ヒモナスの書・終
水浸しになった床が、凍り付いていく。
警備兵たちは氷の上で滑って転び、あちこちから呻き声と怒声が聞こえてくる。
「さあ、行け!」
ヒモナスの合図で、ケビンが廊下に颯爽と現れ出た。彼はスケート靴を履いており、倒れている兵士たちの間を、エッジで曲線を描きながら滑走していく。
廊下の角で、倒れた兵士が槍でケビンを阻もうとした。ケビンは氷を削って飛び上がり、兵士を乗り越えた。片足で着地したケビンは、鼻の先をこすって、ルルディに笑顔を見せる。
「くそっ! どうなってんだ!」
兵士が怒鳴り、槍を支えに立ち上がろうとする。
「あたしたちも行かないと! ヒモナス、ケビンが兵士に捕まっちゃうわ!」
「行くぞ、ルルディ」
ルルディの地面についていた足が、浮き上がった。お腹の辺りが、妙に冷たい。高くなった目線と、上から降ってくる高笑い。
ヒモナスに片腕で抱え上げられている、と気付いたルルディは血の気が引いていくのを感じた。
「ちょっと、降ろして!」
じたばたと手足を動かし、ルルディは暴れた。兵士を蹴散らしたヒモナスの冷風を、まともに吸い込んで、咳き込む。
「無様に尻餅をつきたいのか? この私が抱えてやったんだ、名誉に思え」
ばし、と額を叩かれてルルディは唸る。確かに楽なのだが、落ち着かないし嫌な予感がする。
追いかけてくる兵士たちをなぎ倒し、ついにケビンは隠し扉がある部屋へ駆け込んだ。
「絵を押すのよ、早く!」
迫ってくる足音に焦り、ルルディは叫んだ。ケビンが絵を押して扉を開いた。ヒモナスはひらりと扉が閉まる直前に、隠し部屋へ滑り込む。
「ステイシー、助けに来たよ!」
ケビンが呼びかけると、クローゼットの影から金色の髪をなびかせて、ステイシーが現れた。怯えていた瞳が、ケビンを見つけると見開かれ、そして潤む。
「ケビン……来てくれたのね」
ケビンがステイシーに駆け寄り、そっと抱きしめて頭を撫でた。ステイシーは涙に濡れた頬をケビンの肩にくっつけた。
「……怪我、してるじゃない」
ステイシーが顔を上げて、眉を寄せた。ケビンの頬に一筋の傷があり、血が流れている。
傷口をハンカチで押さえ、ステイシーは涙で濡れた瞳で、ケビンを見つめた。彼女の顔には、助けが来た安心と、戸惑いと、喜びと、様々な感情が揺らめいている。
「どうして……危険な目に遭ってまで、私を助けに来てくれたの?」
「それは……」
ケビンが目を伏せて、唇を真横に引き締めた。ハンカチを傷口から下ろさせ、ステイシーの手を握る。ケビンの目に、決意がある。
「君のことが、とても大切だから。……君のことが、好きなんだ」
ステイシーは、ケビンの手を握り返した。
「私……ずっとこの部屋で、助けを求めていたわ。こんな暮らしは嫌、逃げ出したくて……なぜか、キースじゃなくて……私、ケビンに助けを求めていたの、ずっと心の奥で」
ステイシーが、泣きじゃくる。
「わたし、わたし……子供だった……ずっと、傍に、あなたがいてくれて……助けに来てくれて。そうじゃなきゃ、気付けなくて」
大粒の涙をこぼすステイシーを、ケビンは抱きしめた。彼の細い腕も、恋人を抱きしめているときはたくましく見える。
良かった、と思うルルディの胸は、痛む。
キースの悲しげな横顔を、思い出してしまった。
べしゃり、とルルディは地面に落ちた。ヒモナスに落とされたのだ。
「ほら、泣かないでください。もう大丈夫ですよ、安心して。泣いているあなたも美しいが、ぜひ麗しい笑顔を見せて頂きたい」
ヒモナスがステイシーに近寄り、ケビンの肩を押して離れさせる。いきなり甘い声で囁いてきたヒモナスを、ステイシーは不思議そうな顔で見た。
「お初にお目にかかります。私は冷気の書、ヒモナス。ここ数日、私のせいで寒い思いをさせてしまって、申し訳ない。さあ、参りましょう」
ヒモナスがステイシーの手をとると、さっと抱き上げた。背中を支える腕の冷たさに驚いたのか、ステイシーが首をすくめた。
「ちょっと待てよ、ヒモナス! それは僕の、役目だろう!」
ケビンが怒りの声を上げる。
「そうよ、何しれっとお姫様抱っこしてるの!」
あたしは荷物みたいに抱えたくせに、とルルディは差別だと憤慨する。何が寒い思いをさせてすまない、だ。その言葉がうすら寒い。
「さぁ、颯爽と逃げるとしましょう、ステイシー。しっかりと私に捕まっていてくださいよ」
