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エンド・オブ・ザ・江戸・ピリオド  作者: ありんこ。


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13/14

夜の帳が落ちる



 


夜の帳が、静かに京の町を包んでいた。


 


壬生屯所の奥、自室へ戻った月夜魅は、ぽつんと一人、座布団の上に座り込んでいた。


灯りを落とした部屋は、昼間よりもずっと広く感じる。障子の隙間を抜ける風が、かすかに紙を鳴らす。その小さな音さえ、今夜は妙に大きく耳に響いた。


 


沖田は、もう見廻りに出たはずだった。


 


……言えた。


ちゃんと、自分の口で伝えた。


「もう、夜は来なくて大丈夫です」と。


 


それなのに、胸の奥は張り詰めた糸のようにきしみ続けている。


頭では分かっていた。あれは正しいことだったのだと。土方に言われたこともある。何より、これ以上自分のために誰かへ迷惑をかけてはいけないと思ったからこそ、あの言葉を選んだ。


 


なのに、心だけが、それに追いついてくれない。


 


月夜魅は膝を抱えた。


自分の身体を自分で抱きしめるように、小さく丸くなる。


 


一人で夜を迎えるのは、何日ぶりだろう。


 


思い返せば、ここしばらくの夜には、いつも誰かの気配があった。


沖田の呼吸。布団を引きずる音。時折こちらを気にする視線。


それが、知らず知らずのうちに“当たり前”になっていたのだ。


 


小さな震えが、身体の奥からこみ上げてくる。


 


……怖い。


 


その言葉を、月夜魅は心の中でだけ呟いた。


 


誰もいない夜が、こんなにも怖いなんて。


呼吸を整えようとしても、胸のざわめきは収まらない。


もう子どもではないのに。


誰かがそばにいなければ眠れない自分を、何度情けなく思ったか分からないのに。


それでも――


 


私は、たった一人で、この夜を越えられる自信がなかった。


 


その時だった。


 


――こん、こん。


 


戸を叩く、静かな音がした。


 


「……?」


 


月夜魅は顔を上げた。


誰だろう、と一瞬身を強ばらせる。


沖田ではない。彼はもう見廻りに出ているはずだ。


 


そっと立ち上がり、足音を忍ばせて戸口へ近づく。


すると、障子越しに、低くやさしい声が届いた。


 


「月夜魅さん」


 


胸が、跳ねる。


 


この声は――


 


「……山南さん?」


 


戸を開けると、そこには静かに佇む山南敬助の姿があった。


今夜も整った身なりで、けれどどこかこちらを気遣うように柔らかく微笑んでいる。


 


「……夜分にすみません」


 


そう言って、山南はほんの少し間を置いた。


 


「私の部屋で、お茶でもいかがですか」


 


その瞬間、胸の奥に張り詰めていた糸が、ふっと緩んだ気がした。


 


山南は、気遣うように月夜魅を見つめている。


押しつけるでもなく、問い詰めるでもなく、ただ、今の彼女に必要なものを差し出そうとしてくれている。そこにあるのは甘やかな優しさだけではなく、静かで確かな責任感だった。


 


あぁ、と月夜魅は思う。


 


この人は、分かってくれている。


自分がどれだけ無理をして、どれだけ孤独に震えているか。


何も言わなくても、きっと全部。


 


言葉にならない感情が、胸の奥いっぱいに満ちた。


 


「……はい」


 


小さく頷くと、山南はやわらかく微笑んで、道を開けるように一歩退いた。


月夜魅はそっとその隣に並ぶ。


 


夜の冷たい空気の中、二人は肩を並べて歩き出した。


 


壬生屯所の裏手、人の気配の少ない細い道。


月明かりが落ちるその道を、二人は黙って進む。


 


言葉はなかった。


けれど、その沈黙を気まずいとは思わなかった。


むしろ、何も言わないままでいられることが、どこかやさしい。


 


足元に落ちる二つの影だけが、そっと寄り添うように揺れていた。


 


夜の空気は、生ぬるかった。


それでも、ほんの少しだけ肌寒さを感じて、月夜魅は肩に掛けた上着を引き寄せる。すると山南が、その小さな動きに気づいたのだろう、ちらりと視線を向けてきた。


けれどやはり、何も言わない。


月夜魅は首を小さく振る。だいじょうぶ、と伝えるように。


そのやりとりだけで、きちんと伝わることが不思議だった。


 


