第四章
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ああ、全くこの子はやる気ってもんがあるんだろうか……。今日だけでもう二十回も監督の怒鳴り声を浴びている。ぶぅ、とふくれっ面をして……あーあ。泣いちゃった。
「顔洗ってこい! 馬鹿が!」
潮江さらは乱暴に目を擦りながら洗面所へと向かった。あーあーマスカラが酷いことになって……アレを直すのは私の仕事じゃないか。うんざりする。
「マジ勘弁ですよ」
「これもお仕事お仕事。我慢してよ」
溜息を隠そうともせず、私は盛大に悪態ついた。
すぐにさらはスタジオに戻ってきた。案の定マスカラとアイラインが滲んで見事なパンダ目になっている。イライラと不機嫌な顔をしてメイク直し用の椅子にどっかりと座った。小さく溜息をつくと、笙子先輩が私のおしりを叩いて促してきた。仕方がないからやってやるか。
「失礼しまーす」
心の全くこもっていない挨拶をして、私はさらのメイクを直していく。軽くオイルをつけて滲んだ黒を落としてからアイメイクを一からやり直す。ベースメイク、リキッドファンデーション、ファンデーション、淡いピンクのシャドウ、ぱっちり黒のアイライン。手早く終わらせてさっさと帰りたい。今日は次の日の岐阜ロケに備えて私は早く帰るんだ。愛しいユキちゃんが待つ我が家へ帰る。帰ったらソッコーキスしてあんなことやこんなことをむにゃむにゃむにゃ……
「ねぇ、聞いてんの!?」
「え、あ、すみません」
がっつり聞いてなかった。私の頭は完全に岐阜の恋人の元に飛んでいたし、とても言葉では言えないようなどピンクな妄想をしていたから。
「ホントムカツク。何なのよ、あのクソ監督。キョショーとか言われてるけど指示がわっかんないっつーの。もっと具体的に言えよ」
自分の頭の悪さを棚に上げて人を悪く言うとは……。しかも世界の鴻上彌一に向かってクソとか言っちゃうあたり、ゆとりだわぁ。怖い、平成生まれ。怖いもの知らずなあたりがもう怖くてやってられない。軽い眩暈を覚えながら私はちゃかちゃかとメイクを施していく。
「台本とかもう覚えてるのにさぁ、もう一度読んでこいとか今ここで読み直せとかホントやってらんないっつーの」
我慢我慢。
言いたいことは山ほどあるが、ここは我慢だ我慢。
こういう時はゆっくり数を数えれば良いんだっけ?
よし。数えよう。
1……2……3……4……
「この撮影始まってからあたし、何回馬鹿って言われたか分かる? 途中まで数えてたけど数えられなくなってやめたわ。それこそ馬鹿馬鹿しくなっちゃったもん」
……我慢我慢。
……5……6…………7……8……
「この役だって別にあたしがやりたいって言ったわけじゃないし。パパが勝手に持ってきた役だもん」
……は、ち……はもう言ったかっていうかもう無理……!
