第三章
3
その日は朝から慌ただしかった。
相変わらずたつ子さんは私に「殺してください」と囁き続けるし、教員免許の取得のために介護のかの字も知らない大学生を世話しなきゃいけなかったし、風邪をひいたはな江さんの食事を軟飯からお粥に変えなきゃいけないのに厨房への指示ができてなかった。おまけに外泊から戻るはずだった与次郎さんがいつまで経っても戻ってこないから家族に電話したら、階段で転んでそのまま入院することになったと言われた。だったら入院するって決まった直後にこっちに連絡して来いよ!と言いたかったが、家族も気が動転していたんだろうと思うことにした。あっけらかんとした声でかけてきたことなんて忘れよう。ムカツクから。
自動ドアが開く音がした。
「おばあちゃんはどこですか!?」
駆け込んできた女性は不安そうな顔をしていた。ここに入居しているよし子さんの娘さんだ。といってもすでに還暦過ぎたおばあちゃんだが。それと娘さんの娘さんとそのご主人、さらにその娘さんまで……。家族総出でいらっしゃったようだ。
「こちらです」
落ちつこう。
そう思っても切れる息と激しい動悸は抑えることができなかった。
長いことこの仕事をやってきたけれど、呼吸の止まった利用者さんと救急車に乗ったことなんてなかった。一応救命救急の免許は持っているけれども、とっさになんてできない。……というか、できなかった。
ベッドの上では既に呼吸をしていないよし子さんが紙のような白い顔をして横たわっていた。ついさっきまで気持ちよさそうに眠っていたのに、おむつ交換に来たら、これだ。すぐに常駐医師である原田先生を呼んで処置をしたが、心肺の蘇生は叶わなかった。救急車も呼んで、私が発見したのだからと救急車に乗せられて、今こうして病院で家族との対応をしている。
私は緊急外来から個室に移されたよし子さんの元へご家族を連れて行った。部屋の中には病院の医師と看護師、後から駆けつけた「群青の空」の事務長と主任ヘルパーがいた。
「午後三時二分、ご臨終です」
医師に合わせて、神妙な面持ちで私は頭を下げた。よし子さんのお孫さんがぽろりと涙を零した。まだ若い、綺麗な女性だ。彼女は余程よし子さんに可愛がられたのか、次から次へと涙が溢れ、とうとう大声を上げて泣き出してしまった。彼女の旦那さんだろうか、背の高い男性が泣き崩れる彼女の肩を抱いた。泣きたいのはこっちも同じよ。結局私達は老人達の中で働いているの。そこの人たちは入ったら最後、よし子さんのようにここで死ぬ人ばかりだ。中には病気になって病院へ行く人もいるけれども、こうやって老衰していく人もいる。
「鈴原よし子さん、九十七歳でした。ご愁傷様です」
「ご愁傷様です」
「ありがとうございました。母も大往生できたのも、皆さんのおかげです」
ありきたりの挨拶の中にも確かに真実はある。誰もが認める大往生。よし子さんは幸せだったと人は言う。それが本当かどうかは、私達が決められるような事じゃない。伸びすぎた前髪は黒く私の視界を遮る。頭を振って払い除けると、小さな女の子と目があった。幼稚園の帰りのまま飛んできたのだろう。水色のスモックに赤いチューリップの名札がついている。横にいた主任と目配せし、私はその子に話しかけることにした。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「……みく」
「みくちゃん」
テディベアを抱いた幼女に私は穏やかに笑った。穏やか。この私が。ホント、悪い冗談。
「おにいちゃんのおなまえは?」
おにいちゃん。
……おにいちゃん…………。
「おねえちゃんは水埜ユキっていうお名前だよ」
頭ごなしに否定はしない。けれども訂正はしておく。ここが臨終の場じゃなかったら職員一同大爆笑の瞬間だった。いくら私の胸が平坦で、背も高くて、顔立ちも男っぽいとはいえその間違え方はない。最近出てくるイケメン俳優を見てミサキさんが「マジそっくり!」と缶ビール片手に笑い転げたのも事実。けれどせめてこどもの純真な目だけは私の染色体がXXであることを見抜いてほしかった。
「ユキちゃん……?」
何を怪訝そうに首を傾げることがあるか。私はユキちゃんですよ。ええ、ユキちゃんです。これでも女の子なんです。ごめんね。でもこれ以上その話は引っ張りたくない。私は強引に話を進めた。
「そう、ユキちゃんでいいよ。みくちゃん、ママ達これから大事なお話があるから、ちょっと向こうで遊んでよっか」
「うん」
大抵の幼児のいいところは深く考えることをしないことだ。考えようとしても「なんだかよく分からない」で終わる。みくちゃんも御多分に洩れずそういう子のようだ。