……気まずさとは、違うんだな。


 


月夜魅はふと思った。


ここにあるのは、互いを不用意に傷つけまいとする、小さくて確かな配慮だった。


風に乗って遠くから蝉の声が聞こえる。川面がかすかにざわめく音もする。


そんな夏の夜の気配に包まれながら、月夜魅は少しだけ背筋を伸ばした。


 


もう、大丈夫。


一人でも歩ける。


そう自分へ言い聞かせながら――本当は、隣にいるこの人のぬくもりに静かに救われているのだと、胸の奥では分かっていた。


 


やがて、山南の部屋の灯りが闇の向こうにぽうっと浮かび上がった。


小さな、けれど確かな、帰る場所のような光だった。


 


戸を開けると、ふわりと温かな空気が流れ出る。


月夜魅はその後に続き、静かに部屋へ入った。


 


中は、相変わらずきちんと整っていた。


文机の上に整然と重ねられた書類。端にきれいに畳まれた羽織。無駄のない配置。


そして――


 


ふたつ並んだ布団。


 


月夜魅は思わず立ち止まった。


 


布団が、ふたつ。


それも、ごく自然に。何の説明もなく。最初からそうあるべきだったように並べられている。


 


――気づいてくれていたんだ。


 


今日、自分がどんな気持ちで夜を迎えたか。


本当はどれだけ無理をして笑っていたか。


全部、分かったうえで、何も言わずにこれを用意してくれていたのだと思うと、胸がじわりと熱くなる。


 


「……どうぞ。好きな場所に」


 


山南がそっと声をかける。


月夜魅は小さく頷き、遠慮がちに部屋の隅の布団へ腰を下ろした。


そのあいだに山南は手際よく湯を沸かし始める。火鉢に鉄瓶をかける仕草は、見慣れているはずなのに、今夜は妙に胸に沁みた。


 


「眠くなったら、いつでも休んでくださいね」


 


そう言いながら鉄瓶へ目を落とす横顔は、どこまでも穏やかだった。


 


月夜魅は静かに部屋を見渡す。


整えられた机。


積まれた書類。


そしてあの夜、自分が膝の上で泣き、眠ってしまった場所。


 


その記憶が、胸の奥からふわりと浮かび上がってきた。


懐かしいような、痛いような、くすぐったいような、そんな感覚が胸をそっと撫でていく。


 


この人は、あの夜から何も変わらない。


無理に踏み込まず。


無理に慰めず。


ただ、ここにいてくれる。


 


だから、今夜もまた、この静かな温もりに救われるのだろうと、月夜魅は思った。


 


ぽこぽこと、鉄瓶の中で湯が踊る音がした。


山南が茶器を並べる。


その音のひとつひとつが、張り詰めていた心をほどいていくようだった。


 


「お待たせしました」


 


湯気越しに、山南の声が届く。


月夜魅は座布団の上で膝を正し、そっと頭を下げた。


 


「ありがとうございます」


 


差し出された茶碗は、じんわりと温かかった。


両手で包み込むと、その熱が指先から胸の奥へとゆっくり広がっていく。


 


二人、向かい合って座る。


けれど視線は合わせない。


ただ湯気の向こうに、互いの存在だけを感じていた。


 


「……今日の夕餉、どうでしたか?」


 


山南が、何気ない調子で問いかけた。


 


月夜魅は少し考えてから、ぽつりと答える。


 


「……少し、賑やかでした」


 


そう。


屯所の空気はどこか浮き立っていた。


会津藩からの要請の噂が、隊士たちのあいだで小さく膨らみ続けているからだ。


誰もが期待と不安を抱えながら、それでも前へ進もうとしている。


 


「皆さん、少し……浮かれていましたね」


 


月夜魅の言葉に、山南は茶碗へ目を落とし、小さく頷いた。


 


「無理もありません」


 


その言葉は短い。


けれど、その一言の裏には、きっと多くの重さがあるのだろうと分かった。


 


しばらく静かな時間が流れた。


湯気が二人のあいだをやわらかく漂う。


 


けれど月夜魅は、分かっていた。


本当は、こんな話だけではない。


互いに、別のことを考えている。


きっと、どちらも。


 


月夜魅はそっと茶碗を置き、小さく息を吐いた。


 


「……私、朝……」


 