「ナマ言ってんじゃないわよ」
私の理性は紙っぺら並だった。三桁に上るであろう潮江さらへの監督の罵声カウントよりも圧倒的に少ない数で私の理性は事切れた。
「アンタのパパがお仕事持って来ちゃったおかげで一体何人の役者が涙を飲んだと思ってんの? アンタなんかよりもずっと真剣に役作りをしてオーディションを受けに来た人間のことを一体何だと思ってんの? 鴻上彌一の映画に出られるだけで名誉だって泣きながら訴えたエキストラの人たちを知ってる? あの人達の中にはアンタがやりたくてやってるわけじゃない役がやりたくてオーディション受けた人もいるわ。よくもまぁそんな人たちの前で子供みたいなくだらない文句が言えたものね。実力もないくせに。そんなんだからアイドル出身の役者達は似非役者なんて陰口叩かれたりするのよ。自分で自分の肩身狭くしてりゃ世話ないわ」
もう無理。耐えられない。笙子先輩がきっと青い顔してわなわなしているに違いないし、他のスタッフさん達もなんかこっち見てるし、ざわついてるし……ああもう知らない。悪いのはコイツ。全部この潮江さらが悪い。
「台本だって、アンタは全然覚えてなんかないの。まず読めてないんだから。スタートラインにも立っていない役者がよくも監督に具体的な指示を求められるわね。アンタ何様なのよ。具体的にって、何を教わるつもりなの? どうやったら一人で立てますかー、とか? それじゃあさすがに世界の鴻上もお手上げだわ。まだ一人でたっちもできない赤ん坊に手取り足取り立ち方を教えられるほど監督業は暇な仕事じゃないわ」
私は無表情で捲し立てた。別に努めて無表情を保っている訳じゃない。私の顔は極めて乏しい感情表現しかできないからこうなっただけ。けれども怒りを表すには最適の顔だ。私の内側から沸々と湧き上がる感情。キラウエア火山の如く溢れ出るそれを、私はもう抑えることができない。怒りに震える拳を彼女に振るわなかったことだけは褒めてもらいたい。
さらは私の顔を見てただぽかんとするばかりだった。一体自分は何を言われているのか、おがくずの頭では今一つ理解できないらしい。情報処理に多大な時間を費やし、そして口を開いた。
「な……んでたかがメイクにそんなこと言われなきゃいけないのっ!? アンタこそ何様よ!」
さらは勢いよく立ち上がった。さらに蹴倒された椅子が思ったよりも五月蠅く倒れた。折りたたみ部分のビスが一つ外れてどこかに転がっていった。そしてさらはなおも言い募った。
「何よ! 台本が読めてないって! 私、アンタなんかよりも学歴あるんだから! グラビアやってたって役者やってたって大学通ってるの、私は! なのにアンタも監督も『台本読めてない』って言って……意味分かんない! 私は私なりに考えて役作って芝居してるのにどうしてみんな認めてくれないの!? 私だって頑張ってるのに!」
「頑張ってる人間は他の人間のことを貶めたりしない!」
ぐ、とさらが言葉に詰まった。
「頑張っている人間は、他の人も頑張っていることを知っているからアンタみたいな幼稚な事を口走ったりしないの。どんなに努力が報われなくてもね」
「そんなこと……」
「それに『私なり』は努力しているうちに入らないの。この世界では特にね」
私は潮江さらの目をじっと見据える。さらの瞳は役者の瞳ではない。子供の目だ。自分が愛されていないと勘違いして駄々をこねるスポイルされた子供の目だ。もっと見て、私を見て、とすり寄る、鬱陶しさを微塵も自覚していない腹立たしい子供の瞳。ああ、嫌いだ。
「自分なりに、は通じないの。映画は何万人の人間が観る。その何万人を納得させられるような演技がいるの。この映画は長年鴻上彌一の世界を見てきて魅せられてきた人たちが観るし、話題性もあるから若い世代も観る。世代も年齢も社会的地位も性別も何もかもが違う人たちが観て、考える。その時に一人だけが世界から浮いている演技をしたら、どう思う? 浮いている、というのは個性的、とは違う。そこに役がいるんじゃなくて、役者がいると、全体から浮いてしまう。悪目立ちするっていうことよ。わかる?」
反応はない。しかし私は続けた。
「そうなれば全てが水の泡。他の役者さん達、スタッフさん達の評価も下がる。監督に泥を塗ったも同然。もちろん、アンタもほされるわ」
さらは何も言わない。
