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ガルディア公国とノルディア王国の国境線。かつては静寂な雪原が広がっていたその地に、今や「平和の旗」が翻ることはなかった。代わりに突き立てられたのは、凍てつく土を力強く踏みしめる軍靴の響きと、二十四時間体制で稼働を始めた大型魔力探知機の不気味な唸りである。
「……これで、ようやく枕を高くして眠れるな」
国境沿いに急ピッチで新設された軍事拠点。その最上階、重厚な鉄のハッチが開く音と共に、ガルディアの歩兵が白い吐息を吐き出しながら呟いた。
彼の視線の先には、最新技術の巨大な魔導砲台が、北の空を睨んで鎮座している。その砲身には、首都から強引に引き込まれた電力網が複雑に絡みつき、発射の瞬間を待つ魔力炉へ絶え間なくエネルギーを送り込み続けていた。
「先制的自衛行動」を公女王が宣言して以来、ガルディアは国境地帯の要塞化を狂気的な速度で進めていた。
幹線道路はすべて軍専用に徴用され、絶え間なく運び込まれる物資と魔術師団の移動によって、アスファルトには深い轍が刻まれている。
「ノルディアはもう二度と暴れられない。政府もようやく、俺たちの命の価値を理解したようだな」
国民の支持率はかつてない最高値を記録し、新聞やアーク・リンクのニュース欄には政府を称賛する言葉が躍る。だが、その鉄壁の守護という名の「壁」は、対岸から見れば、一方的な侵略へのカウントダウンに他ならなかった。
一方、ノルディア臨時政庁。煤けた壁と剥き出しの鉄骨が残る、かつての栄華の欠片もない執務室。
ノルディア宰相は、かじかんだ指先で一枚の報告書を握りしめ、震える手で眼鏡を直した。
「ガルディアが……国境に軍を完全に固定化しました。これはもはや、防衛などという生易しいものではない。我々の息の根を止めるための、巨大な絞首刑の縄だ」
新国王として瓦礫の玉座に座るレオニールは、力なく項垂れていた。
彼の瞳に映るのは、窓の外で細々と灯る照明の下、雪を溶かした泥水を啜る難民たちの姿だ。
「……我々はもう、脅威ではないはずだ。あの魔術塔も、軍の主力的中枢も、すべてはあの自壊の炎の中に消えたというのに……」
復興の兆しすら見えない廃墟の国において、ガルディアが突きつける強硬な姿勢は、飢えた国民にとって「明日、空から降ってくる死」の予兆以外の何物でもなかった。
「ノルディアに、壊された街の責任を取らせろ!」
ガルディアの地方都市では、恐怖が「強欲」へと変貌を遂げていた。
「金がないなら領土で払わせればいい! 北の鉱山地帯を割譲させ、我々の資源として接収すべきだ!」
広場に響くその怒号は巨大な奔流となり、宮殿の重い扉を突き動かす。
軍務卿レグナード・ファルシオンは、冷徹な軍人としての顔を崩さず、公女王エリシアへ進言した。
「……陛下、戦後処理を始めねばなりません。ノルディアには、その罪に相応しい『落とし前』をつけてもらう必要があります」
それは賠償という名を借りた、次なる争いの種を蒔く言葉であった。
緊迫した沈黙を物理的に引き裂いたのは、ガルディア側監視拠点のレーダーが吐き出した悲鳴のようなアラートだった。
「魔力反応! ノルディア側、国境付近。大規模な励起を確認!」
「なんだと……ついに来たか!」
軍務局、中央作戦室。
軍務卿レグナードが、鋭い目付きでモニターに映し出された赤黒い輝点を睨みつけた。
公女王エリシアは顔を蒼白にし、その白く細い手を胸元で固く握りしめる。
傍らに立つアレンは、視界に流れる魔力の奔流を捉えた。
北の空に、歪な魔力の澱みが滞留している。攻撃的な指向性はない。
崩壊した魔術塔から漏れ出た残滓が、寒冷な大気と干渉して引き起こした局所的な魔力障害だ。自然現象であり、術式の発動ではない。
……ここで俺が口を出せば、軍部の面子を潰すことになる。だが、このままでは一線を超える。
「陛下、命令を! 魔力炉の残骸ごと、敵の拠点を叩き潰すべきです。これ以上の猶予は国民への背信ですぞ!」
軍務卿が、エリシアの前に「先制攻撃許可」の命令書を差し出した。
エリシアの指先が、目に見えて震える。
(これを書けば……ガルディアは、誇りを捨てた『攻撃国家』に成り下がる。けれど、書かなければ、恐怖に怯える国民を納得させることはできない……)
万年筆の先が紙に触れようとした、その刹那。
「陛下、お待ちください!」
一人の情報局員が、息を切らせて作戦室へ飛び込んできた。
「魔力反応の解析完了! ……誤反応です! ノルディアの魔術塔跡地から漏れ出た魔力残滓が、大気中の水分と反応したことによる自然現象と判明しました!」
室内に、凍りつくような重苦しい沈黙が流れた。
エリシアはゆっくりと、折れそうなほど弱々しく、しかし決然と命令書を下ろした。
「……誤反応、なのですね」
「……チッ。だが、脅威が消えたわけではない」
軍務卿が忌々しげに吐き捨てた。
エリシアは、窓の外の不気味なほど青白い空を見つめ、全土へ向けて放送されるマイクに向かって静かに告げた。
「……ガルディアは、いつでも動けるよう、最大限の警戒を維持しなさい」
その言葉は、ガルディア全土のモニターを通じて瞬く間に拡散された。
「次こそ叩け!」「ノルディアの連中を信じるな!」
平和を願っていたはずのガルディアの民は、さらなる強硬を叫び、拳を固める。
「ガルディアが攻めてくる……」「私たちは、殺されるのを待つだけなのか……」
ノルディアの民は、飢えと寒さの中で震えながら、空を埋め尽くす死の予兆を仰ぐ。
戦争は終わった。
しかし、安寧としての平和は、どこにも存在しなかった。
両国は、かつてないほどの不信と恐怖という名の深い深淵 ── 「戦争前夜」へと、再び、そしてより深く引き戻されていたのである。




