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かつて「北方の至宝」と謳われ、白銀の雪景色に壮麗な姿を誇ったノルディア王国の王都ノルドヘイム。その栄華の象徴であった王宮は、いまや北風が容赦なく吹き抜ける、巨大で無機質な石の骸と化していた。
窓ガラスという遮蔽物を完全に失った玉座の間には、氷点下の風が牙を剥いて入り込み、煤けた石床を白く凍らせていく。その中心で、若き王レオニール・ノルディアは、ガルディア公国から届けられた一通の書状を、食い入るように凝視していた。
それは「戦後賠償」という美名で装飾されているが、実態は最後通牒に等しい、あまりに過酷な領土割譲の要求 ── ノルディア北部に位置し、国家の屋台骨である「広大な鉱山地帯」の永久譲渡であった。
(……父上が、狂気と野心に任せて放った『槍』。その代償が、この国の未来を売り渡すことなのか。……あまりに、あまりに重すぎる)
レオニールは、かじかんだ指先で羊皮紙の端を、破れんばかりにきつく握りしめた。
震える手元。紙を照らすのは、予備の蓄電池で細々と灯された、今にも消えそうな卓上灯のみだ。
王宮の鉄柵の向こうから届く、腹の底に響くような群衆の怒号と、石を投げる乾いた音。
喉を刺すように冷たい大気と、鼻腔にこびりついて離れない、焦げた電子基板の臭い。
一国の主として、私は「緩やかな死」と「瞬時の滅び」、どちらを選べば良いというのか。
「……北部鉱山地帯の譲渡、だと?」
レオニールの掠れた声が、天井の崩落した大広間に虚しく反響した。
「あそこには、我が国の電力網を再建するための、唯一の希望である魔石資源が眠っている。……そこをガルディアに奪われれば、ノルディアの街に再び明かりが灯る日は、二度と来ない」
傍らに控える宰相は、煤で汚れた眼鏡の奥の瞳を伏せ、沈痛な面持ちで重く頷いた。
「ガルディアは確信犯です。……我が国に支払い能力がないことを正確に見抜いた上で、我々の生命線を要求している。……これを拒めば、あの大国は『自衛』の名の下に、再び軍を動かす大義名分を得るでしょう」
今のノルディアに、抗う力など微塵も残されていなかった。
国庫の残金は、今日を生きる国民への僅かな配給食料を買い叩くために底を突き、電力インフラはあの大爆発によって根底から焼き切れている。王都は物理的に瓦礫に埋もれ、かつて機能していた行政の命令系統は、あの魔術塔の崩壊と共に霧散していた。
だが、王宮を包囲しているのは、絶望ではなく「抑制の効かない怒り」だった。
「領土を渡すな!」「ガルディアの侵略に屈するな!」「餓死する前に、戦って死なせろ!」
飢えた国民の叫びは、SNSや細々と生き残ったアーク・リンクの不安定な回線を通じて、火薬のように国内全土へ拡散されていた。
その混乱の影で、軍務大臣派の残党たちが、復讐の機を伺い暗躍を開始していた。
「見ろ、これこそが真実だ! ガルディアは救済者などではない、弱みに付け込む卑劣な侵略国家だ!」
「新国王は弱腰だ。先祖の大地を売り渡そうとしている。……立ち上がれ、誇り高きノルディアの民よ!」
恐怖を燃料にし、失墜した権力を取り戻そうとする影の煽動。国民の魔力波長は濁り、理性の皮を剥ぎ取られた獣のような熱狂が、死に体の国家を内側から焼き焦がしていた。
レオニールは、煤けた壁に力なく背を預け、星の見えない天を仰いだ。
「領土を渡せば、ノルディアという国は飢えと寒さの中で緩やかに死ぬ。……だが、再びガルディアと戦えば、今度こそ国民が、一人残らずこの世から蒸発させられることになるだろう」
脳裏をよぎるのは、情報局が命懸けで持ち帰った、あの戦慄すべき記録映像の断片だ。
ガルディア首都外縁の空を一瞬で白銀に染め、我が国が誇る『五十筋の槍』を、文字通り無へと帰したあの「理外の光」。
一個の魔術師が、国家の全力を、数秒の間に存在ごと消し去ったという信じがたい現実が、レオニールの魂を凍りつかせていた。
しかし。
扉を叩き割らんとする民衆の怒号。
先祖から受け継いだ大地を、一方的な敗北によって失うことへの、血を吐くような根源的な拒絶感。
そして、背後から忍び寄る「黒い影」たちの、甘く毒のある囁きが、若き王の精神を決定的な破綻へと追い詰めていった。
「……ガルディアに、伝えろ」
レオニールが、血の気の失せた唇を震わせて、絞り出すように告げた。
「たとえ滅びを待つ身であっても、鉱山だけは渡せない。……ガルディア公国の要求を、正式に拒否する」
その宣告がなされた瞬間、王宮を囲む群衆からは、地鳴りのような狂った歓声が上がった。
だがそれは、救いの一手などではない。
両国を再び地獄の底へと引きずり戻す、あまりに短絡的で、しかし「不可避」な第二次戦争への引き金であった。
凍てつく北の夜。
月のない暗闇の中で、ノルディア王国は自らの誇りと引き換えに、確実な“滅びの道”へと、その一歩を踏み出したのである。




