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呪いのように愛しましょう

「泡沫様!」

 俺を見つけるやいなや、八重樫は俺のもとに駆け込んできた。

「泡沫様! 大丈夫ですか? お怪我は、お怪我はございませんか?」

 八重樫は俺の体をあちこち触って怪我の有無を確かめてくる。

 それを鬱陶しいとは思わなかった。それどころではなかった。何故なら、俺の事を心配している彼女の方が遥かにボロボロだったからだ。

 服は所々破けてしまって、不自然に開いた穴からは転んだか何かして傷ついたであろう肌が見えていた。服が破れていない箇所でも血がにじんでいる場所がいくつかある。残っている服も体と一緒に土や汚れだらけだった。鼻は赤くなり、眼は腫れ、茶色くなっていた頬には涙の通った跡もあった。

 八重樫は馬鹿だった。

 じっくり腰を落ち着かせて次の手を考えたりなどしていなかった。

 こいつはずっと俺のことを探してたのか。

「私、私ずっと、泡沫様を探して……で、でも見つからなくて! それで!」

 子供のように泣きじゃくる八重樫を俺はそっと抱き寄せた。それこそまるで子供をあやすように彼女の背中を優しく叩いた。俺も母にこんな風にされた日があったのかもしれない。だとしたら、母というのはみんなこんな気持ちなのか。こんなにも、何かを愛しいと思えるものなのか。

「大丈夫だ。俺は大丈夫だ。それに言わなくたって、お前が必死になって俺を探してくれていたことはわかるよ。今のお前の姿が何よりの証拠じゃないか」

 どれだけ駈けずり回ったのだろう。

 どれだけ泣き叫んだのだろう。

 休むこともせず、ボロボロになってまで八重樫は俺を探してくれた。

「ありがとう、八重樫。またお前に助けられた」

「……でも、もっと早く私が来れれば」

「何言ってんだ。これ以上ないくらいベストタイミングだよ」

 ハンカチを持っていなかったので、着ていたTシャツで彼女の顔を拭いてやる。俺の服が汚れることを彼女は心配したが、いいからと俺が言うと大人しくなった。涙で濡れていたせいもあり、彼女の涙を塗りたくるような拭き方だったが、おかげですぐに綺麗になった。

 がらがら、と部屋の奥の方で音がした。見ると、シャクナゲが自分の上に乗っかっていた瓦礫を振り払っていた。シャクナゲの髪がざわざわとまるで一つの生き物のように呼応していた。

「海藤から離れろ、小娘! それは私のモノだ!」

 シャクナゲは叫んだ。

 そのヒステリックなまでの叫びに八重樫は臆することなく答える。

「それは聞き捨てなりませんね。泡沫様はあなたのモノなどではありません」

「ふん! ならば自分のモノとでも主張するのか?」

「いいえ。泡沫様は誰のモノでもありません。むしろ私が泡沫様の所有物です。私は彼のために存在しています」

 八重樫の返答が予想外だったのか、シャクナゲは口をつぐんだ。

 俺は驚かなかった。なんとなくそういうと、わかっていたから。

「……何故、ここに来れた」

 シャクナゲが問うた。八重樫が答える。

「確かにここには迷わせの結界が張ってありましたね。私は結界の解除だとかそう言った器用な真似が得意ではありません。ですが、知識がないわけではないのです。迷わせの結界というのは物ノ怪の住まう場所や秘境などにかけられていることが多いものです。しかし、歴史や物語をひも解いてみると、そういった秘境にたどり着いた人間や物ノ怪の住処に迷い込んでしまった人間は必ず存在しています。それも当たり前、行ったことのある人間が誰一人いないのでは、そんな場所は存在していないのと変わりありません。では何故人はそう言った場所に迷い込むことができるのでしょうか。それは迷わせの結界の持つある特性に起因しています」

 八重樫は淡々と語る。もうすでに彼女は泣き止んでいた。切り替えの早いやつだ。

 いつの間にか彼女の手は俺の背中に回されていた。俺たちは互いに抱き合っているようだった。

「迷わせの持つ特性、それは地形記憶です。人を迷わすにあたり、結界はまず発動時に周辺の地形を記憶します。そしてそれに準ずる形で人を迷わすのです。つまり迷わせの術というのは本来一度かけたらそれでよいというものではなく、地形の変化に応じてかけ続けなければいけないものなのです。秘境や住処に現れる人は、運よく――または運悪く迷わせの効力の弱まった所でその周辺に訪れてしまったのです」