「アンタの本音はさっき聞いた。やめたければやめなさい。できるだけ早く舞台から下りてしまいなさい。それがみんなのためであり、アンタのためでもあるんだから」
私は何をしているんだろう。自分よりもずっと若い、幼ささえ残る彼女に、どうしてこんなにきついことを言っているのだろう。頭が働かない。口が勝手に動いているような気分だ。ああ、また泣きそう。メイクやり直さなきゃいけないのかなぁ。
「アンタなんかに……」
さらが動いた。
「アンタなんかにそんなこと言われる筋合いないんだからぁぁぁあああああああっ!」
意外に大きな平手が私の顔めがけて飛んできた。私は思わずぐっと目を瞑った。
「はい、そこまで~」
予期していた痛みはやって来ず、代わりに穏やかな低音が鼓膜に届いた。
「さらちゃんも、ミサキちゃんも、落ちつきなさい」
「文城さん……」
さらの腕を掴んでいる俳優を、私は呆然と見るしかなかった。衣装の羽織を粋に着こなす老人を挟んで私達の時は一瞬止まった。見た目は中年なのに結構年齢がいっている大御所になんてことをさせてしまったのだろう。私の頭の中は一応の後悔を言葉にしながらもなぜか妙に落ちついていた。言いたいことを言ってしまったからだろうか。大御所俳優・文城逍悟はただ人のよさそうな笑みを浮かべて私達を見ていた。
「さらちゃん、この人の言うことにも一理あるよ。君は確かに役者としてスタートした訳じゃないから基礎がないことは自分でも分かっているよね? だから卑屈になって、我が儘な態度を取っている。違うかな?」
掴まれた手をそっと下ろし、文城さんは言った。田舎のおじいちゃんに諭されているような、穏やかで決して刺のない言葉。潮江さらは黙って俯いた。肯定のつもりだろうか。文城さんは笑ってさらの頭を撫でた。
「それが分かっているなら大丈夫だ。さ、静かなところで台本読み直しておいで。なに、分からないことがあったら君のマネージャーさんに聞くと良いよ。彼女も舞台に立ったことのある人だから、きっと分かりやすく教えてくれる」
「……はい」
口を尖らせながらもさらは彼の言うことを聞いた。どこの集団にも文城さんのような人はいる。潮江さらのようなじゃじゃ馬でも簡単にいなしてしまえる、誰からも信頼されている人。人徳とでもいうのだろうか。文城逍悟の言うことなら聞いて損はないと思わせる何かがある。
「さて」
私に向き直って彼は笑った。
「ちょっと食事でもどうかな?」
目元の笑い皺が深くなる。ああ、この人も年を取ったんだな……。
「どうせあと一時間は再開しないからね。鴻上さんも機嫌損ねると本当に大変だから」
ね、と私の手を握ってくる。節くれ立った老人の手だ。すでに七十を超えた俳優の人生を垣間見せるその手を、私は振りほどくことができなかった。
「さぁて、君とは何年ぶりの再会かなぁ」
撮影所の食堂でほうじ茶をすすりながら文城さんは呟いた。すでにカラになったA定食とうどんの丼を挟んで私達はお茶を飲んでいる。周りには大勢のスタッフ、役者が食事を取っており、大御所俳優と一介のメイクという異色の組み合わせを好奇の目でチラチラ見てくる。見てんじゃねぇよ。おかげでA定食のおかずがなんだったかも印象に残っていないじゃないか。味も知らねぇよ。
「確か、『ひなぎくの館』以来かな?」
「はい」
「君の最後の映画だった」
「はい……」
「やっぱり鴻上監督がメガホンを取って、僕は本編が始まる前に死んでしまった憐れな男の役だった」
一口、茶を飲み息を、つく。
「そして君の恋人の役だった」
「……はい」
「懐かしいねぇ。君は役者達の中で一番輝いていた。『ひなぎくの館』の前の映画……なんて言ったかな……」
「暁の桜、蜜柑の花」
「ああ、そうそう。『暁の桜、蜜柑の花』だ。それでアカデミー賞を獲って、メディアにもよく出ていた」
『暁の桜、蜜柑の花』は監督賞、主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞、歌曲賞、衣装デザイン賞などあらゆる賞を総なめし、私は中でも主演女優賞をいただいた。その時のオスカー像は今でも部屋にあるが、アクセサリーかけになっている。バチが当たりそうだ。
「あの頃は忙しすぎたんです」
湯飲みに入った琥珀色の水面を眺める。