冷たい風を起こして、ヒモナスが隠し扉を開けた。薄い氷上をヒモナスが勢いよく走ると、ステイシーが小さく悲鳴を上げて彼の首に抱きつく。ヒモナスは阻む兵士たちに高笑いを浴びせて倒し、道を開けていった。
「くそ、あいつ、いいとこ取りやがって……いくよ、ルルディ。僕の背中に乗って」
ケビンはルルディを背負い、ヒモナスを追いかけた。切っていく風の冷たさに、ルルディは目を閉じる。
「正面から逃げるぞ! ついて来い!」
ヒモナスの溌剌とした声が響く。
ケビンがスピードを上げた。ルルディは彼にしがみついているのに必死だ。薄目を開けて見ると、ヒモナスは赤い毛布の引かれた廊下をカーブし、大階段へと向かっている。
ステイシーの悲鳴が聞こえた。
ヒモナスは氷の坂となった大階段を、笑いながら滑り降りている。
「ケ、ケビン! 無茶よ、怖いわ!」
「しっかり捕まってて! 他に道はなさそうだよ!」
振り返ると、二本の槍で氷を突き刺しながら、兵士たちが向かってくるのが見えた。反対側からも、兵士たちが来ている。
ルルディは強く目を閉じた。
ケビンが姿勢を低くする。前に投げ出されたらどうしよう、とルルディは震えた。
急降下で、体が浮いた。
全身がバラバラになって、遠くへ投げ出されたような感覚。
ルルディはぎゃあああ! と、悲鳴を上げた。
その声はまったく可憐ではない。
ケビンが階段の下でとまり、ルルディをそっと降ろした。ぐらぐらする頭を首で支えているのが、辛い。
「……キース、通してくれないか」
ケビンの低い声を聞いて、ルルディははっとした。
キースが仁王立ちで、門を守っている。月明かりで伸びた彼の長い影は、ステイシーに触れていた。
キースは剣を握っている。表情は見えない。
「通してくれ」
ケビンがキースに近付き、もう一度言った。
剣が、振り上げられた。
鋭い銀の切っ先が、満月を刺す。
ケビンは、キースを見つめていた。
剣先は下を向いた。
「……行け」
キースが言った。ケビンはステイシーの肩を抱き、門を出る。
ルルディとヒモナスも続いた。
キースの横顔をルルディは見た。凍てついている。
「……待ってくれ、最後に。ステイシー、別れの言葉をくれないか。われながら女々しいと思うが……」
キースの呼びかけに、ステイシーは立ち止まる。だが、振り返らなかった。うつむいたステイシーは胸に手を当てて、考えている。長い別れの言葉が、横顔から読み取れた。
「さようなら、キース」
ステイシーは一言だけ言い、歩き出した。
「さようなら、ステイシー……」
キースが歩き出す。彼の別れの言葉は、ルルディの耳の奥に残った。
月光が、川で泳いでいる。風のない、穏やかに晴れた夏の夜だ。
恋人同士が逃げるのに、最適な夜だ。
「ありがとうございました」
ステイシーが深々と頭を下げた。
「本当にありがとう、ルルディ。ヒモナス。無事にステイシーを助けられて良かった。これから、不安もあるけど、乗り越えていくよ」
「うん、よかった。元気でね」
ルルディはケビンと握手を交わした。
ヒモナスはケビンに握手を求められ、そっぽを向く。
「あいにく、男の手は握らない趣味だ」
「そう言わずに、ほら」
しつこく握手を求められ、ヒモナスはしぶしぶ、ケビンの手を軽く握る。
「ルルディちゃん、本当にありがとう」
ステイシーに抱きしめられ、ルルディは寂しさの涙を少し、流した。
「ステイシーさん、元気でね。幸せになって」
「うん。また会える日を夢見ているわ。ヒモナスさん……お力を貸してくださって、ありがとう」
ステイシーが微笑むと、ヒモナスも笑顔になった。
「さあ、さっさと船に乗って逃げろ。一年後、戻って来い。その頃には国も変わっている」
ヒモナスが出発を促した。
「僕たちはこの国に、帰ってくるよ」
小船に乗って逃避行の出発をした二人に、ルルディは手を振った。また、会えるように願って。
「ヒモナス、満足した?」
「まぁまぁだな」
「ねぇ、監督。本当はあなた、人助けがしたかったんでしょう?」
くすくすと笑いながら、ルルディは言った。
「馬鹿言うな。私は美女に抱きつかれたかっただけだ」
そっけない態度を、ルルディは照れ隠しだと思う。彼を知っていく内に分かったが、冷気の魔術書のくせに熱い心を持っているらしい。
ケビンを奮い立たせる言葉に、熱があった。
