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ガルディア公国とノルディア王国の境界線。そこは、数分前まで氷点下の静寂が支配する白銀の地獄であった。しかし、張り詰めた緊張という名の薄氷は、あまりに呆気なく、そして残酷な乾いた音と共に砕け散った。
──タァンッ!
凍てつく大気を切り裂いたのは、一発の魔導銃の放たれた音だった。
「陛下! 国境で発砲音! 双方、交戦状態に入りました!」
ガルディア公国宮殿、中央作戦室のスピーカーから、割れた通信士の絶叫が響き渡る。
どちらが先に引き金を引いたのか。誰がその一撃を放ったのか。もはや、そんな「真実」に価値はなかった。
雪原のあちこちで、通信機が混線を起こし、不規則な魔力の光が点滅を始める。 にらみ合いを続けていた両軍の兵士たちは、その音を「開戦の合図」と受け取り、生存本能の赴くままに武器を手に取った。
その混沌を力ずくでねじ伏せるように、ノルディア側から五つの巨大な魔力の塊が前へと踏み出した。
ノルディアが誇る特級魔軌士、ヴァルグ、リューネ、グラフト、ザイロス、ミレイア。
彼らの瞳に宿っていたのは、侵略の意志ではない。むしろ、自分たちの圧倒的な武威を「壁」として提示することで、暴走し始めた自軍の末端と、恐怖に駆られたガルディア兵を硬直させ、物理的に衝突を止めるという、あまりに不器用な平和への試みであった。
しかし、戦場に響く「理」は、彼らの意図とは真逆の旋律を奏でた。
雪煙の中から立ち現れる、巨人の如き五人の特級魔軌士のシルエット。
彼らが纏う濃密な魔力が空気を軋ませ、キィィィンと耳鳴りのような高周波を撒き散らす。
数キロメートル先からも肌を刺すような、圧倒的な「死」の予感。
特級が、五人……! 勝てるわけがない。ここにいれば、一瞬で蒸発させられる!
ガルディアの前線に立つ若い兵士たちの精神は、その光景を前にして、音を立てて崩壊した。 守るための「壁」として現れた五人の英雄は、恐怖に震える者たちの目には、命を刈り取るために降臨した「五柱の死神」にしか見えなかったのである。
「反撃命令を! 敵の特級が動き出した、これは総攻撃だ!」
軍務卿レグナード・ファルシオンが、勝ち誇ったような狂気を瞳に宿し、円卓を拳で叩きつけた。
「退却です! 今ならまだ、被害を最小限に抑えられる! 全軍に撤退命令を!」
財務官が顔を真っ青にして叫び返すが、その声は怒号にかき消される。
宮殿の玉座、公女王エリシアは血の気の引いた顔で立ち尽くしていた。 彼女の視線は、助けを求めるように影の中に立つ男 ── アレンへと向けられる。
アレンは紺銀の軍服風礼装に身を包んだまま、微動だにせずモニターを見つめていた。
戦場の魔力波長が、個々の意志を失い、巨大な「恐怖」という名の不協和音に同期している。
ノルディアの特級たちは暴走を止めるために出たが、情報の非対称性が仇となった。ガルディア兵の心理的限界値を完全に見誤っている。このままでは、恐怖による暴発が起きる。
……物理的な距離が遠すぎる。事前にこの国境の座標を記憶していない以上、《空間転移》による即時介入は不可能だ。どれほどの「理外の力」を手にしていようと、理が崩壊するその刹那に、俺の手は届かない。
「……アレン殿」
エリシアの震える声が、アレンの沈黙を揺らした。
「陛下。特級五名が前に出た以上、今の装備と練度の前線部隊では、十秒も持ちません。……理屈抜きで、撤退を」
アレンの冷徹なまでに平坦な進言が、作戦室に冷水を浴びせた。
エリシアは大きく息を吸い込み、机を叩いて毅然と言い放った。
「……全軍に告げる! 直ちに国境から撤退しなさい! 前線の兵の命を最優先に守るのです!」
「陛下! それは国民への裏切り、弱腰の極みですぞ!」
「黙りなさい、軍務卿!」
公女王は、王として正しい判断を下した。
しかし、戦場の時計は、政治家の議論も王の慈悲も、待ってはくれなかった。
撤退命令が、最前線の受信機に届く、わずか数秒前のことだった。
恐怖に耐えかね、指先が強張ったガルディアの兵士数名が、制御を失った攻撃魔術をノルディア側へと放ってしまった。
それは、爆火の中に投げ込まれた一粒の火種であった。
ノルディア側の特級魔軌士No.14ヴァルグ・アイゼンヴォルフが、反射的に反応した。
彼は無言のまま、背負った剛剣の柄に手をかけた。
ヴァルグにとっても、これは殺戮ではなく、飛来する魔術から自軍を守るための「最小限の防御行動」であった。
──ズォォォォンッ!
剛剣が空を裂き、漆黒の魔力が一点に凝縮された後、凄まじい衝撃波となって前方へと放射された。
それは地形を削り、吹き荒れる吹雪を物理的に押し戻し、ガルディアの前線を木端微塵に薙ぎ払ったのである。
《三重魔導護膜》のような高度な防御術を持たない一般兵の脆弱な魔力障壁は、ガラス細工のように「パリン」と虚しい音を立てて砕け散った。
幸いにして、ヴァルグが手加減を施したため、直撃による死者は出なかった。
だが、その一撃がもたらした「恐怖」という名の心理的破壊は、死よりも重かった。 秩序は完全に崩壊し、兵士たちは武器を捨てて背後へと逃げ惑う。
「陛下……国境最前線部隊、壊滅的混乱。……生存者たちはパニック状態で後退中。収集がつきません!」
通信機から届くノイズ混じりの悲鳴が、絶望を確定させた。
アレンは、そっと漆黒の瞳を閉じた。
「……間に合わなかったか」
平和への道筋は、誰の意志でもなく、「状況」という名の怪物の手によって、無慈悲に閉ざされた。
ガルディア公国とノルディア王国。 二つの国家を繋ぐ糸は、いま、真っ赤に燃え上がる憎悪の炎によって焼き切られたのである。




