第二章
2
「ねぇ、許して」
へたくそ。
「お願い…………許して……」
へたくそへたくそ。ドへたくそ。
「ゆるして……」
「やめろやめろやめろぉっ!」
凄まじい怒声と飛翔するツバでへたくその演技は止められた。監督もよく我慢した方だと思う。
「馬鹿かお前は! 何遍同じことを俺に言わせるんだ!? 心情が読めてねぇんだよ! 心情が! もっぺん本読み直してこい!馬鹿!」
「……すみませんでした」
こんなへたくそが出ている映画……。はっきり言って観る気がしない。今にも泣きそうな顔をして潮江さらは俯いた。
「三十分休憩だ!」
不機嫌を隠そうとしない巨匠・鴻上彌一は盛大な舌打ちをして助監督とどこかへ行った。扉が乱暴に閉められると、ふぅぅぅぅ。スタッフの大きな溜息が漏れた。
「参っちゃうよねぇ、ホント」
ぼそりと先輩が呟いた。俳優陣は台本を読み直したりお茶を飲んだり、監督に怒鳴り散らされたさらを気遣ったり。スタッフもそれぞれの仕事をこなしていく。休憩とは名ばかりの雑務時間であり暇つぶしだ。
「笙子さん、お願いしまーす」
「あ、はーい。ミサキちゃん、手伝って」
「了解」
私達は休憩用の折りたたみ椅子に座っている女優の元へと急いで行く。明らかに困り顔で、不機嫌そうに鏡を見ている。ベテラン女優の西園寺倫子は目の横にできたカラスの足跡を憎らしげに指でなぞった。
「本当に困るわぁ。ただでさえ押してる撮影が……。今日は何時に帰れるのかしら。ねぇ、あなたたちも大変ねぇ」
ちらりと嫌味な視線を未だセットに立ちつくす潮江さらに送る。辟易するわ、そういうの。返答に困る同意を求められ、笙子先輩と私は苦笑いするが、左の頬が引きつるので途中でやめた。大正浪漫風に結われた髪をセットし直し、時間と共に崩れたマスクのような厚化粧を直していく。どろんと澱んだ瞳にちかりと燐のような火が見える。汚い世界を泳いできた魚の目だ。どんな汚泥で生きてきても、鱗の煌びやかさを失おうとしない誇り高き魚の目だ。私はその瞳に囚われないように目を伏せながら彼女の髪を直していく。
役者達の瞳は個性的。西園寺倫子のような二律背反を抱えた人もいれば、暖かな光に暗い影を包み込んでしまった人もいる。常に何かに怯えている人、虚栄心を隠そうとしない人、眼前の栄光に眩んでいる人。サロンの鏡に映る一般人にも見えるけれども、やはり役者達は違う。生きている世界があまりにも眩しすぎるからだろう。だから影も濃く見える。そのコントラストが私の目には、痛い。
「ねぇ、笙子ちゃん。あの子のこと、どう思う?」
「ええ? そういうの、私に聞かないでくださいよぉ」
苦笑いは最高の常套句になる。
「あなたは? ええ、と……新入りさんかしら? お名前は?」
「三枝です。臨時で入ってます」
「そう。三枝さんね。あなた、どう思う? 潮江さら」
彼女の期待している答えは分かっている。その答えはおおむね私の本音に近い。ああ、笙子先輩が目配せしている。厳しい顔だ。私は大人。大人の答えをするのがベターよ。
「超、へたくそですね」
……すみません、先輩。私、無理です。
「台本を読むって事が分かってないんですよ。ただ台詞覚えりゃいいってもんでもないのに……。大体今のシーンだってあかりは本気で許しを乞うているわけじゃなくて、本気のフリをしているだけ。台本は核心部分まで渡っているはずなのにそれを具現化できないなんて、女優としての基礎が足りないんですよ。地力の問題。潮江さんはあかりよりも女優として劣っているんです。完全に…………あ」
……やってしまった。
先輩が青ざめているし西園寺倫子の口が鯉のように開いている。鬢付け油の匂いがしんと張り詰めたこの一角だけに漂っていて妙に気まずい。
「……あ、あなた、素人じゃないの?」
「え、とあの……」
「あああああ! 三枝ちゃんはね! 昔ね! ちいっちゃな劇団にいたんだよね! だからちょっと芝居には五月蠅くって……ね!」
「え、ああ、はい。そんなところです」
「……そうなの? そう……ならいいんだけどね。うん、あなた、全くその通りよ。私もそう思っていたの。それが聞きたかったのよ」