「そんなものは言われんでもわかっておる。だが、それが今回と何か関係があるのか? まさかそんな短期間で地形が変わったりはせんだろう。私は何故ここに来れたと聞いておるのだ。質問に応えよ、小娘」

「そう焦らないでください。これでも私は誠意を持ってそちらの質問に答えているつもりですよ。それに、短期間で地形が変わらないと断言はできないと思います」

「なんだと?」

「現代に置いては、家や建物もまた地形でしょう? いえ、もういっそ環境といった方が適切かもしれませんね。地形記憶ではなく環境記憶とでも言いましょうか。いずれにせよ、ここまで言えばもう想像はつくでしょう」

「まさか、小娘……!」

 シャクナゲは驚愕の表情を浮かべた。驚いたのだろう。

 そう、つまり彼女は――八重樫はその環境とやらを変化させたのだ。彼女の持つ言術という力を知っているのならば、そのやり方は容易に想像がついた。彼女は家や建物を、愛の障害を文字通り破壊しつくしてここまで来たのだ。俺のもとまで来たのだ。

「とは言っても、まさか私だって人の住まう場所を破壊するほど見境なくはありません。きちんと人のいない、買い手を募集している住まいやとっくに潰れた文房具店などを選んで壊しました。それでも若干足りなかったので壊した家の瓦礫を道路に置いて道を失くすことで対応しました。朝になったら騒ぎになっているかもしれませんね」

 そんなことを他人事のように八重樫は語った。

 いや、確かに他人事なのだろう。人の住んでいる家を避けたというのも余計なトラブルを起こさないようにするくらいの意味しかないのだろう。

 あくまでも俺のために。

「……」

 そんな八重樫の奇行を目の当たりにして、シャクナゲは言葉も出ないようだった。

 まさか人間がこんなことをするとは思いもしなかったんだろう。八重樫の危険性を警戒していたはずだが、それでも想像はできなかったのだろう。長らく人間を見てきたシャクナゲには人がここまで単純に行動できる事が想像できなかった。

「いやぁ、それにしても泡沫様とはぐれてしまった時はどうなることかと思いましたが……いつのまにか最初の術からも抜けられていましたし。あなたがご丁寧に結界なんかを張っていてくれてもいました。もちろんあなたも泡沫様も結界の中心にいるはずですから、この場所もすぐに見当がつきました。迷わせの術が目印になって迷わずに来れたというのは、皮肉にしたって出来すぎでしょうか」

 八重樫の声には勿論感情なんて込められていないが、俺には少しだけ怒っているようにも聞こえた。どうにも相手を挑発しているように聞こえる。シャクナゲがそこまで感じ取ったかは定かではないが、彼女は悔しそうにその綺麗な顔を歪ませて白い歯をむき出し、歯ぎしりをした。ギリギリと、音が聞こえてくるようである。

「小娘が……、人間ごときが……、私の邪魔をしおって…………貴様さえ、貴様さえいなければ海藤は!」

「自分のものになると? それは違いますね。私なんかがいなくとも泡沫様はきっとあなたにはなびかないでしょう」

「何故貴様にそれがわかる!」

「私は泡沫様を愛していますから、泡沫様が考えることは大抵わかります」

 そんな恐ろしいことを口走った八重樫は妙に誇らしげに胸を張った。その態度がますますシャクナゲを不快にさせる。

「貴様は愛という言葉を多用するが、しかし貴様のその愛が本当であるという証拠があるのか!」

「ありませんよ。愛はいつだって想いと行動により愛する者に証明されるべきもの。見ず知らずのあなたに証明する手立てを私は持ち合わせていません」

「屁理屈を!」

「事実です。私の愛は本物ですよ。誰が何を言おうと私の愛は愛です。では逆に問いますが、他人の言葉で簡単に揺らいでしまう気持ちをあなたは愛と呼べるのですか? 他人の証明がなければ愛の存在も信じられないあなたは本物の愛を知らないのでは?」