悲嘆よりもこれからの雑務の心配をしている大人達を置いて、私達は同じフロアにある共同スペースに行く。面会の人やこういう人のためにあるくつろぎスペースのようなものだ。私はウォーターサーバーから水を注いでみくちゃんに渡した。小さな両手で紙コップを持って、みくちゃんはこくりと水を飲む。
(困ったな……)
これから大人達は生々しい話をする。「群青の空」にある荷物をどうするか、看取り料金はいくらか、葬儀はどうするのか、エトセトラ。そんなところにこの子を置いておけないと思って連れ出したはいいけれど、正直何をしていいのかさっぱり分からない。子供の扱いは決して不慣れではないけれど、状況が状況だ。今し方ひいばあちゃんが死んだ子を、どうやって扱えばいいのか、私には皆目見当もつかない。
「おおばあちゃん、しんじゃったの?」
「え……」
舌っ足らずな、小さな声に動揺した。
「みく、しってるよ。ママもちいばあちゃんもゆってたもん。おおばあちゃん、もうすぐしんじゃうよって」
みくちゃんは紙コップの縁を噛んだ。まだ抜けていない、乳歯だ。小さな四角い歯はかし、かし、と音を立てて紙コップを噛む。
「しんじゃうって、いたいのかなぁ」
「……みくちゃん」
「いたかったら、みく、やだなぁ」
大きな目に涙が溢れ出す。ひぃぃぃ、と声を上げて唇が下に下がる。幼い泣き方。どんな顔をして泣いているかなんて気にも留めずに涙を流す。綺麗に編み込まれた三つ編みの頭を撫で、私はみくちゃんをぎゅっと抱き締めた。
「みくちゃん、おおばあちゃんは痛くなかったよ」
「ほんとぉ……?」
しゃくり上げるみくちゃんの顔は涙というより鼻水と涎でぐちょぐちょだった。持っていたハンカチで顔を拭いてやり、私は続けた。
「おおばあちゃん、眠ってる時に死んじゃったもん。きっと夢でも見ながら死んじゃったんだよ。みくちゃんも、ねんねしてる時は痛いとかないでしょ?」
みくちゃんは小さく頷いた。まだ残っている涙の跡を親指で掬ってやる。ああ、こういう仕種をするから男に間違われるんだろうか……。ミサキさんが見てたら抱腹絶倒だ。
「おおばあちゃん、いなくなっちゃって寂しい?」
うん。蚊の鳴くような声。
「じゃあいっぱい泣いてあげよう。いっぱいいっぱい泣いて、寂しがって、その後にいつものみくちゃんに戻ろう」
「ないていいのぉ?」
良いも何ももう泣いてるじゃない。なんて意地悪は言わない。こういうことを言う子には慣れてる。
「悲しい時は泣かなきゃ。じゃないとみくちゃんが笑えないよ」
みくちゃんはうー、と唸りながら私に抱きついた。あんあんと声を上げることもなく、うぅぅ、ひっく、えうぅぅ。小さく泣き続けた。
泣きたい時には泣けばいい。
私が昔、言われた言葉。それを私が誰かに言うなんて、年を取ったもんだ。私もこのみくちゃんのように声を抑えて泣いたことがあった。
一体どれくらいの時間、みくちゃんは泣いていたのだろう。少し落ちついて、みくちゃんは私から離れた。仕事着のTシャツはみくちゃんの涙と鼻水でところどころ変色している。私はハンカチで鼻をかんでやり、仕上げにもう一度涙を拭ってやった。
「……そろそろママ達の所、行く?」
葬儀屋との話もすんだ頃だろう。ぐしぐしと手の甲で涙を拭い、みくちゃんは頷いた。「すみません。鈴原よし子の身内のものですが……」
「おばちゃん!」
不安そうな面持ちの女性にみくちゃんは駆け寄っていった。私は中腰の姿勢からお辞儀をした。
「あ、私は群青の空で介護士をしています水埜ユキと申し……」
顔を上げて言葉を失った。
「…………アンタ、ユキちゃんかい?」
「……………………松永さん」
みくちゃんを抱き上げた女性の後ろにいた人。よれよれのYシャツにだらしなくぶら下がっている紺のネクタイ、しわの入った黒のスラックス。なんて皮肉なんだろう。あの日と同じ格好で、松永さんは私の目の前に立っている。
「あなた、お知り合い?」
「あ、ああ。昔……」
「昔、松永さんにお世話になったんです。……ああ、この度はご愁傷様です」
とってつけたような据わりの悪い文句を唱えて一礼。つられて二人も頭を下げた。
「うちのかみさんの母ちゃんでな。そんで長野から車とばして来たんだよ」
ウォーターサーバーの水を一気に呷った。余程焦ってきたのだろう、冷えた水を松永さんは駆けつけ三杯飲み干した。
奥さんはみくちゃんを連れてよし子さんの遺体が安置されている霊安室に向かった。もう個室から移されたらしい。病院もいつまでもベッドを死人に使わせておく程暇ではないということだろう。冷たいなぁ。
