第二日 高知 5/5
56号から県道へ折れ、しばし山の中を行く。四万十川のほとりにある南森前キャンプ場に到着し、利用料三百円を支払った。荷を解いた楓は、澄んだ空気を肺の奥まで取り込んで伸びをする。
「しっかし安いとこもあるんやな。ここらのキャンプ場は軒並み昨日のとこみたいな値段かと思てたわ」
細長い巾着袋を開け、テントを広げる。生地の深緑色を見つめ、渚は悲愴感のにじむ声を漏らした。
「ああ……昨日のウンコッ原思い出してもた」
「ふもとっぱらみたいに言うなや……あ、そのテントアンタにあげるわ」
「寝袋とマットは?」
「うーん……それはまだ無理」
寝袋とマットは無期限貸与というかたちになっているが、これでテントは晴れて渚の所有物となった。だが喜ぶ気にはとてもなれない。
設営を終え、場内のコインシャワーを使った。温泉にゆったり浸かるのもいいのだが、シャワーなら安価かつ短時間で済むため、これはこれでメリットがある。
汗を流した二人はテントの前で食料を広げた。すっかり日の落ちたキャンプ場のどこからか、リズミカルな高い金属音が聞こえてくる。焚き火やランタンの灯りが点在する場内に目を向け、楓が不思議そうに言った。
「なんでこんな時間にペグ打ってるんやろ」
「キツツキの霊に憑かれたんかもしれへんで」
「……もっと山深い場所で泊まるときには、そういう存在にも敬意を払うようにせなあかんな」
姉は低い声で戒めのように呟く。心霊や妖怪、超常現象といった類いに肯定的な立場を取る楓は、キツツキはともかく、山の神といった存在も信じているようだ。
「ウンコも心霊も心配せんでええ普通のキャンプ場って、やっぱありがたいわ」
「結構やかましいけどな」
買い出しにでも行っていたのか、少し離れたテントへと戻ってきた団体客がぎゃあぎゃあとうるさい。年の頃は姉弟と変わらないように見えるが、スピーカーから音楽を流しながら盛大に肉を焼き酒を呑んで騒いでいる。
「まあ連休やししゃあないやろ……飯にしようや」
気になっていた玉子焼き入りおむすびの封を開け、玉子焼きにかじりついた。
「んむっ……」
玉子焼きは一般的なもので目新しさはないものの、味わうほどにどこか郷愁の念が湧き起こる。表面の焼き加減、中心の火の通り具合、ダシや砂糖のバランスが完璧で、非の打ちどころがなかった。冷めていてもこれなら、作り立てはさぞかし素晴らしいものだったろう。
「ばあちゃん家の玉子焼きのクオリティを限界まで上げた感じやな」
「それな」
姉の指摘で懐かしさの正体が判明した。
「玉子焼き入りおむすび」やほかのパンを平らげてから、渚は静かに切り出した。
「なあ姉貴、申し訳ないんやけど」
「ウチが育てとったホウオウの『じこさいせい』を忘れさせて『ふきとばし』を覚えさせたことやろ? 死ぬまで恨み続けるで」
「人間小さすぎへんか?」
仕切り直しとばかりに喉を鳴らして水を飲み、再び口を開く。
「夏にまた北海道行くって去年から言うてたやん? あれが……ちょっと無理そうなんよ」
楓の顔から笑みが消える。
「……なして?」
「金がなあ……どう考えても足りんくて――」
今夏は道東方面への旅を予定している。知床や根室まで足を伸ばすとなると、日程も前回より長くなるはずだ。
旅費の総額は、倹約したとしても十万は下らないだろう。去年のツーリングの費用として母から借りた金の返済、クロスカブのローンの支払い、カブのメンテ代、さらに今回の旅費。バイトを少々増やしたものの、入ったそばから金が出て行ってしまう。
諸々の事情を考慮し、夏までにまとまった金額を貯めることは不可能だと判断するに至った――。
渚が訥々と説明する間、楓は沈黙を守っていた。
「だから悪いんやけど、北海道は姉貴一人で行ってくれへんか?」
「ああ……」
楓はそう呟いてまた口を閉ざした。膝を抱えるように小さく座り、視線を落としたまま動かない。
弟が同行できなくなったのがそれほどショックなのだろうか。バイトを増やせだの親に泣き土下座しろだの言われるだろうと想定していた渚は、淡白すぎる姉の反応に肩透かしを食った気分だった。
「姉――」
「うおお! 飛びよったあ!」
それまでの静けさから一転して、楓は唐突に大声を上げる。その直後、姉の方から飛来した小さな影が、渚の視界を横切った。
「えっ……何?」
「いや、さっきからウチの膝のとこにカナブンがとまっててな。ずっと観察してたんよ」
「……は?」
唖然とする渚に姉はまくし立てる。
「つーかバイト限界まで入れろや。日に三十時間の労働という矛盾!!」
「いや無理やろ」
ひたすら労働の密度を高めたところで、時給が十円上がる程度だろう。
「『無理』というのはですね、嘘つきの言葉なんです」
「ワタミかい」
「じゃあおかんに泣き土下座でも焼き土下座でもすればええやろ。そもそもアンタの北海道への想いはその程度なんか?」
「……完全に諦めたわけちゃうよ。ただ今年は金がないから見送るってだけで……」
「じゃあ、いつ行くか?」
「来年でしょ!」
「ほんまに行けるんか? アンタも来年は三年やろ。ゼミとか就活の準備で忙しくなるんちゃうの?」
「ぐっ……!」
当然それは心得ている。だがそれでもなお、今年は無理なのだ。
確かに渚にとって、今やツーリングというものは生きていくうえで欠かせない糧のひとつになりつつある。しかし今年は、今に限っては……金と時間を別のところへ注ぎ込みたい。
「バイクやツーリングが嫌いになったわけちゃうんよ。姉貴と行くんが嫌なわけでもない……ただ今はあかんねん。それよりも優先すべきことができてしもた」
「……そうか」
楓は膝に載せた腕で頬杖をついて、星が瞬き始めた濃紺の空を見つめている。弟の話をそれ以上追及しようとはせず、静かに腰を上げた。
「まあそこまで言うんならしゃあない。ウチ独りで行ってくるわ」
水場へ向かう姉の背中から目を逸らし、渚は昨夜に続いて撮った写真を見返した。桂浜の一枚は確定として、あと二枚ほどはどうしようか。
テントには先ほどのものらしいカナブンが張り付いており、緑色の体はランタンの灯りを淡く反射していた。