「う、うるさい! うるさいうるさいうるさい!」

 まるで子供のように頭を抱え耳を塞ぎ、シャクナゲは叫ぶ。

「黙れ! さえずるな! 喚くな! 私は貴様が嫌いだ! 貴様の声など聴きたくもない!」

 気圧されることなく、八重樫は冷静の言葉を返す。

「そうですね、私もあなたが嫌いです。あなたは泡沫様を傷つけました」

「貴様もいずれ、傷つけるぞ! 貴様の愛は思い人を必ず不幸にする!」

「なんでしょうか。私は泡沫様をさらって殺そうとしたあなたの真意は知りませんが、あなたにだけは言われたくない気がします」

 それに、と八重樫は続ける。

「それに私の愛が誰かを傷つけることはあっても、泡沫様を傷つけることなどありえません。真実の愛は思い人を不幸にすることなどありませんよ。何故なら、そうなるとわかった時点で私は命を絶つからです。泡沫様の幸せのために死ぬことを、私は厭いません」

「ならば……海藤のために殺すことも?」

「場合によっては。ただ、それに関しては泡沫様が望まれませんでしょうね。それこそ思い人を不幸にする行為です」

 何故だ、とシャクナゲが言った。繰り返すように問う。八重樫に、何故なのだと。

「何故、どうしてそこまで貴様は言えるのだ。いや言うだけではない、貴様はそれを実行してみせるだろう。当然のように、当たり前のように、私が壊れてまでもできなかったことを貴様は壊れることなくやり遂げるだろう。どうしてだ、どうして貴様はそこまで愛を貫ける」

「簡単ですよ。私は誓いをたてたのです。神でも、仏でもなく、自分自身への誓いです」

 すると八重樫は俺の手を握り、それを自分の胸、心臓の部分にあてた。そうして、うっとりとした顔で語った。

 それは呪いのような、誓いの言葉だった。

「狂おしいほど愛しましょう――いじらしいほど愛しましょう――けたたましいほど愛しましょう――汚らしいほど愛しましょう――めまぐるしいほど愛しましょう――慎ましいほど愛しましょう――白々しいほど愛しましょう――涙ぐましいほど愛しましょう――妬ましいほど愛しましょう――賤しいほど愛しましょう――清々しいほど愛しましょう――むさくるしいほど愛しましょう――奥ゆかしいほど愛しましょう――煩わしいほど愛しましょう――ふてぶてしいほど愛しましょう――紛らわしいほど愛しましょう――痛々しいほど愛しましょう――重々しいほど愛しましょう――軽々しいほど愛しましょう――荒々しいほど愛しましょう――生々しいほど愛しましょう――刺々しいほど愛しましょう――蝶々しいほど愛しましょう――恐ろしいほど愛しましょう――神々しいほど愛しましょう――女々しいほど愛しましょう――男々しいほど愛しましょう――恭しいほど愛しましょう――賑賑しいほど愛しましょう――凛々しいほど愛しましょう――事々しいほど愛しましょう――初々しいほど愛しましょう――古古しいほど愛しましょう――図々しいほど愛しましょう――寒々しいほど愛しましょう――弱々しいほど愛しましょう――由々しいほど愛しましょう――毒毒しいほど愛しましょう――瑞々しいほど愛しましょう――淡々しいほど愛しましょう――浅浅しいほど愛しましょう――長々しいほど愛しましょう――猛々しいほど愛しましょう――鬱陶しいほど愛しましょう――疎疎しいほど愛しましょう――細々しいほど愛しましょう――空々しいほど愛しましょう――苦々しいほど愛しましょう――騒々しいほど愛しましょう――甲斐甲斐しいほど愛しましょう――冴え冴えしいほど愛しましょう――物々しいほど愛しましょう――美々しいほど愛しましょう――艶々しいほど愛しましょう――華々しいほど愛しましょう――愛愛しいほど愛しましょう――愛おしいほど愛しましょう――ただ、ただ、あなただけを愛しましょう。と、私はそう誓っているのですよ」

