第五章
5
私は夢を見ている。
夢を見ているんだ。
景色を俯瞰するような意識で私は夢を見ている。狭い、狭いアパート。八畳と六畳の部屋。台所の流しにはいつか食べたカップラーメンのカップがそのままになっている。私は五才。コンビニで買ったオムライスを母親と一緒に食べている。
「ユキ、男なんて信じちゃ駄目だよ」
母はいつだってそう言った。酒に酔った時も、素面の時も。お腹が減っている時も私を殴りつける時も。
「一番ろくでもない男は父親って種族だよ。あいつらは救いようもなく馬鹿だから」
私は父親の顔を知らない。けれども黙って頷いておく。そうしないと後で酷い目に遭うから。
「中でもあたしの親父はサイテーよ」
煙草の煙と共に母は呪いの言葉を吐き出す。一言一句間違えず、母はいつも同じことを言う。
「アイツはあたしと母さん捨てて愛人のトコに行ったんだ。何でか分かるか? ユキ」
分かるわけない。私は黙って首を振る。
「愛人の方に子供ができちまったからだよ。ったく、できた子ともう産まれて生きている子とどっちを取るかっていう話でアイツはまだ産まれてもいない方を取ったんだ。サイテーだろ?」
堕ろしちまえばよかったのに。
母はいつもそう言った。私は「堕ろす」の意味が分からなかったが、その言葉を聞く度に背筋が寒くなった。それが嫌な言葉だと、幼心に思った。
「アンタの父親だってろくでなしだったよ」
缶ビールをぐっと呷って母は続けた。
「あたしが妊娠したって言ったら何て言ったと思う? あの馬鹿」
私は黙って母の話を聞く。母は私の口の端についたケチャップを拭って言った。
「そんなつもりじゃなかった」
指を舐めながら母は言った。ありったけの恨みを込めて、母は自分と、まだ産まれてもなかった私に向けられた悪意を言葉にする。
「アイツが避妊したことなんて一回もなかった。あたしがどんだけゴムしろって言ったって聞きゃあしなかった。なのに『そんなつもりじゃない』ってなによそれ。馬鹿なの? ねぇ死ぬの?」
母は酔っていた。毎日夜の仕事をして、お酒を飲んで、昼もこうやって飲んでいた。母が働いている間、私は母の働いているクラブの夜間保育に預けられた。別に何とも思わなかった。寂しい、とか嫌だ、とか、そういうことを言ったことはなかった。それが普通だと思っていたから。昼間の保育園に行ったことはないから余計にだろうか。
母は兎角お金のかかることが嫌いだった。お店のお客さんとドーハンするときは必ずお土産を買ってもらってきた。プレゼントされたアクセサリーや洋服は必ず身につけた。時には私に買ってくれる奇特なお客さんもいた。母は「えー、いいんですかぁ?」と媚びを売り、遠慮しつつも断らなかった。だから私は全然不自由だとは思わなかったし、むしろ高いネタのお寿司はもう食べ飽きたという贅沢な口をしていた。
「いい? ユキ。男なんてホントサイテーな人種だからね、女は用心しなきゃいけないの。誰にも簡単に体は許しちゃいけないし、避妊は完璧にするの。結局痛い目見て馬鹿見るのは女なんだから」
母は年端もいかぬ私に繰り返し言った。それはまるで呪いのように私にまとわりついた。五才の私にはヒニンのことはよく分からなかったが、自分が失敗の結果だということは何となく理解できた。自分がヒニンしていなかったから産まれてきたのだと、漠然と理解していた。
「でもどんなに大切にしてたって失うものは失うし、捨てられるもんは捨てられるの」
あたしだって……。
そう母は言う。私は黙ってオムライスを食べる。母は何度も言う。「あたしは捨てられたの」と。その度に私は、「じゃあ、私は?」と聞きたくなる。でもそれを口にしたことは、ない。
場面は一気に変わっていく。夢なんてそんなもんだ。取り留めもない、脈絡もない、まして容赦なんてものもない。
「じゃ、行ってくるからね。誰か来ても開けちゃ駄目だからね。外も、勝手に出たらいかんからね」
