第三日 四万十・足摺岬 1/6
テントの薄布越しに黎明の気配を感じつつ、渚は寝袋にくるまってうとうとしていた。熟睡した感覚はあるものの、まだ少々瞼が重い。
「渚、起きとるかー」
テントの外から不審者の声が聞こえた。
「おう、誰が腹巻き一丁で三点倒立しながら猥歌を口ずさむ不審者じゃ」
「そこまで言うてへんやろ」
半分寝ぼけた頭で、不審者どころか即黄色い救急車レベルの行動をとっている姉の姿を想像しそうになり、渚は自らの頬をピシャリと叩いた。
「何なんよいったい……まだ五時やんけ」
「いや、天気予報がアレなんよ。もうそろそろ降ってくるらしいで」
「えっ」
昨夜の時点では、今朝八時か九時ごろから雨という予報になっていたはずだが。
「急いで片づけようや」
速やかに服を着込み、撤収作業に入った。テントをたたみ終える直前にパラパラと小雨が降り出し、一通りの荷造りを済ませたころには雨脚は強くなっていた。
カッパを着込み、雨に煙るキャンプ場を眺めつつ歯を磨く。
「どうするこれ?」
「どうしよな」
雨宿りしようにも、雨を凌げそうな水場やトイレは、これから起きてきたキャンパーが往来するだろう。
「どっか別の場所探そか」
しとしとと雨が降り続く中、四万十川に沿って県道19号を走り、56号沿いの道の駅「あぐり窪川」へ避難した。
「さて、休憩しますか」
車中泊らしきバンを横目に駐車場を横切り、東屋に荷物を置いてカッパを脱いだ。
「これから雨強くなるんかな」
「まあ土砂降りにはならんのちゃう?」
天気予報のアプリを開きつつ、楓は灰色の雲に覆われた空を見て言う。
「やっぱ夜中まで雨やわ。走れへんほど強くは降らんやろうけど、多分やむこともなさそう」
「となると……宿を決めなあかんな」
渚もスマホを開いたものの、その視線は間もなく駐車場へと向けられた。並ぶ車から時折人が出てきては、足早に建物へと入り、また車に戻っていく。
「あーあ、車は快適そうでええのう……」
嘆く弟に、姉はドヤ顔で講釈を垂れる。
「しょせんクルマなんてもんは子宮的願望の乗り物やからな。ウチらバイクは剝き出しのファルス(男根)的象徴やろ?」
「……は?」
「つまりな、車ってのは常にそれ自体の庇護下で走るもんやんか。対してバイクは生身のままで雨風を受けて、五十キロ、百キロ、場合によってはそれ以上の速度に適応せなあかんやろ? だからバイクってのはその厳しい条件に耐えうる奴にしか乗られへん。バイク乗りってのは選ばれた人間なんよ」
「……俺は選ばれたりせんでええから、雨に濡れずに走りたいわ」
「それでもバイク乗りですか、軟弱者!」
エアビンタを繰り出す楓をよそに、渚は目を伏せ旅の目的や意味について考えを巡らせた。
雨に濡れながら、風に吹かれながら、時には肝を冷やすような危険な目にも遭うというのに、何故我々はツーリングをするのか。世間一般の若者は、今ごろ馴染みの友人と大いに遊んだり、恋人と甘い時間を過ごしたりしているものではないのか。
自分たちも一応は若者であり、こういった長い休みがとれる機会というのは大変貴重なものだ。にもかかわらず、膨大な時間と金を費やしてまで、なぜこんな旅をしているのか……。
「さて! 今夜の寝床探そ」
唐突に楓が声を張った。渚は我に返って姉の方へ向き直る。二人がかりで今晩の空きがある宿を検索した。
「腹減ったな……」
宿を予約した渚は、スマホから建物へと目を移す。ここは地元のブランド豚を使った豚まんが食べられるようだが、当然こんな朝からは開いていない。
「そんなあなたに……」
楓がショルダーバッグの中をゴソゴソと探ったかと思うと、チャック付きの袋に入ったミックスナッツが出てきた。
「ほら、これでも食い」
「ナッツか……いただくわ」
「ツーリングの携行食として、ナッツは限りなく最適解に近いと思うんよ。軽くて保存も利いて糖質・タンパク質・脂質がまんべんなく摂れるし」
「潰れたり形が崩れたりせえへんのも、バイク乗りにはありがたいな」
姉の意見に賛同しつつ、ハイペースでナッツを口に運ぶ。
「おい、さっきからカシューナッツばっか食っとるやろ。その分の金請求すんぞ」
「ケチくさいなあ……」
「ケチくさいんちゃうわ。ケチなんよ」
最も大きな割合を占めるピーナッツをつまみながら、渚は日記を書いた。楓はスマホをいじったり机に突っ伏したりしていたが、やがておもむろに立ち上がった。
「そろそろ出たら、ちょうど開館と同時ぐらいちゃうか」
「おお、もうそんな時間か」
渚も硬いベンチのおかげで痛み始めていた尻を上げる。
雨の中走り出した二人は、国道381号から県道へ入った。細い山道を進むこと十数分、海洋堂ホビー館へ到着した。
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○海洋堂ホビー館四万十
海洋堂が「へんぴなミュージアム」と自称するほど、相当な山奥に建つ博物館。
廃校になった小学校を改築して造られた。
付近の「かっぱ館」には、世界中から集められた1,300体のかっぱが並ぶ。
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立地が立地なだけに、もっとこぢんまりした施設を想像していたが、広い駐車場も含めてそこそこの規模だ。いくつか連なる建物の中で、向かって左端のものだけずいぶんエキゾチックな外観をしている。
入場料を支払いその建物へ入ると、等身大スケールのケンシロウフィギュアが出迎えてくれた。
「おお……」
190センチ近くありそうな彼の元へ、導かれるようにゆっくりと歩み寄る。太く直線的な眉の下で正面を見据える瞳、逞しく盛り上がった筋肉やそこに浮き出た血管、ノースリーブの胸元からのぞく例の傷……。
プラモやフィギュアに詳しくないものの、海洋堂もこれほど大きく精巧なものを作るのか、と渚はしばし圧倒されていた。
「売っぱらったらいくらになるやろか?」
「なんでそんな無粋なこと言うん?」
このサイズとクオリティなら百万はしそうであるが。
「渚、そろそろどかんと」
「え? ああ……」
後ろでスマホを構えていた人に軽く頭を下げ、場所を譲った。
「姉貴、これ……」
「えっ……おっふふ」
渚が指し示す方へ視線をスライドさせた楓は、驚きと笑いの入り混じった声を上げた。
天井の高い建物の中央に、巨大な帆船が鎮座していた。それまでケンシロウの背景としか認識できなかった茶色の壁は、船体の側面だったのだ。
「これもプラモなん?」
「さすがにそれはないやろ」
船の全貌を眺めたところで、ようやく建物全体へと注意が向かった。
「ここ体育館やったんやな」
床は一般的な体育館と同じく木目の走った板張りになっていて、ところどころに白や緑のテープでラインが引かれている。
「ああ、小学校を改築したんやと」
館内には所狭しと展示物が並んでいたが、特に目を惹かれたのはティラノサウルスの脚の模型だった。スピルバーグの大傑作、『ジュラシック・パーク』の撮影に実際に使用されたというから驚きだ。
「海洋堂が作っとったんか……」
画面の中でしか見たことのない、血の通ったリアリティを感じさせる恐竜(の脚)が、今目の前に存在している。脚のみとはいえその模型は、いつかどこかの科学館で見た恐竜の全身骨格以上に、渚の心を震わせた。




