第五日 松山・石鎚山 8/8
五月の長い日も完全に暮れた。
しばし会話が途切れ、徳さんは焚き火台へ薪を追加した。小枝内部の水分が弾け、パチパチと小気味良い音が辺りに響く。
焚き火が照らすのは半径二メートルほどに留まり、そこから先は目を凝らしても何も見えなかった。背後を振り返り、ヘッドライトの光で照らしてみる。樹木やアスファルトが円く切り取られ、漆黒の闇の中に浮かび上がった。
こうしてほかの人間と一緒にいるから平静を保っていられるものの、もしもこんな暗闇に一人取り残されたら、一分と経たず発狂してしまう自信がある。
「何や、怖いんか?」
落ち着きなく辺りを見回す渚に、楓はからかうような笑みを向ける。
「……いや、こんな暗い空間に身を置くことないから、新鮮で……」
「ほーん?」
とっさに取り繕ってみせるが、昔から暗いところが苦手だということは当然姉も承知だ。ニヤニヤしている楓を無視し、渚は小さな折りたたみのテーブルに置かれたヘッドライトを指差す。
「そのアイデア良いですね! ちゃんと光が拡散されてて」
徳さんのライトは寝かせたペットボトルの底にあてがわれ、光がボトルの水で放射状に広がっていた。
ヘッドライトは行動時に前方を照らすのには適しているが、こういったところで照明として使うには明るすぎ、また照射範囲が狭すぎる。だが水で光を拡散することにより、適度な強さの光が周囲一帯に届くようになる。つまり即席のランタンになるわけだ。
「これは昔外人さんから教えてもらったんだよ。ドイツだかオーストリアの白人でね、自転車で日本を周ってるとか言ってたな」
「へえ、何年前ですか?」
「ぼくが君らぐらいの歳だったから、半世紀近く前よ。キャンプ場で一緒になったんだけど、そいつは使ってたテントが壊れて捨ててきたとか言ってた。夜更けになって虫除けみたいなものを体に振りかけたかと思ったら、薄い寝袋に包まってリュックを枕に地べたへ寝転んでね。そんなんで眠れんのかと思ったら、ガーガーいびきかいて寝だしたんだよ」
「半分野生やないですか」
「ほんとに。結構寒い夜で、ぼくはテントだったけどあんまり熟睡できなくてね。でも翌朝彼はよく眠れたって言ってて、風邪も引いてなかったし」
「人種の違いを感じますね」
焚き火を囲んでケラケラと愉快に笑った。
話は盛り上がっているものの、惜しいことに徳さんの持っていたビール二缶が、ここにある酒のすべてだった。これほどアルコールが欲しいと思ったのは初めてだ。
焚き火で乾燥した顔面を撫でながら渚は訊いた。
「徳さんは、こういうキャンプ場じゃないところでよく野営されるんですか?」
「状況次第だけど、人に見つかりそうになければわりとやるかな。広い路肩とか、廃道の行き止まりとか、ダムのほとりとか、放置された工事現場とか……。こういう連休中だとだいたいのキャンプ場は混んでるしね」
「ですよねえ。こっちは疲れててゆっくり休みたいのに、周りが騒がしくて寝られないとか……」
「その点こういう野宿は静かでいいですよね」
「まあトラブルがなければね。地元の人に見つかったり、熊っぽいものが出没することも――」
「ぽいものって何です!?」
つい言下に問いただしてしまった。
「東北のどこかで今と同じように路肩にテント張ってたんだけど、夜更けに外で何かの気配がしたのね。鹿や猿より重量感のある足音と低い唸り声だった。多分熊か猪だったんじゃないかと思うんだけど。もうその日はテントから出られなかったね。ペットボトルに小便して、念のためにとテントに持ち込んでたヘルメットをかぶったまま横になったよ。ほとんど寝られなかったけど」
「ほおー……」
深く息を吐いた姉弟は、おののいて体をのけ反らせる。
「まあその点、四国九州は熊の心配しなくていいから助かるよね」
「あ、九州も熊おらんのですか?」
「せやで。四国はほぼおらへんけど九州沖縄はまったくおらん」
楓が横から補足する。
「キャンプ場みたいに整備されてない分、スズメバチやマムシはどこへ行っても警戒しなきゃいけないね。奄美や沖縄だと今度はハブが厄介だし。どこに潜んでるか分からないから熊より怖いかな」
キャンプ場ならスズメバチやマムシが出没しても、注意喚起したり何らかの対策を講じたりしてくれるだろう。だが野宿の場合、どこにどんな生き物がいるか分からない。良い場所を見つけたと思ったら、そこがスズメバチの巣の直下だったということもありうるわけだ。
「まあ水の問題もあるし、なるべくキャンプ場に泊まるべきなんだろうけどね」
「もうちょっと使用料が安ければいいんですけど……」
「ほんまそれ。あと予約必須のところもここ何年か増えてません?」
「うん、分かる分かる。やっぱりコロナ禍のキャンプブームで、一気にハードルが上がった感じがするよね」
ポッケからスマホを半分出して、さりげなく時間を確認する。まだ八時だが、瞼がかなり重くなっていた。体のあちこちにもずっしりとした疲労が感じられる。昨日までの消耗が回復しきっていないのに加え、今朝も早くから行動していたためだろう。
「ふう……」
大きく息をついてペットボトルの水を煽り、焚き火へ両の手をかざした。徳さんとはまだまだ話していたい気分なのだが、この体の重さはいかんともしがたい。
「すいません、僕そろそろ休ませてもらいます」
「えっ、もう寝るん?」
「だいじょうぶ? しんどい?」
「いやいや、単に疲れが溜まってるだけなんで」
努めて笑顔を作り、渚はテントへ引っ込んだ。地面がわずかに傾斜しているため、高い方へ頭が来るようにマットと寝袋を広げる。寝袋に包まって横になると、肺の底から深いため息が上ってきた。
渚の脳裏には、昨年北海道で泊まったライダーハウスでの出来事が浮かんでいた。あの日は雨の中を走り、当時渚より体力のなかった楓は心身ともに疲れていた。疲労と持ち前の人見知りのせいで、ほかの宿泊者と交流を持とうとせず、早々と宴席を立ち寝てしまったのだ。
一方、今はどうだ。姉はまだ余力を残し談笑しているというのに、自分は疲れて動けなくなっている。さらには初日のキャンプ場の選定、一昨日の財布の置き忘れと、今回の旅では後れをとりっぱなしだ。
「はあ……」
テントの生地越しにぼんやりと焚き火の灯りが見え、ボリュームを抑えた姉と徳さんの話し声が耳に入る。
そのとき突然、真理のことが意識に浮かんだ。スマホを取り出し、目をしきりに瞬かせながらラインを確認する。
「うわ……」
昨日・一昨日に送った写真とメッセージには、未だに既読がついていなかった。
(もうあかんのか……)
疲弊した体に精神的なダメージが重なり、渚は気を失うように眠りに落ちた。