「いってらっしゃい」
がちゃりと鍵が閉められる。私は一人、真夏の部屋に残された。
何かの都合で保育所が休みだった。何の都合だったか忘れたけれど、母はそれでも仕事に出かけなければならなかった。別に一人の留守番は慣れていたから何ともなかった。食卓用の折りたたみ机の上にはおにぎりがあったし、冷蔵庫には麦茶も牛乳も入っていた。魔法少女のおさかなソーセージも半分残っていたし、内緒で飴も二つしまってある。一人の時間は楽しい秘密の時間だった。
五才の私は今よりずっと可愛らしい女の子だった。母には似なかったけれど、それなりに可愛かった。髪はやっぱり短いけれども母に買ってもらったヘアピンをつけていた。四つ葉のクローバーのピンだ。それにパフスリーブの白いTシャツにカーキ色のバルーンキュロット。うさぎのぬいぐるみなんか抱いちゃっているいかにも五才の子供だった。
その日は暑かった。長野は涼しいところだけれども、夏はやっぱり暑いのだ。でもその日は格段に暑かった。クーラーなんて存在しないその部屋で、私は扇風機を回し、麦茶を飲んで暑さを凌いでいた。窓は鍵の開け方を知らないから開けられない。あたりは暗くなってきているのに全く気温が下がらない。水で冷やしたハンカチを頭に乗せたり、ガラスのコップを頬にくっつけたり。母が帰ってくればお風呂に入れるのに。そうしたら多少は涼しくなるのに。私は夕飯用に用意されたおにぎりを食べ、麦茶を飲んで待っていた。もう何度も読み過ぎてすり切れてしまった絵本を読みながら、うさぎのぬいぐるみに話しかけながら母を待っていた。
その日、母は帰らなかった。
幾日経っただろうか。幼い私は畳の上に突っ伏していた。真夏の日差しを避けながら、私はぼんやりと襖を見ていた。
母は帰ってこない。
牛乳も、麦茶も、おさかなソーセージも秘密の飴も。めぼしい食料や飲み物はもうなくなっていた。カップ麺だけはまだあったけれども、お湯を沸かせない、作り方も知らない私にはうさぎのぬいぐるみと同じで「食べられないもの」だった。水だけは水道から出たからどうにか飲んでいた。
「おなかすいた……」
もう音も鳴らない空っぽのお腹。せめて水で膨らまそうと私はふらつく足で流しに歩いた。私専用のピンクの踏み台に上り、ガラスのコップを蛇口へ持っていく。
この日、水が止まった。
いつの日からか扇風機も回らず、電気もつかなくなった。きっとガスも止まっていただろう。
「……?」
幼い私には分からなかった。水は水道から出るものだし、電気は夜になったらつくものだった。どうなっているのかさっぱりだった。
「おかぁさん……」
ついに泣き出してしまった。たぶん今まで何度も泣いたけれども、当たり前にあったものがなくなるというのは底知れぬ恐怖を私に与えた。
外に出よう。
外に出ればどうにかなるかも知れない。公園の水道からはきっと水が出るし、コンビニに行けば食べものがある。もしかしたらお母さんがいるかも知れない。一縷どころではない望みを胸に、私はドアノブに手をかけた。
「…………なんで?」
鍵の開け方は知っていた。チェーンだって外せた。なのにドアは開かない。よそよそしい木製の扉はいくらドアノブを回しても開いてはくれず、頑として中のものを守ろうと聳え立っていた。私は力の限り扉を叩いた。
「あけて! あけてぇぇっ!」
渇いた喉から溢れた掠れた声は外に届くことなくぱさぱさと霧散する。幼い拳は扉を突き破ることも叶わない。必死で叩く。無駄だと分かっていても叩く。誰かが気付いてくれるかも知れない。右隣のおばさんが開けてくれるかも知れない。左隣のちょっと怖い顔の、でも時々チョコレートやキャラメルをくれるおじさんが扉を壊してくれるかも知れない。
「あけて! あけて!」
私は叩く。精一杯叩く。
「たすけて! だれかたすけてぇっ!」
私は叫ぶ。噎せながら叫ぶ。
自分が誰かに助けを求めていることに気付かず、私は叫んでいた。
誰か!
