第一章 ヒモナスの書6
「ヒモナス、あなたは何がしたいの?」
ルルディの質問にヒモナスは、満足気に笑った。組んでいた足を下に降ろし、立ち上がってルルディの前に立つ。
「もちろん、力を使い切ることだ。それもスリルがあって、美しい女の微笑みが見られる、最高に遣り甲斐があることだ。そう、例えばだな。城に監禁されている女を、外に出してやるとか」
ルルディは目を丸くして、近付いてきたヒモナスを見た。心当たりが、あり過ぎる。
「ルルディ、魅力的な女になりたかったら、もっとミステリアスにならないと。考えていること、思っていること丸出し娘は色気がないぞ」
「だ、誰が!」
ルルディは怒ったが、ヒモナスの言う通りだ。彼の洞察力に参る。
「か、考えていること丸出し娘よ……まったく、もう」
ルルディは拗たね声で言い、両手を膝でそろえた。
ふふふ、とヒモナスは上機嫌で笑っている。
「このヒモナスが、あの女を助けてやろう。美しいお姿を拝見するついで、だ」
「本当! あたし、実はあなたに相談しようと思っていたのよ。だからあなたが力を貸してくれると、助かるわ」
ルルディは感激したが、ヒモナスの不適な笑みに嫌な予感がした。
「ただし、救助劇はすべて私に監督させてもらう」
ヒモナスが指揮をとるように、長い人差し指でくるっと素早く円を描いた。う、とルルディはうめく。つまり、ルルディはヒモナスの命令通りに動かなければならない、という屈辱的なことなのだ。
だけど、もう一度、ステイシーをお日様の下で笑わせてあげることができるなら、我慢できる。ヒモナスはルルディよりも長くこの世を知る名著であることは、確かだ。
「分かったわ。それでまず、何をすればいい?」
「ネズミのようにちょこまかと動きそうな若者と、水の本を持ってこい。それから、若者にはスケート靴を持ってこいと命令してくれ」
「うーん、イマイチよく分かんないけど、その通りにするわ。それで、他には?」
「今夜、おまえはこの部屋に潜伏してもらう。若者と一緒にな。ガラマの爺さんに、ヒモナスの話に一晩中付き合えと言われた、と言ってここに戻ってくるんだ。爺さんは心配症だからな」
ルルディは目を伏せる。確かにガラマお爺さんはのほほんとしているが、とても心配症だ。初めての外泊、不良になったみたいで気が引けるが、これも作戦とならば仕方ない。
「分かったわ。さ、あなたの気が変わらないうちに、行動よ!」
ルルディは大きく息を吸い込んで、走り出した。
まず、ルルディはネズミみたいにすばしっこい若者、ケビンを粉屋で捕まえた。ルルディは焦るあまり、支離滅裂な言葉を重ねて、ケビンを戸惑わせた。
スケート靴を持ってきたケビンは、これをどう使うのかとルルディに説明を求めた。ルルディは、はにかんで肩をすくめ、かわした。
そして、ガラマお爺さんには順序を立て、落ち着いて話した。ガラマお爺さんはすぐに水の本を持ってきてくれた。
気をつけてな、とガラマお爺さんはいつもと変わらぬ笑顔で見送ってくれた。嘘をついたルルディの良心が、ちくっと痛む。
「君、ガラマお爺さんの孫なの?」
魔術書店から出てきたルルディを、ケビンは興味深そうに見て言った。
「いいえ、違うわ。あたしはただの、見習い」
「ふーん。会った時から思ってたけど、君って不思議な女の子だよね。見ず知らずの僕に話しかけてきて、それで協力までしてくれるなんてさ。なんていうか、僕は妖精に見入られたおとぎ話の主人公みたいな気分さ」
ケビンが笑いながら言った。不思議な女の子、とは初めて言われた。
ルルディは自身をときどき、不思議に思うことがある。
朝、ベッドから出て、ひんやりとした床を踏みしめるとき。あたしは何者か、という疑問がふと、脳裏をよぎる。
「ところでルルディ、君は願いを叶える妖精だとしてさ……どうやって、僕を城の中に入れてくれるの?」
物思いに沈んでいたルルディは、ケビンの一言で直面している問題に気付いた。
「いけない、それをヒモナスに聞いてくるのを忘れていたわ! ごめんなさい、ケビン。あたしは願いを叶える妖精ではないわね」
ルルディは目を伏せる。本の力がなければ、何もできない。その魔術書だって上手く扱えない。
「いや、君は十分に、僕にとっては魔法の妖精だよ、そう落ち込まないで。僕にだって知恵はある」
