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回想・カミツキ

 風呂から出て体を拭き、もと着ていた服に身を包んだ俺はもといた部屋に戻る。すると、そこには布団が敷かれていた。二人用のデカい布団だった。

「まだ夜も早いが、寝てしまうか?」

 その上に座っていたシャクナゲが首を傾げながら尋ねる。俺は首を横に振った。

「昼間寝ていたから、まだ寝られないと思うぜ」

「そういえばそうだったのう。ならこのまま朝まで語り明かすか? 私はこれでもお喋りなのだ」

 にこにこと楽しそうに、彼女は自分の隣をぽふぽふと叩いた。そこに座れということらしい。俺は素直に彼女の隣に座った。するとシャクナゲは俺にもたれかかるように体重を預けてきた。さっきも思ったことだが、こいつ驚く程軽い。まるで中身のない鞄のような気持ち悪い軽さだった。

「シャクナゲ」

 彼女の名前を呼んだ。

「なんだ?」

 彼女が返事をする。甘えたような声だった。

「お前の目的を詳しく知りたい」

 俺は至極真面目なトーンで言った。シャクナゲは質問の意味を理解できなかったのかどうかしらないが、は? と言って固まってしまう。

「お前の目的はなんだ。俺になんの用がある」

 するとシャクナゲは固まるどころか口をあんぐりと開けてしまった。驚いているのか。

「そ、それはさっき話したであろう。貴様、貴様が欲しいと……」

「だから、それがどういう意味だと聞いているんだ。俺が欲しいってのはつまり俺の血が欲しいってことか? 泡沫の穢れた血が――」

「はあああああああああああああああ?」

 俺の言葉を遮りシャクナゲは今まで聞いたこともないような大声で叫んだ。

「阿呆だ。真性の阿呆が目の前におる……! 貴様まさかそんなこともわからずに今まで私の話を聞いておったのか?」

「そ、そんなこと? そんなに簡単なことなのか?」

「簡単というか、本当に何も気づかなかったのか。貴様が欲しいと言った直後に口づけまで交わしたのだぞ? それでなお意味が分からんと?」

 俺は頷く。シャクナゲはがっくりと肩を落としたようだった。そして何やらぶつぶつと呟き始める。

「そうだったそうだった。失念しておった。こやつは阿呆だったのだ。そしてどうしようもなく鈍い男なのだ。そういう意味では海藤のそこを理解してなんの捻りもなく愛を告白したあの女の選択は正しかったのか、全く忌々しい。あの小娘め…………」

「あの、シャクナゲさん……?」

 シャクナゲは眼のも止まらぬ速度で俺の腕を掴むと、俺を布団の上に押し倒した。突然のことに俺はなんの抵抗もできない。首の拘束はいつの間にか解けていた。用済みということだろうか。

「くふふ」

 シャクナゲは笑った。

「鈍感な貴様には少し強引な手の方がよさそうだのう」

 言いながら、シャクナゲは俺にのしかかるように体重をかけてくる。しかし、妙に軽い。

「私は貴様が好きだ」

 彼女は言った。笑顔のままに。

「貴様が、泡沫海藤が好きだ、穢れた血? 泡沫の業? そんなものに興味はない。貴様が泡沫だろうと泡泡だろうと関係ない。私は海藤、貴様に惚れているのだ。私は泡沫海藤を愛しておる」

 それは物ノ怪から俺へと送られた愛の告白だった。八重樫なずなという物好き以外の女子からはろくに告白もされたことのない俺だったが、どういうわけかシャクナゲの言葉を聞いても動揺するわけでもなく冷静でいられた。

 本当はもうわかっていたのかもしれない。わかっていて、その事実から目を背けていただけなのかもしれない。俺の悪癖は時と場所を選ばない。

 逃避逃避。

 今も逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。

「あの小娘も愛だなんだと言っておったが、そんなものと一緒にしてくれるなよ? あの小娘の愛など愛ではない。私の愛こそが真実だ。私は本気で貴様を愛しておる。だから、貴様を守るためにこうして――――」