嘘。本当はそこまで求めてなかったはず。私の方がちょっと辛辣だっただろう。彼女が求めていたソフトな同意ではなくて申し訳ない。けれども私には許せない。空腹の腹立ち紛れに言い過ぎた感はあるけれども、さらを許せないことに変わりはない。
セットを直し終えた倫子に礼をし、私達は壁際に戻った。
「……言い過ぎよ、ミサキちゃん」
「すんません」
心にもない謝罪の文句は笙子先輩に溜息をつかせた。
「そりゃ急にアンタをヘルプに呼んだのは私よ? お腹も空いたし足も痛い。イライラするよね。でもあの態度はないよ」
私はただ口を尖らせて俯いているだけ。ちょうどあの潮江さらと同じ格好だ。だけど一緒にしないで。マネージャーに慰められてもぶーたれてるアンタと私は違うんだから。
「とにかく。日本髪が上手なの、ミサキちゃんだけだからさぁ、何とか頑張ってみてくれる?」
「分かってますよぉ」
本当は今頃名古屋のサロンで閉店の準備をしている時間なのに……。それもこれも笙子先輩とコンビを組んでやっていたスタイリストが不在のせいだ。何でも郷里の秋田に住んでいるお祖母さんが急逝したそうで、どうにも初七日までは秋田にいなければならないらしい。おかげでとんだとばっちりだ。せっかくのオフはパア、予定もおじゃん。
「ちっくしょー……せっかくユキちゃんときゃっきゃうふふでラブラブちゅっちゅな一日を過ごすはずだったのに……」
「心の声がだだもれ!」
鋭いチョップが飛んできた。巧みに方言を隠しているが笙子先輩は生粋の浪花っ子だ。ツッコミのレベルが半端ない。あと痛い。
「私を恋人の元へ返して下さい……。宝塚の男役みたいに美しくかつかっちょいい恋人の元へぇぇぇ……」
「何それ、自慢? 恋人のいない私に自慢してるの?」
容赦なく引っ張られる頬につけ爪も刺さって痛すぎる。絶対血が出てる。嘘、出てないけど出るくらい痛い。
「ねぇ……まだ治らないの?」
染料で荒れた手が優しく私の頬を撫でた。左の頬。
「表向きは治ってますよ」
「表向きね」
見た目には分からないものが私の左にはある。左頬の奥に潜む不吉なしこりと痺れ。笙子先輩のかさついた手が撫でる場所に根を張っている。
「ね、ミサキちゃん。本当はこの仕事、引き受けたくなかったんじゃない?」
「ええ? 頼んだ本人がそれ言いますか?」
「だって……」
「それはもう言わないで下さいよ。私、こういう形でも映画に関わっているってだけで幸せですよ」
嘘じゃない。けれども本音でもない。曖昧な心を作り笑いの下に押し込めて、私は背を向けた。
「どこ行くの?」
「やだなぁ、お花摘みですよぉ」
後ろ手で扉を閉め、ふ、溜息をついた。廊下はスタジオと違ってひやりとした冷房の風を強く感じる。役者の喉やら体やらを気遣って控えめにしていたのだろう。地底のそこから湧き上がったような溜息をもう一発ついてトイレに向かう。
撮影所のトイレが無駄に綺麗になっている。和式トイレが全部洋式ウォシュレットになっているし、白い金属の三角コーナーが手をかざすだけで開くサニタリーボックスに替わっている。時代だな、時代。手洗い場もノスタルジックなカランではなくやはり手をかざすタイプになっている。一分の隙もなく磨かれた鏡に映った自分の顔を見る。
「……太ったな」
この場合は「太った」というより「健全」になったということだろう。昔は痩せすぎていた。変な体の鍛え方をしていたし、所謂「憧れ」を体現していた。今はつくところにはついているし、引っ込んでいるところはそれなりに引っ込んでいる。健康的な体だ。幾分か顔も丸くなった。
そっと左頬を指でなぞった。
「これでも良くなった方よ」
憎らしくて鏡に水をかけた。これでしばらくすれば水垢がつく。それを見てあばたと間違え、年増女優共。
手を適当に乾かしてトイレを出た。あと十分くらいで撮影が再開されるだろう。そうなればこっちも緊張の時間が始まる。下手すれば私達にも矛先が向くのだから。胸まで垂れ下がる茶色い髪を指先で弄びながらスタジオに向かった。
「おう」
「あ……お疲れ様です」
声をかけてきたのは鴻上監督だった。助監督を顎であしらい、監督は私と向き合った。
「難儀なもんだな」
「何がですか?」
「分かってるんだろうが、馬鹿が」
帽子を取って監督は白髪頭をがりがりかき混ぜた。深く刻まれた皺が不機嫌にひくつく。
