第三日 四万十・足摺岬 4/6
サニーロードをぐるりと回り宿毛市に入る。道の駅「すくも」の駐車場へカブを乗り入れたとき、唐突に渚の心臓が跳ねた。太もも辺りにあるはずの重量感が消え失せている。
「待てよ……いや、そんなはずは」
適当なところへ停めるなりカッパを脱ぎ、その下に背負っていたリュックを下ろした。雨に濡れるのも構わず、その場でリュックの中を検める。
「どうしたん急に」
「ごめん姉貴、ちょっと傘差してもらえへん?」
楓は折りたたみ傘を渚の頭上に広げてくれた。
「何を探しとん?」
「いや、財布が……」
今度は服の上から叩くようにポッケを探り、それらしい膨らみがないか確認する。
「え゛っ、失くしたん」
「……かもしれん」
雨が続いているのもあって、カブのシートバッグにはレインカバーを掛けたままだ。そしてリュックにもポッケにも入っていないことから紛失したのは確定的なのだが、現実を認めたくなくて曖昧な言い回しをしてしまった。
「さっきソフト食ったときにはあったんやろ?」
道の駅に電話をかけてみたところ、「若葉渚」という免許証の入った財布を預かっているとのこと。
「あー良かった……」
安堵したのも束の間、土佐清水からの長い道のりが頭を過ぎる。
「うわあ、この雨ん中戻らなあかんのか」
地図を見る限り、往復で七十キロはありそうだ。引き返すしかないのは百も承知だが、何か手はないかと思案してしまう。
「はあああぁ……」
カブのシートに手をつき、宿毛湾より深いため息をついた。
「……姉貴、ほんまごめん……」
「ええよ、晩飯に皿鉢料理食わしてくれるんなら」
皿鉢料理とは、大きな皿や鉢に刺身や寿司、煮物や揚げ物を盛り合わせた高知の高級郷土料理を指す。おそらく冗談なのだろうが、それぐらいの埋め合わせをしても不自然ではないほどの大きな失態だ。
「一人で行ってくるから、姉貴はここで休んどって」
「は? ウチも行くに決まっとるやろ」
「いや、俺だけで十分やん」
「んなこと言うて、さっきの店で宗田節だし茶漬けとか一人で食うつもりやろ。そうはさせんで」
「こんなときに何を――」
そこで言葉に詰まった。
いつも目尻の下がったルーズな表情を浮かべている楓が、珍しく真剣な眼差しだ。
「ウチも連れてけ」
「……分かった、頼むわ」
再びカッパを着込んで走り出そうとしたとき、楓がそれを制止した。
「ちょい待ち! ウチが先行するわ」
姉の背中を追って今来た道を戻る。雨は変わらず降り続いていて、時々対向車のあげる水しぶきが足元に飛んでくる。新調したカッパは良い仕事をしてくれているようだが、こう降られっぱなしではだんだんと内側に水が浸透してきてしまう。
よりにもよってこんな日に、いったい自分は何をやっているのだろう。
あまりに惨めな現状に、目の奥が熱を帯び始めたそのとき。
「――っ!」
視界に飛び込んできた異物に目が引き寄せられる。車線の中央に細長い角材らしきものが落ちているのを認め、反射的に車体を右側へ振った。ギリギリのところで躱したかと思うと、今度は対向車が間近に迫っている。考える間もなく左へ体重を移し、そちらとの接触もどうにか回避した。
「集中せえよ! 事故るで!」
楓から鋭い声が飛んでくるのと同時に、渚は全身からどっと冷や汗が噴き出すのを感じた。
死にかけた。
一歩間違えば死んでいた。
この路面状態で車体を急激に左右へ振った。転倒してもまったく不思議ではなかっただろう。
ほどなくして、楓は路肩の一部広くなったところへカブを停めた。
「休憩」
機械的に告げた姉はヘルメットをかぶったまま縁石に腰を下ろし、両脚を投げ出して天を仰いだ。
「よう降るなあ、しかし」
そこまで雨脚は強くないものの、一時もやむことなく降り続けている。
「なあ、あんまりオイルセールしとる場合ちゃうやろ?」
「いやいや、さっき事故りかけとったやんけ。しばらく休み」
「ここで?」
安全は確保されているかもしれないが、横をひっきりなしに車が行き交っている。