「だから周りに目が行かなかった」
後悔の日々。それは決して戻らない時間を恨み、悲嘆に暮れる毎日のこと。喉が裂けるほど叫んでも、目が溶けるほど泣いても、手首を切っても首を吊ってもどうにもならないことを、私は毎日悔やんでいる。
「……あれは不幸な事故だった」
文城さんは言った。
「そう思わないと、君がどうにかなってしまいそうだよ?」
「…………いっそ、どうにかなってしまえたら一番楽だったんでしょうね」
幻覚、妄想、自殺未遂。そういうことのできる人間だったら良かったのに。私はそういう類の人間ではなかった。
――ミサキさんは強い人ですよ。
ユキちゃんは私に言った。
毎日過ぎてしまった時を嘆いていても、明日のパンの心配をする。ミサキさんは強い人です。そう、ユキちゃんは私に言った。「だから余計に辛いんですよね」とも言ってくれた。私は狂えない人間だ。狂ってしまうことの方がよっぽど楽だということを、多くの人はあまり考えない。
「僕がミサキちゃんに初めて会ったのは、君がまだ中学生の頃だったね」
文城さんは突然昔話を始めた。かれこれもう二十年も前の話だ。
「君はスカウトマンの目に止まって女優の道を歩み出したばかりの、ほんの小さなお嬢ちゃんだった」
修学旅行で東京に来て、街を歩いていたらスカウトされたというあまりにも突飛なきっかけだった。グラビアやら変な歌やらやらされなかっただけでもマシだ。
「僕は君が社長と会う時に社長の横にいた。あの時僕は直感したんだ。この子は絶対女優になるべきだ……って」
当時マネージャーさんに耳にたこができるほど聞かされた。私があるのはこの文城逍悟のおかげだと。
「僕のカンは正しかった。君はめきめき成長して、どんどん映画やドラマに出ていく。そして僕と共演してくれた」
「名探偵・写楽家達シリーズ!」
「そうそう! 嗚呼、あれは楽しかったねぇ」
名探偵・写楽家達シリーズは、脚本家・土居保が長年手がけている、未だに再放送の声が多く寄せられるドラマだ。毎週木曜夜十時から一時間のドラマだったが、そのネタが尽きることはなく、一クール終わったと思ったら次は二時間ドラマ枠へと変更になった。今でも配役を変え、年一、二本は放送されている。私はその初期シリーズに出ていたことがある。
「僕は主人公写楽の友人で医師の、渡瀬丈の役だった」
「私は写楽に口げんかを仕掛ける女子高生・安藤愛梨でした」
思わず吹き出してしまう。この写楽シリーズはシャーロック・ホームズや江戸川乱歩など名だたる推理小説のパロディ・サスペンスなのだから。登場人物の名前はもちろん、タイトルもトリックも殆どが本歌取り。
「僕たちの記念すべき共演一作目が……」
「「茜連盟」」
二人の声が揃った。
ホームズの『赤毛連盟』のパロディ作だ。『赤毛連盟』は赤髪の人たちの互助組織が事件の発端になるが、『茜連盟』はお察しの通り「茜さん」ばかりで形成された婦人団体が事件の鍵を握っている。文城さんはすでに渡瀬医師を引退したが、シリーズ第一話の『ヒーロー研究』(これは『緋色の研究』のもじりだ)から三十作以上出続けた彼なしでは写楽シリーズの繁栄は成し得なかったと言われている。彼の渡瀬丈があったからこそ、今日も写楽シリーズは続いているのだ。確か来週あたり新作が放送される。
「君も楽しそうに演技していたよね」
「だって写楽シリーズくらいですよ。コメディ・サスペンスなんて」
要所要所で笑いが取り込まれているサスペンスなんて、面白すぎるじゃないか。私はあのシリーズが大好きだった。けれども安藤愛梨は女子高生だ。いつまでも続けられるわけではない。私の写楽シリーズ卒業作は確かエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の怪事件』のもじりで、『モギリ界の怪獣事変』だった。酷いもじりだ。しかも内容が全くパロディじゃないという珍しい話で私は写楽シリーズを終えた。あの時文城さんに花束を渡されたっけ。懐かしいなぁ。
「写楽シリーズから君はどんどん大きくなっていった。朝の連続ドラマで主役も張ったし、大河ドラマにも出た。あの事務所でスターダムに昇っていく女優を、僕は誇らしげに見ていたよ」