 だから実のところ、逃げ出したくて仕方なかった俺は彼女が続ける告白もたいして聞いてはいなかった。

 首の拘束も解けたことだし、今なら逃げられるのでは、と思ったがそういうわけにもいかなかった。力を入れている風には見えないが、シャクナゲの腕はびくともせず、俺の腕をつかんで離さない。

「どうして、」

 諦めた俺は言葉を紡いだ。恐怖を振り払うように、せめて虚勢を張ろうとした。

「どうして、俺に惚れたんだ。俺は人間で、お前は物ノ怪だろう。種族を超えた愛とか、そういうレベルじゃない。存在からして、違うんじゃないのか?」

 すると、シャクナゲはふっと笑顔を消した。その顔から表情を消した。そうすると、彼女の美しさが際立つような気がした。

「そうだのう。その辺の事情も語ってやるかのう。これも前戯の一つだ」

 そう言うと彼女は俺の腕から手を放し、体を起こした。今俺を縛る拘束はシャクナゲが俺のお腹の辺りに乗っているだけだ。再び逃げられるのではないかと思ったが、お腹の上に乗られているだけなのに振り払うことができない。それどころか俺は指一本動かせない状態だ。金縛りというやつだろうか。なんにせよ脱出は不可能のようだ。

「私はこれでも古い物ノ怪でな、およそ三百年ほど前。江戸の時代から存在する物ノ怪だ。そして一時期、というか殆どを神として過ごしてきた」

「神、って。まさか神様か?」

「うむ」

 縁結びの神だったのだよ。とシャクナゲは言った。

「私はとある事情で神になり、神社の祠に住まっていた。あまり大きくはないが、私を祀る祭りもあったくらいには、人間にも近しい神だった。毎日若人どもが参拝に来ていたよ。私はそんなやつらの縁を結んでやったりやらんかったりだった。時折人間の前に姿を表したりしてのう。大抵の人間は驚いて逃げてしまうのだが、たまに貴様のような肝の据わったやつがいてのう。そういうやつとは個人的に仲良くなったりもしておった。楽しくやっておったよ、その時は」

「その時はってことは……」

 そう言いかけた俺の言葉を彼女小さく頷くことで遮った。

「時代のせいか、次第に人は神を信じんようになった。めったに姿を現さん神や妖怪なんぞよりも目に見える確かなものを信じるようになったのだ。いつのまにか祭りも行われなくなった。誰も私を信じないし、祈らない。誰も私の祠に寄りつかんようになった。初めて独りというものを感じたよ。海藤、貴様は知っておるか? 独りはとても、冷たいのだ」

 冷たい、とシャクナゲは笑い泣きのような顔で言った。

 そういえば人の姿をしていたので気にしていなかったが、シャクナゲには体温というものがあるようだ。彼女の乗っているお腹が微かに温かい。死人や幽霊というわけでもないのだから当たり前かもしれないが、彼女が温かいという事実は何故か不気味に感じた。

「それから人が来なくなった後も、私は祠に残った。神ゆえに縛られ動けないという事情もあったのだがな――――ああそういえば一度他の物ノ怪に神などやめて遠くの山にでもいかないかと誘われたことがあったな。もちろん断ったよ。私は待っていたからな、また人が来るのを」

「……どうして待とうなんて思ったんだ。正直今の人は初詣くらいしか神社なんかにゃ訪れないだろう。年中に賑わっているのは一部の有名なとこだけだ。お前の言う昔と今じゃあかなり差はあるだろうが、その点に置いてはあまり変わりはないんじゃないのか?」

「恥ずかしながら、そのころの私は若かったのだ。物ノ怪に年齢の概念なんてありゃせぬが、それ以上に私は若く幼く、愚かだった。私はまるで夢でも見るように考えていたのだ。いつかまた誰かが私のもとに来てくれる。またこの祠のもとで賑やかな祭りが開かれるかもしれんと、それこそ夢見る乙女のように考えておった。だから物ノ怪たちの誘いにも乗らなかったし、どこに行くこともなく、誰にも望まれぬ神なぞやっておった。結果的にそいつは間違いでしかなかったのだがな」

