ってやつかと思えば、ただの上玉じゃねぇか」
その視線が、舐めるように月夜魅さんをなぞる。
彼女は顔を伏せたまま、何も言わない。
ただ、肩だけがわずかに強張っていた。
「静かにしていただけますか」
土方さんの声が、低く空気を裂く。
「ここは遊郭ではない。処遇を決める場だ」
「へいへい」
杯を傾けながら、芹沢は笑う。
「で?どうするつもりだ、近藤」
近藤さんは腕を組み、しばし沈黙したのち、口を開いた。
「この者には、現行犯の証拠がない。ならば我々の監視下に置く。
屯所で女中として働かせ、様子を見る」
「……ふうん?女人禁制の壬生浪士組で?」
芹沢の口角が、ゆっくりと歪む。
「じゃあ俺のところに置けよ。人手が足りねぇんでな」
その場に、嫌な空気が広がる。
「鴨さん、それは“女中”じゃなくて“慰み者”だろ」
永倉さんが吐き捨てる。
「慰み者? まさか。ただ保護してやろうって言ってるだけだ」
月夜魅さんへ向けられる、粘ついた視線。
「なあ?」
「くだらねぇ……」
土方さんの声が、低く落ちる。
「お前の“保護”がどういう意味か、俺たちは知っている」
「じゃあ交渉だ」
芹沢は、土方さんを無視して言った。
「今回はそっちに任せる。ただし――」
「そいつが“理性ある鬼”だと証明されるまで、何かあった時の責任はそっちだ」
「……つまり?」
「次に血に酔って暴れたら、その時は俺の好きにさせてもらう」
ざわり、と胸の奥が揺れる。
「……引き受けよう」
近藤さんの声が、静かに響いた。
「だが、それまでは手を出すな」
「分かってるさ。約束くらい守る」
――“きっとな”。
そう言い残し、芹沢は立ち上がる。
平間と野口が、その後に続いた。
「……やっかいな奴だ」
土方さんが煙を吐く。
僕は、手に残る縄の感触を意識しながら、
そっと、月夜魅さんへ視線を向けた。
伏せられた黒髪。
何を考えているのか、まったく分からない。
この日、
彼女は正式に壬生浪士組の監視下に置かれることになった。
男ばかりの屯所で、
ただひとりの“女中”として。
そして同時に――
芹沢鴨という獣が、
影の中で牙を研ぎ続けている場所で。