五才の私の頭に母の姿がよぎった。しかしこの扉を閉めていったのは母だ。母が閉めて、出て行った。
「おかあさぁぁああああああああああん!」
叫んだ直後、激しく咳き込んだ。胸が痛い。血の味がする。私は叫ぶことをやめた。苛烈な日差しを避けるために閉めたカーテンが夏の部屋を薄ぼんやりとさせている。私はもう冷たくない冷蔵庫にもたれかかり、肩で息をする。空腹を紛らわすためにヘアピンの四つ葉のクローバー部分を口に入れた。飴のように転がしていれば、何となくお腹がふくれるような気がして。目を閉じて仄かに赤い瞼の裏側を見る。そしてぎゅっと膝を抱きかかえる。そうするとなんだか落ちついた。私はそうやって耐えた。
どれくらいの時が経っただろう。もう動く体力もなくなった私は、やはり冷蔵庫の前で倒れていた。トイレにも立てない私の下半身はぐしょぐしょに汚れていた。お気に入りだったカーキ色のキュロットも黒く変色した。白かったシャツは茶色くなり、酷い臭いがした。プラスチックの四つ葉のクローバーは口からこぼれ落ちて久しかった。
それでも私は生きていた。これ以上汚れたことがないほどに汚れ、飢え、渇いていた。それでも私の肺は呼吸を繰り返し、目は虚ろながらもどこかを見、心臓は鼓動し続けていた。
このまましぬんだ……。
私は思った。声にしたつもりだったその言葉は私の口の中で紡がれ、消えた。私は虚ろな目を閉じ、静かに一つ、息をした。
「大丈夫か!?」
突然扉が叩かれた。大きな声がする。男の人だ。お母さんとは違う、低い声と力強い拳で扉が叩かれる音がした。
「くそっ、開きゃしねぇ。待ってろ! 今開けてやっからな!」
ガチャガチャと音がして、次にドン! と大きな音がした。
ドン! ドン! バガン!
幾度目かのドン!のあと、扉は開いた。誰かが入ってきた。大きな足音だ。今までこの部屋に入ったことのない、男の人の足音。
「……いた! いたぞ! こっちだ!」
私の体は宙に浮いた。その人が抱き上げてくれたのだと後で知った。けれども今まで男の人にほとんど接したことのなかった私は怖くなって半狂乱になって暴れた。
「はなして! はなして……!」
「こら、落ちつけ!怖くねぇから!」
「や、いやぁぁぁぁ!」
私は暴れた。どこにそんな体力が残っていたのか、私は手を振り払い、足をばたつかせ、声を上げて暴れた。けれども弱り切った私の抵抗に何の意味があっただろう。その男の人は私を軽々と抱き上げ、部屋の外へと連れ出してくれた。汚物に塗れた私を躊躇することなく抱き上げてくれたその腕を、私は今でも覚えている。
照りつける太陽の光に目を眩ませ、そのまま私は意識を失った。
気がつくと私はベッドに寝ていた。
「あ、起きた」
女の人の声がする。私は薄もやがかかったような頭でぼんやりと考える。
今日は何日で、今は何時だろう……。
辺りはすっかり暗くなり、昼間の熱気の名残を漂わせている。夕焼け空が波打って見える。
「……ここは…………」
頭が混乱している。ここがどこだか分からない。
「ここはユキちゃんと私のホーム・スウィート・ホーム。そして私はあなたのラマン」
「……そんな爛れた関係じゃないでしょ」
そうでした、と肩を竦める。
私は夢から覚めたんだ。私は二十うん年前の過去から生きて、今に至る。夢の残滓を振り払うように頭をがしがしと掻き毟り、目の前の人を確かに瞳に映す。
「おかえり。ミサキさん」
「ただいま。愛してるぜ、ユキちゃん」
