第五日 松山・石鎚山 1/8
ツーリンガーの朝は早い。夜は大してやることがなく早めに横になる分、自ずと起床時間も早くなってしまう。
寝ぼけ眼のまま水場で歯を磨いていた。さすがにこの時間では蚊もお休み中らしく、穏やかな心持ちで朝の太陽と空気を楽しめる。
「おはよーう」
「っ!」
背後から唐突にかけられた声に、渚は肩を波打たせながら振り返る。
「あ、ども……おはようございます」
声の主は坊主頭と白いヒゲのおっちゃんだった。昨日チラリと見かけたが、紺色のスーパーカブに乗っていたような気がする。
「いやあ、昨日は困ったねえ」
「ええ、まさかあんなに蚊がいるとは……」
まだ痒いような気がする首筋に手を添えながら、渚はどのような話題を振るべきか考える。
「どちらから来られたんですか?」
「東京からだよ」
「東京ですか! 僕は大阪です」
「ぼくはソロなんだけど、君は女の子連れてたっけ?」
「あ、いえ……」
女の子を連れてツーリング……なんと素敵な響きだろう。あの姉だって戸籍上は女のはずだが、渚の頭に浮かぶ「可愛い女の子とアバンチュール」のような理想像とは対極に位置している。
「あれは姉なんですよ」
姉弟のテントが並ぶ方へと目を遣る。ちょうどそのとき、目覚めた楓がテントから出てくるのが見えた。
「あ、今起きてきたっぽいです」
二人分の視線が注がれているのに気づいた楓は、その場で一瞬固まったが、やがてゆっくりと歩み寄ってきた。
「おはようございます」
「おはよう」
そのままぎこちない笑みを浮かべておっちゃんと挨拶を交わす。楓は昨日の一件で懲りたのか、かぶった帽子の中に長い髪を無理やり収めていた。
「お姉さんも昨日は大変だったね」
「あ、はい……まあ無料だし文句は言えませんけど」
他愛のない会話をしばし交わしたあと、おっちゃんは「今日は早めに退散したほうがいいかもね」と言い残し、自分のテントへ帰っていった。
「おっちゃんの言うとおりやな。ウチらも早よ準備しよ」
穏やかな瀬戸内の海を眺めつつ、松山へ向かって海岸線の378号を走る。
「やっぱ太平洋とは全然ちゃうな」
「確かに……こっちは何が美味いんやろ」
途中、国道から路地へ入り、下灘駅に立ち寄った。
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○下灘駅
JR予讃線の無人駅で、全国に数か所ある「最も海に近い駅」とされるうちのひとつ。
数々の映画・ドラマ・アニメでも取り上げられている。
電車で訪れる場合は、便が一日数本しかないため要注意。
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八時前という時間にもかかわらず、すでに路駐の車が列をなしていて、駅自体はもっと混雑していた。写真を撮る人と、それをSNSに上げているのだろう、スマホをいじる人でホーム上が埋め尽くされている。
「ああ、あのアニメの聖地やのに……」
渚は下調べの段階でこの駅を知り、好きなアニメに登場するところも見返していたのだ。だが目の前の下灘駅は、アニメで演出されていた静謐さ、最果て感とはかけ離れていた。
渚はがっくり肩を落とす。
「まあ、いかにも『映え』そうなとこやしな」
距離を置いて人だかりごと写真を撮ってから、小さな駅舎の展示を眺める。訪れた人々が足跡を残したノートや、夕日に染まる駅を捉えた写真が並んでいた。
「何やこのウッフッフって……」
楓が指差す先を見た。数冊ある大学ノートの表紙に、黒のマジックで「ウッフッフ」と記されている。
「うーん……」
煮え切らない気持ちを引きずったまま、二人はその場をあとにした。
また国道を北東へ進み、道後温泉を目指す。だが松山市に入って以降、徐々に渋滞がひどくなっていった。
「結構栄えとるな。やたら車多いし」
「四国で一番でかい街やからな」
時間はかかったものの道後温泉へ到着し、混雑している駐輪場へどうにかカブを停めた。入浴セットを小脇に抱え、観光客のひしめく温泉街を歩く。
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○道後温泉
およそ三千年の歴史を誇り、日本最古ともいわれる名湯。
道後温泉本館、飛鳥乃湯、椿の湯の三か所が有名。
周辺には夏目漱石や正岡子規ゆかりのスポットが点在する。
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「温泉っていくつかあるんやろ? どこに入るん」
「そらもちろん本館よ」
渚は断固とした口調で答えた。道後温泉本館は五年にわたる大規模な工事の末、少し前に全館リニューアルしたのである。
「ただ本館つってもいろいろ分かれててな……」
日帰り温泉には珍しく、六種類ほどのコースがある。神の湯と霊の湯のどちらを選ぶか、および入浴後に休憩室を使うかによって料金が大幅に変わってくるようだ。
「まあでも……ここは神の湯やろ」
「問題は休憩室で一服するかどうかか」
少し迷ったが、どうせ浴場も休憩室も人が多いだろうから、湯上がりは温泉街を流しながら涼もうということになった。
神の湯は思ったよりこぢんまりしていたものの、壁面のタイルに風景画があしらわれていたり、間接照明が設けられていたりとネオクラシカルな印象だった。
入浴を済ませた渚は表に出て、改めて建物を眺めた。三階建ての純和風建築は工事が終わって間もないはずだが、歴史と趣を感じさせる風格を備えている。少し距離を置くと、大屋根の上から一帯を見渡しているような塔屋が目に入った。
いくつも連なっている建物の外周を回ると、棟によってずいぶん雰囲気が異なるのに気づく。ゆっくりと一周し元の場所へ戻ると、間もなく楓が中から姿を現した。
「中もえらい混んどったわ。入浴のみにして正解やったな」




