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ガルディア公国の至宝と謳われた宮殿の静寂は、いまや物理的な破壊よりも深く、冷酷な「裏切り」の足音によって塗りつぶされていた。
宮殿の奥深く、歴代の王族が緊急時にのみ使用したという、重厚な石壁に囲まれた隠し小部屋。そこには、細々と灯された非常用の照明の下、血の気の引いた顔で椅子に座り込む公女王エリシアと、彼女を守るように寄り添うアレン、リィナ、セリスの姿があった。
埃っぽく冷たい密室。エリシアの指先は白く強張り、組み合わされた手は小刻みに震えている。
厚い扉の向こうから微かに届く、整然とした、しかし殺意の混じる軍靴の響き。
肌を刺すような極寒の石壁の冷気と、張り詰めた沈黙。
これが、私が愛し、守ろうとした国の終焉なのでしょうか。民の怒りが、これほどまでに容易に法を、そして私を拒絶するというのか。
「アレン殿……。私は、もう限界です」
エリシアの声は、かつての毅然とした「調停者」としての響きを失い、今にも折れてしまいそうなほど細く、脆かった。 彼女は震える手で顔を覆い、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えている。
アレンは紺と銀を基調とした、意匠を同じくする軍服風のフルオーダー礼装に身を包んだまま、一九二センチの長身でエリシアの前に静かに立ち、漆黒の瞳で彼女を見つめた。
宮殿全体に渦巻く魔力波長が、規律を失い、巨大な一つの「黒い膿」のように膨れ上がっている。この不協和音は外敵によるものではなく、内側から噴き出した欲望と恐怖が理を食い破っている証だ。
軍務卿レグナードは、世論という名の不確かな盾を使い、法という合意形成を物理的に破壊した。もはや対話は成立しない。この状況を正常化するには、法を司る王が「力」という理を振るうという矛盾を、自ら受け入れなければならない。
……俺という異質な「力」が、この国の理を再構築するための最後の一点になる。それがこの世界の理を乱すことになろうとも、いまは目の前のこの女性を支えるのが、俺がここにいる唯一の理由だ。
「陛下。軍務卿はすでに、法を超えて越権しています。……このまま暴走を許せば、この国は内側から腐り落ちる。戦争が始まる前に、ガルディアという国家そのものが死ぬことになります」
アレンの言葉は、平坦だが、石造りの小部屋に重く響き渡った。
「陛下……! アレン殿の仰る通りです!」
傍らに控えていた数名の文官が、涙を浮かべながら悲痛な声を上げる。
「今すぐ、軍務卿レグナード・ファルシオンの全権限停止を宣言すべきです! それこそが、この国を繋ぎ止める唯一の、そして最後の法となります!」
エリシアはゴクリと唾を飲み込み、ゆっくりと、しかし決然と顔を上げた。 揺れていた青い瞳は、アレンの揺るぎない漆黒の瞳に射抜かれ、次第に冷徹な覚悟の色を取り戻していく。
「……アレン殿。あなたは、私の選ぶこの残酷な決断を……最後まで、私と共に背負ってくれますか?」
「もちろんです。……そのために俺はここにいます」
アレンが短く、迷いなく答えた瞬間。それは彼が単なる「最強の傭兵」としての契約を超え、ガルディア公国という国家の「意志」を支える、目に見えぬ巨大な柱となった瞬間であった。
「……決めました。軍務卿レグナード・ファルシオン、およびその一派の全権限を即時停止します。彼らを国家反逆罪として拘束しなさい」
エリシアの声は、もう震えていなかった。 彼女の宣告と共に、文官たちが震える手で羊皮紙を広げ、公女王の署名を刻むための書状を書き連ねる。 ペンの走るカリカリという乾いた音だけが、小部屋を満たした。
だが、現実はその覚悟を嘲笑うかのように加速する。
廊下から、激しい衝突音とアラート音が、小部屋の防魔扉を震わせた。
「報告! 軍務卿派の将校が宮殿の主要廊下を完全に封鎖しました! 外部への魔術通信も、物理的な通信回線もすべて遮断されています! 命令が前線へ届きません!」
「陛下の命令など、今やただの紙切れだ! いまこの国を動かしているのは、国民の支持を得た私だということが分からんのか!」
スピーカーから流れる軍務卿の傲慢な声が、宮殿の石造りの壁に反響し、狂乱の夜を告げる。
「アレン様……。軍務卿派が、完全に動きました。もう、言葉で止まる相手ではありません」
セリスが紺色の軍服風礼装の襟を正し、金髪を揺らして窓の外を睨みつけた。彼女の青い瞳には、不退転の意志が宿り、その指先には既に火属性の魔術式が淡い紅色の光を放ち始めている。
「アレン様……。軍務卿直属の魔導兵が、この部屋の座標を特定して向かってきています……!」
リィナが銀髪をさらさらと靡かせ、その周囲に微かな光属性の燐光を漂わせながら、三重魔導護膜の展開を確認する。 彼女の固有能力である思考読解が、近づきつつある兵士たちの「盲目的な全能感」を捉え、その表情を強張らせていた。
アレンは漆黒のジャケットの襟を無造作に正し、虚空に指を走らせた。
魔力直接操作による、静かな、しかし絶対的な「暴力」の予兆が、部屋の温度を数度引き下げる。
「陛下を守る。……それが、今の俺の、そして俺たちの役目だ」
戦闘と政治。その両面において、アレン・ヴァルグレイという「理外の男」が、ガルディア公国という国家の、真ん中に立った瞬間であった。