 私はその誓いに従っているだけだと、八重樫はそう言った。

 そんな誓いは殆ど呪いのようなものではないか。俺はそう思った。そしてその通りだ。彼女は自分に呪いをかけたのだ。

 何があってもたった一人を愛し続ける呪い。

 たった一つのために他の全てを諦める呪い。

 俺のために誓われた、呪いの言葉。

 ああ、なんて――なんて美しいのだろう。彼女の心に、彼女の言葉に、その一片の曇りもない美しさに触れるだけで、俺は息ができなくなるような気持ちになった。

 八重樫なずなの愛は美しい。

 だけれど、それを素直にそのまま伝えるのは癪なので、俺は悔し紛れのような言葉を口にした。

「ほんっとにイカれてやがるぜ、お前」

 八重樫は恐縮です、と頷いた。

 褒めてねぇよ、ばーか。

「くふふふ、くふふふ」

 シャクナゲは笑っていた。愉快そうに、静かに笑っていた。

「そう、そうかそうかそうか。つまりは貴様、なんでもよいのだな?」

 それだけ言って、シャクナゲはまた笑った。

「良いぞ! 好いぞ! その心の在り様、見事なり! だがどうだ、貴様がどれだけ愛を語ろうと、貴様の愛がどれだけ真実に近かろうと、私は海藤を諦めるつもりはないぞ! 例え偽物だろうとも私はそれを貫き通そう。何があろうと私は諦めん。たかだか数年生きた程度の小娘に私の気持ちがわかるわけがない!」

「わかりませんよ。もとよりわかるつもりもありません」

「そうだな。それでよい。馴れ合いは無用だ」

 じりりとシャクナゲがにじり寄る。八重樫も俺の手から離れ立ち上がり臨戦態勢に入った。

 シャクナゲは笑顔のまま眼だけで八重樫を睨みつける。

 八重樫は無表情だった。

「それで、どうする小娘よ。貴様も中々イカれておるが、私はそもそも終わっている。壊れて終わって滅茶苦茶だ。正直取り返しがつかない。自分でもどうしようもないのだからのう」

「何が言いたいのですか?」

「私は例え死んでも海藤を諦めないということだよ。くふふ」

 がらんどう。そしてしゃにむに。

 シャクナゲは二言呟いた。

「この部屋の扉を吹き飛ばしたのも貴様のがらんどうという言術だろう? あれは見た目は派手だが、しかしただの物理攻撃にすぎん。人間や物質相手には丁度よいだろうが、私を相手に取るにはいささか無謀な術だのう。私は物ノ怪だ。物ノ怪のカミツキだ。がらんどうは私を吹き飛ばすことはできても殺すことはできん。となると、貴様はしゃにむにを使うしか選択肢は残されてはおらん。あれは強力な退魔の言術。私のような穢れの強い物ノ怪はひとたまりもない。しかし! それにも弱点がないわけではない。どれだけ強力な術だろうと、私ほどの穢れを焼き尽くすには時間が掛かってしまう。五秒か十秒か、それだけの時間があれば私は簡単に海藤を殺すことができる。この髪を使ってのう」

「おかしいですね。今までの言動を考えると、どうやらあなたは泡沫様を好いているように思われますが」

「ああ、好きだよ。私は海藤を愛しておる。だから殺す」

「なるほど、壊れていますね」

「百も承知!」

 シャクナゲが高らかに笑う。壊れて終わった物ノ怪の空っぽの笑い声だ。

「くふはははは! さあどうする、ニンゲンの小娘よ! しゃにむにか? がらんどうか? それとも二つとも使うか? しゃにむにのあとにがらんどうというのは一見正攻法のようにも見えるが、しかし海藤の部屋の時に私は気づいておる。貴様のしゃにむには効果範囲が狭いのだ! がらんどうを使って私を吹き飛ばせば身の安全は確保できるが私を燃やし尽くすことができない! これで手詰まりだ! さあどうするのだ小娘よ! さあさあさあ! 早くせんと海藤が死んでしまうぞ? 貴様の愛する人が永遠に私のものになってしまうぞ?」

 シャクナゲは楽しそうだった。嬉しそうだった。自暴自棄にも見える彼女は終始笑顔ではあったが、心は泣いているような気がした。先程笑いながら泣いていた彼女の顔が頭から離れない。

「……別に私は泡沫様を独占するつもりはありません。泡沫様が誰を好きになろうと私にはそれを否定する権利などありません。ですが、泡沫様の命を奪わせるわけにはいきませんね。全力で向かい打ちましょう」

