12-8
ガルディア公国の至宝と謳われた宮殿の静寂は、いまや物理的な破壊よりも深く、冷酷な「裏切り」の足音によって塗りつぶされていた。
宮殿の奥深く、歴代の王族が緊急時にのみ使用したという、重厚な石壁に囲まれた隠し小部屋。
埃っぽく冷たい密室。エリシアの指先は白く強張り、組み合わされた手は小刻みに震えている。
厚い扉の向こうから、正確なリズムを刻む軍靴の響きと、魔導具がチャージされるキィィィンという高周波が近づいてくる。
肌を刺すような極寒の石壁の冷気と、胃を掴まれるような重苦しい沈黙。
これが、私が愛し、守ろうとした国の終焉なのでしょうか。民の怒りが、これほどまでに容易に法を、そして私を拒絶するというのか。
「……来ました」
リィナが銀髪を震わせ、アレンの袖をきゅっと握りしめた。
「公女王を確保しろ! 抵抗する者は排除せよ!」
非情な命令が石壁に反響した直後、アレンが音もなくエリシアの前に立った。彼の長身が、彼女に届くはずの恐怖を物理的に遮断する。
扉の向こうに集まった魔力波長は、規律ある軍人のそれではない。恐怖を熱狂で塗りつぶした、泥のように濁った殺意だ。
突入部隊は十名。魔導爆薬による強行突破を狙っている。室内という閉鎖空間での戦闘になるが、この建物の構造を維持したまま、かつ死者を出さずに無力化することが、その後の政治的収拾において最善。
……守るべきは女王の命だけではない。この国の「正義」そのものを、ここで折らせるわけにはいかない。
「セリス、リィナは陛下の護衛に回れ。……ここは俺がやる」
アレンの静かな、しかし有無を言わせぬ指示に、二人は短く「はい!」と応じ、女王の左右を固めた。
──ドォォォンッ!
凄まじい衝撃音と共に、魔導爆薬によって重厚な扉が内側へ吹き飛んだ。砕け散った木片が散弾のように降り注ぎ、白煙が室内に立ち込める。その煙を割り、殺気立った軍務卿派の魔導兵たちが一斉に雪崩れ込んできた。
「確保しろ──!」
先頭の兵士が叫び、魔導銃を構える。だが、白煙の向こうに無傷で、そして無表情に立ち塞がる黒髪の男の姿に、彼らの動きは凍りついた。
「……悪いが、通さない」
アレンの低い声が響いた刹那、兵士たちが一斉に魔力弾を連射した。
──パチン。
アレンがポケットから片手を引き抜き、羽虫でも払うかのように指先を小さく横に振った。軽い音が響いた瞬間、殺到する魔力弾は最初から存在しなかったかのように霧散した。 《魔術消去》。属性も規模も問わない、理外の力が発動したのである。
「なっ……!?」
驚愕で硬直する兵士たちの懐に、アレンは瞬き一つで肉薄した。 彼は拳を繰り出すが、それは宮殿を破壊するような暴力ではない。
「《衝撃制御》」
ドン、という乾いた音と共に、衝撃は兵士たちの防魔服の外殻だけに限定され、内部へのダメージは完全に遮断された。吹き飛ばされた兵士たちは、まるで見えないクッションに包まれたかのように廊下の壁に沈み、骨折一つ負うことなく意識だけを刈り取られて崩れ落ちた。
「アレン様、手加減している。……本気じゃないですね」
後方で三重魔導護膜を維持していたリィナが、感嘆と、そして少しの安堵を込めて呟いた。
「……なるほど。あんな精密な力、普通はあり得ないわね」
セリスもまた、攻撃魔術の天才としての視点から、その神業に近い暴力の抑制に息を呑んでいた。
「アレンを突破できない……! 公女王を、女王を拘束しろ! すべては国家のためだ!」
生き残った将校が、自分を襲う本能的な恐怖を誤魔化すように絶叫した。
アレンは、倒れた兵士たちの横を悠然と通り過ぎ、その将校の目の前でぴたりと止まった。漆黒の瞳が、至近距離で相手を射抜く。
震える将校の瞳。その奥に張り付いた、引き返せない者の狂気。
激しく上下する将校の呼吸音と、遠くで鳴り響くのアラート音。
アレンから放たれる、氷点下まで温度を下げたかのような冷徹な威圧感。
国家という言葉を、己の保身と欲望の隠れ蓑にするな。
「……国家のため? 陛下を拘束して、この国が守れると本気で思っているのか」
「黙れッ! 国民は軍務卿を、力ある者を支持している! 陛下こそがガルディアの、平和の足枷なのだ!」
将校の醜い叫びに対し、アレンの黒い瞳にさらなる冷徹な光が灯った。
「……国民を煽り、狂わせているのは……お前たちだ」
アレンの静かな、しかし地響きのような怒りが、部屋の空気を物理的に凍りつかせた。将校は言葉を失い、ただガチガチと歯を鳴らしながら、震える手で剣を握りしめることしかできなかった。
宮殿の深部、石造りの密室にて。アレン・ヴァルグレイという「理外の男」は、いまや一国の命運を握る「国家の盾」として、その絶対的な存在感を不動のものとしていた。




