最終日 鳴門海峡 3/4
二階は一等船室となっていたため、渚はとりあえず三階へ足を運ぶ。ここもゴールデンウィークのわりに人が少なく、場所を確保するのは難しくなかった。
ほどなくして船は大鳴門橋の下へ到達した。さすがにここまで来ると揺れが激しくなる。念のため手すりに摑まり、眼下の海をのぞき込んだ。
「んー……?」
あらゆる方向へ不規則に波打つ海面が、潮の流れの複雑さを教えてくれる。そこかしこで白波が現れては消えてゆくが、肝心の渦がどれなのかは分からない。
今日は大潮ではないうえに潮流の速い時間でもないため、直径二十メートルのものが拝めるとは元より思っていない。だがさすがに、ここまで近づけば瞬時に渦が判別できるだろうと期待していた。
「あれか……?」
しばらく眺めていると、それらしいものを渚の目が捉えた。その部分だけが海面から少し凹んだようになり、中心に向かって白波が吸い込まれている。
なるほどなるほど、これが渦潮か。
いくつかの小規模な渦を眺めたのち、間近に迫った大鳴門橋へと目を転じた。展望台に立って見下ろしたときから、この橋をもっと観察したいと思っていたのだ。
「うーん……」
下から橋を仰ぎ、剥き出しの骨組みに目をみはった。橋桁の重さは六万トンを超えるらしいが、橋脚は二本しかない。いったいどうやってその重量を支えているのか、海底にはどのような仕組みで土台が作られているのか……素人の渚には分からないことだらけだ。
神戸淡路鳴門自動車道と銘打たれたその道路には、無数の車がひっきりなしに行き交っている。さらに車道の下には、将来的に四国新幹線を通すためのスペースが確保されているらしい。
船が移動し、天にそびえる主塔と緩やかな弧を描くメインケーブルが目に入った。晴れ渡る空の下で、主塔は陽の光を白く反射している。
渚は渦をそっちのけに、飽きるまで橋を眺めていた。目的のものが見られたというささやかな達成感を覚えると、姉の状態が少し気になりだした。
「さーて、ぼちぼち戻ろか……」
「すいませーん!」
船内の喧騒をいいことに独り言ちていると、そばにいた女性から突然声をかけられた。
「はい!」
無防備になっていた渚はビクッと体を震わせ背筋を伸ばす。
「申し……ですけど、写真……れませんか?」
切れ切れにしか聞き取れなかったものの、カメラを差し出してきたことから意図は汲み取れた。コンパクトなデジカメを受け取り、海を背にするそのお姉さんを液晶モニター越しに見たところではたと気づく。
(うわ、かなりの美人さんや……)
思わずデジカメを一度下ろしてしまう。不思議そうな表情を向ける女性と視線が合い、すぐさまカメラを構え直した。
一人旅なのだろうか。
そのとき不意に、北海道で出逢った彼女のことを思い出しそうになった。
(いやいや、今はカメラマン役に集中せな……!)
「じゃあ撮りますよー! ……はい、チーズ!」
「ありがとうござい――」
「あ、すいません! もう一枚いいですか!?」
渚は人差し指を立てつつ、再びカメラを掲げた。何も考えずお姉さんを中央に据えて撮ってしまったが、少し画角を変えて海もフィーチャーすべきだろう。
「……はい、チーズ!」
今度は右側にお姉さん、左に海が入るように撮った。
「ありがとうございますー」
渚は「いえいえ」と言いつつデジカメを返す。
「あっ! この二枚目、渦が良い感じに写ってます!」
プレビューを確認する女性が声を弾ませた。
「えっ?」
渚が遠慮がちにデジカメをのぞくと、確かに渦が綺麗に写り込んでいた。
「……そうなんですよ、ちょうど良いタイミングで来てくれましてね! ハッハッハ」
海面の様子まではとても気が回らず、撮れたのはまったくの偶然だったが、そういうことにしておいた。
「写真撮るのお上手なんですね! 経験者の方ですか?」
「ええ、まあ……それなりに経験は積んでますよ」
嘘は言っていない。旅先でウンコを漏らしかけた経験は豊富だ。
「どうもありがとうございました!」
「いえいえ! それでは」
ジェントルメンを意識して軽く頭を下げ、渚は一階へ向かう。橋の下で留まっていた船が港へと針路をとったとき、欄干に体を預け俯いている楓を見つけた。
「なんやアンタ……やけに嬉しそうやな」
弟の姿を認めると、憔悴しきった楓は低く呻くように言った。
「は? 別に……まあ渦と橋が間近で観れたんはよかったけど」
この状態の姉に瞬時に悟られるほど、自分は分かりやすく浮かれていたのか。渚は顔の筋肉に力を入れつつ尋ねる。
「気分はどんな?」
楓は息も絶え絶えに答えた。
「なあ、鳴門の鯛って……撒き餌釣りが、メジャーらしいで……」
「ほーん……おいちょっと待てや」
体内で生成したコマセを撒くという斬新な漁法を編み出そうとしていることに気づき、渚は声を荒らげた。
「吐くなよ! 絶対吐くなよ! 絶対やぞ!」
「振りかそれ……?」
「アホか!」
とはいえ渚にできることなど何もない。美人のお姉さんとのささやかな想い出が吐瀉物で塗り替えられないよう、ひたすら天に祈った。