「あれからずっと気になっていた」
四杯目をつぎながら松永さんは言った。
「マリア慈童苑を出たっきり、その後が分からなかったから。まさかこんなとこで会うとはねぇ」
思ってもなかったよ。溜息混じりに松永さんがこぼした。それはこっちの台詞だ。
「……長野を出たかったんです」
「だろうなぁ。長野も広いようで狭いからなぁ。特に、松本なんて……なぁ?」
何が「なぁ?」なのかは分からないけれども、私は長野を出たかった。そしてもう長野に戻るつもりはない。
「介護士、やってるんだな」
「はい」
私も水を一口飲む。紙コップはすでに汗をかいて、中身もぬるくなっていた。
「……ちゃんと、食ってるか?」
「結構上手いんですよ、私の料理」
一人で生きていけるよう、施設にいた時から訓練してきたのだから。
「いい人はいるんか?」
「ええ。ドーセーですけど」
「そうか……同棲中か」
この言い方は便利だ。音が同じだから「同性」と言っても相手は「同棲」だと思ってくれる。ミサキさんが教えてくれた言い回しは意外といろんなところで効力を発揮していた。あながち間違ってもないし。
「なんでもいい。アンタが一人じゃないなら俺は安心だ」
しみじみと言われ、私はきまりが悪くなった。何となく嘘をついているような気になる。
でも私は顔を下げない。松永さんの顔をじっと見つめ、静かに笑った。この人を心配させたくはない。
「松永さんは、今も警察で?」
「ああ。もう年も年だからな。警察学校の指導教官だよ」
「松永さんが先生? はは、似合わない」
「おうおう、言ってくれるじゃねぇかよ。これでも評判の先生様だぜ?」
「厳しいことで?」
「は、そうかもな」
Yシャツの胸ポケットをさぐり、煙草の箱を取りだした。
「禁煙ですよ」
「……だよなぁ」
ラークの箱を名残惜しそうにポケットに戻し、軽く舌打ちをした。
「なぁ、ユキちゃん」
松永さんは軽く目を伏せたが、すぐに真っ直ぐ私を見た。何年経っても衰えない、刑事の目をしている。鈍い光を放つ、刑事の目だ。鋭い眼光にも関わらず、私はかすかに安堵感を覚えた。
「一人で生きるんじゃねぇぞ。アンタはもうちっちゃい女の子じゃないんだから」
「ええ」
――ああ、私は心配されているんだ。
面映ゆいような、こそばゆいような、妙な感覚だ。はらわたが無重力になったような心地がする。それだけ言うと、松永さんは霊安室へと向かった。私もこれから「群青の空」に戻って後始末をしなければいけない。早く済ませて、定時に帰る。今日はそんな気分だ。
疲れた。
亡くなったよし子さんの荷物はさほどなかった。小さなチェストの中の着替えはボストンバッグ一つに収まってしまった。後はフランス土産のクッキーの缶になぜか色とりどりのモールが入っていたくらいだ。これを遺族に引き渡して、ベッドを綺麗にして、部屋を掃除して、私の仕事は終了。よし子さんのいた部屋は次の人を迎える部屋になった。よし子さんのものは、吐息の一つも残っていない。それでもなぜかこの部屋は落ち着きが悪い。次にこの部屋に入る人はきっと、ありもしないよし子さんの息遣いを感じながら借りてきたネコのように数ヶ月過ごすのだろう。喉の奥に何かが詰まったような感じがする。それをぐっと飲み込んで、私は「群青の空」を出た。
相変わらずチェリーピンクのラパンを走らせて帰途につく。今日はラジオを垂れ流しながら、狭い道から広い道へと走り抜けた。流行のJPOPは薄っぺらな和音と軽薄な歌詞を散布している。人畜無害な顔をして毒を振りまくメロディ。嫌いだ。赤信号に何度も捕まるのはきっとこれのせいだ。適当にチャンネルを変えると、クラシックが流れてきた。私はクラシックに詳しいわけではないが、何となく知っているメロディラインに少しだけほっとする。信号も心なしかスムーズになった。ラジオは心地の良いヴァイオリンのソロを流していた。なんていう曲だろう。ミサキさんなら知っているかな。あ、でもミサキさんもクラシック聞かないからなぁ。あの人の部屋、マイケル・ジャクソンのポスター貼ってあるし。
ハンドルを回しながら、私の意識はなぜか長野に飛んでいた。狭い部屋、暑い日差し、蝉の声。汗を吸った畳の匂い、途切れる息、眩む景色。くらりと頭が揺れる。軽い熱中症だろうか。慎重に車を止め、マンションの階段を登る。こんな時にエレベーターなんかに乗ったら中で倒れかねない。ふらつく足取りで四階まで上り、鍵を開ける。ドアを開けた瞬間むっとした空気が直撃した。ああ、でももう無理。朦朧とする意識の中、律儀にも靴を脱いでから私は廊下に倒れた。