僕は苦労したからね、と文城さんはこぼした。文城さんは三十を超えてやっと役者として食っていけるようになったと言う。それでもいつでも謙虚で、面倒見の良いおじさんだった。今もそうだ。私はこの人に本当に世話になったんだ。
私は若くして成功していた。くだらない義務教育をさっさと終えて、十五でデビューして以来、仕事のない日はなかった。お金には興味はなかったけど、闇雲に使ってみたり、人に貸したりとかいう面倒なことはしなかった。入ってくる金よりも、仕事が楽しかった。いつ食えなくなるか分からない世界だから、と社長が薦めたから美容専門学校にも行った。おかげで今も食えている。専門を出てからもずっと仕事があったし、自分でヘアメイクもできるようになったからますます女優が楽しくて仕方なかった。
「文城さん」
そう。楽しくて楽しくて。
「私はあの時、何も見えていなかったんです」
私は無意識に左頬を撫でた。あの時の痛み、悔しさ、憎らしさ。全てのベクトルが私に向いていたあの時のことを、私は一生忘れない。
「私は努力しましたし、それが間違っていたとは思いません。けれども、私が光を浴びる中、影に追いやられた人の気持ちを、私は一ミリグラムも考えていなかったんです」
ああ、そういえばこの撮影所だった。
私が火炎瓶を投げつけられたのは。
犯人は事務所の一つ上の先輩だった。結城美羽という芸名で女優をしていた。私は『ひなぎくの館』を取り終わった後のインタビューをいくつも受けていた頃の話だ。ドラマの撮影、トーク番組の収録の合間にインタビューが休みなく組み込まれていて、私はへとへとに疲れていた。プライベートもない一日が何ヶ月も続いていたのだ。少しおかしくなっていたのかも知れない。けれどもそれが当たり前だと思って私は仕事を次から次へとこなしていた。
この撮影所でたまたま先輩と一緒になった時、何気なくこぼしてしまった。
「さすがにドラマ連チャンはキツイですよ。視聴者だって見飽きちゃわないんですかね?」
美羽先輩はだよねぇ、と笑っていた。
けれども次の日、私はここで火炎瓶を投げられた。
割れやすい瓶だった。私の顔めがけて投げられた火炎瓶は粉々に砕け、私に炎をまとわりつかせた。先輩は何か叫んでいたが、聞こえない。今まで感じたことのない熱が私を襲ってきた。熱い、と痛い、がよく分からなくなりながら、私は撮影所の廊下を転がり続けた。そばにいた人たちが急いで水をかけたり消化器で飛び火を消したりしたが、私はのたうち回った。
その後の記憶はない。
気付いたら包帯を顔に巻かれて病院のベッドにいた。火を吸い込んだ喉は激痛を訴え、水さえ飲めなかった。何日も何日も点滴だけの生活。体を起こすことも、もちろん鏡を見ることも叶わなかった。マネージャー、付き人をやっていた女優の卵の子もお見舞いに来てくれた。ここにいる文城さんも来て下さった。けど美羽先輩は来なかった。れっきとした傷害事件だし、目撃者も何人もいたため、美羽先輩はその場で逮捕されてしまったようだ。私はその話を、どこか遠い国の話のように聞いていた。離被架の中は中途半端な棺桶のようで、美羽先輩の逮捕はおとぎ話のようだった。
私が本当にその話を現実の物として受け止められたのは、初めて鏡を見た日だった。
私はあの日のことを絶対に忘れない。
ようやく喉の痛みも引き、水を飲めた日。毎日換えられていた包帯と薬の塗布。気紛れに鏡を見たいと言ったことを、私は後悔していない。
声も出なかった。
涙も出なかった。
私はただ目を見開いて、かつてあった女優の「私」をどうにか見出そうとしたが、そこにあるのは「私」ですらない、誰でもない女の顔だった。火傷は私の左半分を覆い尽くし、赤く爛れていた。数え切れないほどの水ぶくれが顔に蔓延り、左目は腫れ上がってほとんど見えなかった。私は広島の原爆被害を思い出した。きっとアレよりはまだマシなのだろうけど、私にとってはそれ以上に絶望的だった。
「私はあの時、初めて自分を馬鹿だと思ったんです」
あの頃の私は傲慢だった。周りの人たちはみんな私より馬鹿だと思っていたし、学校の授業なんて真面目に受けなくてもできた。芝居も楽しかったし、NGを出したこともほとんどない。オーディションに落ちた回数も両手の指で足りたし、何よりスケジュールが埋まっていることが誇りだった。仕事のない人間は、才能がないくせに努力を怠ったツケだと思っていた。当時、美羽先輩が落ち目で、どれだけオーディションを受けても受からなかったこと、ましてやあの時私が愚痴ったドラマのオーディションを美羽先輩が受けていたことも、私は知らなかった。考えもしなかった。想像もしなかった。