「ちょっとでええから座りよ……いや、横になりんさい」
「えっ……この上に?」
「お姉ちゃん命令や。黙って従え」
「ふっ……久々に聞いたな、それ」
昔から楓は、事あるごとに「お姉ちゃん命令」などという名目で渚に注文をつけてきた。「リモコン取って」というごく簡単なことから「一分でカツ丼作れ」と物理的に不可能なことまで、内容はピンキリだったが。
観念した渚は、縁石の上にそっと体を横たえた。カッパと衣服越しでも、硬くひんやりした感触が背筋に伝わってくる。当然縁石の幅は小さいため、少し体を動かしただけでもそこから落ちかねない。だが重い瞼を閉じると、間もなく意識が宙に漂い始めた。
あの日も俺は地べたに寝転がり、全身で雨を受けていた。
小学校四年のとある夏の夕方、自転車で友人の家から自宅へ帰る途中、通り雨に降られた。水を吸って徐々に重くなる服を一刻も早く脱ぎ去りたくて、焦ったのがいけなかった。
ハンドル操作を誤った俺は派手に転倒し、道端に投げ出されてしまった。幸い大きなケガはなさそうだが、複数のすり傷や打撲が痛み、倒れた自転車に脚を挟まれてとても立ち上がれそうにない。痛みと情けなさで涙が出てきた。誰かの助けを期待したいところだが、人通りの少ない道を走っていたため、なかなかそれも難しい。
(あれ、もしかして人が通らんかったらずっとこのままか……?)
「うっ……ぐっ……ううっ」
嗚咽をこぼす程度で持ちこたえていた涙腺が不安に耐えかね、わっと泣き叫びそうになった瞬間。
「おい、何しとんねん」
灰色の雲と雨粒に覆われた視界に、よく見知った顔が割り込んできた。男子と見紛うような短髪に締まりのない垂れ目――当時中二だった楓だ。
「姉ちゃん……」
「だいじょうぶ……やなさそうやな」
姉は自分が乗ってきた自転車をスタンドも出さずに道路脇へ放り、俺の手足に絡まるように倒れていた自転車を撤去した。俺を縁石に座らせ、顔をのぞき込むようにして尋ねる。
「どこが痛い?」
「……落ち目のアイドルが、どっかの野球チームが優勝するなり『昔からファンだったんですぅ』とかほざいてテレビに映ろうするところ」
「アホか」
転んだ現場を見られたのが幼心に恥ずかしく、俺は珍奇な回答をひねり出してごまかした。そうしているうちにも、姉は俺の体を検分してケガの程度を見極めている。
「まあだいじょうぶそうやな……なあ、ウチ大事な用があるからちょっとだけ待っとってや」
「えっ?」
このまま家まで送還してくれるものだと思っていた。
「なんで……?」
「おかんが可愛がってたグッピーおるやろ……いや、おったやろ?」
そう言いつつ、姉は濡れた短パンのポッケからハンカチを取り出した。不自然な形に盛り上がったそれをそっと開いてみせると、今朝まで居間の水槽で泳いでいたグッピーが、死んだ魚の目をして横たわっていた。「ひっ」と息を呑み、俺はおそるおそる訊いた。
「それ……死んどんの?」
「いや、冬眠しとるだけ」
「冬眠……?」
当時の俺には魚が冬眠するのか分からなかったが、いくらなんでも夏にすることはないだろう。
「一昨日からおかんが法事でおらへんやろ? その間エサやり任されてな、たまには新鮮なたんぱく質をやろうと思ったわけよ。それで蚊やアリを捕まえてこいつに食わしてたら、昨日から白いボツボツできとんねん。ほんで今日は元気に逆さ泳ぎよ。治したろ思て塩水に放り込んだら、このとおり冬眠や」
ピクリとも動かないグッピーの、輝きを失った漆黒の瞳に目が留まった。雨の匂いが立ち込める中で、二人の間にだけは魚特有の生臭さが漂っている。
「冬眠やなくて永眠ちゃうの……?」
「ちゃうちゃう、絶対ちゃう。でも自然に返したることにしたんよ」
姉は俺の目もグッピーの目も見ようとしない。
「そこの川まで行ってくるから、それまで待っといて。お姉ちゃん命令な」
そう言い残し、負傷した俺も残し、姉は自転車に跨がり川の方角へ走り去った。