ケビンはルルディに微笑みかけ、腕まくりした。親指で尖った鼻の先を一こすり、彼はさっき出たばかりの粉屋を指差す。
「ステイシーに災難が訪れたのは、我が名店ラフスキーの粉屋で働いていたからさ。王様だってパンを食べる。ラフスキーの粉屋は、月に一度、小麦粉を城に届けている。僕の手伝いで、ステイシーは城へ行き、そして大臣が目をつけた……」
そうだったの、とルルディは相槌を打つ。
ケビンはぐっと胸を張り、ベルトの位置を直した。助けるぞ、というやる気が彼からみなぎってくるのが感じられ、ルルディも勇気が出てきた。
「特別に仕入れた粉を、僕は届けに行くという名目で入城しよう。ついでに厨房の手伝いを申し入れる。厨房には何度も出入りしているから、コックとは顔見知りなんだ。厨房からヒモナスがいる部屋に行けると思うんだ……魔術書と妖精に頼ってばかりじゃダメだろう? 僕だって、知恵はある」
ケビンは頼もしく笑った。
「君は先に、城へ行ってて。必ず、行くから」
ルルディは頷いた。
「わかったわ。ケビン、気をつけてね」
二人は背を向けて、それぞれの道へと歩き出した。足に絡みつく風を蹴り散らし、歩く。
*
全身が冷え切っている。侍女が重ねてくれた毛布が重いのは、霜が降りているからだろうか。
王女ユリアは心臓に手を当てた。
血の巡りを掌に感じる。体の真ん中まで冷えは届いていない、希望は王に奪われぬように隠してきた。
寝台から、王女は出る。脱いだ絹のドレスが、軽やかな音を立てた。
首筋から背中にかけて、鳥肌が立つ。それは寒さのせいか、これから自分が変貌を遂げる恐れのせいか。
私は臆病ではない、と王女は心の中で呟く。
綿のシャツの上にベストを羽織り、ズボンの裾を整えて、ブーツを履いた。
「今夜、あなたが待ち望んでいた騒動が起きます」
魔術書ヒモナスが現れて、王女に言った。
王女は頷く。ヒモナスは腕を組み、ほくそ笑んでいる。
さあどうぞ、見ておいき。
歴史的な瞬間だ、王女が変わる、誰も見たことのない姿へと。世界で初めてだ、こんな姿になる王女は。
王女は鏡の前で、ハサミを手に取った。
黒髪が束となって、赤い絨毯の上に散らばった。
*
シーツを頭から被り、ルルディはヒモナスの部屋に潜伏していた。
誰が来てもヒモナスが冷風で追い返してしまうため、ルルディは城から追い出される心配はない。
時計を見ると、先の尖った秒針が八時を指していた。
ケビンが、まだ来ない。ルルディは心配でたまらず、ぎゅっとシーツの端を握って体を縮めた。
ごつん、と音がした。先程からその音は、部屋の隅で鳴り続けている。
ヒモナスが指を鳴らすたび、拳大の氷が宙に現れて、数秒で床に落ちた。絨毯の敷かれていない部屋の隅は、溶けた氷で濡れている。
「ヒモナス、何をしているの?」
ベッドに寝転がっている水の魔術書が、問いかける。銀色の髪に青い瞳の水の魔術書は、幼い男の子の姿をしている。彼が抱え込んでいる銅の洗面台は、水で満たされていた。
ヒモナスは水で指を濡らしては、氷を作る。
最初は彼のきまぐれな遊びだと思ったが、真面目な顔で、黙々とその作業を続けている。
水の魔術書に問われても、ヒモナスは答えなかった。
「ねぇ、答えてよ。何をしているか教えて」
ルルディは苛立ちを含ませて問いかけたが、無視された。立ち上がり、ヒモナスの横に立つ。
「ケビンは大丈夫なのかしら……もし、警備兵に気付かれて捕らえられていたら、どうしよう。ヒモナス、どうにかしてケビンが無事か、知る方法はないかしら?」
「奴が自分で知恵を働かせると言ったのだ。我々はこうして、待っていればいい。おとなしくしていろ」
ヒモナスはルルディに一瞥もくれず、答える。
「ケビンはすごく自信があるみたいだったけど、不測の出来事だってあるだろうし、もし助けを求めていたら……夕方に城へ来て、もう夜になるのよ。遅すぎるよ」
ヒモナスが、二回指を鳴らした。氷が二つ現れて、落ちる。ごつん、という音は大きく、外に聞こえて不審に思われないか心配だ。
ふう、とヒモナスが目を閉じて溜息をついた。やれやれ、と言いたげに首を左右に振る。
「だからおまえは、小娘なんだ。ぐすぐずとやかましい。あいつには意地ってものがあるのだ信じてやれ」
ヒモナスが部屋の隅を指差してから、ルルディの背を軽く押した。何よ、とルルディは唇を尖らせる。ふと、氷の山を見て不思議に思った。