私は後悔した。
生まれて初めてと言っても過言ではない程深く、後悔をした。
「私は私の愚かさのせいで自分の未来を断ってしまったんです」
私は左頬を撫でる。
目に見える火傷の痕は湿潤療法と自己皮膚移植で全く目立たなくなったが、後遺症が残った。その日以来、私の表情はいびつに歪んだ。顔に当たって割れた瓶の破片が顔面神経を傷つけていたのだ。私の顔は、左半分が麻痺している。それは手術ではどうにもならない、時間も解決しない。
「これは私の愚かさの代償です。私の一言で美羽先輩の人生も、美崎まほろとしての私の人生もぶち壊してしまった、三枝ミサキの罪の証です」
文城さんは悲しそうな目で私を見ている。
「私はもう、芝居に関わっちゃいけない。今回のメイクの件は、笙子先輩に頼み込まれちゃったから仕方なくしただけです。岐阜ロケが終わったら、私はまた名古屋のサロンで市井の髪を切る美容師に戻ります」
関わりたくない。
嫌でもあの事件を思い出すから。じり、と顔が痛む。目を閉じればオレンジ色の炎が私を飲む。
「……ミサキちゃん」
困った顔で文城さんが笑う。
「許してやりなよ。自分を」
私は黙って首を振る。
「芝居が好きで好きでたまらない人からスポットライトを奪った私を、芝居が好きで好きでたまらない私は許したりなんか、できないんです」
許されたりしない。
後で聞いた話だが、美羽先輩は実刑をくらったそうだ。前にも人気の出てきた後輩と刃傷沙汰を起こしていたらしく、今回の件での情状酌量はされなかった。その後の美羽先輩を、私は知らない。生きているか死んでしまったのかも知らない。
女優を辞めた私に残されたのは、美羽先輩の御両親からの多額の慰謝料と使い道のなかったギャラ、そして顔の麻痺だけ。
「私は被害者なんかじゃないんです。美羽先輩を犯罪に駆り立てた加害者なんです。実行犯よりタチの悪い、なんとか幇助ってヤツみたいなもんですよ」
私は俯きながら髪をくしゃりと握った。胸元にふと光る物を見つけ、はっとする。
――ユキちゃん。
女優を辞めて、あてもなく貯金を食いつぶしていた頃に出会った、私の恋人。私と同じ、寂しい目をした女の子。私はユキちゃんとお揃いの指輪を握り、文城さんを見た。
「でも私、あの頃よりも人間らしい生活してるんです」
嘘じゃない。それは決して嘘ではない。
「毎日決まった時間に電車に乗ってサロンに行く。帰りは日によって違うけれども、帰る家がある。待っていてくれる人がいる。夜寝る時には隣にいて、朝起きるまでずっとそばにいてくれる人がいる。あの頃には考えられなかった生活、今してるんです」
私は大好きな芝居を失った。けれどもユキちゃんがいる。それでいいじゃない。頬の内側を噛みしめて、私は文城さんに言った。彼は人のよさそうな笑みを浮かべて、私の頭を撫でた。
「君がそれでいいならいいよ」
人の頭をすぐに撫でたがるのはこの人の癖だ。かつてはなんだか子供扱いされているみたいで嫌だったが、今はそんなに嫌じゃない。三十五にもなったオバハンが何を言っているんだといわれても仕方ない。だけど誰かに褒められる、とか好意を持って触れられることに年齢制限はない。いくつになっても嬉しいものは嬉しい。
「僕は芝居は打てるけど慰めるのは下手だなぁ。君に楽しかった頃を思い出させてあげたかったのに、ああ、どうして話は下手なんだろうね」
そう言って文城さんは平手で額を打った。わざとらしい話の振り方はそういうことだったのか。この人は役者になって正解だ。サラリーマンとかになってたら絶対万年平社員だ。人のよさでどうにかなるだろうけれど、それが災いして窓際だ。絶対。
「でも、君の戻る場所くらいなら僕が用意してあげられる。それだけは覚えておいてほしい」
真摯な顔だ。この人は本当にいい人だ。
「……はい」
持つべきものは良き先輩だ。私は右の唇だけで笑う。それが私の満面の笑み。文城さんはそれを見てまた悲しそうに笑った。そんな顔をさせるつもりじゃあなかったのになぁ。私達は食器を下げ、過酷な現場に戻る。メイクもつらいもんだ。