 それで、と俺はまた疑問を口にした。

「それで結局どうなったんだ」

 シャクナゲは少し俯きながら言った。

「もういくつの歳を巡ったのか数えようともしなくなった時、貴様が丁度上京してきた頃、私の祠に人が来た。それも一人ではない、三人だ! 男が二人、そして女が一人だ! 一体何年ぶりだろう。どれほどこの時を待ちわびたか……! 私は姿を現すべきか否か考えておった。現すならなんて言って出て行こうか、だが急に出て行ったら驚かせてもうこなくなってしまうかもしれない。でも、今出て行かないとやつらが二度も来るとは限らない。そんな風にどうするべきか迷っていたよ。どちらにせよ期待はしていた。とても、嬉しかったからのう。しかし、次の瞬間に私の期待はあっけなく裏切られた。やつらは、あろうことか私の祠を取り壊し始めたのだ!」

 彼女の顔が歪む。

 歪に崩れる。

「それの――――それのなんたる勝手なことか!」

 怒っていた。シャクナゲはその綺麗な顔にはっきりとした怒りを浮かべて、燃え上がるような憤怒に瞳を染め上げた。

「それが私の祠だったことはこのさい問題ではない。別にそんなものがなくとも神は続けられる。唾を吐きかけられようと私は気にもとめんし、例え雨や風がその祠をなぎ倒そうとも私は神でいるつもりだった。だが! だが! あの祠は何も私が住んでいるだけのものではないのだ! 私だけのものではないのだ!」

 シャクナゲは叫ぶ。怒りに歪んだ顔で俺に何かを伝えようと。

 時折彼女の声に哀しみが響くのは気のせいだろうか。

「あの場所で結ばれた者たちがいた! あの場所で愛を語らった者たちがいた! あの場所で祭りが開かれた! 人が、たくさん! 集まった! あの祠のもとにはたくさんの人が集まっていたのだ。人が集まるということは、人の想いも集まる。例え今は寂れようと、あの場所には先人たちの想いが確かにあったのだ! それをやつらは知らずに、否! 知ろうともせずに平気な顔で踏みにじりおった! その時点で私はそいつらを殺すつもりだった。しかしほんの一瞬だけ冷静さを取り戻した私は理解した。たかが一瞬でわかってしまった。祠を作ったのもまた同じ《ニンゲン》なのだと」

 絶望したよ。

 そう言うシャクナゲの瞳に既に怒りはなかった。ただただ諦めのような静寂があるだけだ。

「作るのもニンゲンなら壊すのもニンゲン。やつらは好き勝手作り好き勝手壊す。そこに誰かの想いがあったことなど気にもしない。我が物顔で全てを踏みつける。それがニンゲンだ。泡沫の業などよりニンゲンの業の方が遥かに醜くおぞましい。私が信じ求めていた存在がそんなものだったのだ。そんなもののために私は長い間待ち続けていたと思うと煮えたぎるような怒りが、恨みが、怨念が湧き上がってきた。祠を取り壊したやつらにではない。ニンゲンそのものにだ。その時私は自らの内に湧き上がる怨念に身を焼かれ、その身は穢れを生み、私は神から物ノ怪へと変貌した。物ノ怪――カミツキ――の誕生だよ」

 その身に穢れを生んでしまったシャクナゲは神で居続けることができなくなったという。

 人への恨みが、失望が、絶望が、彼女を物ノ怪へと変えた。

 カミツキへと、変えたのだ。

「そのあとしばらくのことを私はよく覚えておらん。確か泣いておったような気がするのう。怒りやら哀しみやら恨みやらで私の精神はめちゃくちゃだったからのう。バランスを保つために不様に泣き喚いていたと思う。そんな時だ、貴様が私のもとに現れたのは」