何でこの人はことあるごとに「愛してる」と言えるんだろう。この人のそういうところが私は、好きだ。ミサキさんの栗色の髪を見ながら私は思った。
「それにしてもびっくりしたよー。予定よりも早めに東京から戻ってユキちゃんをびっくりさせてやろうと思ってたのにさ、玄関開けたら身長175センチがうつぶせで倒れて鼻血出してるんだもん」
「え、嘘、鼻血出てた?」
「出てた出てた。暑さで大量出血してるみたいでさ、玄関に血の海できそうだったもん。……これはさすがに言い過ぎかな?」
慌てて鼻周辺を擦ってみるが、すでにミサキさんに拭われてしまったらしい。
「てか私、何故下着だけ? え?」
なぜか私はパンツとキャミソールだけの何とも破廉恥な姿でベッドにいるではないか。
「……え、何で人を生ゴミでも見るかのような目で見てるの? ねぇ、ユキちゃんまさか私がいかがわしい目的のために可愛いユキちゃんの服を脱がしたと思ってる?」
私は黙って頷いた。この人は油断できない。隙あらばやらしいことをしようと思っている人だから。特に出張帰りともなれば疑惑は増すものだ。
「ひどい……ひどいよユキちゃん!」
ああ、この人元が元だからホント芝居がかった言い回しするんだよな。
「そんなことするくらいなら私、ぱんつまで脱がしてるからね!」
「最低すぎるよミサキさん!」
うっかり激しいツッコミを入れてしまった。くらりと眩む頭を抱えて私はもう一度ベッドに横たわった。言っておくけど、私とミサキさんは別に漫才コンビではない。関西出身のミサキさんが吉本新喜劇大好きなせいで私までこんなお笑いテイストになってしまったんだ。同棲恐るべし。
「それにしてもユキちゃん、熱中症だよ。気をつけなきゃ。いつも言ってるよね。水分補給大事だって」
ミサキさんは保冷剤をタオルで包み、私の首にひっつけた。ひんやりと心地よい。ペットボトルのスポーツドリンクも手渡され、私はそれを一気に呷った。ごぎゅ、と喉が音を立てて嚥下していく。よっぽど乾いていたんだな。何時間ぶりだろう。
ペットボトルから口を放し、私はミサキさんにお礼を言った。
「……なんかあったの?」
「ええ?」
汗ばんだ髪の毛をくしゃりと撫でられる。ミサキさんの荒れた指先は私の頭からするりと顔の方へ下りてきて頬を撫でる。
「泣いてたぞ」
目尻を親指で擦られた。かすかに残った涙の跡を拭われたんだと気付いた。私はミサキさんの手を取って目を閉じる。誰かの手に、肌に触れられることは本当に愛しいことだと思う。どんなに暑くても、この手の温もりだけは心地よいと思える。
「夢を見ていたんだ」
「夢?」
「お母さんに捨てられた日の夢」
ミサキさんの目に哀しみが広がる。私達は私達の来し方をほとんど知っている。私が母に殺されかけていたことも、ミサキさんが顔に酷い火傷を負った理由も。
「すんごい久しぶりじゃない? ユキちゃんがそんな夢見るの」
「うん、昼間、ちょっとね」
私は半分くらい残っていたスポーツドリンクに口をつけ、喉を潤す。余分な言葉は飲み込んで、ミサキさんに伝えるだけの言葉を口に残す。ミサキさんは長い話になると思ったのか、おもむろにカツラを取った。
ミサキさんの髪の毛は左側の前方だけ、生えてこない。そこだけはどうにもならなかった。まるでお化け屋敷の幽霊のように腫れていたこともある。今でも熱を持っているかのように赤く残る火の痕を、ミサキさんは随分気にしている。だからミサキさんはいつもカツラをかぶっている。ついカツラと言ってしまってウィッグって言いなさいよ、といつも怒られる。それでもミサキさんは私の前でウィッグ……やっぱり言いづらい。カツラを外すことを厭わない。左にだけ極端に髪の少ないミサキさんを見つめながら、私は話を続ける。
