第五日 松山・石鎚山 7/8
食事も終わり、いくぶん煙の落ち着いた焚き火を見つめながら、姉が持っていた菓子を三人でつまむ。楓はスーパーカブの方を見ながら口を開いた。
「徳光さん、荷物少ないですよね」
バーナーとコッヘルに食器、そして焚き火台まで積載しているのに、荷物の総量は姉より少ないように見える。
「徳さんでいいよ。まああちこち行ってるうちに、要るもの要らないものが分かってくるからね」
確かに、旅慣れた者ほど荷物がコンパクトになるとどこかで聞いた。
「徳さんもぼちぼち帰宅されるんですか?」
「ぼくはまだまだゆっくりして、今月末辺りに帰ろかなって」
「え? 家出られて今何日目なんですか?」
「んー……三週間ぐらいかな?」
「「三週間!?」」
徳さん曰く、今年の三月に長年勤めた会社を定年退職した。四月の半ばに多摩の家を出発し、三浦半島や伊豆に立ち寄りつつ東海道を下り、紀伊半島をぐるりと周って岡山から船に乗った。今月中には一度帰宅するが、一休みしてまた旅に出るつもりだ。
若い頃からツーリングが好きで、すでに日本を三周はしているという。
「すげえ……」
「ウチらの大先輩やん……」
「いやいや、別に大したことじゃないよ」
寝床の確保、テントの設営、焚き火の火熾し、夕食の調理。考えてみれば、すべての行動や動作に迷いや無駄が一切見られなかった。それは長年積み重ねてきた技術や経験の賜物だったのだ。
小さく揺らぐ焚き火を挟んでも、徳さんの目に灯る誇らしげな光が感じられた。
「でもこんなに時間をかけて走れるのは学生のとき以来だからね。大島以外の伊豆諸島とか香川の小豆島とか、ちょっとアクセスしにくいところにも足を伸ばして、ゆっくりのんびり旅してるとこ」
「なるほど……でも過去に訪れた場所も多いんですよね? やっぱり一度行ったとこでも二回目以降は違うもんですか?」
「そりゃあね。天気も気温も自分の体調や心持ちも違う以上、まったく同じ場所だろうと同じ景色にはならないよ。……まあそこまで細かい違いなんてなかなか分かんないけどね」
口元を綻ばせる徳さんに、姉弟も同時に笑った。
「二人は社会人? そろそろ旅も終わりかな?」
姉弟は身の上と旅程について簡潔に語った。結果、楓が神戸港から高松港へフェリーに乗ったのと同じ日に、徳さんが小豆島から高松へ渡っていたことが判明する。
「すでに一度ニアミスしとったわけですね」
気づかないだけで、ほかの旅人ともこうやって近づいたり離れたりを繰り返しているのかもしれない。
「四国へ渡って二人が合流して、それから海沿いを行ってるの?」
「はい、徳島港で落ち合ってからほとんど海を見ながら走って、本格的な山道はここが初めてです」
「そっかー、四国は海もいいけど山も最高なんだけどね。スーパー林道とか」
「えっ……カブでスーパー林道ですか?」
「いや、そのときは小さいオフロードに乗ってたんだけど、慎重にいけばカブでも走れるよ。まあ最近は通行止めが多くて、全線一気に走破するのは難しいらしいけど」
「祖谷渓も気になってたんですが、どんな感じですか?」
「いいよ祖谷渓! まあ最後に行ったのは二十年ぐらい前なんだけど……。かずら橋もいいけど、それより県道32号とか奥祖谷とか、まさに秘境って感じで最高だったね」
「ほーぅ……」
思わず感嘆のため息をつく。実際に走ったことのある人から直に聞く経験談というのは、貴重で信頼できる。
「明後日には家に帰らないといけないんだよね? 残りはどこを周るの?」
「明日はこんぴらさんお参りしてうどん食って……明後日は鳴門の方へ足を伸ばそうかと」
「祖谷を観る時間はちょっとないんですよねー……」
もともとすべてを周ることはできないという前提で臨んだ旅だが、こうして話を聞いていると、そこを訪ねられないのが無性に惜しく思われる。
未練の色を隠せない姉弟に対し、徳さんは落ち着いた声で諭すように言った。
「いや、それでいいんだよ」
「えっ?」
「一度に全部周ってしまうと、もう次に来る機会がかなり先……もしかしたらそれで最後になってしまうかもしれないから。少しぐらい残しておいたほうが、きっとまた来よう、って気持ちになれるんだよね」
「ああ……」
「なるほど……」
その発想はなかった。
ここまでの道中、「あと二、三日あれば」、「もう少し時間をとれれば」と何度考えたことか。だが仮に日程が延びたとしても、やはり同じように思ってしまうのだろう。
なるべく多くの観光地を無駄なく効率よく周る計画を立て、それを忠実に遂行する――つまりはタイパ重視の旅。自分はそこに固執しすぎていたのではないか。
思い返せば、二日目の坂本龍馬記念館はゆっくり見物してもよかった。ここのような人気のない山奥へテントを張れば、桂浜から遠く離れたキャンプ場へ移動しなくても済んだ。
三日目の雨中行軍についてもそうだ。疲労が溜まっているところに無理をして、危うく事故を起こすところだった。ずっと雨だったのだから、休養日と割り切って宿でのんべんだらりと過ごしてもよかったのだ。
そうなるともちろん当初の計画通りには運ばないものの、それはそれで構わないではないか。何が悪いわけでもなく、旅の成り行きに任せた結果だ。むしろ計画通りにいかないのが当然なのでは……。
「なるほど……」
渚は繰り返し、立ち昇る煙の行方を確かめるように天を仰いだ。だが茂る木立のためにあまり空は見えず、月が隠れているのか、上空からの光もほとんど届かない。




