第三日 四万十・足摺岬 6/6
カツとラーメンで腹を満たしたのち、半日ぶりに中村へ入りようやく宿にたどり着いた。
「あらあら、ずいぶん濡れちゃったねえ」
カッパの下も雨水に侵食されていた二人は、呆れ半分、労わり半分といった声色で迎えてくれるおばちゃんに苦笑を返す。年季の入った玄関にて、靴を脱ぐように言われた。すでに靴下までしとどに濡れているのが後ろめたくて、足をすのこに着くことなく直にスリッパへ滑り込ませる。
重い体を引きずり二階の客室へと入った。
「ほう……」
「建て替え前のばあちゃん家のにおいがする」
荷物を床に放り出し、敷かれている布団へと身を投げた。深く息を吸い込むと、胸の奥が鈍く痛む。体の芯にまで疲労が溜まっているのが感覚として分かった。
「しかしボロい宿やなあ」
ゴールデンウィークにしてはずいぶん料金が安いと思ったが、建物もそれに見合うクオリティだった。もちろん風呂とトイレは共同だ。どこかの客室のドアを閉める音が、やけに大きく響く。
「まあ初日に比べたら全然マシやん」
「それは間違いない」
楓は傷だらけの柱の元へと足を進めた。
「なあ、これめっちゃ渋いで」
指差す先には、「昭和レトロ博物館」のような施設で展示されていそうな、ダイヤル式の電話器が置かれていた。
「サザエさん家の電話やん」
「これ使えるんかな?」
受話器を取り耳にあてがう楓。渚は体を起こし、上着を脱ぎながら指摘した。
「そもそも線繋がってへんがな」
「ほんまやわ」
風呂から戻るなり横になってスマホを開く渚に、楓は探るような目を向けた。
「なんかにおうぞ……なあ、におわんか?」
「は?」
ちゃぶ台の縁に片足を掛けてくつろいでいた姉が腰を上げるのを見て、渚はスマホを伏せた。
「んーますますにおうなあ、渚くん?」
ニタニタと笑みを浮かべながらゆっくり距離を詰めてくる。
「何や、気色悪い……」
うつ伏せのまま首だけをもたげて睨む弟の体を跨ぎ、姉は素早くしゃがみ込んだ。渚が反応するより速く、その頭頂部に鼻先を寄せてくる。
「はすはす……くっさ」
「やめろや!」
――ゴツッ。
とっさに振った裏拳が楓の側頭部を捉えるも、渚に謝るつもりはこれっぽっちもない。
「いやいや、さすがに風呂上がりなんやから臭ないで。シャンプーの匂いのほうが強い」
「何なんよ、さっきから」
楓は鼻を鳴らして隣の布団へ腰を下ろし、あぐらをかいた。その背筋はすっと伸びており、顔のだらしない緩みも消えている。渚も半身を起こし、一応話を聞かんとする意思を示した。
楓は改まった表情のまま、流れるような所作で差し出した手の中指をスッと立てる。
「これやろ?」
「は? どうあがいてもクソ?」
「いっけねー、間違えちったー」
拳をこめかみに添えて片目を閉じ、口の端から舌をのぞかせる楓。ぶん殴りたくなる面世界選手権が仮に開催されたなら、日本代表は確実にこいつだろう。
「これやろ?」
今度は小指を天井へ向け立ててみせた。
(えっ……?)
目が泳ぎそうになり、渚は眉間に力を込めた。その件については一切触れていないし、そういった素振りを見せた覚えもない。にもかかわらずこう易々と看破されてしまうとは、自分はそこまで分かりやすい性質なのだろうか。
動揺を隠そうと、渚は顎を思い切り突き出し猪木になった。
「やっぱそうか……でもそれならツーリングも二の次になってまうわな」
死ぬほどからかわれるかと思ったが、意外にも楓は理解を示しているようなことを宣う。
「で、その五里ヅラ子ちゃんとは脈アリなん? 落とせそうか?」
「誰がゴリ面や」
「失敬。その麗音菜愛紗玲亜ちゃん――」
「キラキラすぎて目ぇ痛めそう」
「メンゴメンゴ、地獄のセールスレディ売間久里代ちゃんよな」
「なんで俺の周りにはまともな名前の奴おらへんねん!」
まっこと不本意だったがこのままでは一向に話が進まないと判断し、渚は想い人の名を口にした。
「真理や……大宮真理」
「ほーん。そんで、その真理ちゃんとはうまくいっとるん?」
「旅行が好きとか前言うてたから、こうやって毎日写真を送って……ちょい待ち、そこまで教える必要ないよな?」
「いや、ウチかて生物学的には女やしな。何かアドバイスできる可能性がなきにしもあらずやろ?」
社会学的には女ではないという自覚があるのだろうか。まあその点はともかく、姉の眼差しはいつになくシリアスな色を含んでいる。多少なりとも話さないと解放してもらえないような気がして、要点のみ伝えることにした。
真理とは去年の後期からいくつか同じ講義を受けており、とあるきっかけで少しずつ喋るようになって連絡先も交換した。だが二年に進級して顔を合わせる機会が減ってしまった。遊びに誘おうとも思ったが一歩踏み出せず、今まで大学の外で会ったことはない。さらにほかの学部の男と二人で過ごしているのを、この一か月何度か学内で目撃してしまっている。
「なるほどな……その男はイケメンなんか?」
「……俺よりはな。あと背も高いし服装もオサレ」
「ふーむ……」
楓は腕を組み、もっともらしく考えてから口を開いた。
「カブで750ccをぶっちぎれば、その娘も惚れてくれるんちゃう?」
「アホか」
「まあ……一番勝算の高い方法は、アンタが就活頑張ってええ会社の内定とることやな。結局女は将来性のある男に惹かれるから」
「めっちゃ気の長い話やな。もっと手っとり早い方法ないん?」
「んなもんあったら、ウチは常にグッドルッキングガイを四、五人侍らせとるわ」
それは手段のいかんを問わず無理がありすぎる。
「要は金……経済力ってこと?」
「有り体に言えば。元も子もないようやけど、やっぱ最後にモノ言うんは金やわな」
平坦な口調で辛辣なことを語った楓は、話はこれで終わりとでも言うように「よっこいしょ」と腰を上げた。
「さ、風呂行ってこよ。アンタは先に寝とき」
「言われんでも寝るわ」
スリッパをペタペタいわせて楓が部屋を出て行くのを見届け、再びスマホを開く。だが作業には集中できず、今しがたの姉の言葉が耳の奥で再生された。
『良い会社から内定をもらうことが、最も勝算の高い方法』
ふざけたことをぬかしながらも、姉は姉なりの真面目な意見も提示していたように思う。だがそれはつまり、現時点で渚に勝ち目はないということだ。
(おお、何故現実はかくも残酷なのか……!)
冷静に考えると、自分と真理では釣り合っていないような気がしないでもない。
(でも真理ちゃんは……真理ちゃんならもしかして……)
実際には下の名前で呼んだことなど一度もないのだけれど。
かなり時間はかかったものの、姉が戻る前に写真を選びラインを送った。