「よし子さんって利用者さんが亡くなってね、その人の末の娘さんの旦那がさ、あん時助けてくれた刑事さんだったんだ」
「随分な奇縁ね」
「私も松永さんも……ああ、刑事さんの名前。二人ともびっくりして……。本当、びっくりした」
冷たくなったよし子さんの体に、松永さんの変わらぬ姿。ああ、あんな夢見たのも道理だ。
「私ね、ミサキさん」
「ん?」
私はミサキさんの肩にもたれかかる。
「お母さん、ずっと帰ってくるもんだとばっかり思ってたんだ」
「うん」
ミサキさんの手が私の肩に触れる。
「私を捨てて、男の所に行ったなんて思いもしなかった」
「……そうね」
私はミサキさんの肩に頬ずりをする。
「私を閉じこめて、外から南京錠までかけて捨てたなんて、信じたくなかった」
「……」
ミサキさんは黙って私の頭を撫でる。
「でもお母さんが一緒にいた男と事故で死んだ時、天罰だって思っちゃったの」
「…………うん」
私の母は私を捨てて男の元へ行った。男と母はどこか遠く、確か北海道かどこかに夫婦住み込みの仕事とやらを見つけて行くはずだった。母は私の存在を男に話していなかったらしい。母は何を思って、何を考えていたのだろう。私には分からない。けれども彼女は考えに考えて、私をアパートに残し、外から鍵をかけ、電気、ガス、水道のライフラインを解約して、私を殺そうとした。大きくなって自分で調べた。計画的犯行だったと新聞で警察も言っていた。
そして母は、男と死んだ。
男の運転していた車が玉突き事故に巻き込まれて、高速道路で大破して死んだ。遺体の身元を調べている過程で子供の存在に気付いた警察がアパートにいた私を助けてくれた。
「三時間」
私は乾いた唇を動かす。
「あと三時間発見が遅れてたら、私、死んでたんだって」
突き付けられたリアルな数字は、私の生死を分けた時間。目を覚ました病室で漏れ聞こえてきた刑事達の話を、幼い私は覚えていた。白い病室。見たことのない色の部屋。触ったことのない感触のシーツ。ベッドなんて寝転がったこともない。心細くなって布団を頭まで被って泣いた日は数え切れない。
「ミサキさぁん」
「なぁに? ユキちゃん」
甘えた声を出してみる。なぜだろう。この人の前だと素直に甘えられる。体中に張り付いた虚勢がぼろぼろと剥がれ落ちていく。柔らかな乳房に顔を埋め、私はミサキさんの子供のようになる。
「お母さんは私のこと嫌いになったから捨てたのかな……」
あの日から何度も考えていた。考えれば考えるほど悲しくなって、惨めになって、泣いて、考えるのをやめた。
退院してからの私は松本にあるマリア慈童苑という養護施設に入れられた。頼れる親戚なんて一人もいなかった。父親の顔も知らない、母に捨てられた天涯孤独の私が行く所なんて他になかった。そこでの生活は厳しかった。教会の附属施設だったから子どもたちは朝早くから教会の掃除をして、お庭を掃いて、雪の日には雪かきをしてから朝ご飯を食べた。食事の前には必ずお祈りをしたし、規則を破ればひどく説教をされた。昔は鞭で叩かれたこともあったけれども、司祭様が変わるとそれもなくなった。つらいことも苦しいことも、逃げ出したくなるようなこともたくさんあった。けれども私や慈童苑の子どもたちに行く所なんてハナからない。中には信者の人たちにもらわれていく子供もいたけれど、私は高校を卒業するまで慈童苑にいた。長野県内で起きた結構大きな事件だったから、大人達は私のことを遠巻きに見ていた節がある。別に私はそれを苦に思ったことなんてない。ただ、どうしてお母さんは私を捨てたんだろう。それだけをずっと考えていた。
