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ガルディア公国の静謐は、物理的な攻撃によってではなく、掌の中の小さな端末から溢れ出した「毒」によって、内側から腐食していった。
首都ガルディアスの夜。街角に集まる市民たちの手元で、アーク・リンクが一斉に、不気味な震動を刻んだ。
「おい、これを見ろ……。国境の映像だぞ!」
誰からともなく上げられた叫びが、広場に波及する。 画面の中に映し出されていたのは、国境の雪原を覆い尽くす黒煙と、漆黒の魔力を纏った剛剣の一振りが、ガルディアの若い兵士たちを木の葉のように吹き飛ばす、あまりにも衝撃的な光景であった。
青白い画面に浮かび上がる、泥にまみれたガルディアの軍旗と、逃げ惑う兵士たちの絶望的な表情。
スピーカーから漏れる、風の音を切り裂く魔力衝突の爆音と、人々の悲鳴。
端末を握りしめる市民たちの指先が、怒りと恐怖で白く強張っている。
自分たちを守るはずの軍が、これほど無惨に敗北するのか。……もはや、公女王の「対話」などという言葉に耳を貸す者は、一人としていなかった。
「ノルディアが、我が国の同胞を殺したんだ!」
「政府は何をしている! あの特級の怪物どもを倒せるのは、アレン様だけだろう!」
SNSやニュースサイトでは、編集され、歪められた「事実」が火薬のように拡散され、かつて公女王を支えていた国民の信頼は、一瞬にして猛火に包まれた。街頭では軍務卿派の議員や将校たちが、拳を振り上げて民衆を煽動し、宮殿を取り囲む怒号のうねりは、いまや黄金の結界の輝きを塗りつぶさんとするほどに巨大化していた。
同時刻、軍務局の中央作戦室。
室内には、絶え間なく鳴り響く解析装置の唸りと、冷徹な殺気が充満していた。
「陛下の、あの煮え切らない優柔不断さが、国境の悲劇を招いたのです」
軍務卿レグナード・ファルシオンが、一九四センチの巨躯を軋ませ、玉座に座るエリシアへ向かって、逃げ場を奪うような声を浴びせた。
「軍務卿! 言葉を慎みなさい! それは陛下に対する明白な越権行為ですぞ!」
財務を司る文官が顔を真っ赤にして立ち上がるが、軍務卿はそれを一瞥だにせず、鼻で笑った。
「私は、いま外で血を吐いている国民の声を代弁しているだけだ。……陛下、これ以上の『静和』という名の停滞は、国家そのものを滅ぼしますぞ」
軍務卿は「世論」という名の、公女王には決して振るえない巨大な盾を使い、公然と公立の権威を削り取っていった。
作戦室の隅、影の中に身を置くアレンは、その光景を眺めていた。
彼はリィナ、セリスとお揃いの、紺と銀を基調とした軍服風のフルオーダー礼装を纏い、長身を壁に預けている。
人々の魔力波長が、個を失い、巨大な一つの「黒い膿」のように膨れ上がっている。この濁りは、外敵によるものではない。
軍務卿はもはや、軍人としての規律を捨てている。公女王の署名のない命令書が既に軍内部で回っているのを、伝令たちの慌ただしい魔力波長が示している。これは、法という理の崩壊だ。
……最悪の形で、国が内側から腐り始めたな。俺がこの場で軍務卿を排除すれば、それはそれで「独裁の始まり」として国民の怒りに油を注ぐ。理の糸が、絡まりすぎて解けない。
「……軍務卿は、陛下の命令を明確に無視し始めているな」
アレンは、廊下を荒々しい軍靴の音を響かせて駆け抜けていく将校たちの背中を見送り、低く呟いた。
「これは……内乱の前兆ですわ、アレン様」
隣に立つセリスが、ジャケットの銀の飾緒を握りしめ、青い瞳に痛切な苦渋を滲ませて答えた。彼女の故郷であるヴァレンティア領の民もまた、この熱狂の渦に飲み込まれていることを、アーク・リンクの通信が告げていた。
深夜、宮殿の最奥にあるエリシア公女王の執務室。
窓から見える首都の照明は、かつての安寧の色を失い、どこか血の色を帯びた不気味な燐光を放っているように見えた。
エリシアは、既に熱を失い冷え切った茶のカップを、震える手で握りしめていた。
「アレン殿……私は、どうすればよいのでしょう。……軍務卿は国民の支持を最強の武器にし、私を、この王座から引きずり下ろそうとしています」
その声は、かつての凛とした響きを失い、今にも折れてしまいそうなほど細く、脆い。
アレンは窓の外で揺れる街の灯を見つめたまま、感情を削ぎ落とした静かな声で答えた。
「陛下。……軍務卿を、そしてこの狂奔を止められるのは、この国の正統な王である陛下だけです」
「……」
「俺は、その決断を支える。……それだけは、絶対に忘れないでください」
エリシアはゆっくりと顔を上げ、アレンの漆黒の瞳を、すがるように見つめた。
「……あなたのその言葉がなければ、私は、とうに心が折れていたでしょう」
孤立無援の公女王にとって、アレンという「世界の理の外側に立つ男」だけが、崩れゆく正気を繋ぎ止める唯一の楔となっていた。
翌朝、夜明けと共に鳴り響いたのは、作戦室からの軍務卿の怒号であった。
「前線へ全周波通信を送れ! ノルディアの特級魔軌士五名を『排除』するため、ガルディア軍は直ちに反撃、及び侵攻を開始する!」
「軍務卿! それは陛下の命令ではありません! 戻りなさい!」
文官が必死に通信コンソールを遮ろうとするが、軍務卿はそれを力ずくで突き飛ばした。
「黙れッ! 国民は私を、力ある者を支持している。……これこそが、ガルディアの、我が民の真なる総意だ!」
レグナード・ファルシオンは、もはや引き返せない決定的な一線を越えた。
それは、法を、王を、そして公国の歴史そのものを踏みにじる、事実上の「クーデター」の幕開けであった。
アレンは、背後の冷たい石壁に寄りかかったまま、その醜悪な光景を無機質な黒い瞳で見つめていた。
(……理の崩壊。外敵ノルディアの脅威を前にして、この国は自分たちで掘った『内側』という名の深淵へと、真っ逆さまに堕ちていく)
ガルディア公国。平和の調停者であったその国は、いま、自らが作り出した熱狂という名の毒によって、最悪の終焉に向かって走り出したのである。