ぽつりと漏れた声に、山南が視線を上げる。


 


「朝……?」


 


静かな促し。


けれど月夜魅は、その先を続けることができなかった。


朝、沖田へ「もう来なくていい」と伝えたこと。


それで、今こうして一人になったこと。


本当は、そのことを話したかったはずなのに。


 


でも、不思議だった。


 


孤独じゃなかった。


 


こうして誰かがそばにいるだけで。


何も言わなくても、ただ同じ部屋の空気を吸っているだけで、自分は救われてしまうのだと知っていた。


 


だから、今は言わなくていい。


ただ、この静かな夜へ身を委ねたかった。


 


月夜魅は小さく首を振る。


 


「……なんでも、ありません」


 


山南は、それ以上何も問わなかった。


ただ、やさしい目で月夜魅を見ていた。


その沈黙が、心地よかった。


無理に踏み込まない優しさ。


それは、どんな言葉よりも温かく感じられた。


 


月夜魅はそっと微笑み、もう一度茶碗を両手で包み込む。


温もりが掌から胸へと広がっていった。


 


静かな夜。


淡い湯気の向こうで、二人だけの時間が流れていく。


 


やがて、山南がふいに月夜魅の名を呼んだ。


 


「……月夜魅さん」


 


月夜魅はそっと顔を上げる。


山南の眼差しはやわらかく、それでいて決して甘くはなかった。


 


「……ひとりの夜は、大丈夫ですか」


 


静かな問いだった。


けれど、その言葉は月夜魅の胸へ、波紋のようにじわじわと広がっていった。


 


月夜魅は咄嗟に答えを探す。


そして反射のように、口が先に動いた。


 


「……はい」


 


嘘だった。


心がついてこないままに出た言葉だった。


 


「そう、ですか」


 


山南は、それ以上何も言わない。


責めることも、問い直すこともせず、ただ受け取っただけだった。


 


月夜魅は俯く。


 


――嘘だ。


 


本当は、怖い。


ひとりで迎える夜なんて、まだとても耐えられそうにない。


でも、だからこそ言えなかった。


これ以上、誰かに迷惑をかけたくない。


誰かの時間を、自分のために奪いたくない。


そんな思いが喉へ絡みつき、言葉を押し殺していた。


 


静かな沈黙が、夜の空気へ溶けていく。


けれど、その沈黙は重苦しいものではなかった。


 


――この人は、無理に踏み込んでこない。


ただ、そこにいてくれる。


 


それだけで、どれほど救われるのか。


 


「……月夜魅さん」


 


また、そっと名を呼ばれる。


月夜魅はぴくりと肩を震わせた。


 


「眠くなったら、遠慮なく言ってくださいね」


 


それは命令でも指示でもない。


ただ一人の人間として、目の前の誰かの疲れを気遣うような、夏の夜風に似たやさしい声だった。


 


月夜魅はこくりと頷き、再び茶を啜った。


その向こうで、山南が微笑んだ気がした。


 


この人は、私を“鬼”として見ていない。


“異形”として扱っていない。


たったそれだけのことが、どれほどの救いになるのか――月夜魅は痛いほど知っていた。


 


やがて山南は、会津藩からの依頼について語り始めた。


御所警備のこと。


攘夷派の監視のこと。


壬生浪士組が、ただの市中見廻りではなく、幕府の手足としてより大きな役目を担おうとしていること。


 


その話を聞きながら、月夜魅は思わず息を呑んだ。


土方の部屋でちらりと目にした文書の意味が、少しずつ輪郭を持っていく。


 


「この任務は、壬生浪士組にとって大きな節目になります。市中警備の寄せ集めではなく、幕府直属の精鋭として認められるかもしれない。そういう重大な役目です」


 


山南の声は静かだった。


けれどその奥には、たしかな熱があった。


 


月夜魅は膝の上の布をきゅっと握る。


 


壬生浪士組が、大きな流れの中へ足を踏み入れようとしている。


そのことが、胸へひしひしと伝わってくる。


 


……こんな大事な話を、私に。


 


土方は「隊士でもないお前に関係ない」と言った。


けれど山南は違う。


ちゃんと“私”へ向けて話してくれている。


まるで、最初から仲間であるかのように。


 


胸が熱くなった。


 


「……壬生浪士組にとっても、節目になる仕事です。月夜魅さんにも、無関係なことではありません」


 