床が、ぐっしょり濡れている。氷が溶けているから。しかし、ヒモナスの冷気が充満する極寒の部屋にしては、溶けるのが早い。
「耳を澄ませてみろ」
ヒモナスに言われ、ルルディの耳はごく小さな異音を拾った。
雫が、落ちる音。規則的に、ぴちゃり、と落ちていっている。音は氷の山の下から聞こえた。
氷の山の頂点が、崩れた。がらがらと音を立て、部屋に氷が散らばる。床が持ち上がった。
「……はあ、やっと着いた」
床板を押しのけて、ケビンが現れた。
「よかった、ルルディがいるから、この部屋で間違いない。……えっと、あなたがヒモナスさん?」
ケビンが立ち上がり、ヒモナスを見て言う。ヒモナスは満足気にふんぞり返る。
「よかった、無事で。心配したよ」
ルルディはケビンを笑顔で迎えた。服は黒い煤で汚れているが、怪我もなく元気そうだ。
「ここまで、どうやって来たの?」
「ああ、実はね」
ケビンが語りだした。
厨房によく出入りするケビンは、コックから昔話を聞かされていた。
大昔、敗戦で城が敵国に乗っ取られた。王子はある部屋の隠し通路から厨房に逃げて国外脱出、兵を集めて国を取り返したそうだ。
その通路がまだ残っているはずだが、どこにあるかは分からない。
ケビンはその通路を探し出すため、厨房が忙しくなる夕食時を待った。
慌しく行き交うコックやメイドを避けながら、ケビンは通路を探した。
彼の耳に、氷が溶けて水が落ちてくる音が聞こえた。音を手がかりに、食料庫の壁にあった秘密の通路を見つけた。真っ暗闇のトンネルを、手に触れる水を頼りにケビンは進んだ。そしてヒモナスたちがいる客室に到着した。
ヒモナスが積み上げた氷が、ケビンへの道しるべとなっていたのだ。
「私は何でもお見通しなのだよ。私の冷気が届く範囲ならば、人間の考えていることは、なんだって分かるのだ」
ヒモナスが腕を組み、高笑いを響かせた。
「ふーん……なかなか親切な所もあるのね」
ぼそりとルルディは呟く。ヒモナスは笑うのに夢中で、気付かない。
「それで、ぼくたち、どうすればいいのー? これから、とっても面白いこと、あるんでしょ?」
水の魔術書が、にこにこ笑いながら言う。
「ああ、そうだとも。まずおまえからだ。いいか、よく聞けよ」
ヒモナスが水の魔術書の首根っこをつかみ、引き寄せた。うんうん、と水の魔術書が頷く。
「この城中の廊下に、水を張れ。我々の足が漬かるぐらいのな」
「お城中かぁ、だったらこの姿じゃだめだね」
水の魔術書が体を仰け反らせて伸びをすると、みるみるうちに彼の足は長くなり、肩幅は広くなり、青年の姿となった。
ルルディはぽかんとして、水の魔術書を見上げる。銀色の髪は輝き、澄んだ海色の瞳に見つめられると、息が止まりそうだ。
「……ちんちくりんの子供が、いきなり美青年に……」
ケビンが驚きの声を上げる。
ヒモナスが水の魔術書の頭を、後ろから叩いた。
「痛い! 何をするの、ヒモナス」
「ええい、私より美形の男はゆるさん! ちんちくりんに戻れ!」
「そんなぁ、力を使うなら、大人の姿じゃないと無理だよう、蹴らないでよぅ」
「そうよ、みっともないわよ、嫉妬して」
ルルディはここぞとばかりに、笑ってやった。
「うるさいぞ、へちゃ娘! いいか、作戦の実行は深夜だ! それまで私は寝る!」
ヒモナスは拗ねて、ベッドにもぐってしまった。
「……僕は叩かれなくて、助かったよ」
ケビンが自嘲気味に言い、ルルディは返答に困った。
「起きろ、時間だ」
ヒモナスに起こされた。いつの間にかルルディはソファーで眠っていたらしい。
床で寝ていたケビンも起き上がり、立ち上がった。午前零時、城は眠りに落ちている。
ヒモナスは燭台を手に、厳しい視線をケビンに向けた。
「救出劇の幕開けの前に、主演男優の心意気を聞こうではないか。さぁ、語れ、小僧。おまえはなぜ、あの女を救いたい」
ヒモナスがケビンの顔を、炎で照らす。
ケビンは寝起きの顔を引き締めて、ヒモナスを見返した。
「なぜって……ステイシーが、このままでは不幸になるからだ」
「不幸になるから? かわいそうだから? いやだね、そんな理由は」
ふん、とヒモナスが鼻を鳴らした。