「俺……?」

 言って、首を傾げる。シャクナゲは黙って頷いた。

「覚えておらんか? まあ貴様は逃避を得意としておるから無理もない。逃避というか忘却かのう。貴様はそんな自分の性分を悪癖と呼んでおるようだが、私に言わせればむしろそれよりも――――いや、よそう。この話はまた今度だ。それで、貴様本当に忘れておるか? ほら、貴様が上京したての頃、近くの神社やらなんやらを巡っておったであろう」

 そう言われて、俺はいきなり思い出した。

 俺が母のことで覚えている姿で一番印象深いのは母が何かに祈っている姿だ。あの人は暇さえあれば神棚や仏壇、さらには何もないところにまで祈っていた。俺は単純に母は迷信深い人なのだと思っていたが、今にして思えばあの人は迷信を信じているのではなく、知っていたのだろう。そういう人の及ばぬ存在があることを、泡沫の業と共に知っていたのだろう。

 何を祈っているかは、母は教えてくれなかった。まあ大したことではないだろうけれど。

 とにかくそういう事情もあってか、俺は神様の存在なんて信じてはいなかったが、一種の儀式と言うか形式として何かに祈り縋る行為に特別な思い入れがあった。高校の受験の時も頻繁に近くの神社に訪れたものである。そして、受験に合格し上京してきた俺はまず高校やマンション周辺の神社や祠、社なんかを巡っていたのだ。

 そう、だから多分その時の……。

「も、もしかしてあそこか? 無くなっちまった祠っていうと、うちの裏の竹林にあった」

 思い出した。そうだ、あそこに小さいけど祠があるという話を聞いて足を運んだが、区がそこに公園を作るだとかなんとかで祠は取り壊されてしまっていたんだ。今では密に茂っていた竹も半分ほどかられてしまっている。

 あそこか……。

「あそこに、お前はいたのか」

 彼女は頷いた。

「そうだ。私はそこにいた。そこで哀しみ泣いておった時、貴様が私のもとに訪れたのだ。当然その時、私は姿を見してはおらぬ。もはや人間に声をかける意味もない。私の個人的な怒りを買わぬうちにさっさと失せろ、とそう思っておった」

 だけど、俺はすぐにはいなくならなかったらしい。しばらく周りを見渡すようにしたあと、その場にどっかりと腰を下ろした。「もう片付けちまったのか」とか「最初に来ればよかったなとか、そんなことを言っていたらしい。まるで、誰かに語りかけるように。残念ながら俺はそこまで覚えてはいない。なんだろうとすぐ忘れるのが俺だ。でも確か、その時俺は団子を持っていたと思う。雛月屋のみたらしだったはずだ。

「私と貴様はまるで向かい合って座っているようだった。勿論貴様に私のことが見えているはずはない。ただの偶然だ。そのあとパックに入った団子を貴様が地面に置いた時、丁度私の膝の上の所だったのも偶然でしかない。そして――」

「――そして俺は手を合わせた」

 シャクナゲの言葉を遮るように、また続くように俺は言った。

 記憶が甦る。

 あの時の俺は手を合わせた。なんのため? もちろん祈るためだ。何を祈ったかなんて知らない。だけどあの時俺は確かに祈っていた。ここにあったはずの祠に、ここにいたはずの神様に確かに俺は祈っていたのだ。