「スポンサー殿の血縁だそうでよ、俺もほとほと参ってんだよ」
度の強い老眼鏡を上げ、目の間をぐりぐりとつまむ。老人の嗄れた声がどこか懐かしい。
「グラビア上がりのアイドル歌手が華麗に女優転向って出世劇を演じたいのか何なのか知らんがねぇ……どうしたもんかねぇ」
無骨な指が溜息をつく唇に触れた。
「煙草、やめたんですか?」
「ああ、笑えるだろ? 今も癖でよぉ、こうやって咥えてる気になっちまって指が灰を落とそうとしやがる」
長年のヤニと苦労が染みついた指は虚しく空を挟んだだけ。相当のヘビースモーカーだったのに。
「解せねぇって面ぁしやがって」
「解せませんよ。何年ぶりですか、私達」
「知るかよ」
「十年ぶりです」
「……もうそんなになるか。そりゃ俺だっておじいちゃんになるわけだよ」
「ぇえ? 監督、おじいちゃんになったんですか?」
「おうよ。見るか?」
ごそごそとジーパンのズボンを漁り、携帯電話を出した。器用に両手で操作して一枚の写メを見せてきた。中日ドラゴンズのタオルを首に巻いた監督と三才くらいの男の子が写っている。今監督がかぶっている帽子と同じ、ドラゴンズの帽子だ。大きすぎて顔が隠れそうだが、ギリギリのところで傾いている。
「可愛い子ですね」
耳が監督そっくりだ。他のどのパーツも二人を結びつけていないのに、耳だけがそっくり同じ。耳たぶが長く、なぜか少し上が尖り気味の耳。成長と共に徐々に自分のものになっていく目や鼻と違って耳だけは生まれた時から余程のことがない限り変わらない。
「いい子だよ。娘と一緒に名古屋にいるんだ。これはナイター観に行った時んだな」
「ああ、だから禁煙ですか」
「ご明察。さすがだな」
「いえいえ」
照れたように笑う監督。私はこんな監督を見たことがない。
十年という年月は確かに私達の間にあったつながりとか、共有してきた時間とか、そういった抽象的だけれども生きていくために縋らざるを得ないよすがのようなものを確実に希釈してしまう。時間なんてそんなもの。癒えていく傷もあれば深まる傷もある。深くなる思いもあれば色あせていく思いもある。ひりつくような痛みを感じながら、私は作り笑いをする。大丈夫。これだけは得意なんだから。
「世界の鴻上も孫の前じゃあ形無しさ」
やに下がる老人は映画監督として名を馳せた人物とは程遠い。縁側と緑茶と碁盤の似合う好々爺。
「お、もう時間か」
むん、と背伸びをして首を鳴らす。ごがり、と嫌な音がするがお構いなしで回し続ける。
「よぉ、ミサキよぉ」
「はい?」
「お前、アイツどうにかする気ねぇか?」
「……どうにかって?」
「どうにかは、どうにかだよ」
「曖昧ですね」
はは、と鼻で笑い飛ばす。「阿呆」と辛辣な一言と共に頭をかるく叩かれた。
「俺はよぉ、ミサキよぉ、まだお前に未練があるんだよ」
かけ直した眼鏡の奥で目が光る。映画監督・鴻上彌一の目だ。信念と情熱を絶やすことなく燃やし続けている男の目が私の胸を射貫く。
「才能と努力の女優・美崎まほろに、俺は未練たらったらなんだよ」
美崎まほろ。
私のかつての名前。
今でも思い出せるあの頃の私。カメラが回ればすぐに役に入れた。台本は何度も読んで先の先まで読んで演技した。輝く舞台。まばゆいライト。小道具、レフ板、監督の声。
「……私はもう、演技できないんです」
「麻痺は取れねぇのか……?」
黙って頷く。上げた顔はいつもの作り笑いと違う、私の本当の苦笑い。引きつった笑顔だ。左の筋肉だけうまく動かない私の顔。左右で違うその顔を、私はスクリーンに映したくなどない。
監督は深く帽子をかぶり直し、小さくすまん、と言った。私は静かに首を振った。
「それに私。努力しない人は嫌いですから」
髪を後ろに縛って私は告げる。
「あんないい顔持ってるのにそれを活かそうと努力しないのは役者の怠慢です。持っている者は最大限の努力を通じて持っているものを活かさなきゃいけない。そういう義務があるんです」
――持たざる者のためにも。
その一言は飲み込んでおく。
その後私達は一言も話さずスタジオに戻った。泣き腫らした目をした潮江さらを叱りとばし、保冷剤で冷やすまでまた休憩が取られた。




