第四日 西予・佐田岬 4/5
「な、何ですか……?」
渚は動揺しつつも、得体の知れないこのババアを注意深く観察した。
姉弟より遥かに背が低いものの、深いシワの刻まれた浅黒い顔立ちからは、ある種の貫禄が感じられる。窪んだ小さな目はギラリと輝き、二人を値踏みするような視線を放っていた。
「まったく、近頃の若いもんは礼儀というもんがなっとらん……」
くたびれた手提げ袋の中を探るババアは、限りなく灰色に近いブラウンの割烹着に、擦り切れたモンペを着用している。このまま時代劇にエキストラとして出演しても、まったく違和感がないだろう。
「ミカン、買うていきんさい」
袋からふたつのミカンを取り出した。
(こんなとこでセールス!?)
いくら蛇口をひねればポンジュースが出る国とはいえ、こんな地の果てのような場所で手売りする必要があるのだろうか。予想を遥かに超えた事態に、渚は瞬きを繰り返す。
横目で姉を窺うと、ミカンを凝視したまま口をパクパクさせていてちょっと面白かった。こういうときに自分より慌てている奴を見ると、逆に冷静さを取り戻すものだ。
「いや、間に合ってますんで」
立ち塞がるババアをよけて前へ進もうとする渚を、ババアはやけに耳に障る声で引き止める。
「この先もっと坂がエラくなるし、時間もかかるよ。アンタたち水とか食い物持っとんのかい」
「いや、ないっスけど……」
うろ覚えだが片道二十分ぐらいだろう。水が必要だとは思えない。
「往復すると一時間半かかるよ。お守り代わりと思って、ミカン持っていきんさい」
「一時間半!?」
岬までの距離を勘違いしていたのだろうか。駐車場にあった周辺図をよく確認すべきだった。
「なあ、どうする?」
「んー……」
姉も苦虫を噛み潰したような顔をしている。このまま買わされるのも、いかにもババアの強引さに負けたようで腹が立つ。かといって無視して振り切るのも、さっきのババアらしからぬ俊敏な動きを視るに難しそうだ。
「アンタたち、愛媛でミカンを食べたことねえんでねか? うちのミカンは美味いぞお?」
ババアの手のミカンに注目する。ごく普通のミカンに見えるのだが、中身は違うのだろうか。
「……分かった、二つもらいます」
一時間半も歩くのであれば、水分とエネルギーの補給のため持っておくのも悪くないだろう。ババアは二つのミカンと天に向けた掌を差し出した。
「はい、二百円ね」
「たっか……」
百円玉を二枚、ババアの掌に直に触れないよう手からこぼすように渡す。
「まいどー」
シワだらけの顔を不気味に歪めて笑い、ババアは駐車場の方向へ去っていった。
「妖怪押し売りババア」
ぼそりと言う楓に、渚は片方のミカンと掌を差し出す。
「はい、百円ね」
「ウチを巻き込むなや」
痛み分けといきたかったところだが楓は財布を出そうとせず、渚はミカンのひとつをポッケに、もうひとつをリュックにしまった。
「つーか往復一時間半もあるんやな……どうする?」
「いや、当然行くやろ。今から戻ったら……」
姉は口ごもりながら駐車場の方を振り返る。確かに、あのババアにはもう二度と会いたくない。
肩を落として黙々と遊歩道を進んだ。
「あれ、もう着いた?」
林の中の急な坂をしばらく行くと、目の前が開けた。
「いやいや、さすがにそんなわけ……」
トイレ横の階段を早足で上った先に、白い灯台が見える。
「まだ二十分ぐらいしか歩いてへんのに……」
二人は同時に顔を見合わせた。
「「あのババア……!」」
そう、ミカンを買わせるために嘘をついていたのだ。片道二十分という渚の記憶は正しかったのだが、そのあやふやさにつけ入られ、倍の時間がかかるなどというハッタリを吹き込まれてしまった。
「クソが……」
動いたことと怒りにより、冷えていた体が急速に熱を持ち始めた。着込んだ服を脱いでTシャツ一枚になる。
灯台の裏側へ回ると、法華津峠で高台から眺めていた九州がより間近に見えた。
「届きそうやな……」
対岸を見つめながら、渚は腕を伸ばしてみる。大分なのに佐賀関――向こうの半島の突端までの距離は、わずか十数キロだ。ここは四国と九州が最も接近している場所なのである。
穏やかな海の向こうの陸地を眺めながら、最果ての情緒に浸れるはずだったのに。
(あのババアのせいで……!)
「っ……!」
渚は奥歯を噛み締め、ポッケのミカンを手に取り振りかぶった。
「おい待てや!」
横から伸びてきた楓の手に右腕を摑まれ、ミカンがぽとりと地面に落ちる。
「……なんで止めんねん」
「ミカンに罪はないやろ」
姉はミカンを拾い上げシャツの裾で軽く拭くと、その皮を剥き始めた。橙色の中身が半分ほど見えたところで、房を分けることなくかぶりつく。
「うっ……!」
剥きかけのミカンに鼻先を埋めたまま、楓は細い目を限界まで見開いた。
「どうしたん、殺鼠剤でも入っとったか」
「……めっちゃ普通のミカンやわ」
うちのミカンは美味い、などと豪語していたくせに。
楓はミカンを頬張りながら続ける。
「美味しんぼとか読んどるとさあ、山岡がよく『こんな店の料理は食べるに値しないよ』みたいなこと言うて飯を無駄にしとるやろ? ウチはあれがどうも許せへんねん。悪いんは店とか料理人であって、食材には何の落ち度もないはずやんか」
(……漫画の演出上やむをえないのでは?)
そう思ったがツッコミは入れず、リュックからもうひとつのミカンを出した。姉と同じようにかじりついたところ、確かにごく普通のミカンだ。
「さすがに毒は入ってへんな」
「遅効性の毒かもしれへんで」
海と佐賀関をバックに「四国最西端」の碑を撮り、御籠島へと移動した。この島は堤防のような通路で陸続きとなっており、砲台や蓄養池の跡を見学できる。
「ちくよういけ……でええんかこれ」
「さあな」
この池は漁師が獲ったエビや貝などを投入し、市場への出荷時期を調整したり、稚貝を育成するのに使われたらしい。
洞窟式の砲台跡も見物し、島の突端の岩礁から再び九州大陸を眺める。楓は彼方へ目を注いだまま言った。
「次は九州制覇やな」
「走破やろ。なんで制圧せなあかんねん」
「でもそれに近いもんはあるやろ? マップルで走った道塗っとったら」
渚はこの三日間、夜になるとマーカーを手にツーリングマップルを開き、その日通った道をなぞるようにしていた。
淡い緑色で縁どられた道は、もう知らない道ではない。自分の意志で、自分の決めたルートで走った道だ。制圧とまではいかないが、少なからず似た思い入れがあるのは確かだった。
「九州ねえ……」
北海道ほどではないにせよ、九州も相当広い。
もちろん走ってみたいとは思うが、それが叶う日は来るのだろうか。来るとしても何年後になるのか。
海の向こうを見つめながら、まだ見ぬ道に想いを馳せた。