「しばらく目を閉じたあと、俺は祈りを止めて言った――」

「――団子、半分貰っていいか? 好きなんだと、」

 俺の言葉を遮るように、また続くようにシャクナゲは言った。

「ここ、公園になるみたいだな――」

「――どうせなら祠も残せばよかったのに」

 俺たちは互いに当時の俺の言葉を言い合った。

 記憶を探るように。

 思い出を語るように。

 確かな事実を確認するように。

「切った竹はどうするんだろうな――」

「――近くの幼稚園で何本か七夕用に貰ったって話を聞いたんだ――」

「――竹林だった頃はもしかしたらタケノコも取れたのかもしれないな――」

「――ここのことを教えてくれた近所のお婆ちゃんが大昔はここでお祭りもやってたらしいな――」

「――まあそのお婆ちゃんも見たことないくらい大昔なんだけどさ――」

「――できれば一度でも見ておきたかったぜ――」

「――お祭り、好きなんだ――」

 今にして思えば、俺は一人でぶつぶつ何を言ってるのかと思うが……。

 だけど、俺には見えないけれど、そこにはこいつがいたんだ。シャクナゲが、彼女がいたんだ。

 彼女の姿は見えなかった。

 彼女の声は届かなかった。

 だけど、俺の声は届いていた。

 ずっとずっと一人きりだった彼女のもとに、俺の声は届いていた。

『――寂しいな――』 

 最後に俺たちは同じ言葉を発した。あの時ももしかしたら彼女はそう言っていたのかもしれない。

 あったはずのものがなくなってしまった、あの場所は酷く寂しいように思えたのだ。

 そして、団子も食べ終えた俺は一人その場をあとにした。

「――歩いて行く貴様の背中を私はずっと見つめておった」

 シャクナゲは泣いていた。俺の頬に涙が落ちる。

「嬉しかった。貴様は見えていなかっただろうが、私は本当に嬉しかった。人と向かい合ったことなどいつぶりだろうか、供え物を貰ったことなどいつぶりだろうか、人と話したことなどいつぶりだろうか……! たまらないくらい嬉しかった。さっきまで人に対し絶望していた気持ちはどこかに吹き飛んでしまった。未練がましいが、私はやっぱり人が好きだったのだ。私は人を憎んだが、憎み切れていなかった。貴様の何気ない行動が、優しさが、私を救ったのだ。貴様のおかげで私は、人を呪わずにすんだのだ。そうして私は貴様に恋をした。海藤を好きになった。愛してしまった。だから守ろうと思った。貴様を傷つける全てから、私は貴様を守り抜こうと……」

 愛している。

 彼女は言った、

 愛している。愛している。そう繰り返す。

「愛している。愛しているんだ、海藤。私は貴様を心底愛している。だから、私と一緒にいてくれ。私とここで暮らそう。世俗も何もかもから解き放たれ、私と共に自由に生きるのだ。そういう人生も素敵だとは思わんか?」

 俺の頬に垂れた自分の涙を撫でるように拭いながら、本当に愛しいものを見る目で彼女は言った。俺に愛を告白した。

「ごめんなさい」

 そして俺はそれを断った。迷いはなかった。

 途端にシャクナゲは悲しそうな顔になる。少しだけ胸が痛んだ。

「ど、どうしてだ……? 私が物ノ怪だからか? 心配せずとも物ノ怪と人が結ばれた話など歴史を漁るだけでも腐るほどある。それに、愛さえあれば種族の壁など!」

「いや、違うんだ。ごめん、シャクナゲ、そうじゃない」

 俺は一度息を吸い込み、自分を落ち着かせる。そして、声が震えないように注意しながら言う。

「俺はお前が怖い」

「そんな! 私はお前を傷つけたりなどせんぞ! 部屋に押し入ったことなら謝る。だけど信じてくれ、私はお前を守ろうと……」

「だから違うんだ。そうじゃない。お前が物ノ怪であることも、お前の力のことも関係ない。俺は、お前の気持ちが怖いんだ」

 否、気持ちではない。想いだ。

 俺はシャクナゲの想いが怖い。

「お前の愛しているが、俺は怖い」

「……」

「最初からずっと感じてたんだ。お前に対して俺は変な恐怖を覚えている。それがなんなのか、ようやくわかった。俺はお前の想いが怖いんだ。その愛しているが怖い。そりゃお前と話しているのがつまらなかったとは言わないさ。お前は俺が思っている以上に気さくで、いい奴だった。だけど、俺の中の恐怖は一向になくならなかった。拭いきれなかった。そんな状態で俺はお前を受け入れられない。シャクナゲ、お前は俺が好きなんだろうけど、俺はお前が怖いよ」

「……何故だ。私なんかより、あの小娘の愛の方がよっぽど!」

 シャクナゲの悲しげな顔に怒りが加わった。

「よっぽど、怖い? それは違うぜ、シャクナゲ。あいつの想いはお前以上に強くて、お前の言う通り狂ってるかもしれない。だけどあいつは怖くなかった。……まあだからってあいつと付き合うつもりもないんだけど、でも」