穏やかな声。


けれどそこには、はっきりとした信頼が滲んでいた。


 


月夜魅は堪えきれず、そっと口を開いた。


 


「……私も、力になれますか?」


 


自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。


 


山南は静かに、そしてやさしく微笑んだ。


 


「もちろんです」


 


その一言が、胸の奥へじんわりと広がる。


 


……この人に、心を許してしまいそう。


 


あの日、誰にも頼れなかった自分に手を差し伸べてくれた人。


今もこうして、特別扱いするでもなく、腫れ物のように扱うでもなく、ただ“私”を一人の存在として受け止めてくれる。


 


怖いと思ったこともあった。


疑ったこともあった。


 


それでも今は――この静かな夜に溶けるように、自分の心が少しずつ彼へ寄り添っていくのを感じていた。


 


月夜魅は小さく頭を下げる。


 


「……ありがとうございます」


 


本当に、心から。


 


しばらくして、山南が筆を置いた。


 


「……もう、夜も更けました」


 


静かな声だった。


 


「そろそろ、休みましょう」


 


月夜魅は少しだけ迷った。


もっとこうしていたかった。


まだ胸の奥に、この温もりを手放したくない気持ちがあった。


 


けれど、それ以上のわがままは言えなかった。


 


「……はい」


 


頷くと、山南はやわらかく微笑んだ。


 


「では、布団をご用意しますね」


 


彼は手際よく二組の布団を整えた。


まるで最初から、この夜を用意してくれていたかのように。


 


月夜魅はその様子をぼんやりと見つめながら、胸の奥にまた小さな灯がともるのを感じた。


 


――ありがとう、山南さん。


 


言葉にはしなかったけれど。


 


そっと布団へ身を滑り込ませる。


柔らかな温もりが、肌に触れる。


 


……大丈夫。


 


小さく息を吐いた。


夜の冷たさに震えることもない。


孤独に押し潰されることもない。


 


月夜魅は静かに目を閉じた。


隣では、山南が文机へ向かい直し、また筆を走らせ始めている。


 


炭火の温もりと、筆の音。


ただそれだけの夜が、こんなにも優しい。


 


月夜魅は、いつの間にか眠りへ落ちていた。


 


――かさ、かさ。


 


何かがかすかに揺れる音で、目が覚めた。


 


薄明かりの中、天井がぼんやり見える。


頭がまだ少し重い。


けれどすぐに思い出す。自分が今、山南の部屋で眠っていたのだということを。


 


月夜魅は静かに身を起こした。


隣の布団はきれいなままだった。


山南は結局、布団へ入らず、夜通し文机に向かっていたらしい。


 


そっと顔を向ける。


 


そこにいた。


 


文机にもたれるようにして、山南が静かに眠っていた。


蝋燭の火は、頼りなく細くなりながらもまだ揺れている。


障子の向こうでは、早くも蝉の声がかすかに聞こえ始めていた。


 


その薄青い朝の気配の中で、山南の寝顔は、いつもより少しだけ幼く見えた。


 


……山南さん。


 


胸の奥が、きゅうっとなった。


 


こんなにも穏やかな寝顔を見たのは、きっと初めてだった。


手元には、夜通し書き続けたのだろう書状や記録が山のように積まれている。


誰に知られることもなく、誰に褒められることもなく、それでも黙々と背負い続ける人なのだと、その姿が何より雄弁に物語っていた。


 


月夜魅はそっと立ち上がる。


足音を忍ばせて部屋の隅へ行き、薄手の毛布を手に取った。


 


そして静かに、静かに、山南の肩へそれを掛ける。


 


――かさ。


 


毛布の端が揺れる小さな音。


それでも山南は目を覚まさなかった。


深い眠りの中で、ただ静かに呼吸を続けている。


 


月夜魅は、ほんの少しだけ微笑んだ。


 


……守られてばかりじゃ、いられない。


 


この人がここまで私たちのために背負っているのなら、自分も、何かできるようになりたい。


たとえ小さなことでも。


たとえ誰にも気づかれなくても。


 


山南に。


壬生浪士組に。


ここにいる、みんなに。


 


月夜魅はそっと布団へ戻り、再び静かに目を閉じた。


 


障子の向こうでは蝉が本格的に鳴き始めている。


夏の朝が、静かに、けれどたしかに始まろうとしていた。




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