第六日 讃岐うどん・こんぴらさん 1/6
これまで一度も出番のなかった上下のヒートテックと手持ちのカイロをすべて動員し、どうにか凍えることなく朝を迎えられた。
「うわー寒っ」
首を縮めながらテントから這い出すと、一帯に薄い霧が立ち込めていた。当然太陽の姿は拝めず、白み始めた空からの明かりがテントやカブを朧げに照らしている。
幽玄という言葉がしっくりくる空気の中、渚はそれをぶち壊そうと倍速でラジオ体操を始めた。ふと何らかの気配を感じて首を巡らせると、少し先の茂みから一頭の鹿が顔を出し、迷惑そうな目でこちらを見つめていた。渚も鹿にガン垂れながら体操を続けていると、固まった筋肉がようやくほぐれ、体が温まってくる。
「何をしとんねん」
「ほわぁっ!?」
唐突な背後からの声に全身で振り返ると、初期のXのような髪を振り乱し目を半開きにした楓が立っていた。髪自体はアバンギャルドだが顔が寝起きのそれなので、アンバランスを通り越して下手なコラのようにも見える。
「びっくりさせんなや。もののけかと思ったわ」
「山犬の姫的な?」
「(生涯面を着けたまま)生きろ。そなたは美しい(の対極に位置している)」
「はっ……!(おれが噛み砕いてやろうか?)」
茶番ともつかぬ茶番を演じているうちに、鹿は姿を消していた。道の奥へ一歩進み出た楓は、合掌し頭を垂れる。
「何しとんの?」
「いやな。ウチら無断で山に入っときながら、こうして無事に朝を迎えられたことを感謝しとるんよ。アンタも手ぇ合わせとき」
「感謝って……山の神とか?」
「然り」
先ほどとは一転して、楓の言葉にふざけているようなニュアンスはない。釈然としないままだが、姉にならって手を合わせておいた。
テントに戻った楓は、中からビニール袋を取り出した。
「昨夜スポンジ借りといたんよ。洗い物手伝って」
「おう」
洗い物といってもコッヘルひとつにまな板、徳さんの皿と箸しかなかったが、ウェットティッシュと残り少ない水を使いなるべく丁寧に汚れを落とした。
ちょうど作業を終えたとき、徳さんが起きてテントから出てきた。
「おはよーう」
「「おはようございます」」
徳さんもやはり厚手のジャケットをはじめ、真冬の装備で身を固めている。
「いやあ、やっぱ山の中はまだまだ寒いねえ……あ、それ洗ってくれたの? ごめんね」
「いえ、これくらい当然で……す」
楓は言葉に詰まり、髪に手を遣る。まだXヘアのままだったことを思い出したのか、すごすごとテントに戻っていった。姉にも恥じらいという感情が搭載されていたことに驚かされる。
渚がゴミをまとめていたところ、徳さんから「ビールの空き缶は一本僕にちょうだい」との声がかかった。
「何に使うんですか?」
「こういうところでテント張ってるとね、たまに通報を受けたおまわりさんが注意しに来ることがあるんだよ。そういうときにこれを見せて『すいません、もう飲んじゃったんで動けませーん』って言えば見逃してもらえる」
「あっははは……!」
実に素晴らしいアイデアだ。
「こういうとこにテント張るのって厳密にいうとアウトだし、もしトラブったときはあくまで下手に出るのが大事だよ」
「ふふふ、心得ておきます」
荷造りを終え出発しようかというとき、徳さんがテントや焚き火台を置いていた場所を見回していた。
「何か足りないもんでもありました?」
「いや、そうじゃなくて……こういうところだと、なおさらゴミを残さないように気をつけないとね」
「なるほど……」
これも山の神に対する畏敬の念の表れなのだろうか。ゴミが残っていないことを三人で再度確認し、朝の冷涼な空気の中を走り出す。
「ありがとね、ゴミ引きとってくれて」
「いえいえ、もう昨夜からお世話になりっぱなしなんですから……」
枝や落ち葉の燃えかすも含め、すべてのゴミはまとめて姉のリアボックスへ突っ込んでおいた。
国道194号に復帰した三名は11号と交差するまで山を下り、西条市街のコンビニへ立ち寄った。人工物溢れる町並みを見ると、つい先刻まで水道すらないようなところに滞在していたことが噓のように思えてくる。