 俺は必死に恐怖を抑えつけながら言う。

「守られるなら、俺はお前じゃなくあいつがいい」

 はっきりと、そう言えた。

 まあなんかそれなりに格好よく決まった風だが、守られるという選択肢にストーカーしかいないのだから参ってしまう。

 究極の選択じゃあるまいし。

 なんにしても、言うことはいった。

「もう帰してくれないか、明日も学校があるんだ」

 八重樫のことも気になるしな。

 だが、シャクナゲは退いてくれる気配がない。

「……私と一緒にはなれない、と」

「ああ」

「そうか。――――なら、死ね」

 すると、突然、シャクナゲはさっきと打って変わって楽しそうな笑顔になった。嬉しそうな笑顔になった。

「私のものにならないのなら、他の誰かのものになるのなら、今ここで死ね! 海藤!」

「な……」

「いや、むしろそっちの方がいいかもしれんのう。貴様が死んだらすぐに私も死ねば、一緒にあの世に行ける。そうしたら私達は永遠だ。そうだそうだそれがいい、そうしよう。所詮この世などあの世に行くまでの道程に過ぎんのだ。少しくらいショートカットしようと誰に迷惑も掛からん。こんなつまらん世の中など捨てて、貴様と永遠を生きるのもよいだろう。永遠、くふふ。よい響きだ。くふふ。くふふふふふふふふ。くふふふふふふふふふふふふふふふ。くふふふふふふくふふふくふふふふくふふふ――――」

 シャクナゲは笑う。

 楽しそうに嬉しそうに苦しそうに悔しそうに悲しそうに、笑う。

 笑いながら、彼女の手は俺の首に伸びてきた。

「は、はは。あっはっはっはっはっは!」

 釣られて俺も笑った。笑ってしまった。おかしくなってしまったのだ。

 俺が彼女を恐怖する理由がわかった。

 シャクナゲは、彼女はもう終わってしまっているのだ。もうとっくに彼女は壊れて、壊れきって、終わってしまっていたのだ。取り返しがつかないくらい、終わっている。彼女は俺に救われたと思っているようだが、そんなのは彼女の錯覚だ。俺にこの哀れな物ノ怪を救うことなんかできっこない。壊れて終わってしまった悲しい妖怪を、救う手だてなんかない。

 彼女を壊したのは長い時間か、途方もない孤独か、そんなのはわからない。いつ壊れてしまったのかも知らない。

 誰も知らないところで、誰も見てないところで、彼女は壊れて終わってしまったのだ。

「くふふふふふふふくふふくふ」

 彼女は笑う。

 涙を浮かべて笑う。

「くふふふ、ふふふは、ふはは、ふふふふふははっはっはははは!」

「おかしいなぁ、おかしいなぁ! シャクナゲぇ!」

 相変わらず俺の体は動かない。だけど、声だけは出せるのだ。

 俺は声を張り上げた。

「お前、結局自分のことしか考えてねぇもんなぁ! お前は一人になりたくないから手っ取り早く愛という言葉で俺を縛ろうとしてるだけだろう! ほんとはお前だって気づいてんだ! 好きな人を独り占めしたいとか、他の誰にも渡したくないとか、そういう気持ちは愛じゃねぇよなぁ! それは愛から生まれた気持ちであって、愛じゃねぇんだ! ましてや好きな人を殺す? 殺したいほど愛してるだとか、いくらヤンデレだとか言ってごまかしたってそれは愛じゃねぇんだよ! そんなこと、お前が一番わかってんじゃねぇのか? 縁結びの神様だったならわかるだろう! 本物の愛ってのはそういうんじゃねぇんだってよぉ! 俺に言われたかねぇだろうが、逃げてんじゃねぇよ! 目を背けるな! お前今なんで笑ってんだよ! なんで泣いてんだよ! それくらいわかんだろうが!」