「そんな理由って……僕はただ同情だけで、埃っぽい迷路を辿ってきた訳じゃない。ステイシーは助けを求めているって確信したからだ。このまま、放ってはおけないんだ……」
「ふーん。他の男に取られても放っておいたくせに、城に監禁されたら、のこのこ助けに来る訳だ。無事に城を出たステイシーはどうする? 監禁されてしくしく泣き通しの日々なのに、近くにいながら助けに来なかった、あの兵士と共にこの町を去るかもしれんぞ。おまえは骨折り損のくたびれ儲け。挙句にステイシーを逃がしたことが露見すれば、おまえは鞭打ちの刑。運が悪けりゃ腹を立てた陰湿大臣になんのかんの罪をなすりつけられ、首を切られる。おお、なんとかわいそうな若者よ。必死で助けたというのに、ステイシーの心は得られない……嫌だ嫌だ、まったく。おまえのような者をお人好しと言うんだよ。あー、嫌だ嫌だ、私は正直物が馬鹿を見るくだらん劇はまっぴらゴメンだ。だめだめ、話にならない。解散だ」
ヒモナスが炎を自分の元へ引き寄せ、しっしとケビンを追い払う仕草をした。
「待って! ケビンにはケビンの気持ちがあるでしょう。せっかくここまで来たのに、なんでそんな、酷いこと言うの?」
ルルディはヒモナスを睨み、薄闇から彼の上衣の裾を手探りで見つけ、つかんだ。冷気で追い出されないよう、しがみついてやる。
「酷いことなど言っていない。真実だ。あいつの今の状態では、悲惨な結末になるだけと忠告してやったのだよ。ルルディ、おまえは私と約束しただろう。口は出さないと。離しなさい」
ひんやりとしたヒモナスの手が、手首をつかんできた。ルルディは首を横に振る。
「嫌よ。お願い、ケビンにステイシーを助けさせてあげて」
訴えるルルディを見つめ、ヒモナスは手首をつかんでいた手を離した。
「……なんで、僕がステイシーに捨てていかれるって決め付けるんだ」
ケビンの震える声が、闇から聞こえた。
「彼女は、そんな冷たい子じゃない。もし僕と逃げてくれなくても……いいや、違う。もう、こんなことばかり言っていては……」
「主演男優から降ろすぞ」
ヒモナスが冷たく言い放つ。
「そう、降ろされる、わかったよ。厳しい監督さん、僕はあなたの舞台の主役には役不足かもしれない。だけど、代役はいない。僕がなんとしても、この役を演じきらなければならないんだ」
ヒモナスが、ケビンに炎を向けた。
力強い目で、ケビンは立っていた。
「お人好しの青年が、一方通行の恋で想い人を助けて、首を切られる。そんな茶番には、絶対にしない! 僕は信じるぞ、必ずステイシーの心を、手に入れると! 僕は彼女と、逃げる。逃亡先は考えていた……妄想で片付けない。実現してみせる!」
ケビンの声で、燭台の炎が揺れた。さらに大きく、炎は動き出す。ヒモナスが燭台を左右に揺らし、笑い声を響かせた。
「ようやく欲望をむき出しにしたな! いいぞ! つまりルルディ、こういう訳だ。彼は恋敵の兵士がへっぴり腰を良いことに、哀れな捕らわれの想い人を助けて、心を射抜く寸法だ! あの男前の兵士に容姿が劣ろうと稼ぎが少なかろうと、監禁状態から救い出してくれた男は、女にとって英雄だ! こいつはそのチャンスを見逃さなかった!」
愉快愉快、とヒモナスが笑う。
「ああ、そうだ。そうだとも! だから早く、救出劇の幕を切ってくれ!」
ケビンが声を張り上げ、扉を指差した。
彼は良い顔になった。頬を蒸気させ、大きく呼吸をしているその目は、熱くたぎっている。
「いいとも、始めよう。本音を語れぬ英雄など、私は英雄と認めぬのだ。英雄こそ欲深くあるべき。いいか、おまえは女を助け出し、その心を射止め、幸せになる。それがおまえの役だ。胸に刻め、迷わず進むのだ」
ヒモナスがケビンの肩を抱き、冷風で扉を開けた。その風に乗せられて、水の魔術書が廊下へ出される。べしゃん、と床に落ちた水の魔術書は立ち上がり、背伸びをして美青年の姿となった。
「さあ、水! みーずーだよー! 城の廊下を水びたしぃ」
水の魔術書が歌うと、みるみるうちに廊下に水が溢れ出した。警備兵が気付き、鎧を鳴らして走ってくる音が聞こえたが、途中で叫び声がして、足音は途絶えた。
廊下を流れていく水が、氷り始めている。 水の中を歩いていた警備兵は、足が凍り付いて身動きができなくなったのだ。
ルルディはぶるっと震えた。城の気温は一気に下がり、頬が痛い。
城が、凍り付いていく。