各自コーヒーとパンを買った。ちょうどイートインが空いていたので、横並びに腰を下ろす。当然徳さんの分は姉弟で出すつもりだったが断られてしまい、ビールやソーセージ諸々の代金は返せず終いだ。
「二人はこれから日本一周とかする予定?」
「えっ?」
唐突な質問に面食らう渚を置いて、楓が答えた。
「そうですね。とりあえず今回は四国一周ですけど、これからちょっとずつ各地を制覇していきます。夏にはまた北海道へ行く予定なんです」
「初耳やぞそれ!」
いつの間にか姉の中で「日本一周プロジェクト」なるものが進行していた。北海道一周であれば渚とて異議はないものの、日本一周となると……。
「去年も北海道に行ったって言ってたっけ?」
「行きましたけど、道北と道央の一部だけで……まだまだ周ってないところが」
「ほかの地域はまだあんまり?」
「ええ。それこそ今回の四国と、あとは家から日帰りか一泊で行けるようなとこだけです」
目を輝かせて答える姉に対し、渚は視線を落とし考え込んでしまった。
(これから日本一周? そらできるもんならしてみたいけど……つーか姉貴はどこまで本気なんやろ)
「そっか……じゃあこれからも、まだまだ初めての土地を走れるわけだね」
徳さんは遠くを見るような目で微笑んだ。
「できることなら、ぼくも旅先の記憶を全部消して、まっさらな気持ちでもう一回走りたい、みたいなね……」
「記憶ですか……でも、一度行ったところを走る楽しみってのもあるんですよね?」
「うん、確かに二度三度と訪れることで見えてくるものもあるよ。でも……未知の土地を走る高揚感とか、そこで見る景色、食べるもの、出逢う人との鮮烈な体験ってのは、やっぱり初めてならではのものなんじゃないかって思うんだ」
しみじみとした口調で呟くように話し、熱いコーヒーをゆっくり啜る徳さん。姉弟も釣られて紙コップを傾けた。
含蓄のある言葉だ。確かにその気になれば、同じ観光地を何度も訪れることも可能だ。だが「初めてその土地を走る」という経験は、まさに一度きりのものである。
「だから、存分に楽しんでね」
「はい……」
にこやかに細められたその瞳に、わずかな憂いが混ざっているのに気づいた。
そして直感する。もしかすると徳さんは、ここまで来るうちに肩透かしを食らっていたのではないのかと。
晴れて定年を迎え、さあ第二の人生だと意気込んで家を発った。学生のとき以来、四十年ぶりの長期ツーリングだ。だが旅に出て一週間、二週間と経つうちに、当時味わったような目新しさや鮮やかな感動が得られないことに気づいた。
道中少しマイナーな観光地にも立ち寄ったというのは、そういう新鮮さを求めてのこともあったのではないだろうか。
もちろん勝手な憶測に過ぎないのだが、それほど的を外しているとも思えない。渚は口を引き結んだまま、コーヒーの表面に映る自分の顔を見つめていた。
駐車場へ戻り、ツーリングマップルでルートを確認する。同じくスマホを開いている徳さんへ渚は尋ねた。
「これからどちらへ行かれるんですか?」
「ぼくは今治の方へ行ってしまなみ海道を渡るつもり。二人はこんぴらさんだっけ?」
「はい……あの、本当にお世話になりました」
「お世話になりました……徳さんと再会できなければ、昨夜はどうなってたか……」
「大げさだってそんな。ぼくだっていろんな話聞かせてもらったしね」
「いや、話にしたって……僕らのほうが貴重な経験談を教えてもらえましたし……」
「まあ、君らもこれから津々浦々を走ると思うけど、そのとき出逢う人たちにいろんな話をしてあげてよ。ぼくも若い頃は、先輩の旅人からあれこれ教わったわけだし」
「「……はいっ」」
姉弟は力強く頷いた。
「じゃあ、またどこかで! 二人とも気をつけてね」
徳さんはスーパーカブに跨がりエンジンをかけた。
「徳さんもお気をつけて!」
「また会いましょう!」
走り出した徳さんは一度だけ振り返り、軽く手を上げる。二人もその背中が見えなくなるまで、腕を大きく振り続けた。