 逃げるな。

 いつか彼女に言われた言葉を俺は繰り返す。

 首にかけられた彼女の手に力が入れられる。

「わかるものか……。もう何も、わかるものか。わかったところで、わかったところで、それがなんだ。私はお前が好きだ、愛している。それでいいだろう。本物の愛だとか、そんなものを本当に知っている者がいるはずがないであろう」

「いいや、いるぜ。俺が知っている。知ったのは、つい昨日なんだけどな。まさしく本物の愛の体現者。――そいつの名前は八重樫なずなだ」

 ぴくり、とシャクナゲの表情に変化が現れた。

「そいつは滅茶苦茶で、ハチャメチャで、どこかぶっ飛んでるイカれた女だ。人間離れした人間だ。だけど、あいつの愛は本物だったぜ。あいつは本気で俺のことを愛していた。だってそうさ、あいつは俺を愛していると言った。あいつの言葉にそれ以外の意味が交じっているわけがねぇんだ」

 ひっくり返る余地なんてない。八重樫の言葉にはそもそも裏なんてなかったのだ。

 八重樫なずなの愛は裏返らない。

「あいつは俺のことを考えていた。俺を一番に、俺のために、俺だけのために……そんな想いを愛と呼ばずになんと呼ぶよ! あいつの愛は本物だったぜ。それにくらべてお前はどうだ! 偽物偽物、偽物だらけじゃねぇか! お前は俺を愛してなんかいない。お前はただ寂しいだけの哀れな物ノ怪だ! 八重樫の足元にもおよばねぇぜ!」

「やめろ! あの女の話はするな!」

 シャクナゲの手がどんどん俺の首を締め上げる。

 ああ、死ぬかもなぁ、俺。何も正直に断んなくたって適当に話を合わせておけば生きられたかもしれないのに。俺が馬鹿なばっかりに、このまま美人な物ノ怪に首を絞められて死ぬんだ。それはそれで中々理想の死に様だが……。

 だけど、もう少し生きていたかったなぁ。

 せめてもう一度学校に行きたかった。

 学校、好きなんだよ。友達もいるしな。

 割と楽しい人生だったような気もするけど、まだ振り返るほど長くはない。走馬灯だって一瞬すぎて何が何だかわかりゃしない。

 俺はまだ、死にたくない。

「なずなぁあああ!」

 そう思った時、俺は無意識に彼女の名前を叫んでいた。

 八重樫なずな。

 俺の事が好きな、イカれたストーカー女の名前だ。

「お前、俺のストーカーなんだろ? だったら今だってどこかで見てんだろ! 見てるはずだろうが! もったいぶってないで早く助けにこいよ! お前の好きな男が殺されちまうぞ! 俺はまだ死にたくない! まだへそくり盗まれた文句だってお前に言ってないんだ! おい、なずなぁ! 聞こえてんだろ? 聞いてんだろ? 早く助けろよ! なずなあああああ!」

「やめろおおおおお!」

 シャクナゲの絶叫。金切声にも似たそれは乾いた部屋の中によく響いた。

「その名前を、やつの名を呼ぶなぁあああ!」

 首が絞められる。苦しい、息ができない。

 俺は最後に残った肺の空気を全て吐き出すような大声で彼女を呼ぶ、

 彼女に助けを乞うた。

「助けてくれ! なずなああああああああああああ!」

 瞬間、決死の俺の声を遥かに凌ぐ爆音がこだまする。それも一回ではない。何度も何度も、遠くの方からまるで何かを砕くような音が段々と近くなっていく。

 そして、俺らのいた部屋の壁が爆散した!

 大きな爆風と飛んできた瓦礫が俺の上にいたシャクナゲを吹き飛ばした。動けるようになった俺は体を起こし、粉々になった壁の方を見る。

 俺の言葉が届いたのだろうか。

 それとも本当に俺を見ていたのだろうか。

 どちらにせよ、彼女は確かに存在していた。

 壊れた壁の粉塵が舞う中、彼女はそこに立っていた。

 八重樫なずながそこにいた。


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