 八重樫の覚悟、その愛は、シャクナゲの言葉でも全く揺らぐことがなかった。彼女はあくまで俺を守りきるつもりだ。シャクナゲはさすがに少し驚いた風だった。

「わからんのか! 貴様の言術では海藤を守り抜くことなどできんのだぞ!」

「わかりませんよ。本当にわかりません。そもそもあなたは何故、私の言術が二つしかないと思っているのですか?」

「は?」

 シャクナゲが笑顔のまま固まった。

「な、何を言っておる。言術なんてものを貴様のような小娘が扱える時点でおかしいのに、複数の術を使いこなせるわけがないだろう! 二つ使える時点でも狂気じみているというのに、そんな! そんな馬鹿なことが……!」

 シャクナゲは叫んだ。それはまるで自分に言い聞かせているようにも、都合のいい言い訳のようにも聞こえた。つまり、現実から逃げている。

 俺も、シャクナゲも当にわかっていた。八重樫なずなの異常性を。

 こいつなら、何をやってもおかしくはないということを。

「【うぞうむぞう】」

 耳元で囁かれるような不思議な感覚。八重樫の言術だ! たった数ヶ月で習得したという三つ目の言術!

 瞬間、彼女の影が地を這うようにうごめきだした。それはまるで世界を浸食する闇のように広がって行く。

「あなたのその髪、かなり強力みたいですね。それ、伸縮自在で硬度も変えられるのでしょう? 確かに五秒もあれば首を絞められるどころか落とされてしまうかもしれません。――――しかし、あなたの黒もさることながら、私の《ヤミ》も中々なんですよ」

 言っている間も八重樫の影――否、ヤミは床を伝って広がっていく。それがテーブルに達した瞬間、まるで暗い路地に瞬時に引き込まれるかのようにテーブルがヤミに飲まれた。テーブルだけじゃない。地を這う八重樫のヤミは触れるものをことごとく引きずり込んだ。

「説明は不要ですかね。見ての通りこれは触れたものを飲み込むヤミの術。あなたという物ノ怪も、その穢れも例外じゃありません。ただまあこれ、欠点がありまして。あなたは私が言術が使えることをおかしいと言いましたが、私だって十全に使えるわけではないのです。退魔の術の範囲が狭いのと同じで、これもまた不完全な術。動きが遅いのです。のろのろしているように見えるでしょうが、実はこれが最速です」

 それでは五秒所かもっと沢山の時間をシャクナゲに与えることになる。ヤミがどれだけ一瞬で黒を飲み込もうと、それは触れなければ意味がない。

 シャクナゲもそれに気づいたのだろう。その長い黒を俺めがけて伸ばしてきた。躊躇いはなかった。

 しかし、それで俺が死ぬはずがない。

 この程度で八重樫なずなが終わる訳がない。

「【あくせく】」

 耳元で八重樫の声がした。

 四つ目の言術!

 初めからシャクナゲの攻撃を予想していたかのように語られたその言葉は、黒の動きを完全に止めた。いや、黒だけじゃない。シャクナゲの動きが全て止まってしまっている。固まって、動かない。

「これは単純な金縛りの術です。あなたほどの物ノ怪相手では三十秒止めるのが限界ですが、それでも十分でしょう。それだけあれば、私のヤミはあなたを飲み込みます」

 動けない、声すら出せなくなっているシャクナゲの足元へヤミが届いた。それはいつかの黒のようにシャクナゲの足を這うように上へ上へと上がって行く。

「ちょ、ちょっと待て!」

 そこで俺はこ声をあげた。

「飲み込むって、それじゃあシャクナゲも、あいつも死んじまうんじゃないか?」

 それは――それは嫌だ。

「あいつは、あいつは確かに俺を殺そうとしていた、でも――」

「――大丈夫ですよ」

 彼女は俺の考えがわかったのか、大丈夫だと、そう言った。こちらを真っ直ぐに見つめ。裏のない誠実すぎる言葉でいった。

「ただ殺すだけなら金縛りと退魔の術で十分です。私がわざわざヤミを使ったのには理由があります」

 八重樫の説明の間もヤミは動き続けていた。

 暗く深いヤミがシャクナゲを包んだ。


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