ルルディは夜道を歩きながら、城を見る。
これでよかった。これで、良かったのかしら。
「あ! どうしよう、水の魔術書を城に置いてきちゃった!」
ルルディは慌てて、道を引き返そうとするが、城内の騒ぎを想像して二の足を踏む。
「心配いらん。それより疲れた。さっさと帰るぞ」
首根っこヒモナスに引っ張られる。ルルディも、疲れていた。水の魔術書には申し訳ないが、ひとまず退散だ。
脱出劇の翌朝。魔術書開店時刻と同時に、ウイバルがやってきた。
寝ぼけ眼のルルディの目が覚めるぐらい、彼は別人のようだった。
「この度、私は宮廷魔術師の任務を解かれました。追放です、もうお城に一歩も入れないのです。大臣からは、二度と顔を見たくないといわれました」
にこにこと笑い、ウイバルが言う。
「というのも、すべてヒモナスのせいです。彼の起こした騒動で、大臣が選んだ大事な王の花嫁候補が逃げてしまいまして、その責任を問われたのです」
ウイバルの笑顔が、さらに輝く。
「いやーっ! 本当に嬉しいことであります! かわいそうな女の子は逃げられて、私もこれで魔術研究に没頭できます! ヒモナスは素晴らしい魔術書です!」
「ほうほう、それは良かったですなあ」
ウイバルの絶賛を聞き、ガラマお爺さんが笑った。ルルディも笑う。ウイバルが幸せになったようで、何よりだ。
「それでは、またお目にかかります」
ウイバルが胸を張って大通りを歩いていく姿を窓から見送っていると、また扉が開いた。
「いらっしゃいませ!」
来店してきたのは、二人連れの若い男だ。
一人は丸眼鏡をかけていて猫背、もう一人は長身の男だ。
背の高い方の男を見て、ルルディはふと胸を突かれる。顔の左側を、長く伸ばした黒髪で隠している、整った顔立ちの男。見たことがない。だけど、とても懐かしいような気がした。
「おはようございます、ガラマお爺さん。ヒモナス、また返品されたんですって?」
丸眼鏡の方が、浮かれた声で言った。
「そうだとも。ほら、ヒモナス。おまえの作者がきたぞ」
ガラマお爺さんが、書庫の扉を開けて呼びかけた。
この人が作者なの、とルルディは丸眼鏡の男を見た。目が合うと、にっこりと笑いかけられた。
「ああ、この子がルルディだね。うんうん、想像通りの子だ。僕はレジス・カンドリアンという魔術書作家だ」
レジス。リュカのお師匠さんで、売れっ子の魔術作家だ。ルルディの想像と違う。もっと貫禄のある、気難しそうな年配の男だと思っていたのだ。
驚きを隠し、初めまして、と挨拶をする。
「で、こっちのムスッとしたのは、僕の友人で魔術師のアグノス」
黒髪の青年、アグノスは無言で、ルルディに軽く会釈をした。ルルディも会釈を返す。
「やれやれ、相変わらずむさ苦しい二人連れだ。何をしに来たんだ、ゆっくり寝てたのに」
冷たい風と共にヒモナスが現れ、ぼやいた。
「そんな言い草ないだろう。また返品されたと聞いて、様子を見にきたんだ。ほら、アグノスも心配して、一緒に来てくれたんだよ」
レジスがぼやく。アグノスは頷いた。
「ふん、男二人に心配されても、なーんにも嬉しくない。私は寝るぞ。本に戻る、ルルディ、私を棚に戻してくれ」
大きなあくびをすると、ヒモナスは本の姿に戻ってしまった。床に落ちかけたヒモナスの書を、ルルディは受け止めた。
「どうやら、ヒモナスは楽しんできたみたいだね」
レジスがルルディの傍にきて、ヒモナスの書を受け取った。彼がヒモナスの書の表紙をなでると、書名の刺繍が、光を帯びて輝いた。城に持っていく前と比べると、くたびれてしまった本が、著者の手で修復されていく。
「そうだ、アグノス。どうせ暇なんだ、たまにはエンスティクトの役に立とうじゃないか。ルルディ、書
庫の整理を手伝うよ」
レジスが明るく話しかけてきた。アグノスは深く頷き、先に書庫へ入っていった。
ガラマお爺さんを見ると、微笑んで頷く。
「それでは、お願いします」
ルルディも書庫に入った。
寝不足で疲れているから、新書の棚入れを手伝ってもらうと助かる。
二人の助っ人を、エルピタは喜んだ。魔術書を鑑定し、収納場所を告げる声も高らかだ。
人気魔術書作家レジスと、出で立ちから重々しい魔術師の匂いがするアグノス。協力して新書を手際よく片付ける様子から、仲の良さが分かった。
仕事は早く終わった。
