第五日 松山・石鎚山 4/8
土小屋をあとにし、UFOラインへ入った。カローラスポーツのCMにも採用された絶景ロードだ。今年は平年より高めの気温が続いているため路面凍結の心配はないはずだが、寒いことに変わりはなかった。UFOラインは千七百、千八百メートルという山々の尾根を繋いで走る道であるため、その分気温も低くなるわけだ。休憩して一度戻った体温が再び下がり始める。
「やっぱ寒いよな」
「んだんだ」
道幅が狭いわりに交通量が多いため、スピードが出せないのがかえって良かったかもしれない。でも時間はかかりそうだと思ったそのとき、渚の腹部に小さな電流が走る。
「っ……!」
決して強くはないその刺激に、なぜか括約筋までが反応してしまう。
(いや、これはちゃうやろ……ちゃうちゃう)
「なあ姉貴」
「うん?」
「……姉貴の好きな歴史用語って何やったっけ?
「んー……禁中並公家諸法度とか? どしたん急に」
「いやー、そのな……」
脈絡のない話を振って気を紛らそうとするが、間髪入れず第二波が走る。今度は腹のどこかなどという曖昧なものではなく、大腸から発せられたものであるのが明らかだった。
「これだけ科学が発展した現代においてもなお、我々は尿意や便意を催すたびに厠へ立たねばならぬ……これは何かの陰謀だとは思わんかね?」
弟の妙に芝居がかった口調から、姉はすべてを察したようだ。ミラーに映るその姿が急に小さくなった。
「おいおいおい! 減速すんなや」
「なんでさっきのとこで済ませとかへんねん!」
「トイレがな……混んでたんよ……」
分かってる。たとえ混んでいようが、中でシュワちゃんやトムクルーズが格闘シーンを演じていようが、土小屋のトイレで後顧と後孔の憂いを断っておくべきだった。もう十二分に後悔している。
「ウチに引っ掛けんのだけはやめてくれ、頼むから」
「いや、まだそこまで差し迫った事態ちゃうんよ」
「ほんまに……?」
訝しげな目で弟の臀部を注視しつつ、楓は一度広げた車間距離を詰めた。
「しかしアレやな、前が海沿いで今度は山ん中やん。どっちが難易度高いんやろ」
「路肩が狭い……っつーかほとんどないし、今のほうがハードモードやわ」
相変わらず交通量は多めで、会話をしている間にも何台もの車とすれ違った。
「なあ、ウチが前走るわ」
「えっ」
単に後ろを走るのが嫌なのだろうと思ったが、確かに今の状態では、とっさの事態に出くわしても対応するのは難しい。
「頼む」
渚はギアを二速に落とし、ポジションを入れ替わる。強めにかかったエンジンブレーキが下腹部に響いた。
「ぬおお……」
「しっかし何もない道やな。走るにはええけどトイレどころか脇道すら見当たらんで」
決壊時の被害が予想される後方区域から離脱した楓は、呑気な声を上げた。
「せやな……」
脇道があればそこへエスケープし、スクランブル態勢の核弾頭を投下して難を逃れることもできるのだが。
走ること十分、腹具合もそろそろ抜き差しならぬ状況へ移行しようとしている。天国じゃなくても楽園じゃなくてもいいから、今はただこの便意から解放されたい。
楓は弟の様子をミラーでうかがいながら言った。
「いいこと思いついた」
「ウホッ?」
「そのまま漏らしてからバキュームカーに突っ込んだら? これまた絶好のカモフラージュになるやん」
「アホか! つーか同じようなこと北海道でも言うとったよな!?」
思わず張った大声に、大腸が呼応するように収縮した。
「そもそもバキュームカー走ってへんか……じゃあこれは? 走りながら路面へ小出しに漏らしていくんよ。帰り道が分からんくなっても安心やろ?」
「ヘンゼルとグレーテルか! つーかグリム兄弟に謝れや!」
こんな非常時でも律儀にツッコミを入れてしまう自分に呆れる。だが渚の体はそのような事情を一切考慮してくれず、心拍数が上昇するとともに呼吸が浅くなっていった。括約筋と精神力の限界もそろそろ近い。
そのとき、前を行くハンターカブの左ウインカーが点滅しだした。少し広くなっている路肩へ入った楓に続き、渚もわけが分からないまま停車する。
「走行中にメルトダウンする前に、もうここらで済ましてまえよ。ディフェンスに定評のあるウチが目隠しになったるから」
「えっ……」
当然渚は躊躇したが、それも一瞬のことだった。楓はクロスカブを取り回し、ハンターカブと合わせて壁になるように配置している。覚悟を決めた渚はグローブに続いてヘルメットを脱ごうとして、姉に止められた。
「ちょいちょい、それ脱いだら余計恥ずいやろ」
「あっ、せやな」
意識が下腹部へ総動員されているせいか、もう頭も働いていない。ベルトを緩めズボンに手を掛け、澄み渡る青空と冷涼な大気の下でケツを丸出しにしようとしたそのとき。
「あ、一キロ先にトイレあるわ」
「はあっ!?」
半ケツのまま姉を振り返る。
「ほら、公衆トイレ」
グーグルマップを表示したスマホを突きつけられた。
「うおああああああぁ!!」
辛うじてケツをしまっただけでズボンのチャックやベルトはそのまま、クロスカブに跨がった渚はアクセルを限界まで開けた。急発進に前輪がリフトするも、某だるま屋よろしく「安全第一」へ突っ込むことはなく、二速を踏み込んで次のコーナーを抜ける。
狭いワインディングをどう走ったのか分からぬまま、気づけばトイレにたどり着き、大便器へと腰を下ろしていた。