「お母さんだって、お父さんに捨てられたって言ってたのに、どうして同じことをしたんだろう……」
私の疑問はいつもそこに行き着いて、そこで止まる。
母は私にいつも言っていた。自分は父に捨てられた。母は夫に捨てられた、と。なのにどうして同じことをするんだろう。どうして一番信用していなかった「男」なんかについていって、馬鹿みたいな事故に巻き込まれて死んだんだろう。どうして腹を痛めて産んだ私を殺そうと思ったのだろう。なんで、なんで、なんで――
「ユキちゃん、」
ミサキさんが口を開いた。
「ユキちゃんの苦しみや哀しみ、痛みってヤツはユキちゃんだけのもので誰も本当には理解できない。そうだよね?」
私は頷く。
「人は人の気持ちを百パー理解できるわけじゃないから、理解しようと、頑張ってる。でもね、やっぱりそれでも理解できないことって、あると思う。絶対に」
私は黙っている。喉の奥がなんだか熱い。
「ユキちゃんのお母さんが何を考えてユキちゃんを殺そうとしたかなんて、私にも分かんないし、ユキちゃんにだって分かんない。だってそうでしょ? お母さんのその時の気持ちなんて、お母さん以外に分からないものだもん。国語の読みとりなんかじゃ馬鹿みたいに気持ちを読み取れーなんていうけどさ、どっちみち無理な話なんだよ。あれは作られた話みたいなもんだからさ、答えはあるんだよ。けどさ、現実世界に生きてる人間の心なんてもっと複雑で、拗くれてて、それでいて一本芯みたいなのが通ってたりして、鏡の迷宮みたいに訳の分かんないもんだからさ」
ミサキさんは私の頭を撫でてくれている。影より黒い私の髪の毛。優しく梳いてくれるその手が好きだ。
「役者もさ、役作りだ何だって言ってそういうこと、あー……気持ちを読む? みたいなことするからね、それと同じ要領で、想像する……みたいなことはできるよ?」
「そうなの?」
下から覗き込むようにミサキさんの顔を見る。少し困ったように頬を掻きながらミサキさんは続けた。
「でもね、やっぱりそれも十全じゃない。かすってる程度の正解かも知れないし、全くの的外れかも知れない」
ミサキさんは私の額にキスをする。汗掻いてたから塩辛いと思うんだけどな。それでも彼女は優しく私にキスをする。
「だって結局さ、経験したことのない人生だから、想像の域を出ないんだよ。どれだけ台本に書かれる前の人生を構築しても、やっぱりそれは想像でしかなくって、実際じゃあない。ユキちゃんだって自分が産まれる前のお母さんのことを完全には知らないでしょ? だから本当のことなんて、もう誰にも分かんないんだよ。もうそれは事実じゃなくって想像の産物になっちゃうんだ」
よく分かんないこと言ってるな。とミサキさんは頭を悩ませた。頭の悪い私には確かによく分かんなかったけど、何となく言わんとすることは分かった。
「とりあえず気にするな、ってことだね」
「……随分平たくまとめてくれちゃったわね、この子は」
お仕置きだ! と言ってミサキさんは私の頭をがしょがしょ掻き回してきた。お、大型犬じゃないぞ、私は!