ガラマお爺さんは用事があると言って外出したので、エンスティクトのドアには本日閉店の看板を出した。
ルルディは昼食に卵サンドイッチを作り、二人に振舞った。
「うん、美味しいよ。ルルディは料理も上手だねぇ」
もごもごと口を動かしながら、レジスが言った。ガラマお爺さんがいつも座っている小さな木の椅子に座って、サンドイッチを頬張っているレジスは、とても大作家に見えず、ルルディは笑ってしまう。
「いいえ、まだまだです」
アグノスは窮屈そうに椅子に腰掛け、両手でサンドイッチを持って食べている。その姿もまた、ルルデ
ィの腹をくすぐった。
そういえば、まだアグノスの声を聞いていない。
「ところでルルディ、さっきから様子を見ていると、少し疲れているみたいだけど、大丈夫かい?」
レジスに問われ、ルルディはどきりとした。
「え、えぇ。大丈夫ですよ。少し、寝不足で」
ルルディは誤魔化して笑う。
「それはヒモナスのせいだね。ガラマお爺さんには黙っているから、昨晩、城で何があったか話してくれるかい? たとえ隠しても、作者である僕ならヒモナスから聞き出せてしまうよ」
レジスはさきほどまでのように、へらへらと笑っていなかった。有無を言わさず口を割らそうとする態度に、やっぱりこの人も大人の男性だ、とルルディは思う。
「……わかりました。ガラマお爺さんにも話そうと思っていたんですが……その、隠していたのは、けっして悪いことをしたからではないんです」
ルルディはそう前置きして、すべてを話した。
レジスが腕を組み、うーん、と唸る。
「自分が書いた本ながら、なんと性格が悪いんだろう、ヒモナスは……ケビン君とやらのいい所を横取りとは」
レジスは呆れてしまった。
「でしょう! しかもわざと、危険な逃避経路を選んだりして……スケベで嫌味な奴です、ほんと!」
「僕もそう思う。今度、お説教してやらないと! なあ、アグノス、君からも言ってやってくれよ! 君の堅物の力を分け与えてやってよ!」
レジスの熱弁に、アグノスはゆっくりと頷く。どうやって堅物の力をヒモナスにあげるのかしら、とルルディは気にする。
「……ルルディ、話を聞いていて、思ったんだが……」
アグノスが喋った。ルルディは彼をじろじろと見てしまう。
「は、はい! なんでしょう?」
「君はこの件で、ヒモナスの態度の他に、納得していない所があるのでは?」
アグノスに問われ、ルルディは考える。
納得、というより心残りなことがある。
「……キースさんは……ステイシーさんを助けたかったのかもって、あたし思うんです。キースさんとお話ししたことはないんですけど、とても、悲しそうな横顔をしていて」
ルルディはカップの縁を、指でなぞる。
今頃、キースはどんな想いで、城門を守っているのだろう。
「兵士は、恋人を取られてしまった」
アグノスの言葉に、ルルディは頷いた。
「キースさんだけ、悲しい想いで……笑顔になれなかった。ケビンもステイシーも、ウイバルさんも笑顔になったのに……」
多くを語らず、さようなら、と一言だけ残したステイシーと、受け入れたキース。恋人同士だった二人の絆が、儚く消え去るのを見てしまった。
ルルディは、二人が恋人同士だった時のことを知らないけれど、ショックだった。
ステイシーは、兄のように慕っていたケビンへの恋心に、幽閉されて気付いた。
ステイシーの、キースへの恋心は未熟だった。やわくて、すぐに溶けてしまった。
だけど、キースの想いはどうだった?
「君は優しいね。だけど、人の心はどうにもできない……あっさりと引き下がったキースはえらいよ彼は、ステイシーと想い合うのはケビンが相応しいと、本当に彼女を想って行動できた。ステイシーもそのことは、忘れないだろう。失恋は痛いけど、いつか癒される日がくる……心配しないで」
レジスが慰めてくれた。
「ですよね。キースさんは、きっと立ち直ってくれる」
ルルディは自分にそう、言い聞かせた。
大丈夫、とレジスが優しく声をかけてくれる。
「ルルディは、笑顔にこだわるんだな」
アグノスが言った。彼の声は、じんわりとルルディの中で広がった。彼はすこしだけ、薄い唇の端を、持ち上げる。
笑顔にこだわる。
そう、だった。
自分の存在理由を支える、柱をもらった。
ルルディはアグノスの言葉に、笑顔で応えた。
第一話 ヒモナスの書 完結
次回・第二話 ラクーニャの書




