第五日 松山・石鎚山 5/8
「ふう……」
死を覚悟した戦場から奇跡の生還を果たした渚は、手を清め額の汗を拭う。トイレの前で追いついてきた姉と再会した。
「なまら恐かったよ」
「おいウンコマン、グローブ落としとったで」
いかにも汚いものを扱うように指先だけでつまんだグローブを投げてよこす。
「誰がウンコマンや! ちゃんと間に合うたからな」
「そうなん? てっきり暗黒面……茶褐色面に堕ちたか思ったのに」
今日の姉はいつにも増してひどい。顔を強張らせたままドン引きする弟をよそに、楓もトイレへ入っていった。
「ここは三叉路になってたんか……」
トイレ付近を見渡して呟く。ウンコに意識を支配され極端に視界が狭くなっていたのだろう、展望台が近くにあることも今になって気づいた。
「案外綺麗なトイレやったな」
用を済ませた姉と展望台へ立つと、ひんやりした風に全身が晒された。全身にかいた汗が乾いていき、寒い一方心地良さも感じる。
「アンタの歩き方ギクシャクしてへん? ほんまに間に合うたんか」
「ずっと力入れて我慢してたから足腰めっちゃ痛いんよ」
張り詰めた下半身の筋肉を軋ませながら、足を引きずるようにしてカブへ戻る。
「あれっ……」
二人のカブと並んで、見覚えのある紺のスーパーカブが停まっていた。
「やあお二人さん、また会ったね」
「あっ、どうもどうも!」
「いやはや、奇遇ですね」
今朝のキャンプ場で一緒になった白ヒゲのおっちゃんだった。キャンプ場からゆうに百キロは離れているだろうに、こうして再会できるとは。
「ここまでどこを通って来られたんですか?」
「佐田岬の突端まで行って、それから道後温泉寄ってきたんだよ」
「そうでしたか! 僕ら佐田岬は昨日走ってたんで、温泉入って石手寺いう怪しげな寺を見てからこっち来たんです」
三人で立ち話をするうち、今夜の宿へと話題が移った。
「僕らはここの笹ヶ瀬キャンプ場でも行こかと思ってるんです」
「笹ヶ瀬?」
渚がスマホを差し出すと、おっちゃんは顔をしかめて言った。
「ここはちょっと厳しいよ? 山の中だからぐるっと迂回しないとアクセスできなくて、思ったより時間かかるし」
「マジですか」
「あと多分予約要るんじゃないかな……」
当初はそのキャンプ場へ泊まる予定などなかったため、まるっきり下調べができていなかった。
「おじさんは今晩どうされるんですか?」
「ぼくはどっか適当なところでテント張ろうかなって思ってるよ」
「適当……とは?」
「車の通らないような道の行き止まりとか、広い路肩あたり……まあ言ってみれば野宿だね。君ら行くあてないんだったら……一緒に来る?」
「えっ」
なんとまあ、予想斜め上の展開になってきた。
「どうする姉貴?」
「いや、お言葉に甘えたいとこなんやけど……」
おっちゃんから少し距離を置き、二人は声を潜めた。
「何か問題でも?」
楓は深刻さを顔全体で表現している。
「あのおっちゃんが実はトクリュウやったらヤバくない?」
「アホか」
もしも若い女の子から野宿のお誘いを受けたなら、美人局の可能性も……。
「いや、それもありえんやろ」
「あん?」
脳内の仮定に対し実際にツッコんでしまい、姉から不審の目を向けられた。
「ではありがたくご一緒させていただきます。よろしくお願いします」
頭を下げる二人に、おっちゃんはにこやかに返した。
「そんなに改まらなくていいよ。大勢いれば何かと心強いし」
「ウチは若葉楓、こっちが弟の渚いいます」
「どうも、徳光龍造です」
「「ぶふっ……!」」
トクリュウこと徳光さんは身長こそ低いものの人柄は大らかで、名前を聞いて吹き出した無礼極まりない二人を笑って許してくれた。「最近それでよくネタにされるけど、笑いがとれるうえに名前を覚えてもらえるから逆に便利」とのこと。
三叉路で西へ舵を切り、つづら折りをゆっくり進んだのち一度国道へ出る。連なったカブ三台はそこから荒れた脇道へ入り、広い路肩へと停車した。
まだ五時半であるため国道は昼と変わらない明るさだったが、ここは鬱蒼とした木々に光を遮られてずいぶん暗い。舗装されたところへカブを並べ、その横の落ち葉が降り積もった土の部分へテントを張った。
「徳光さんのテントかっこいいですね」
入口が高く奥は窄まった、左右非対称の形状がどことなく玄人っぽい雰囲気だ。
「いやいや、別にそんな高いやつじゃないよ」
特に謙遜しているわけでもないのだろう。だが姉弟が使っている、聞いたこともないようなメーカーの三千円テントとは大違いである。
「渚くんのテントは両側に出入口が付いてるやつか。夜中に寝ぼけて逆側から出て谷に落っこちないようにね」
「……用心します」
路肩の外側は、崖とまではいかないものの相当急な傾斜になっている。渚はテントに荷物を運び込み、谷側の出入口を塞ぐように置いた。楓も設営を終えたようだ。
「悪いんだけど、二人で薪拾ってきてくれないかな? 細め短めのやつ」
「あ、はい」
姉弟はわずかに傾斜している道を奥へ進む。寒さのせいか虫の音はほぼ聞こえないが、時たま聞き覚えのない鳥の鳴き声がどこからか響いてくる。
グーグルマップを見るに、この道は少し先で行き止まりになっているようだ。民家もないのか整備や清掃がまったくされておらず、拾う枝には困らなかった。
「しかしこんな展開になるとは……」
「まあ徳光さんええ人やし、ウチらも運が良かったわ」
「俺のウンコのおかげやな」
「それはない……いや、それのせいか……?」
両手に枝を抱えて戻ってみると、徳光さんは未だ誰も通らない道の真ん中で、銀色の四角い物体を展開していた。
「おお、ずいぶん集めてくれたねえ」
「それは何ですか?」
四本足の生えた小さな賽銭箱のように見える。
「焚き火台兼グリル。まあ調理はこっちでするんだけどね」
徳光さんはそう言って、脇に置かれたコッヘルとバーナーを示した。
「おお……」
前回の北海道に続いて、姉弟は自炊道具も火熾しの道具も一切持ち合わせていない。本格的なキャンプ道具を携え焚き火やキャンプ飯を楽しみながらツーリングをしている徳光さんを前にして、二人の瞳に尊敬の光が宿った。
徳光さんは束ねられた茶色い紐を取り出した。荷造り用としてよく百均に並んでいるものだと思われる。
「これをほぐしてやると着火剤になるんだよ」
徳光さんはフォールディングナイフを器用に滑らせ、ただの紐をスチールウールのような球状に変えていく。
「すごい……」
「ちょっと鳥の巣っぽいですね」
「あはは、そうだろ」
焚き火台にほぐした紐を載せ、上に小枝を重ねる。チャッカマンのカチッという音とともに、小さな火が灯った。
徳光さんが扇子で送る風を受けて、指先ほどしかなかった火が徐々に大きく育っていく。コンパクトだが立派な焚き火の完成だ。
「おお……!」
日が没した灰色の世界で、温もりのある光が三人を照らす。木立の中へ流れていく乾いた煙の匂いは、どこか懐かしさを喚起させるものだった。