「ねぇ、ミサキさん。東京の仕事はどうだった?」
「ええ? 何よ藪から棒に」
だって立ち直っちゃったんだもん。なんて言うつもりはさらさらないけれど、幾分か軽くなった。ミサキさんと住み始めて初めてミサキさんが長い間いなくって、よし子さんが亡くなって、松永さんに会って、昔の夢なんて見ちゃって、私はどうしようもなく不安になっていたのだろう。ミサキさんがいるだけでこんなに心が安まる。ホッとする。私はきっといつものように笑っている。ミサキさんが可愛いと言ってくれる笑顔を浮かべているはずだ。ミサキさんだけだ。私を可愛いと言ってくれるのは。母にすら言ってもらった記憶はないのに。
ミサキさんはなんだか複雑そうな顔をして「大変だったわよ」と言った。なぜか寝室に置いてある軟膏の容器を手にとってフタを開けたり閉めたりし始めた。
「何で日本髪結えない人が多いんだろうね、最近は。古式ゆかしき島田を結っちゃったわよ」
文金高島田? とか言うのもあったっけ? 私はよく知らないけれど、なんだか首が疲れそうな髪型だったと思う。
「京都とかにもいるだろうにどうして私だったんだろうね! ホント困る!」
「ミサキさんの腕が良いからでしょ」
「あらやだこの子ったら! おだてたって何もないって」
痛い。ばしばし叩かないでほしい。ミサキさんは持っていた容器を置いて、今度は違う箱を手に取った。……あ、何だメイク落としか。ミサキさんはシートタイプのメイク落としで手早くメイクを落としていく。
「馬っ鹿な女優がいてさぁ、自分の怠慢をヒトのせいにして努力しようともしないのよ。ホントそういうの、嫌いよ」
さ、さ、と、時にはじっくり時間をかけてメイクを落としながらミサキさんは話す。この顔のどこに火傷があったんだろう。頭の痕以外にはほとんど分からない。
「何か事情があるのかも知れないけどさ、世界の鴻上の映画に出るのよ? 学校の学芸会じゃないんだからもうちょっとマシな演技してもらいたいもんよね」
汚れきったシートをゴミ箱に投げ入れてメイク落としが終わった。ミサキさんはメイクしててもしなくてもはっきりした顔立ちをしている。流石は元女優。元のつくりが違う気がする。
「ね、ユキちゃん。文城逍悟って知ってる?」
「知ってるよ。朝の連ドラに出てる人でしょ? あの……納豆かき混ぜるのに並々ならぬこだわりを持ってるお舅さんの役やってる」
「そうそう。その人も鴻上映画に出るんだけどさ、昔からいい人で、今日もお世話になっちゃった」
「あー、いい人そうだもんね。こう、オーラが違うって言うか……」
「毛穴からいい人オーラが分泌されまくってるって言うか、とにかくそういう人なのよ」
きゃあきゃあ言いながら文城逍悟について語るミサキさんは可愛い。恋する乙女のようだ。けれども文城逍悟に恋はしていない。基本、私達は男の人に恋をしない。
「ねぇ、ミサキさん。私、ミサキさんが手伝ってる映画のタイトルすら知らないんだけど……」
未だ熱弁をふるっていたミサキさんの口が止まった。
「……え、言ってなかったっけ?」
聞いていませんとも。大きな瞳で見つめられても困る。私は黙って頷いた。信じられない、と言いたげな顔でミサキさんは額に手をやった。だからいちいちオーバーなんだって、動きが。
「私としたことが……。ちょっと待っててね」
そう言ってミサキさんはリビングへと小走りしていった。扉一枚隔てた向こうで何かが崩れる音がした。頼むから食器とかガラスとかそういうのを壊さないでくれ。後始末が大変だから。あの人は本当に片付けとか整理整頓とかがとことん苦手な人だからすぐに何でも落としたりぶつけたりして壊してしまう。物を大切にしないときつく叱られた幼少期を送った私とは大違いだ。書物を踏もうものならシスターの怒号が響いた慈童苑時代が懐かしい。……戻りたくはないけれど。
「やぁどこにしまったか全く思い出せなかったけど、やっと見つけたよ」
一仕事終えたようなさわやかな笑みを浮かべてミサキさんは戻ってきた。一冊の文庫本を手にして。
「原作は随分昔ので、何十年も前に一度映像化されたんだけど、今回鴻上彌一の手によって復活するってわけよ」
私に投げて寄越された文庫本。
「『ディレッタント』……どういう意味?」
「学問や芸術を楽しむ好事家って意味だったかな? 確か」
「ふぅん」
表紙はなんだか大正浪漫の雰囲気を醸し出している豪奢な洋室。ビロードか何かの手触りのよさそうな絨毯、重厚な壁、猫足の椅子。ランプシェードの骨はなんだかすごく凝った彫刻がされていて、現実離れしている気がする。
「ねぇ、これ、本当に岐阜なんかでロケするの?」
岐阜の持っているそこはかとない泥臭さというのか、田舎くささというのか、そういうものを一切合切排除したような印象の小説なのに、なぜにロケを岐阜で?私の貧困脳では理解できない。
「あらすじくらい読みなよ……ユキちゃんはホントお馬鹿可愛いんだから」
そこら辺のお馬鹿タレントと同列に並べられてしまった。不本意だ。不如意だ。不愉快だ。これでも一応専門出てんだからな! 大卒じゃないけど高校だって奨学金もらってたんだからな! 色々言いたいことはあったけど、とりあえずそれは腹の中にしまっておいてミサキさんの話を聞くことにした。
「時は明治・大正時代。加速度的に進む欧化政策と根強く残る日本人の精神。主人公の村崎誠一郎は何よりも芸術を愛し、美しき歌姫・静音を妻として娶る。身分違いの結婚、静音の奔放さ、家督を継いだ義兄・義弥との確執。華々しい時代の栄光とその影を描いた時代小説……ていうのが裏に描いてあるあらすじね。岐阜ロケはね、鵜飼いを見るために旅行に来ていた誠一郎が小悪魔的な女に誘惑される場面を撮るんだって」
「……なんだか難しそうな話だ」
「そうでもないわ。結局詰まるところは愛と欲望、夢と現実の物語なのよ」
身も蓋もない。鼻で嗤うようにミサキさんは『ディレッタント』をベッドに放り投げた。
「その作者はたくさんの小説を書いたけれど、この『ディレッタント』しか評価されていないわ」
「えぇ? そうなんだ」
カバーについている著者作品は二段も埋まっているのに……。不憫な人だ。
「でも『ディレッタント』が半端なく売れちゃったし、映画も大ヒットしてすんごい儲かっちゃったのよ。そんで、なんかの雑誌に掲載されたエッセイが馬鹿みたいに面白くてさ、その人、小説の仕事よりエッセイの仕事の方が多くなっちゃってね、今じゃ朝のニュースのコメンテーターしてるのよ」
「……あ、よく見たらホントだ。この人、朝8時の人だ」
吉井さく造。大胆かつ繊細なコメントが結構受けているご老人だ。柔らかな物腰と口調でとんでもない毒をたまに吐くことで評判のあの人か。
「読んでみようかな……」
「あ、よかったら映画のディスクもあるよ。今日帰り際にさ、文城さんがくれたんだ」
まだ片付けられていない旅行鞄の中から一枚のDVDが出てきた。
「本当はVHSなんだけどさ、わざわざ焼いてくれたんだよね! もうホント文城さん男前! マジリスペクト!」
出鼻くじかれた。ほとんど本なんて読まない私が珍しく読む気になったというのにこの人は。どうしてそう安楽な道へと誘うんだろう。
「ユキちゃん、今読まなくてもいいやとか思ったでしょ。駄目だよ、ちゃんと読まないと! 読むまで映画見せないからね」
「何でそんなにスパルタなの? 先生なの? ミサキさん、いつからそんな人になったの?」
でもさすがに今から映画観る気にも本読む気にもなれない。だってもう9時だもん。そう言うとミサキさんはそうだね、と同意してくれた。明日も早い。私達は適当なお菓子を夕飯代わりにして、二人で風呂に入って一緒に寝た。久しぶりにミサキさんが隣にいる。自分以外の人の温もり、シャンプーの匂い、かすかな寝息。
「……楽しそうな顔して」
映画を語るミサキさんは近年まれにみるハイテンションだった。クールビューティーなミサキさんをここまでにする映画がなんだか、憎い。私のミサキさんが遠くへ行ってしまうようだ。
……馬鹿なことを考えるのはやめよう。私も目を閉じて夢の世界へ旅立つ。今日はもう怖い夢は見ない。いつものように甘ったるい夢を見る。




